功山寺(こうざんじ)は、山口県下関市長府にある曹洞宗の寺。長府毛利家の菩提寺。山号は金山(きんざん)。中国三十三観音霊場第十九番札所、山陽花の寺二十四か寺第九番。
仏殿は、善福院釈迦堂とともに鎌倉時代の禅宗様建築を代表するもので、国宝に指定されている。
仏殿 (国宝)
禅宗様(ぜんしゅうよう)は、日本の伝統的な建築様式の一つ。唐様とも言う。
鎌倉時代初期から禅宗寺院で取り入れられ始め、武士の帰依を受けたことで13世紀後半から盛んになった様式で、当時の中国建築の直写が目指された。従来の寺院建築様式である和様、また鎌倉時代初期にもたらされた大仏様に対する言葉。大仏様とは共通する部分も多く、あわせて鎌倉新様式または宋様式と総称される。
概要
飛鳥・天平時代に中国から伝えられた建築様式は、平安時代を通じて日本化し、柱を細く、天井を低めにした穏やかな空間が好まれるようになった。平安時代以降、日本化した建築様式を和様と呼ぶ。
平安時代後期になると、平清盛の大輪田泊対外開港など中国(宋)との交易が活発になったことで、再び中国の建築様式が伝えられた。まず入ってきたのは東大寺再興の際に用いられた様式で、大仏様と呼ぶ。
その後、禅僧が活発に往来し、中国の寺院建築様式が伝えられた。これは禅宗寺院の仏堂に多く用いられ、禅宗様と呼ぶ。
歴史
嘉暦2年(1327年)、虚庵玄寂を開山として臨済宗の長福寺として創建された。開基は北条時仲と推定されている。なお、仏殿の建立は上記創建年より早い元応2年(1320年)である。正慶2年(1333年)に後醍醐天皇の勅願寺となり、建武3年(1336年)には足利尊氏から寺領が寄進されるなど、朝野の尊崇を得て栄えた。
室町時代には大内氏の庇護を得、文明8年(1476年)には大内政弘によって復興された。弘治3年(1557年)、周防大内氏最後の当主大内義長が境内で自害した後、寺は一時衰退する。
慶長7年(1602年)、長府藩主毛利秀元が金岡用兼を招聘し、曹洞宗の笑山寺として再興した。慶安3年(1650年)、秀元の没後、功山寺に改名された。
幕末の文久3年(1863年)、七卿落ちで京を逃れた7名の公卿のうち5名が滞在。高杉晋作は当寺で挙兵した(回天義挙)。
総門
文化財
国宝
仏殿 - 柱の墨書により元応2年(1320年)の建立と判明する。入母屋造、檜皮葺き。一重裳階(もこし)付き。方三間の身舎の周囲に裳階をめぐらした形になる。堂内には本尊千手観音坐像を安置する。典型的な禅宗様仏殿で、鎌倉時代にさかのぼり、建立年代の明らかなものとして貴重である。
県指定文化財
地蔵菩薩半跏像 - 延命地蔵とも
楊柳観音画像 - 高麗王朝期
市指定文化財
山門 - 安永2年(1773年)
経蔵 - 輪蔵とも。寛政11年(1799年)
書院 - 七卿潜居の間。実際に滞在したのは5卿
韋駄天像 - 鎌倉時代末期
千手観音菩薩坐像 - 鎌倉時代末期
二十八部衆像 -
金岡用兼画像 - 室町時代中期
毛利秀元画像 - 江戸時代初期
大洞覚仙画像 - 江戸時代、狩野陽信作
交通アクセス
JR山陽本線長府駅から車で15分
サンデンバス城下町長府バス停から徒歩5分
所在地 山口県下関市長府川端1丁目2-3
位置 北緯33度59分45.2秒 東経130度58分54.9秒
山号 金山
宗派 曹洞宗
本尊 千手観音菩薩
創建年 嘉暦2年(1327年)
開基 虚庵玄寂
別称 長福寺(旧称)
札所等 中国三十三観音霊場19番
山陽花の寺9番
文化財 仏殿(国宝)
地蔵菩薩半跏像(県指定)他
2022年09月01日
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