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2024年04月12日
若松寺(じゃくしょうじ)は、山形県天童市にある天台宗の寺院
若松寺(じゃくしょうじ)は、山形県天童市にある天台宗の寺院。別称は若松観音(わかまつかんのん)。「西の出雲、東の若松」と、出雲大社と並び称される縁結びの観音として知られる。室町時代には西国の観音巡礼信仰が東国にも普及し、最上三十三観音霊場第1番札所に位置づけられている。

歴史
寺伝によれば、和銅元年(708年)、元明天皇の勅命によって東国巡錫の途中であった行基が、鈴の音に導かれ現在の鈴立山に登り、山上で光り輝く三十三観音像を感得したことにより開山されたという。その後、空海や円仁(慈覚大師)が登山したとの伝承もあり、貞観2年(860年)、立石寺開山の円仁(慈覚大師)が立石寺の山頂付近にあった堂を現在の地に移したという。この頃法相宗から天台宗となる。
寺宝としては、弘長3年(1263年)に藤原真綱一族が二世安楽を願って奉納した「金銅聖観音像懸仏」(こんどう しょうかんのんぞう かけぼとけ、国の重要文化財)、永禄6年(1563年)、郷目右京進貞繁が奉納した「板絵著色神馬図」(いたえちゃくしょく しんめず、国の重要文化財)がある。観音堂は1963年に国の重要文化財に指定されている。

アクセス
車
駐車場あり。
JR天童駅より約15分。
山形自動車道山形北ICより約20分。
所在地 山形県天童市大字山元2205-1
位置 北緯38度21分47秒 東経140度25分8秒
山号 鈴立山
宗派 天台宗
本尊 聖観音
開山 (伝)行基
中興 (伝)円仁(慈覚大師)
正式名 鈴立山若松寺
別称 若松観音
札所等 最上三十三観音霊場第1番
文化財 観音堂、金銅聖観音像懸仏、板絵著色神馬図(重要文化財)

歴史
寺伝によれば、和銅元年(708年)、元明天皇の勅命によって東国巡錫の途中であった行基が、鈴の音に導かれ現在の鈴立山に登り、山上で光り輝く三十三観音像を感得したことにより開山されたという。その後、空海や円仁(慈覚大師)が登山したとの伝承もあり、貞観2年(860年)、立石寺開山の円仁(慈覚大師)が立石寺の山頂付近にあった堂を現在の地に移したという。この頃法相宗から天台宗となる。
寺宝としては、弘長3年(1263年)に藤原真綱一族が二世安楽を願って奉納した「金銅聖観音像懸仏」(こんどう しょうかんのんぞう かけぼとけ、国の重要文化財)、永禄6年(1563年)、郷目右京進貞繁が奉納した「板絵著色神馬図」(いたえちゃくしょく しんめず、国の重要文化財)がある。観音堂は1963年に国の重要文化財に指定されている。

アクセス
車
駐車場あり。
JR天童駅より約15分。
山形自動車道山形北ICより約20分。
所在地 山形県天童市大字山元2205-1
位置 北緯38度21分47秒 東経140度25分8秒
山号 鈴立山
宗派 天台宗
本尊 聖観音
開山 (伝)行基
中興 (伝)円仁(慈覚大師)
正式名 鈴立山若松寺
別称 若松観音
札所等 最上三十三観音霊場第1番
文化財 観音堂、金銅聖観音像懸仏、板絵著色神馬図(重要文化財)
2024年04月11日
豊榮神社(とよさかじんじゃ)と野田神社(のだじんじゃ)は、山口県山口市に隣接して鎮座する神社
豊榮神社(とよさかじんじゃ)と野田神社(のだじんじゃ)は、山口県山口市に隣接して鎮座する神社である。両神社は東に豊榮神社、西に野田神社と隣接するものの別の宗教法人であり、本殿や拝殿、廻廊等の社殿もそれぞれ別にあるが、社務所を始めとする共有の施設もあり、密接な関係にもある。
ともに旧社格は別格官幣社で現在は神社本庁の別表神社に指定され、隣接地には山口県神社庁もある。江戸時代後期から明治時代初期に流行した藩祖を祀った神社のひとつ。
豊榮神社
祭神
戦国時代に中国地方に覇を唱え後の長州藩毛利家の礎を築いた毛利元就を「毛利元就公」として祀る。

豊榮神社
所在地 山口県山口市天花1丁目1-1
位置 北緯34度11分19.7秒 東経131度28分50.8秒
主祭神 贈正一位毛利元就公
社格等 旧別格官幣社・別表神社
創建 宝暦12年(1762年)
本殿の様式 三間社流造銅板葺
例祭 10月1日
主な神事 御正祭(7月16日)
野田神社
祭神
長州藩最後の藩主で明治維新の功労者である毛利敬親を「毛利敬親公」として祀り、敬親の養嗣子の元徳を「毛利元徳公」として配祀する。

野田神社
所在地 山口県山口市天花1丁目1-2
位置 北緯34度11分18.7秒 東経131度28分49.4秒
主祭神 毛利敬親公
社格等 旧別格官幣社・別表神社
創建 明治6年(1873年)
本殿の様式 三間社流造銅板葺
例祭 3月5日
主な神事 御正祭(5月17日(主祭神)・12月23日(配祀神))
ともに旧社格は別格官幣社で現在は神社本庁の別表神社に指定され、隣接地には山口県神社庁もある。江戸時代後期から明治時代初期に流行した藩祖を祀った神社のひとつ。
豊榮神社
祭神
戦国時代に中国地方に覇を唱え後の長州藩毛利家の礎を築いた毛利元就を「毛利元就公」として祀る。

豊榮神社
所在地 山口県山口市天花1丁目1-1
位置 北緯34度11分19.7秒 東経131度28分50.8秒
主祭神 贈正一位毛利元就公
社格等 旧別格官幣社・別表神社
創建 宝暦12年(1762年)
本殿の様式 三間社流造銅板葺
例祭 10月1日
主な神事 御正祭(7月16日)
野田神社
祭神
長州藩最後の藩主で明治維新の功労者である毛利敬親を「毛利敬親公」として祀り、敬親の養嗣子の元徳を「毛利元徳公」として配祀する。

野田神社
所在地 山口県山口市天花1丁目1-2
位置 北緯34度11分18.7秒 東経131度28分49.4秒
主祭神 毛利敬親公
社格等 旧別格官幣社・別表神社
創建 明治6年(1873年)
本殿の様式 三間社流造銅板葺
例祭 3月5日
主な神事 御正祭(5月17日(主祭神)・12月23日(配祀神))
2024年04月10日
丹生都比売神社(にうつひめじんじゃ、丹生都比賣神社)は、和歌山県伊都郡かつらぎ町上天野にある神社
丹生都比売神社(にうつひめじんじゃ、丹生都比賣神社)は、和歌山県伊都郡かつらぎ町上天野にある神社。式内社(名神大社)、紀伊国一宮。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。
別称として「天野大社」「天野四所明神」とも。全国に約180社ある丹生都比売神を祀る神社の総本社である。「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成資産の一つとして世界文化遺産に登録されている。

境内(正面に楼門:重要文化財)
祭神
祭神は次の4柱。これら4神は「四所明神」とも総称される。
第一殿:丹生都比売大神(にうつひめのおおかみ)
通称「丹生明神」。古くより祀られていた神。
第二殿:高野御子大神(たかのみこのおおかみ)
通称「狩場明神」。高野山開創と関係する神。
第三殿:大食津比売大神(おおげつひめのおおかみ)
通称「気比明神」。承元2年(1208年)に氣比神宮(福井県敦賀市)からの勧請と伝える。
第四殿:市杵島比売大神(いちきしまひめのおおかみ)
通称「厳島明神」。第三殿と同年に厳島神社(広島県廿日市市)からの勧請と伝える。

本殿(国の重要文化財)右から第一殿・第二殿・第三殿
現地情報
所在地
和歌山県伊都郡かつらぎ町上天野230
交通アクセス
西日本旅客鉄道(JR西日本)和歌山線 笠田駅から
バス:かつらぎ町コミュニティバス(天野コース、丹生都比売神社行)で終点「丹生都比売神社」バス停下車すぐ。 所要約30分、1日6往復運行。
タクシー:約15分

外鳥居
位置 北緯34度15分45.8秒 東経135度31分19.2秒
主祭神 丹生都比売大神
高野御子大神
大食津比売大神
市杵島比売大神
社格等 式内社(名神大)
紀伊国一宮
旧官幣大社
別表神社
本殿の様式 一間社春日造4棟
別名 天野大社
札所等 神仏霊場巡拝の道第12番(和歌山第12番)
例祭 10月16日
主な神事 御田祭(1月第3日曜日)
花盛祭(4月第2日曜日)
別称として「天野大社」「天野四所明神」とも。全国に約180社ある丹生都比売神を祀る神社の総本社である。「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成資産の一つとして世界文化遺産に登録されている。

境内(正面に楼門:重要文化財)
祭神
祭神は次の4柱。これら4神は「四所明神」とも総称される。
第一殿:丹生都比売大神(にうつひめのおおかみ)
通称「丹生明神」。古くより祀られていた神。
第二殿:高野御子大神(たかのみこのおおかみ)
通称「狩場明神」。高野山開創と関係する神。
第三殿:大食津比売大神(おおげつひめのおおかみ)
通称「気比明神」。承元2年(1208年)に氣比神宮(福井県敦賀市)からの勧請と伝える。
第四殿:市杵島比売大神(いちきしまひめのおおかみ)
通称「厳島明神」。第三殿と同年に厳島神社(広島県廿日市市)からの勧請と伝える。

本殿(国の重要文化財)右から第一殿・第二殿・第三殿
現地情報
所在地
和歌山県伊都郡かつらぎ町上天野230
交通アクセス
西日本旅客鉄道(JR西日本)和歌山線 笠田駅から
バス:かつらぎ町コミュニティバス(天野コース、丹生都比売神社行)で終点「丹生都比売神社」バス停下車すぐ。 所要約30分、1日6往復運行。
タクシー:約15分

外鳥居
位置 北緯34度15分45.8秒 東経135度31分19.2秒
主祭神 丹生都比売大神
高野御子大神
大食津比売大神
市杵島比売大神
社格等 式内社(名神大)
紀伊国一宮
旧官幣大社
別表神社
本殿の様式 一間社春日造4棟
別名 天野大社
札所等 神仏霊場巡拝の道第12番(和歌山第12番)
例祭 10月16日
主な神事 御田祭(1月第3日曜日)
花盛祭(4月第2日曜日)
2024年04月09日
真光寺(しんこうじ)は岡山県備前市にある高野山真言宗の寺院
真光寺(しんこうじ)は岡山県備前市にある高野山真言宗の寺院。山号は御瀧山(おたきさん)。本尊は阿弥陀如来。

真光寺本堂(日本国指定の重要文化財)
文化財
重要文化財(国指定)
本堂:棟札には永正13年(1516年)の銘があるが、寺伝では応永年間(1394年〜1428年)に再建されたとある。永正13年(1516年)に修理増築された。昭和28年(1953年)11月14日重要文化財指定。
三重塔:室町時代中期に建造されたものといわれる。元来は瀬戸内市牛窓町の蓮華頂寺にあったものを慶長18年(1613年)に移築した。昭和28年(1953年)11月14日重要文化財指定。

三重塔(重要文化財)
アクセス
JR赤穂線 西片上駅にて下車、徒歩5分
所在地 岡山県備前市西片上1513
位置 北緯34度44分41.4秒 東経134度10分49.1秒
山号 御瀧山
宗派 高野山真言宗
本尊 阿弥陀如来
創建年 伝・天平11年(739年)
開基 伝・行基
札所等 和気郡八十八箇所5番
備前四十八箇寺
文化財 本堂、三重塔(重要文化財)
仁王門(市文化財)
真光寺本堂(日本国指定の重要文化財)
文化財
重要文化財(国指定)
本堂:棟札には永正13年(1516年)の銘があるが、寺伝では応永年間(1394年〜1428年)に再建されたとある。永正13年(1516年)に修理増築された。昭和28年(1953年)11月14日重要文化財指定。
三重塔:室町時代中期に建造されたものといわれる。元来は瀬戸内市牛窓町の蓮華頂寺にあったものを慶長18年(1613年)に移築した。昭和28年(1953年)11月14日重要文化財指定。
三重塔(重要文化財)
アクセス
JR赤穂線 西片上駅にて下車、徒歩5分
所在地 岡山県備前市西片上1513
位置 北緯34度44分41.4秒 東経134度10分49.1秒
山号 御瀧山
宗派 高野山真言宗
本尊 阿弥陀如来
創建年 伝・天平11年(739年)
開基 伝・行基
札所等 和気郡八十八箇所5番
備前四十八箇寺
文化財 本堂、三重塔(重要文化財)
仁王門(市文化財)
2024年04月08日
道明寺天満宮(どうみょうじてんまんぐう)は、大阪府藤井寺市道明寺にある神社
道明寺天満宮(どうみょうじてんまんぐう)は、大阪府藤井寺市道明寺にある神社。旧社格は郷社。境内には80種800本の梅の木があり、梅の名所として知られているとともに大阪みどりの百選に選定されている。

道明寺天満宮 拝殿
祭神
菅原道真公(すがはらみちざねこう)
天穂日命(あめのほひのみこと)
覚寿尼公(かくじゅにこう)- 菅原道真公のおばに当たる人物。

神門
境内
本殿 - 安土桃山時代の再建。檜皮葺。
幣殿 - 延享2年(1745年)再建。檜皮葺。
拝殿 - 延享2年(1745年)再建。檜皮葺。
能楽殿 - 文化12年(1815年)築。大阪府下最古の能楽殿。
絵馬堂 - 寛政8年(1796年)再建。現在は休憩所となっている。
神牛舎
幕内・花ノ国の手形の碑
宝物館 - 1902年(明治35年)に菅原道真公壱千年祭の記念事業として建設され、伝来の神宝等約200点を収蔵・展示している。開館日は、1月1 - 3日・1月25日・2月25日・3月25日、梅祭り期間中の土日祝日、釋奠の日と限定されており、それ以外は予約制となっている。
修羅 - 展示している修羅は、1978年(昭和53年)に三ツ塚古墳(道明寺6丁目)の出土品を西岡常一ら宮大工の手で復元したもの。この修羅は同年9月3日に朝日新聞社や考古学などの専門家によって、市内の大和川河川敷で巨石を乗せて牽引する実証実験に使われた。
大成殿(孔子廟) - 祭神:孔子、孔門十哲。1901年(明治34年)築。孔子像は小野篁の作だとされる。かつて下野国の足利学校に、次いで高松藩の藩校にあったもの。
梅園
皇居遥拝所 - 1913年(大正2年)築。
天寿殿 - 社務所。
明治天皇行在所の碑
庭園
筆塚
土俵 - 菅原道真の先祖が相撲の祖・野見宿祢であることから土俵が置かれている。
神門 - 三井八郎右衛門奉納。
夏水井
登り窯 - 2017年(平成29年)5月に復元。
境外
五重塔跡 - 礎石が残る。境内の南にある。

狛犬
現地情報
所在地
大阪府藤井寺市道明寺1-16-40
交通アクセス
鉄道:近鉄南大阪線道明寺駅下車後、徒歩約3分(西へ約350m)
位置 北緯34度34分9.5秒 東経135度37分3.4秒
主祭神 菅原道真
天穂日命
覚寿尼
社格等 旧郷社
創建 垂仁天皇32年
別名 土師神社
札所等 菅公聖蹟二十五拝第8番
神仏霊場巡拝の道第58番(大阪第17番)
例祭 梅花祭(2月25日)
主な神事 初天神うそかえ祭(1月25日)
菜種御供大祭(3月25日)

道明寺天満宮 拝殿
祭神
菅原道真公(すがはらみちざねこう)
天穂日命(あめのほひのみこと)
覚寿尼公(かくじゅにこう)- 菅原道真公のおばに当たる人物。

神門
境内
本殿 - 安土桃山時代の再建。檜皮葺。
幣殿 - 延享2年(1745年)再建。檜皮葺。
拝殿 - 延享2年(1745年)再建。檜皮葺。
能楽殿 - 文化12年(1815年)築。大阪府下最古の能楽殿。
絵馬堂 - 寛政8年(1796年)再建。現在は休憩所となっている。
神牛舎
幕内・花ノ国の手形の碑
宝物館 - 1902年(明治35年)に菅原道真公壱千年祭の記念事業として建設され、伝来の神宝等約200点を収蔵・展示している。開館日は、1月1 - 3日・1月25日・2月25日・3月25日、梅祭り期間中の土日祝日、釋奠の日と限定されており、それ以外は予約制となっている。
修羅 - 展示している修羅は、1978年(昭和53年)に三ツ塚古墳(道明寺6丁目)の出土品を西岡常一ら宮大工の手で復元したもの。この修羅は同年9月3日に朝日新聞社や考古学などの専門家によって、市内の大和川河川敷で巨石を乗せて牽引する実証実験に使われた。
大成殿(孔子廟) - 祭神:孔子、孔門十哲。1901年(明治34年)築。孔子像は小野篁の作だとされる。かつて下野国の足利学校に、次いで高松藩の藩校にあったもの。
梅園
皇居遥拝所 - 1913年(大正2年)築。
天寿殿 - 社務所。
明治天皇行在所の碑
庭園
筆塚
土俵 - 菅原道真の先祖が相撲の祖・野見宿祢であることから土俵が置かれている。
神門 - 三井八郎右衛門奉納。
夏水井
登り窯 - 2017年(平成29年)5月に復元。
境外
五重塔跡 - 礎石が残る。境内の南にある。

狛犬
現地情報
所在地
大阪府藤井寺市道明寺1-16-40
交通アクセス
鉄道:近鉄南大阪線道明寺駅下車後、徒歩約3分(西へ約350m)
位置 北緯34度34分9.5秒 東経135度37分3.4秒
主祭神 菅原道真
天穂日命
覚寿尼
社格等 旧郷社
創建 垂仁天皇32年
別名 土師神社
札所等 菅公聖蹟二十五拝第8番
神仏霊場巡拝の道第58番(大阪第17番)
例祭 梅花祭(2月25日)
主な神事 初天神うそかえ祭(1月25日)
菜種御供大祭(3月25日)
2024年04月07日
草野本家(くさのほんけ)は、大分県日田市豆田町にある歴史的建造物(旧商家)
草野本家(くさのほんけ)は、大分県日田市豆田町にある歴史的建造物(旧商家)である。

概要
草野本家は、幕府直轄領日田の商家町で、居蔵造の屋敷が並ぶ豆田町の南西部、「御幸の辻」と通称するクランク道路の正面に位置する。商標をカクジュウ(田)と定める旧精蝋店である。屋号は枡屋。傍ら、掛屋として公益に勤めた。現在の当主は開業から20代目である。
日本の雛祭りイベントの発祥の地ともいわれる。

歴史
草野家の祖は、筑後竹井城主草野三郎蔵人永経であるという。その子、永平は筑後国在国司、押領使に任ぜられ、以来1587年家清の代まで耳納山発心城(福岡県久留米市草野町)に居城し、草野郷を治めた。
天正14年(1586年)の秀吉の島津氏討伐の際、龍造寺氏勢に参加するも敗退し日田に落ちて帰農し、寛永18年(1641年)豆田魚町に移住。元禄元年(1688年)に現在の場所に精蝋を業として屋敷と店舗を構えたという。
文化財
草野本家の建造物のうち主屋など4棟とその敷地は2009年12月、「草野家住宅(大分県日田市豆田町)」の名称で国の重要文化財に指定された。指定物件は以下のとおりである。
主屋
座敷蔵
北蔵
隠宅蔵
附:家具蔵
附:井戸屋形
土地 1,599.63平方メートル
主屋は居蔵造と呼ばれる塗籠の防火建築で、玄関部、店舗部、隠宅部、客間部、新座敷部、仏間部からなる、複雑な平面をもつ建築である。このうち最も古い部分は仏間部で、江戸時代中期の享保10年(1725年)頃に造られたとも言われており、県内最古の商家である。主屋のその他の部分は安永元年(1772年)の豆田町の大火の後、江戸時代後期から明治時代初期にかけて順次建て増しされたものである。元は敷地の北部が本家、南側が分家であったが、18世紀末に本家が廃絶した後、両方の屋敷が一体化されている。付属建物の中では座敷蔵は瓦に享保16年(1731年)の銘があり、建築年代が明らかである。
なお、草野本家を含む豆田町一帯の10.7ヘクタールは、2004年12月、「日田市豆田町伝統的建造物群保存地区」の名称で国の重要伝統的建造物群保存地区として選定されている。

所在地 大分県日田市豆田町11-4
位置 北緯33度19分34.9秒 東経130度56分8.2秒
類型 商家
形式・構造 (主屋)木造、居蔵造 、切妻造、瓦葺
建築年 享保10年(1725年)頃
文化財 国の重要文化財
所在施設・区域 豆田町

概要
草野本家は、幕府直轄領日田の商家町で、居蔵造の屋敷が並ぶ豆田町の南西部、「御幸の辻」と通称するクランク道路の正面に位置する。商標をカクジュウ(田)と定める旧精蝋店である。屋号は枡屋。傍ら、掛屋として公益に勤めた。現在の当主は開業から20代目である。
日本の雛祭りイベントの発祥の地ともいわれる。

歴史
草野家の祖は、筑後竹井城主草野三郎蔵人永経であるという。その子、永平は筑後国在国司、押領使に任ぜられ、以来1587年家清の代まで耳納山発心城(福岡県久留米市草野町)に居城し、草野郷を治めた。
天正14年(1586年)の秀吉の島津氏討伐の際、龍造寺氏勢に参加するも敗退し日田に落ちて帰農し、寛永18年(1641年)豆田魚町に移住。元禄元年(1688年)に現在の場所に精蝋を業として屋敷と店舗を構えたという。
文化財
草野本家の建造物のうち主屋など4棟とその敷地は2009年12月、「草野家住宅(大分県日田市豆田町)」の名称で国の重要文化財に指定された。指定物件は以下のとおりである。
主屋
座敷蔵
北蔵
隠宅蔵
附:家具蔵
附:井戸屋形
土地 1,599.63平方メートル
主屋は居蔵造と呼ばれる塗籠の防火建築で、玄関部、店舗部、隠宅部、客間部、新座敷部、仏間部からなる、複雑な平面をもつ建築である。このうち最も古い部分は仏間部で、江戸時代中期の享保10年(1725年)頃に造られたとも言われており、県内最古の商家である。主屋のその他の部分は安永元年(1772年)の豆田町の大火の後、江戸時代後期から明治時代初期にかけて順次建て増しされたものである。元は敷地の北部が本家、南側が分家であったが、18世紀末に本家が廃絶した後、両方の屋敷が一体化されている。付属建物の中では座敷蔵は瓦に享保16年(1731年)の銘があり、建築年代が明らかである。
なお、草野本家を含む豆田町一帯の10.7ヘクタールは、2004年12月、「日田市豆田町伝統的建造物群保存地区」の名称で国の重要伝統的建造物群保存地区として選定されている。

所在地 大分県日田市豆田町11-4
位置 北緯33度19分34.9秒 東経130度56分8.2秒
類型 商家
形式・構造 (主屋)木造、居蔵造 、切妻造、瓦葺
建築年 享保10年(1725年)頃
文化財 国の重要文化財
所在施設・区域 豆田町
2024年04月06日
釣島灯台(つるしまとうだい)は愛媛県松山市の瀬戸内海の安芸灘・伊予灘間を通じる重要航路釣島水道中にある釣島に立つ石造の灯台
釣島灯台(つるしまとうだい)は愛媛県松山市の瀬戸内海の安芸灘・伊予灘間を通じる重要航路釣島水道中にある釣島に立つ石造の灯台。1873年、「灯台の父」と呼ばれるリチャード・ヘンリー・ブラントンの設計により、倉橋島産などの御影石を用いて築造された。国の重要文化財に指定されている。

この灯台は、歴史的文化財的価値が高いAランクの保存灯台である。周辺は瀬戸内海国立公園に指定され、灯台からは瀬戸内海を航行する多数の船を望むことができる。2009年に経済産業省の「近代化産業遺産」に認定された。吏員退息所及び倉庫は1995年に松山市指定有形文化財に指定されている。

歴史
1871年(明治4年)9月に着工。
1873年(明治6年)6月15日に初点灯したが、2年近くの工期を費やした。かの、「灯台の父」と呼ばれる英国人リチャード・ヘンリー・ブラントンの設計によるもの。
1954年(昭和29年)、日本各地で核実験由来の放射性物質を含む降雨が観測される。飲料水を天水に頼っていた灯台関係者に放射線障害が出る。
1963年(昭和38年)4月から、無人化される。
1995年(平成7年)1月、松山市が旧灯台官舎・倉庫の土地と建物の払い下げを受ける。
1997年(平成9年)10月、旧灯台官舎・倉庫の保存整備工事竣工。
2017年(平成29年)9月、日本ロマンチスト協会より県内2カ所目の「恋する灯台」に認定。

航路標識番号
[国際標識番号] 4901 [M5436]
位置 北緯33度53分34.82秒 東経132度38分19.48秒
所在地 愛媛県松山市泊町1433番地
(釣島)
塗色・構造 白色 塔形 石造
レンズ LB 40cm灯器
灯質 不動白赤互光
白8秒赤8秒[AlFlWR16s]
実効光度 白光310,000 cd
赤光120,000 cd
光達距離 白光20.5海里(約38km)
明弧 7度から250度まで
塔高 10.3 m (地上 - 塔頂)
灯火標高 58.2 m (平均海面 - 灯火)
初点灯 1873年(明治6年)6月15日
管轄 海上保安庁
第六管区海上保安本部
松山海上保安部

この灯台は、歴史的文化財的価値が高いAランクの保存灯台である。周辺は瀬戸内海国立公園に指定され、灯台からは瀬戸内海を航行する多数の船を望むことができる。2009年に経済産業省の「近代化産業遺産」に認定された。吏員退息所及び倉庫は1995年に松山市指定有形文化財に指定されている。

歴史
1871年(明治4年)9月に着工。
1873年(明治6年)6月15日に初点灯したが、2年近くの工期を費やした。かの、「灯台の父」と呼ばれる英国人リチャード・ヘンリー・ブラントンの設計によるもの。
1954年(昭和29年)、日本各地で核実験由来の放射性物質を含む降雨が観測される。飲料水を天水に頼っていた灯台関係者に放射線障害が出る。
1963年(昭和38年)4月から、無人化される。
1995年(平成7年)1月、松山市が旧灯台官舎・倉庫の土地と建物の払い下げを受ける。
1997年(平成9年)10月、旧灯台官舎・倉庫の保存整備工事竣工。
2017年(平成29年)9月、日本ロマンチスト協会より県内2カ所目の「恋する灯台」に認定。

航路標識番号
[国際標識番号] 4901 [M5436]
位置 北緯33度53分34.82秒 東経132度38分19.48秒
所在地 愛媛県松山市泊町1433番地
(釣島)
塗色・構造 白色 塔形 石造
レンズ LB 40cm灯器
灯質 不動白赤互光
白8秒赤8秒[AlFlWR16s]
実効光度 白光310,000 cd
赤光120,000 cd
光達距離 白光20.5海里(約38km)
明弧 7度から250度まで
塔高 10.3 m (地上 - 塔頂)
灯火標高 58.2 m (平均海面 - 灯火)
初点灯 1873年(明治6年)6月15日
管轄 海上保安庁
第六管区海上保安本部
松山海上保安部
2024年04月05日
昌光律寺(しょうこうりつじ)は、愛知県岡崎市伊賀町にある浄土宗の寺院
昌光律寺(しょうこうりつじ)は、愛知県岡崎市伊賀町にある浄土宗の寺院。山号は大恩山。本尊は阿弥陀如来。

概要
越中国井波出身で江戸の増上寺で修学した徳厳は、戒律の復興をとなえ三河を訪れた。当初貞照院にいたが、1752年(宝暦2年)に当地に隠棲した。そして1763年(宝暦13年)、伊賀八幡宮神主柴田勝興に請われ研修道場として松林院に移り、1765年(明和2年)、庵室を改築して昌光律寺を創建した。
連尺町の成田薫左衛門剛寛の孫、第7代万空は、詩文をもって月僊や菅茶山、頼山陽、岡本花亭らと交わった。とくに伊勢国山田の月僊(1741年 - 1809年)はたびたび来訪し、障屏画76面、仏涅槃図など仏画20幅、屏風1双、画帖5帖を残した。
明治大正期の昌光律寺の僧、伊藤徹門は「福は和を求め、和は福を求む」という言葉を提唱した。この言葉にちなんでつくられた「福和もち」はかつて岡崎市で銘菓としてもてはやされた。

交通手段
名鉄バス・大樹寺方面「八幡社前」バス停下車、バス停のすぐ横にある。
所在地 愛知県岡崎市伊賀町南郷中69
位置 北緯34度58分11.44秒 東経137度09分56.55秒
山号 大恩山
宗派 浄土宗
本尊 阿弥陀如来
創建年 1765年(明和2年)
文化財 鉦鼓用引架(重要文化財)
僧月僊作品群(県指定文化財)

概要
越中国井波出身で江戸の増上寺で修学した徳厳は、戒律の復興をとなえ三河を訪れた。当初貞照院にいたが、1752年(宝暦2年)に当地に隠棲した。そして1763年(宝暦13年)、伊賀八幡宮神主柴田勝興に請われ研修道場として松林院に移り、1765年(明和2年)、庵室を改築して昌光律寺を創建した。
連尺町の成田薫左衛門剛寛の孫、第7代万空は、詩文をもって月僊や菅茶山、頼山陽、岡本花亭らと交わった。とくに伊勢国山田の月僊(1741年 - 1809年)はたびたび来訪し、障屏画76面、仏涅槃図など仏画20幅、屏風1双、画帖5帖を残した。
明治大正期の昌光律寺の僧、伊藤徹門は「福は和を求め、和は福を求む」という言葉を提唱した。この言葉にちなんでつくられた「福和もち」はかつて岡崎市で銘菓としてもてはやされた。

交通手段
名鉄バス・大樹寺方面「八幡社前」バス停下車、バス停のすぐ横にある。
所在地 愛知県岡崎市伊賀町南郷中69
位置 北緯34度58分11.44秒 東経137度09分56.55秒
山号 大恩山
宗派 浄土宗
本尊 阿弥陀如来
創建年 1765年(明和2年)
文化財 鉦鼓用引架(重要文化財)
僧月僊作品群(県指定文化財)
2024年04月04日
極楽寺(ごくらくじ)は、岩手県北上市稲瀬町(旧江刺郡)にある真言宗智山派の寺院
極楽寺(ごくらくじ)は、岩手県北上市稲瀬町(旧江刺郡)にある真言宗智山派の寺院、および、その前身で平安時代に現在の国見山一帯に栄えた山岳仏教寺院。山号は国見山または金福山。

概要
北上市街地の東方、北上川東岸の国見山(244メートル)の山上および山麓一帯には仏堂や仏塔の遺跡が散在し、かつてこの地域に大規模な仏教伽藍の存在したことが明らかである。この寺院跡は「国見山廃寺跡」の名称で国の史跡に指定されている。『日本文徳天皇実録』の天安元年(857年)条に「陸奥国極楽寺、定額寺に預かり」云々の記述があり、この「極楽寺」は国見山廃寺を指すものと推定されている[2][3]。この寺は平安時代初期の9世紀に創建され、発掘調査の結果から、10 - 11世紀に最盛期を迎えたと推定される。伝承では、坂上田村麻呂が異敵降伏のため毘沙門天を祀ったのが始まりであるという。
国見山南麓の谷奥には極楽寺の寺号を継承する小寺院が残っている。また極楽寺の近くにある如意輪寺、国見山北麓の立花毘沙門堂(万福寺)もかつての極楽寺の坊舎の跡と考えられている。立花毘沙門堂には木造毘沙門天立像と木造二天像(いずれも国の重要文化財)が安置されている。

文化財
重要文化財(国指定)
銅竜頭 4頭
銅錫杖頭(どう しゃくじょうとう)1柄
上記2件は極楽寺の所蔵で、平安時代の作である。

所在地 岩手県北上市稲瀬町内門岡30
位置 北緯39度15分45.3秒 東経141度8分23.8秒
山号 国見山
宗派 真言宗智山派
本尊 阿弥陀如来
創建年 850年
札所等 岩手三十三観音霊場一番札所 江刺三十三観音霊場一番札所
文化財 銅竜頭 4頭、銅錫杖頭(重要文化財)

概要
北上市街地の東方、北上川東岸の国見山(244メートル)の山上および山麓一帯には仏堂や仏塔の遺跡が散在し、かつてこの地域に大規模な仏教伽藍の存在したことが明らかである。この寺院跡は「国見山廃寺跡」の名称で国の史跡に指定されている。『日本文徳天皇実録』の天安元年(857年)条に「陸奥国極楽寺、定額寺に預かり」云々の記述があり、この「極楽寺」は国見山廃寺を指すものと推定されている[2][3]。この寺は平安時代初期の9世紀に創建され、発掘調査の結果から、10 - 11世紀に最盛期を迎えたと推定される。伝承では、坂上田村麻呂が異敵降伏のため毘沙門天を祀ったのが始まりであるという。
国見山南麓の谷奥には極楽寺の寺号を継承する小寺院が残っている。また極楽寺の近くにある如意輪寺、国見山北麓の立花毘沙門堂(万福寺)もかつての極楽寺の坊舎の跡と考えられている。立花毘沙門堂には木造毘沙門天立像と木造二天像(いずれも国の重要文化財)が安置されている。

文化財
重要文化財(国指定)
銅竜頭 4頭
銅錫杖頭(どう しゃくじょうとう)1柄
上記2件は極楽寺の所蔵で、平安時代の作である。

所在地 岩手県北上市稲瀬町内門岡30
位置 北緯39度15分45.3秒 東経141度8分23.8秒
山号 国見山
宗派 真言宗智山派
本尊 阿弥陀如来
創建年 850年
札所等 岩手三十三観音霊場一番札所 江刺三十三観音霊場一番札所
文化財 銅竜頭 4頭、銅錫杖頭(重要文化財)
2024年04月03日
佐竹寺(さたけじ)は、茨城県常陸太田市にある真言宗豊山派の寺院
佐竹寺(さたけじ)は、茨城県常陸太田市にある真言宗豊山派の寺院である。山号は妙福山、院号は明音院。本尊は十一面観世音菩薩で、坂東三十三観音霊場の二十二番札所となっている。
本尊真言:おん まか きゃろにきゃ そわか
ご詠歌:ひとふしに千代をこめたる佐竹寺 かすみがくれに見ゆるむらまつ

本堂(重要文化財)
歴史
寺記によれば大同2年(807年)徳一の開創とされるが、坂東霊場記では寛和元年(985年)に板東巡礼中の花山院が、随行の元蜜上人に聖徳太子作の十一面観音像を与えて建立させたとされている。建立当時は観音寺と呼ばれ、現在地の北西、稲村神社の北の洞崎の峰にあった。
源義光の孫の源昌義は、寺領を寄進し祈願所とした。昌義はこの寺で節が1つしかない竹を見つけ、これを瑞兆とし、佐竹氏を称したとされる。天文12年(1543年)に兵火により焼失するが、天文15年(1546年)に佐竹氏18代佐竹義昭が佐竹城(太田城)の鬼門除けとして現在地に再建した。最盛期には六支院と三ヶ坊を有したが、関ヶ原の戦いの後、佐竹氏が出羽に移封されたことにより衰退する。それでも、江戸時代は坂東三十三観音霊場の二十二番札所としての賑わいがあったが、明治に入っての廃仏毀釈より荒廃し、昭和24年(1949年)まで無住の寺であった。

境内
建造物
往時をしのぶ建物は本堂のみである。寺院本堂には珍しく北向きに建てられている。本堂は寄棟造、茅葺で、主屋の周囲にこけら葺の裳階(もこし)をめぐらし、正面には唐破風がつく。窓や柱、梁などに桃山建築につながる意匠が見られ、1906年に国の重要文化財に指定された。
山門(仁王門)は昭和15年(1940年)の再建だが、安置されている金剛力士(仁王)像は宝永年間の作とされている。ただし、現在仁王像は修復の為別の場所にあり、 塗装修復が終わった山門のみが見られる。
寺務所は山門を入って右側にあり、納経所も兼ねる。

山門
文化財
重要文化財(国指定)
本堂 - 室町時代後期(1467年-1572年)の建立。桁行五間、梁間五間、一重もこし付、寄棟造、茅葺、もこし正面中央一間唐破風付、こけら葺。明治39年(1906年)04月14日指定。
所在地
茨城県常陸太田市天神林町2404
水郡線(JR東日本)常陸太田駅から茨城交通バス、天神下車(ただし本数が少ないのでタクシーを利用するのが無難)
水郡線常陸太田駅から徒歩30分。
境内散策は自由
位置 北緯36度31分33.7秒 東経140度30分16.8秒
山号 妙福山
宗派 真言宗豊山派
本尊 十一面観世音菩薩
創建年 1.伝・大同2年(807年)
2.伝・寛和元年(985年)
開基 1.伝・徳一
2.伝・花山院、元蜜上人(開山)
正式名 妙福山 明音院 佐竹寺
札所等 坂東三十三観音22番
文化財 本堂(重要文化財)
本尊真言:おん まか きゃろにきゃ そわか
ご詠歌:ひとふしに千代をこめたる佐竹寺 かすみがくれに見ゆるむらまつ
本堂(重要文化財)
歴史
寺記によれば大同2年(807年)徳一の開創とされるが、坂東霊場記では寛和元年(985年)に板東巡礼中の花山院が、随行の元蜜上人に聖徳太子作の十一面観音像を与えて建立させたとされている。建立当時は観音寺と呼ばれ、現在地の北西、稲村神社の北の洞崎の峰にあった。
源義光の孫の源昌義は、寺領を寄進し祈願所とした。昌義はこの寺で節が1つしかない竹を見つけ、これを瑞兆とし、佐竹氏を称したとされる。天文12年(1543年)に兵火により焼失するが、天文15年(1546年)に佐竹氏18代佐竹義昭が佐竹城(太田城)の鬼門除けとして現在地に再建した。最盛期には六支院と三ヶ坊を有したが、関ヶ原の戦いの後、佐竹氏が出羽に移封されたことにより衰退する。それでも、江戸時代は坂東三十三観音霊場の二十二番札所としての賑わいがあったが、明治に入っての廃仏毀釈より荒廃し、昭和24年(1949年)まで無住の寺であった。
境内
建造物
往時をしのぶ建物は本堂のみである。寺院本堂には珍しく北向きに建てられている。本堂は寄棟造、茅葺で、主屋の周囲にこけら葺の裳階(もこし)をめぐらし、正面には唐破風がつく。窓や柱、梁などに桃山建築につながる意匠が見られ、1906年に国の重要文化財に指定された。
山門(仁王門)は昭和15年(1940年)の再建だが、安置されている金剛力士(仁王)像は宝永年間の作とされている。ただし、現在仁王像は修復の為別の場所にあり、 塗装修復が終わった山門のみが見られる。
寺務所は山門を入って右側にあり、納経所も兼ねる。
山門
文化財
重要文化財(国指定)
本堂 - 室町時代後期(1467年-1572年)の建立。桁行五間、梁間五間、一重もこし付、寄棟造、茅葺、もこし正面中央一間唐破風付、こけら葺。明治39年(1906年)04月14日指定。
所在地
茨城県常陸太田市天神林町2404
水郡線(JR東日本)常陸太田駅から茨城交通バス、天神下車(ただし本数が少ないのでタクシーを利用するのが無難)
水郡線常陸太田駅から徒歩30分。
境内散策は自由
位置 北緯36度31分33.7秒 東経140度30分16.8秒
山号 妙福山
宗派 真言宗豊山派
本尊 十一面観世音菩薩
創建年 1.伝・大同2年(807年)
2.伝・寛和元年(985年)
開基 1.伝・徳一
2.伝・花山院、元蜜上人(開山)
正式名 妙福山 明音院 佐竹寺
札所等 坂東三十三観音22番
文化財 本堂(重要文化財)