釣島灯台(つるしまとうだい)は愛媛県松山市の瀬戸内海の安芸灘・伊予灘間を通じる重要航路釣島水道中にある釣島に立つ石造の灯台。1873年、「灯台の父」と呼ばれるリチャード・ヘンリー・ブラントンの設計により、倉橋島産などの御影石を用いて築造された。国の重要文化財に指定されている。
この灯台は、歴史的文化財的価値が高いAランクの保存灯台である。周辺は瀬戸内海国立公園に指定され、灯台からは瀬戸内海を航行する多数の船を望むことができる。2009年に経済産業省の「近代化産業遺産」に認定された。吏員退息所及び倉庫は1995年に松山市指定有形文化財に指定されている。
歴史
1871年(明治4年)9月に着工。
1873年(明治6年)6月15日に初点灯したが、2年近くの工期を費やした。かの、「灯台の父」と呼ばれる英国人リチャード・ヘンリー・ブラントンの設計によるもの。
1954年(昭和29年)、日本各地で核実験由来の放射性物質を含む降雨が観測される。飲料水を天水に頼っていた灯台関係者に放射線障害が出る。
1963年(昭和38年)4月から、無人化される。
1995年(平成7年)1月、松山市が旧灯台官舎・倉庫の土地と建物の払い下げを受ける。
1997年(平成9年)10月、旧灯台官舎・倉庫の保存整備工事竣工。
2017年(平成29年)9月、日本ロマンチスト協会より県内2カ所目の「恋する灯台」に認定。
航路標識番号
[国際標識番号] 4901 [M5436]
位置 北緯33度53分34.82秒 東経132度38分19.48秒
所在地 愛媛県松山市泊町1433番地
(釣島)
塗色・構造 白色 塔形 石造
レンズ LB 40cm灯器
灯質 不動白赤互光
白8秒赤8秒[AlFlWR16s]
実効光度 白光310,000 cd
赤光120,000 cd
光達距離 白光20.5海里(約38km)
明弧 7度から250度まで
塔高 10.3 m (地上 - 塔頂)
灯火標高 58.2 m (平均海面 - 灯火)
初点灯 1873年(明治6年)6月15日
管轄 海上保安庁
第六管区海上保安本部
松山海上保安部
2024年04月05日
昌光律寺(しょうこうりつじ)は、愛知県岡崎市伊賀町にある浄土宗の寺院
昌光律寺(しょうこうりつじ)は、愛知県岡崎市伊賀町にある浄土宗の寺院。山号は大恩山。本尊は阿弥陀如来。
概要
越中国井波出身で江戸の増上寺で修学した徳厳は、戒律の復興をとなえ三河を訪れた。当初貞照院にいたが、1752年(宝暦2年)に当地に隠棲した。そして1763年(宝暦13年)、伊賀八幡宮神主柴田勝興に請われ研修道場として松林院に移り、1765年(明和2年)、庵室を改築して昌光律寺を創建した。
連尺町の成田薫左衛門剛寛の孫、第7代万空は、詩文をもって月僊や菅茶山、頼山陽、岡本花亭らと交わった。とくに伊勢国山田の月僊(1741年 - 1809年)はたびたび来訪し、障屏画76面、仏涅槃図など仏画20幅、屏風1双、画帖5帖を残した。
明治大正期の昌光律寺の僧、伊藤徹門は「福は和を求め、和は福を求む」という言葉を提唱した。この言葉にちなんでつくられた「福和もち」はかつて岡崎市で銘菓としてもてはやされた。
交通手段
名鉄バス・大樹寺方面「八幡社前」バス停下車、バス停のすぐ横にある。
所在地 愛知県岡崎市伊賀町南郷中69
位置 北緯34度58分11.44秒 東経137度09分56.55秒
山号 大恩山
宗派 浄土宗
本尊 阿弥陀如来
創建年 1765年(明和2年)
文化財 鉦鼓用引架(重要文化財)
僧月僊作品群(県指定文化財)
概要
越中国井波出身で江戸の増上寺で修学した徳厳は、戒律の復興をとなえ三河を訪れた。当初貞照院にいたが、1752年(宝暦2年)に当地に隠棲した。そして1763年(宝暦13年)、伊賀八幡宮神主柴田勝興に請われ研修道場として松林院に移り、1765年(明和2年)、庵室を改築して昌光律寺を創建した。
連尺町の成田薫左衛門剛寛の孫、第7代万空は、詩文をもって月僊や菅茶山、頼山陽、岡本花亭らと交わった。とくに伊勢国山田の月僊(1741年 - 1809年)はたびたび来訪し、障屏画76面、仏涅槃図など仏画20幅、屏風1双、画帖5帖を残した。
明治大正期の昌光律寺の僧、伊藤徹門は「福は和を求め、和は福を求む」という言葉を提唱した。この言葉にちなんでつくられた「福和もち」はかつて岡崎市で銘菓としてもてはやされた。
交通手段
名鉄バス・大樹寺方面「八幡社前」バス停下車、バス停のすぐ横にある。
所在地 愛知県岡崎市伊賀町南郷中69
位置 北緯34度58分11.44秒 東経137度09分56.55秒
山号 大恩山
宗派 浄土宗
本尊 阿弥陀如来
創建年 1765年(明和2年)
文化財 鉦鼓用引架(重要文化財)
僧月僊作品群(県指定文化財)
2024年04月04日
極楽寺(ごくらくじ)は、岩手県北上市稲瀬町(旧江刺郡)にある真言宗智山派の寺院
極楽寺(ごくらくじ)は、岩手県北上市稲瀬町(旧江刺郡)にある真言宗智山派の寺院、および、その前身で平安時代に現在の国見山一帯に栄えた山岳仏教寺院。山号は国見山または金福山。
概要
北上市街地の東方、北上川東岸の国見山(244メートル)の山上および山麓一帯には仏堂や仏塔の遺跡が散在し、かつてこの地域に大規模な仏教伽藍の存在したことが明らかである。この寺院跡は「国見山廃寺跡」の名称で国の史跡に指定されている。『日本文徳天皇実録』の天安元年(857年)条に「陸奥国極楽寺、定額寺に預かり」云々の記述があり、この「極楽寺」は国見山廃寺を指すものと推定されている[2][3]。この寺は平安時代初期の9世紀に創建され、発掘調査の結果から、10 - 11世紀に最盛期を迎えたと推定される。伝承では、坂上田村麻呂が異敵降伏のため毘沙門天を祀ったのが始まりであるという。
国見山南麓の谷奥には極楽寺の寺号を継承する小寺院が残っている。また極楽寺の近くにある如意輪寺、国見山北麓の立花毘沙門堂(万福寺)もかつての極楽寺の坊舎の跡と考えられている。立花毘沙門堂には木造毘沙門天立像と木造二天像(いずれも国の重要文化財)が安置されている。
文化財
重要文化財(国指定)
銅竜頭 4頭
銅錫杖頭(どう しゃくじょうとう)1柄
上記2件は極楽寺の所蔵で、平安時代の作である。
所在地 岩手県北上市稲瀬町内門岡30
位置 北緯39度15分45.3秒 東経141度8分23.8秒
山号 国見山
宗派 真言宗智山派
本尊 阿弥陀如来
創建年 850年
札所等 岩手三十三観音霊場一番札所 江刺三十三観音霊場一番札所
文化財 銅竜頭 4頭、銅錫杖頭(重要文化財)
概要
北上市街地の東方、北上川東岸の国見山(244メートル)の山上および山麓一帯には仏堂や仏塔の遺跡が散在し、かつてこの地域に大規模な仏教伽藍の存在したことが明らかである。この寺院跡は「国見山廃寺跡」の名称で国の史跡に指定されている。『日本文徳天皇実録』の天安元年(857年)条に「陸奥国極楽寺、定額寺に預かり」云々の記述があり、この「極楽寺」は国見山廃寺を指すものと推定されている[2][3]。この寺は平安時代初期の9世紀に創建され、発掘調査の結果から、10 - 11世紀に最盛期を迎えたと推定される。伝承では、坂上田村麻呂が異敵降伏のため毘沙門天を祀ったのが始まりであるという。
国見山南麓の谷奥には極楽寺の寺号を継承する小寺院が残っている。また極楽寺の近くにある如意輪寺、国見山北麓の立花毘沙門堂(万福寺)もかつての極楽寺の坊舎の跡と考えられている。立花毘沙門堂には木造毘沙門天立像と木造二天像(いずれも国の重要文化財)が安置されている。
文化財
重要文化財(国指定)
銅竜頭 4頭
銅錫杖頭(どう しゃくじょうとう)1柄
上記2件は極楽寺の所蔵で、平安時代の作である。
所在地 岩手県北上市稲瀬町内門岡30
位置 北緯39度15分45.3秒 東経141度8分23.8秒
山号 国見山
宗派 真言宗智山派
本尊 阿弥陀如来
創建年 850年
札所等 岩手三十三観音霊場一番札所 江刺三十三観音霊場一番札所
文化財 銅竜頭 4頭、銅錫杖頭(重要文化財)
2024年04月03日
佐竹寺(さたけじ)は、茨城県常陸太田市にある真言宗豊山派の寺院
佐竹寺(さたけじ)は、茨城県常陸太田市にある真言宗豊山派の寺院である。山号は妙福山、院号は明音院。本尊は十一面観世音菩薩で、坂東三十三観音霊場の二十二番札所となっている。
本尊真言:おん まか きゃろにきゃ そわか
ご詠歌:ひとふしに千代をこめたる佐竹寺 かすみがくれに見ゆるむらまつ
本堂(重要文化財)
歴史
寺記によれば大同2年(807年)徳一の開創とされるが、坂東霊場記では寛和元年(985年)に板東巡礼中の花山院が、随行の元蜜上人に聖徳太子作の十一面観音像を与えて建立させたとされている。建立当時は観音寺と呼ばれ、現在地の北西、稲村神社の北の洞崎の峰にあった。
源義光の孫の源昌義は、寺領を寄進し祈願所とした。昌義はこの寺で節が1つしかない竹を見つけ、これを瑞兆とし、佐竹氏を称したとされる。天文12年(1543年)に兵火により焼失するが、天文15年(1546年)に佐竹氏18代佐竹義昭が佐竹城(太田城)の鬼門除けとして現在地に再建した。最盛期には六支院と三ヶ坊を有したが、関ヶ原の戦いの後、佐竹氏が出羽に移封されたことにより衰退する。それでも、江戸時代は坂東三十三観音霊場の二十二番札所としての賑わいがあったが、明治に入っての廃仏毀釈より荒廃し、昭和24年(1949年)まで無住の寺であった。
境内
建造物
往時をしのぶ建物は本堂のみである。寺院本堂には珍しく北向きに建てられている。本堂は寄棟造、茅葺で、主屋の周囲にこけら葺の裳階(もこし)をめぐらし、正面には唐破風がつく。窓や柱、梁などに桃山建築につながる意匠が見られ、1906年に国の重要文化財に指定された。
山門(仁王門)は昭和15年(1940年)の再建だが、安置されている金剛力士(仁王)像は宝永年間の作とされている。ただし、現在仁王像は修復の為別の場所にあり、 塗装修復が終わった山門のみが見られる。
寺務所は山門を入って右側にあり、納経所も兼ねる。
山門
文化財
重要文化財(国指定)
本堂 - 室町時代後期(1467年-1572年)の建立。桁行五間、梁間五間、一重もこし付、寄棟造、茅葺、もこし正面中央一間唐破風付、こけら葺。明治39年(1906年)04月14日指定。
所在地
茨城県常陸太田市天神林町2404
水郡線(JR東日本)常陸太田駅から茨城交通バス、天神下車(ただし本数が少ないのでタクシーを利用するのが無難)
水郡線常陸太田駅から徒歩30分。
境内散策は自由
位置 北緯36度31分33.7秒 東経140度30分16.8秒
山号 妙福山
宗派 真言宗豊山派
本尊 十一面観世音菩薩
創建年 1.伝・大同2年(807年)
2.伝・寛和元年(985年)
開基 1.伝・徳一
2.伝・花山院、元蜜上人(開山)
正式名 妙福山 明音院 佐竹寺
札所等 坂東三十三観音22番
文化財 本堂(重要文化財)
本尊真言:おん まか きゃろにきゃ そわか
ご詠歌:ひとふしに千代をこめたる佐竹寺 かすみがくれに見ゆるむらまつ
本堂(重要文化財)
歴史
寺記によれば大同2年(807年)徳一の開創とされるが、坂東霊場記では寛和元年(985年)に板東巡礼中の花山院が、随行の元蜜上人に聖徳太子作の十一面観音像を与えて建立させたとされている。建立当時は観音寺と呼ばれ、現在地の北西、稲村神社の北の洞崎の峰にあった。
源義光の孫の源昌義は、寺領を寄進し祈願所とした。昌義はこの寺で節が1つしかない竹を見つけ、これを瑞兆とし、佐竹氏を称したとされる。天文12年(1543年)に兵火により焼失するが、天文15年(1546年)に佐竹氏18代佐竹義昭が佐竹城(太田城)の鬼門除けとして現在地に再建した。最盛期には六支院と三ヶ坊を有したが、関ヶ原の戦いの後、佐竹氏が出羽に移封されたことにより衰退する。それでも、江戸時代は坂東三十三観音霊場の二十二番札所としての賑わいがあったが、明治に入っての廃仏毀釈より荒廃し、昭和24年(1949年)まで無住の寺であった。
境内
建造物
往時をしのぶ建物は本堂のみである。寺院本堂には珍しく北向きに建てられている。本堂は寄棟造、茅葺で、主屋の周囲にこけら葺の裳階(もこし)をめぐらし、正面には唐破風がつく。窓や柱、梁などに桃山建築につながる意匠が見られ、1906年に国の重要文化財に指定された。
山門(仁王門)は昭和15年(1940年)の再建だが、安置されている金剛力士(仁王)像は宝永年間の作とされている。ただし、現在仁王像は修復の為別の場所にあり、 塗装修復が終わった山門のみが見られる。
寺務所は山門を入って右側にあり、納経所も兼ねる。
山門
文化財
重要文化財(国指定)
本堂 - 室町時代後期(1467年-1572年)の建立。桁行五間、梁間五間、一重もこし付、寄棟造、茅葺、もこし正面中央一間唐破風付、こけら葺。明治39年(1906年)04月14日指定。
所在地
茨城県常陸太田市天神林町2404
水郡線(JR東日本)常陸太田駅から茨城交通バス、天神下車(ただし本数が少ないのでタクシーを利用するのが無難)
水郡線常陸太田駅から徒歩30分。
境内散策は自由
位置 北緯36度31分33.7秒 東経140度30分16.8秒
山号 妙福山
宗派 真言宗豊山派
本尊 十一面観世音菩薩
創建年 1.伝・大同2年(807年)
2.伝・寛和元年(985年)
開基 1.伝・徳一
2.伝・花山院、元蜜上人(開山)
正式名 妙福山 明音院 佐竹寺
札所等 坂東三十三観音22番
文化財 本堂(重要文化財)
2024年04月02日
太宰治記念館 「斜陽館」(だざいおさむきねんかん しゃようかん)は、青森県五所川原市にある小説家太宰治の生家
太宰治記念館 「斜陽館」(だざいおさむきねんかん しゃようかん)は、青森県五所川原市にある小説家太宰治の生家。現在は、五所川原市太宰治記念館「斜陽館」として、五所川原市立の施設となっている。また、近代和風住宅の代表例として2004年(平成16年)国の重要文化財に指定されている。
概要
建物は1907年(明治40年)に太宰の父で衆議院議員であった津島源右衛門によって立てられたもの。当時の住所は青森県北津軽郡金木村。
太宰が中学進学に伴い1923年(大正12年)に青森市へ転居するまでこの家で暮らした。東京へ出た後、共産党の非合法活動に協力したり、何度か心中を繰り返したため郷里から勘当された。勘気を許されてこの家に戻る事が許されたのは、1942年(昭和17年)に太宰の母タネが亡くなった後である。その後1945年(昭和20年)、太宰は戦況悪化に伴い妻子を連れて疎開。翌年までこの地にとどまり、文筆活動を続ける。小説『思ひ出』や『津軽』等には太宰がこの家に対して抱いたイメージが記されている。
太宰の死後1950年(昭和25年)に津島家はこの家を売却[1]。町内の旅館経営者が買収し太宰治文学記念館を併設した旅館として改装され太宰の小説『斜陽』から「斜陽館」と命名された[1]。1950年から営業をはじめた旅館「斜陽館」は太宰ファンが多く宿泊に訪れており、中には喫茶店も併設されていた。また文学記念館は宿泊者以外にも公開され、多くの太宰ファンでにぎわった。
しかし、1988年(昭和63年)ごろから宿泊客が減少し、さらに1990年(平成2年)に所得税の申告漏れにより1億円あまりの追徴課税を受けたため経営が悪化。これにより、経営者が手放す旨を発表した。これに対して、1996年(平成8年)金木町(当時)は経営者から斜陽館を買い取り、町営の文学記念館として再出発することになった。旅館は1996年4月7日に廃業し、1998年(平成10年)、名称が現在の《太宰治記念館 「斜陽館」》と改められて改装オープンした。新しく改装された斜陽館では従来のような宿泊は出来なくなったものの太宰の文学資料、また昭和初期の大地主であった津島家の貴重な資料を展示する資料館として多くの観光客、太宰ファンが訪れている。
文化財
重要文化財
旧津島家住宅
主屋 附:棟札1枚
文庫蔵 附:棟札1枚
中の蔵
米蔵
煉瓦塀(2棟)
土地 2,255.55平方メートル
交通アクセス
津軽鉄道線金木駅下車、徒歩約7分。
弘南バス小泊線「斜陽館前」下車。
所在地 青森県五所川原市金木町朝日山412-1
位置 北緯40度54分9.36秒 東経140度27分19.41秒
類型 大地主邸宅
形式・構造 木造2階建、入母屋造、和洋折衷建築
敷地面積 2255.55m2
延床面積 1302.48m2
建築年 1907年(明治40年)
文化財 国の重要文化財
概要
建物は1907年(明治40年)に太宰の父で衆議院議員であった津島源右衛門によって立てられたもの。当時の住所は青森県北津軽郡金木村。
太宰が中学進学に伴い1923年(大正12年)に青森市へ転居するまでこの家で暮らした。東京へ出た後、共産党の非合法活動に協力したり、何度か心中を繰り返したため郷里から勘当された。勘気を許されてこの家に戻る事が許されたのは、1942年(昭和17年)に太宰の母タネが亡くなった後である。その後1945年(昭和20年)、太宰は戦況悪化に伴い妻子を連れて疎開。翌年までこの地にとどまり、文筆活動を続ける。小説『思ひ出』や『津軽』等には太宰がこの家に対して抱いたイメージが記されている。
太宰の死後1950年(昭和25年)に津島家はこの家を売却[1]。町内の旅館経営者が買収し太宰治文学記念館を併設した旅館として改装され太宰の小説『斜陽』から「斜陽館」と命名された[1]。1950年から営業をはじめた旅館「斜陽館」は太宰ファンが多く宿泊に訪れており、中には喫茶店も併設されていた。また文学記念館は宿泊者以外にも公開され、多くの太宰ファンでにぎわった。
しかし、1988年(昭和63年)ごろから宿泊客が減少し、さらに1990年(平成2年)に所得税の申告漏れにより1億円あまりの追徴課税を受けたため経営が悪化。これにより、経営者が手放す旨を発表した。これに対して、1996年(平成8年)金木町(当時)は経営者から斜陽館を買い取り、町営の文学記念館として再出発することになった。旅館は1996年4月7日に廃業し、1998年(平成10年)、名称が現在の《太宰治記念館 「斜陽館」》と改められて改装オープンした。新しく改装された斜陽館では従来のような宿泊は出来なくなったものの太宰の文学資料、また昭和初期の大地主であった津島家の貴重な資料を展示する資料館として多くの観光客、太宰ファンが訪れている。
文化財
重要文化財
旧津島家住宅
主屋 附:棟札1枚
文庫蔵 附:棟札1枚
中の蔵
米蔵
煉瓦塀(2棟)
土地 2,255.55平方メートル
交通アクセス
津軽鉄道線金木駅下車、徒歩約7分。
弘南バス小泊線「斜陽館前」下車。
所在地 青森県五所川原市金木町朝日山412-1
位置 北緯40度54分9.36秒 東経140度27分19.41秒
類型 大地主邸宅
形式・構造 木造2階建、入母屋造、和洋折衷建築
敷地面積 2255.55m2
延床面積 1302.48m2
建築年 1907年(明治40年)
文化財 国の重要文化財
2024年04月01日
秋田県護国神社(あきたけんごこくじんじゃ)は、秋田県秋田市にある神社(護国神社)
秋田県護国神社(あきたけんごこくじんじゃ)は、秋田県秋田市にある神社(護国神社)。秋田県下の戦没者および伊弉諾尊・伊弉冉尊を祀る。
歴史
明治2年(1869年)、秋田藩主佐竹義堯が戊辰戦争に殉じた官軍戦没者425柱を高清水丘に祀ったのが起源である。明治26年(1893年)に焼失するが、明治32年(1899年)、秋田市千秋公園(久保田城址)に再建され、秋田県出身の軍人・軍属を合祀して秋田招魂社と称した。昭和14年(1939年)、内務大臣指定護国神社として秋田県護国神社に改称し、翌年、旧秋田城址である現在地に遷座した。第二次大戦後の一時期、「軍国主義施設」として廃止されるのを防ぐ目的で、鎮座地名に因んで高清水宮と称し、伊弉諾尊・伊弉冉尊を合祀してこちらが主祭神ということにした。
戦後は県に関係した軍人、軍属の霊を合祀している。現在、ほとんどの戦没者の合祀が完了し、祭神の数は38,000余柱となる。
平成2年(1990年)7月9日、即位の礼に反対する中核派のテロにより当社社殿にしかけられた2つの時限爆弾が爆発し、社殿は全焼した(大嘗祭のための神饌を収獲する神田が秋田県内に選定されていたことが関係していると見られている)。しかし、本殿内に安置されていた神体および霊璽簿は無傷であった。社殿は平成4年9月に再建された。
祭礼
例祭は春4月29日、秋と10月24日の年二回行なわれている。
交通
鉄道
最寄駅:土崎駅
バス
「護国神社入り口」または「護国神社裏参道」バス停(秋田駅から将軍野線・寺内経由土崎線など)
秋田中央交通
その他
駐車場 : 有り
その他
桜の名所であり、例年春の例祭の頃ちょうど満開を迎える。
所在地 秋田県秋田市寺内大畑5-3
位置 北緯39度44分27秒 東経140度04分44秒
主祭神 国事殉難者
伊弉諾尊
伊弉冉尊
社格等 内務大臣指定護国神社・別表神社
創建 明治2年(1869年)
例祭 4月29日・10月24日
歴史
明治2年(1869年)、秋田藩主佐竹義堯が戊辰戦争に殉じた官軍戦没者425柱を高清水丘に祀ったのが起源である。明治26年(1893年)に焼失するが、明治32年(1899年)、秋田市千秋公園(久保田城址)に再建され、秋田県出身の軍人・軍属を合祀して秋田招魂社と称した。昭和14年(1939年)、内務大臣指定護国神社として秋田県護国神社に改称し、翌年、旧秋田城址である現在地に遷座した。第二次大戦後の一時期、「軍国主義施設」として廃止されるのを防ぐ目的で、鎮座地名に因んで高清水宮と称し、伊弉諾尊・伊弉冉尊を合祀してこちらが主祭神ということにした。
戦後は県に関係した軍人、軍属の霊を合祀している。現在、ほとんどの戦没者の合祀が完了し、祭神の数は38,000余柱となる。
平成2年(1990年)7月9日、即位の礼に反対する中核派のテロにより当社社殿にしかけられた2つの時限爆弾が爆発し、社殿は全焼した(大嘗祭のための神饌を収獲する神田が秋田県内に選定されていたことが関係していると見られている)。しかし、本殿内に安置されていた神体および霊璽簿は無傷であった。社殿は平成4年9月に再建された。
祭礼
例祭は春4月29日、秋と10月24日の年二回行なわれている。
交通
鉄道
最寄駅:土崎駅
バス
「護国神社入り口」または「護国神社裏参道」バス停(秋田駅から将軍野線・寺内経由土崎線など)
秋田中央交通
その他
駐車場 : 有り
その他
桜の名所であり、例年春の例祭の頃ちょうど満開を迎える。
所在地 秋田県秋田市寺内大畑5-3
位置 北緯39度44分27秒 東経140度04分44秒
主祭神 国事殉難者
伊弉諾尊
伊弉冉尊
社格等 内務大臣指定護国神社・別表神社
創建 明治2年(1869年)
例祭 4月29日・10月24日
2024年03月31日
小松天満宮(こまつてんまんぐう)は、石川県小松市天神町に所在する神社
小松天満宮(こまつてんまんぐう)は、石川県小松市天神町に所在する神社。前田家ゆかりの創建当初からの社殿等は重要文化財や石川県指定有形文化財に指定されている。
概要
創建は1657年(明暦3年)。加賀藩二代目当主の前田利常公が小松城に穩居にされる際、城北にあたるこの地に前田家の氏神としてお祭りする菅原道真公を鎭祭したのが小松天満宮のはじまりである。
小松天満宮は、守山城、金沢城、妙立寺(忍者寺)、小松天満宮、小松城はこの鬼門線上にあり小松天満宮は加賀藩にとって重要な守護神であった。
「おくのほそ道」などの俳諧で有名な松尾芭蕉が小松天満宮に巡行した際に“あかあかと日はつれなくも秋の風”の句碑が残っている。
文化財
小松天満宮(別名梅林院)は前田家の祖菅原道真公を祭る北野天満宮を4分の1に縮尺して建てられた。当社はその創建の由来からみても前田家代々の尊崇が篤く、祭神が文学の神と仰がれたことと、神仏習合であった江戸時代の初代別当が近世を通じて連歌の第一人者であったこともあって、絵画、書蹟、文書、典籍寺貴重なものが多く宝物殿に保管してある。
重要文化財
本殿
石の間
幣殿及び拝殿
神門
所在地 石川県小松市天神町1
位置 北緯36度24分57秒 東経136度26分55秒
主祭神 菅原道真
前田利常
白太夫神
応神天皇
創建 1657年(明暦3年)
本殿の様式 唐様建築
別名 梅林院
概要
創建は1657年(明暦3年)。加賀藩二代目当主の前田利常公が小松城に穩居にされる際、城北にあたるこの地に前田家の氏神としてお祭りする菅原道真公を鎭祭したのが小松天満宮のはじまりである。
小松天満宮は、守山城、金沢城、妙立寺(忍者寺)、小松天満宮、小松城はこの鬼門線上にあり小松天満宮は加賀藩にとって重要な守護神であった。
「おくのほそ道」などの俳諧で有名な松尾芭蕉が小松天満宮に巡行した際に“あかあかと日はつれなくも秋の風”の句碑が残っている。
文化財
小松天満宮(別名梅林院)は前田家の祖菅原道真公を祭る北野天満宮を4分の1に縮尺して建てられた。当社はその創建の由来からみても前田家代々の尊崇が篤く、祭神が文学の神と仰がれたことと、神仏習合であった江戸時代の初代別当が近世を通じて連歌の第一人者であったこともあって、絵画、書蹟、文書、典籍寺貴重なものが多く宝物殿に保管してある。
重要文化財
本殿
石の間
幣殿及び拝殿
神門
所在地 石川県小松市天神町1
位置 北緯36度24分57秒 東経136度26分55秒
主祭神 菅原道真
前田利常
白太夫神
応神天皇
創建 1657年(明暦3年)
本殿の様式 唐様建築
別名 梅林院
2024年03月30日
大宮熱田神社(おおみやあつたじんじゃ)は、長野県松本市(旧南安曇郡梓川村)にある神社
大宮熱田神社(おおみやあつたじんじゃ)は、長野県松本市(旧南安曇郡梓川村)にある神社(旧県社)。
概要
信濃国安曇郡西牧郷の大宮であり、梓川の水の守護神として本神山(男体山)山頂に梓川大神を祭神として奉斎された。後に熱田神宮から迎えた熱田大神、近くに祀られていた天照大神と八幡大神なども奉斎された。後に現在の地に遷座し、同時に合祀されたものが現在の神社である。安政2年(1855年)から現在の社名となった。
境内にあるモミの木は県下一のモミの巨木であるといわれる。
例祭は毎年4月28日、29日に行われ獅子舞が奉納される。
祭神
天照大神
梓水大神
日本武尊
須佐之男命
宮篔姫命
建稲神命
応神天皇
神功皇后
三柱比古命
熱田大神
八幡大神
札所
信州七福神恵比寿様
文化財
重要文化財(国指定)
本殿 - 室町時代建立の一間社流造
若宮八幡宮本殿 - 室町時代
長野県天然記念物
モミの巨木-樹高43米、幹囲6.3m、樹齢600年
所在地 長野県松本市梓川梓4419
位置 北緯36度13分51.77秒 東経137度50分43.55秒
主祭神 天照大神、梓水大神、日本武尊ほか
社格等 県社
例祭 毎年4月28日・29日
概要
信濃国安曇郡西牧郷の大宮であり、梓川の水の守護神として本神山(男体山)山頂に梓川大神を祭神として奉斎された。後に熱田神宮から迎えた熱田大神、近くに祀られていた天照大神と八幡大神なども奉斎された。後に現在の地に遷座し、同時に合祀されたものが現在の神社である。安政2年(1855年)から現在の社名となった。
境内にあるモミの木は県下一のモミの巨木であるといわれる。
例祭は毎年4月28日、29日に行われ獅子舞が奉納される。
祭神
天照大神
梓水大神
日本武尊
須佐之男命
宮篔姫命
建稲神命
応神天皇
神功皇后
三柱比古命
熱田大神
八幡大神
札所
信州七福神恵比寿様
文化財
重要文化財(国指定)
本殿 - 室町時代建立の一間社流造
若宮八幡宮本殿 - 室町時代
長野県天然記念物
モミの巨木-樹高43米、幹囲6.3m、樹齢600年
所在地 長野県松本市梓川梓4419
位置 北緯36度13分51.77秒 東経137度50分43.55秒
主祭神 天照大神、梓水大神、日本武尊ほか
社格等 県社
例祭 毎年4月28日・29日
2024年03月29日
大法寺(だいほうじ)は、富山県高岡市にある日蓮宗の寺院
大法寺(だいほうじ)は、富山県高岡市にある日蓮宗の寺院。山号は、海秀山。旧本山は大本山本圀寺(六条門流)。潮師法縁。
歴史
享徳3年(1454年)、栄昌院日能(妙勝院日曉の弟子)が越中国開教の拠点として創建。
明治10年(1877年)の高岡大火で焼失後再建。
文化財
重要文化財
紙本著色一塔両尊像・紙本著色日蓮像・紙本著色鬼子母神十羅刹女像・絹本著色三十番神像(4幅一括指定)
以上の4幅の仏画は日蓮宗の本尊像・祖師像・護法神像である。いずれも長谷川等伯の作で、等伯が上洛する前、故郷の能登で長谷川信春と名乗っていた時の作品である。三十番神像は永禄9年(1566年)、他の3幅は永禄7年(1564年)の作。
所在地 富山県高岡市利屋町67
位置 北緯36度44分48.041秒 東経137度0分26.788秒
山号 海秀山
宗旨 日蓮宗
文化財 紙本著色一塔両尊像・紙本著色日蓮像・紙本著色鬼子母神十羅刹女像・絹本著色三十番神像(重要文化財)
歴史
享徳3年(1454年)、栄昌院日能(妙勝院日曉の弟子)が越中国開教の拠点として創建。
明治10年(1877年)の高岡大火で焼失後再建。
文化財
重要文化財
紙本著色一塔両尊像・紙本著色日蓮像・紙本著色鬼子母神十羅刹女像・絹本著色三十番神像(4幅一括指定)
以上の4幅の仏画は日蓮宗の本尊像・祖師像・護法神像である。いずれも長谷川等伯の作で、等伯が上洛する前、故郷の能登で長谷川信春と名乗っていた時の作品である。三十番神像は永禄9年(1566年)、他の3幅は永禄7年(1564年)の作。
所在地 富山県高岡市利屋町67
位置 北緯36度44分48.041秒 東経137度0分26.788秒
山号 海秀山
宗旨 日蓮宗
文化財 紙本著色一塔両尊像・紙本著色日蓮像・紙本著色鬼子母神十羅刹女像・絹本著色三十番神像(重要文化財)
2024年03月28日
仁風閣(じんぷうかく)は、鳥取県鳥取市にある西洋館
仁風閣(じんぷうかく)は、鳥取県鳥取市にある西洋館。中国地方屈指の明治洋風建築として名高く、国の重要文化財に指定されている。
歴史
1906年、鳥取城の扇御殿跡に、片山東熊の設計、橋本平蔵の監督によって起工し、翌1907年に竣工した。建築費は当時の金額で4万3335円。木造2階建て白亜塗りのフレンチルネッサンス様式で、1・2階共にベランダが設けられており、ガラス張りの2階バルコニーからは、市指定名勝である池泉回遊式日本庭園の宝隆院庭園を一望できる。館正面右の螺旋階段は支柱を用いない、ケヤキの厚板で支えられた独特の構造をしており、外にあるのはこれの角尖塔である。
旧鳥取藩主池田仲博侯爵の別邸という名目であったが、当初より皇族の宿泊を意図して設計・建築されたとされる。完成同年に行われた皇太子嘉仁親王(のちの大正天皇)の山陰行啓時の御宿所として利用され、館名は、これに随行した元帥海軍大将東郷平八郎が命名したもので、同人の筆による額が現存する。
明治以降は鳥取市の所有となり、迎賓館や公会堂として利用された。1943年の鳥取地震で損傷し、この際の修復でスレート屋根が瓦葺に変えられた。1949年から鳥取県立科学博物館として、1972年に現在の鳥取県立博物館が完成するまで利用された。1973年国の重要文化財に指定された際に3年をかけて修復が行われている。現在は公益財団法人鳥取市文化財団のもとで管理され、館内には鳥取藩と池田家に関する資料などが常設展示され、および他の文化人(作家や歌人など)の所蔵資料が特別展として時折展示される。
皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)の行啓の際に御食堂として使用された部屋。
建築概要
設計 - 片山東熊、橋本平蔵
施工 - 浜田芳藏
起工 - 1906年9月
竣工 - 1907年5月
敷地面積 - 7,200m2
延床面積 - 1,046m2
構造・規模 - 木造・地上2階
延経費 - 43,335円
所在地 - 〒680-0011 鳥取県鳥取市東町2丁目121番地
利用情報
開館時間 - 9時〜17時(入館は16時30分まで)
休館日 - 月曜日(祝日の場合は開館)、祝日の翌日、年末年始
観覧料 - 一般150円(小・中・高校生は無料)
鳥取城跡と仁風閣
交通アクセス
山陰本線 鳥取駅 徒歩30分、またはバス(日本交通・日ノ丸自動車)5分「西町」下車徒歩5分、鳥取市100円循環バスくる梨緑コース「仁風閣・県立博物館」下車。
用途 資料館
旧用途 池田家別邸、皇太子御宿所、迎賓館
設計者 片山東熊、橋本平蔵
施工 浜田芳藏
事業主体 鳥取市
管理運営 公益財団法人鳥取市文化財団
構造形式 木造2階建て
敷地面積 7,200 m2
延床面積 1,046 m2
階数 地上2階建
着工 1906年9月
竣工 1907年5月
座標 北緯35度30分26秒 東経134度14分15秒
文化財 国の重要文化財(建造物)
指定・登録等日 1973年6月2日
歴史
1906年、鳥取城の扇御殿跡に、片山東熊の設計、橋本平蔵の監督によって起工し、翌1907年に竣工した。建築費は当時の金額で4万3335円。木造2階建て白亜塗りのフレンチルネッサンス様式で、1・2階共にベランダが設けられており、ガラス張りの2階バルコニーからは、市指定名勝である池泉回遊式日本庭園の宝隆院庭園を一望できる。館正面右の螺旋階段は支柱を用いない、ケヤキの厚板で支えられた独特の構造をしており、外にあるのはこれの角尖塔である。
旧鳥取藩主池田仲博侯爵の別邸という名目であったが、当初より皇族の宿泊を意図して設計・建築されたとされる。完成同年に行われた皇太子嘉仁親王(のちの大正天皇)の山陰行啓時の御宿所として利用され、館名は、これに随行した元帥海軍大将東郷平八郎が命名したもので、同人の筆による額が現存する。
明治以降は鳥取市の所有となり、迎賓館や公会堂として利用された。1943年の鳥取地震で損傷し、この際の修復でスレート屋根が瓦葺に変えられた。1949年から鳥取県立科学博物館として、1972年に現在の鳥取県立博物館が完成するまで利用された。1973年国の重要文化財に指定された際に3年をかけて修復が行われている。現在は公益財団法人鳥取市文化財団のもとで管理され、館内には鳥取藩と池田家に関する資料などが常設展示され、および他の文化人(作家や歌人など)の所蔵資料が特別展として時折展示される。
皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)の行啓の際に御食堂として使用された部屋。
建築概要
設計 - 片山東熊、橋本平蔵
施工 - 浜田芳藏
起工 - 1906年9月
竣工 - 1907年5月
敷地面積 - 7,200m2
延床面積 - 1,046m2
構造・規模 - 木造・地上2階
延経費 - 43,335円
所在地 - 〒680-0011 鳥取県鳥取市東町2丁目121番地
利用情報
開館時間 - 9時〜17時(入館は16時30分まで)
休館日 - 月曜日(祝日の場合は開館)、祝日の翌日、年末年始
観覧料 - 一般150円(小・中・高校生は無料)
鳥取城跡と仁風閣
交通アクセス
山陰本線 鳥取駅 徒歩30分、またはバス(日本交通・日ノ丸自動車)5分「西町」下車徒歩5分、鳥取市100円循環バスくる梨緑コース「仁風閣・県立博物館」下車。
用途 資料館
旧用途 池田家別邸、皇太子御宿所、迎賓館
設計者 片山東熊、橋本平蔵
施工 浜田芳藏
事業主体 鳥取市
管理運営 公益財団法人鳥取市文化財団
構造形式 木造2階建て
敷地面積 7,200 m2
延床面積 1,046 m2
階数 地上2階建
着工 1906年9月
竣工 1907年5月
座標 北緯35度30分26秒 東経134度14分15秒
文化財 国の重要文化財(建造物)
指定・登録等日 1973年6月2日