気多大社(けたたいしゃ、正式名:氣多大社)は、石川県羽咋市寺家町にある神社。式内社(名神大社)、能登国一宮。旧社格は国幣大社で、現在は神社本庁に属さない単立神社。旧称は「気多大神宮」。
拝殿(手前)と本殿(奥)(ともに国の重要文化財)
概要
能登半島の付け根、羽咋市北方に日本海に面して鎮座する。祭神の大己貴命は出雲から舟で能登に入り、国土を開拓したのち守護神としてこの地に鎮まったとされる。古くから北陸の大社として知られ、中世・近世には歴代の領主からも手厚い保護を受けた。
現在は本殿など5棟の社殿が国の重要文化財に指定されているほか、国の天然記念物の社叢「入らずの森」で知られる。
祭神
祭神は次の1柱。
大己貴命(おおなむちのみこと)
鳥居
歴史
創建
社伝(『気多神社縁起』)によれば、第8代孝元天皇の御代に祭神の大己貴命が出雲から300余神を率いて来降し、化鳥・大蛇を退治して海路を開いたという。
また『気多社島廻縁起』では、気多大菩薩は孝元天皇の時に従者を率いて渡来した異国の王子とし、能登半島一帯を巡行して鬼神を追放したと記される。『気多社祭儀録』では、祭神は第10代崇神天皇の御代の勧請とし、神代からの鎮座とする説もあると記される。
一説として、孝元天皇の御代には七尾市に鎮座(現・気多本宮、位置)し、崇神天皇の御代に当地に遷座したとも伝えられる。
概史
奈良時代には北陸の大社として京にも名が伝わっており、『万葉集』に越中国司として赴任した大伴家持が天平20年(748年)に参詣したときの歌が載っている(文献上初見)。
国史では、古くは『続日本紀』神護景雲2年(768年)の記事が見え、同記事では封戸20戸・田2町が支給されている。また神階に関しては、延暦3年(784年)の正三位から、天安3年(859年)に従一位勲一等までの叙位・叙勲の記事が載る。
延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では能登国羽咋郡に「気多神社 名神大」と記載され、名神大社に列している。
中世以降は能登国一宮とされ、中世・近世の間は畠山氏・前田氏など歴代の領主からも手厚い保護を受けた。
明治4年(1871年)、近代社格制度において国幣中社に列し、大正4年(1915年)に国幣大社に昇格した。第二次世界大戦後は神社本庁の被包括宗教法人となり別表神社に指定されていたが、後述のように平成22年(2010年)に神社本庁に属さない単立神社となった。
拝殿(国の重要文化財)
神門(国の重要文化財)
境内
社殿
主要社殿のうち本殿は、江戸時代の天明7年(1787年)の造営。三間社(桁行3間、梁行4間)の類例の少ない両流造で、檜皮葺である。拝殿は、江戸時代の承応2年(1653年)または承応3年(1654年)に大工・山上善右衛門による造営とされる。入母屋造妻入で、檜皮葺。神門は、安土桃山時代(社伝によれば天正12年(1584年))の造営。切妻造、四脚門で、檜皮葺。これら3棟はいずれも国の重要文化財に指定されている。
神庫は本殿と同じく、江戸時代の天明7年(1787年)の造営。方一間の校倉造檜皮葺。元は「宝蔵」と呼ばれていた。随身門は、境内南東の旧参道口に位置する(北緯36度55分26.32秒 東経136度46分8.58秒)。本殿と同じく、江戸時代の天明7年(1787年)の造営。三間一戸の八脚門、切妻造。いずれも石川県の有形文化財に指定されている。
現地情報
所在地
石川県羽咋市寺家町ク1
交通アクセス
バス
羽咋駅(JR西日本七尾線)から、北鉄能登バス(高浜、富来方面行き)で「一の宮」バス停下車(下車後徒歩約5分)。
車
のと里山海道 柳田ICから、志賀町方面へ車で約5分。
古くは一の鳥居前に北陸鉄道能登線の能登一ノ宮駅が存在し、気多大社までのアクセスを担っていた。
2022年09月12日
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