弘前城(ひろさきじょう)は、陸奥国鼻和郡(のち統合と外浜(青森)、西浜(十三湊)を編入で津軽郡)弘前(現・青森県弘前市下白銀町)にあった日本の城である。別名・鷹岡城、高岡城。江戸時代に建造された天守や櫓などが現存し国の重要文化財に指定されている。また城跡は国の史跡に指定されている。江戸時代には津軽氏が居城し弘前藩の藩庁が置かれた。
弘前城天守
概要
江戸時代には弘前藩津軽氏4万7千石の居城として、津軽地方の政治経済の中心地となった。城は津軽平野に位置し、城郭は本丸、二の丸、三の丸、四の丸、北の郭、西の郭の6郭から構成された梯郭式平山城である。創建当初の規模は東西612メートル、南北947メートル、総面積38万5200平方メートルに及んだ。現在は、堀、石垣、土塁等城郭の全容がほぼ廃城時の原形をとどめ、8棟の建築と現存12天守に数えられる内の天守1棟が現存する。現存建築はいずれも、国の重要文化財に指定されている。小説家の司馬遼太郎は紀行文集『街道をゆく - 北のまほろば』で、弘前城を「日本七名城の一つ」と紹介している。
歴史・沿革
安土桃山時代
1590年(天正18年) - 南部氏に臣従していた大浦為信は、小田原征伐の際に豊臣秀吉より南部氏に先駆けて4万5千石の所領安堵の朱印状を受ける。大浦を津軽と改姓。
1594年(文禄3年) - 為信、堀越城(弘前市堀越)を築き大浦城より移る。しかし、軍事に不向きであることを理由に新城の候補を鷹岡(現在の弘前城の地)に選定。
1600年(慶長5年) - 為信は関ヶ原の戦いで東軍に付き、徳川家康より2千石の加増を受け4万7千石の弘前藩が成立。
江戸時代
1603年(慶長8年) - 為信、鷹岡に築城を開始。
1604年(慶長9年) - 為信、京都にて客死し、築城は中断する。
1609年(慶長14年) - 2代信枚(信牧)、築城を再開。堀越城、大浦城の遺材を転用し急ピッチでの築城を行う。
1611年(慶長16年) - 1年1か月で鷹岡城がほぼ完成する。
1627年(寛永4年) - 落雷により、鷹岡城の天守で炎上し内部の火薬に引火して大爆発、5層6階の天守、本丸御殿、諸櫓を焼失。以後、200年近く天守のない時代が続いた。
1628年(寛永5年) - 鷹岡を信枚の帰依する天海大僧正が名付けた「弘前」に改称し、城名も弘前城となる。
1810年(文化7年) - 9代藩主津軽寧親が三層櫓を新築することを幕府に願い出て、本丸に現在見られる3層3階の御三階櫓(天守)が建てられた。
天守(本丸内側より)
文化財
重要文化財
弘前城
天守 附棟札2枚
二の丸辰巳櫓 附棟札1枚
二の丸未申櫓 附棟札1枚
二の丸丑寅櫓
二の丸南門
二の丸東門
三の丸追手門
北の郭北門(亀甲門)
弘前城三の丸東門
史跡
津軽氏城跡
弘前城跡
重要伝統的建造物群保存地区
仲町の武家屋敷群
二の丸南門(南内門)
北の郭北門(亀甲門)
三の丸東門
交通
JR奥羽本線・弘前駅(東北新幹線・新青森駅乗り換え)から土手町循環100円バスに乗り「市役所前」下車、徒歩3分
東北自動車道・大鰐弘前ICから約30分
別名 鷹岡城、高岡城
城郭構造 梯郭式平山城
天守構造 不詳5層(非現存・1610年築)
御三階櫓(複合式層塔型3層3階・1810年改)
独立式層塔型3層3階(現存)
築城主 津軽為信・信枚
築城年 1611年
主な改修者 津軽寧親
主な城主 津軽氏
廃城年 1871年
遺構 現存天守・櫓・門
石垣、土塁、堀
指定文化財 重要文化財
(天守・辰巳櫓・丑寅櫓・未申櫓・三の丸追手門・三の丸東門・二の丸南門・二の丸東門・北の郭亀甲門)
国の史跡
再建造物 二の丸東門与力番所
位置 北緯40度36分28.93秒 東経140度27分49.7秒
2022年08月27日
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