太宰治記念館 「斜陽館」(だざいおさむきねんかん しゃようかん)は、青森県五所川原市にある小説家太宰治の生家。現在は、五所川原市太宰治記念館「斜陽館」として、五所川原市立の施設となっている。また、近代和風住宅の代表例として2004年(平成16年)国の重要文化財に指定されている。
概要
建物は1907年(明治40年)に太宰の父で衆議院議員であった津島源右衛門によって立てられたもの。当時の住所は青森県北津軽郡金木村。
太宰が中学進学に伴い1923年(大正12年)に青森市へ転居するまでこの家で暮らした。東京へ出た後、共産党の非合法活動に協力したり、何度か心中を繰り返したため郷里から勘当された。勘気を許されてこの家に戻る事が許されたのは、1942年(昭和17年)に太宰の母タネが亡くなった後である。その後1945年(昭和20年)、太宰は戦況悪化に伴い妻子を連れて疎開。翌年までこの地にとどまり、文筆活動を続ける。小説『思ひ出』や『津軽』等には太宰がこの家に対して抱いたイメージが記されている。
太宰の死後1950年(昭和25年)に津島家はこの家を売却[1]。町内の旅館経営者が買収し太宰治文学記念館を併設した旅館として改装され太宰の小説『斜陽』から「斜陽館」と命名された[1]。1950年から営業をはじめた旅館「斜陽館」は太宰ファンが多く宿泊に訪れており、中には喫茶店も併設されていた。また文学記念館は宿泊者以外にも公開され、多くの太宰ファンでにぎわった。
しかし、1988年(昭和63年)ごろから宿泊客が減少し、さらに1990年(平成2年)に所得税の申告漏れにより1億円あまりの追徴課税を受けたため経営が悪化。これにより、経営者が手放す旨を発表した。これに対して、1996年(平成8年)金木町(当時)は経営者から斜陽館を買い取り、町営の文学記念館として再出発することになった。旅館は1996年4月7日に廃業し、1998年(平成10年)、名称が現在の《太宰治記念館 「斜陽館」》と改められて改装オープンした。新しく改装された斜陽館では従来のような宿泊は出来なくなったものの太宰の文学資料、また昭和初期の大地主であった津島家の貴重な資料を展示する資料館として多くの観光客、太宰ファンが訪れている。
文化財
重要文化財
旧津島家住宅
主屋 附:棟札1枚
文庫蔵 附:棟札1枚
中の蔵
米蔵
煉瓦塀(2棟)
土地 2,255.55平方メートル
主屋は西を正面とし、西面南寄りに入母屋屋根の玄関がある。玄関の左手には「店」(金融執務室)、右手には事務室があり、「店」の奥には和室がある。玄関を抜けた先は居住空間で、南側を幅の広い「通りにわ」(土間)とし、北側は東西3室・前後2列の計6室を設ける。室名は前列が西から「前座敷」、「茶の間」、「常居」、後列が西から「仏間」、「小座敷」、「小間」となる(室名は資料によって差異がある)。これらの室の東側は広い「板の間」とする。板の間は天井を張らず、トラスの小屋組を見せる。土間の南、建物の東南側の室は現在は休憩室となっているが、当初は女中部屋で、その後炊事場となっていた。玄関脇の階段を上った2階は洋間の応接室のほか、和室7室を設ける。主屋の東に「中の蔵」、その東に「米蔵」、主屋の北に「文庫蔵」(現・展示室)が建つ。津島家住宅は、津軽地方の伝統的な町屋の形式を踏襲しつつ、店、応接室などに洋風意匠を取り入れている。当住宅は、著名作家の生家であるとともに、大規模で質の高い邸宅建築で、蔵、煉瓦塀、庭園などを含む屋敷構えが良好に保存されていることから、文化財としての価値も高い。
交通アクセス
津軽鉄道線金木駅下車、徒歩約7分。
弘南バス小泊線「斜陽館前」下車。
所在地 青森県五所川原市金木町朝日山412-1
位置 北緯40度54分9.36秒 東経140度27分19.41秒
類型 大地主邸宅
形式・構造 木造2階建、入母屋造、和洋折衷建築
敷地面積 2255.55m2
延床面積 1302.48m2
建築年 1907年(明治40年)
文化財 国の重要文化財
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