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2016年07月06日

第278回 トスキナ(一)






文●ツルシカズヒコ


 一九一九(大正八)年は浅草オペラオペレッタの全盛期であった。

 観音劇場でオペレッタ『トスキナア』が上演されたのは、この年の五月だった。

「トスキナア」とは「アナキスト」の逆さ読みであるが、プログラムや台本には検閲に引っかからないように「トスキナ」と刷った。

 作は獏与太平(ばく-よたへい)、作曲は竹内平吉、装置は小生夢坊(こいけ-むぼう)。

 浅草の伝法院の裏にあったカフェー・パウリスタ、その二番テーブルは獏与太平の「指定席」であり、そこは獏の仲間たちの溜まり場だった。

 その溜まり場に居合わせた獏、竹内、小生、沢田柳吉、辻潤、佐藤惣之助らの雑談から生まれた企画が「トスキナア」だった。

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 そもそも観音劇場の楽屋が「トスキナア」なのであった。

 松本克平『日本新劇史ーー新劇貧乏物語』によれば、観音劇場の楽屋口には「犬猫刑事ノ類入ルベカラズ」という貼札が掲げてあったという。

「犬」とは官憲のスパイのことである。

 これを発見した象潟署の刑事が怒鳴り込んで来た。

 対応した者はその場は一応、恐縮して書き改めることにしたが、翌日になると新しい貼札が掲げられた。

「刑事犬猫ノ類入ルベカラズ、これを犯すものは頭の上から水をぶっ掛けられるべしーー獏与太平」

 堂々と署名までしてあった。


 文芸部の小生夢坊、獏与太平、伊庭孝、辻潤などはいずれもかつて注意人物とされたことのある面面である。

 その楽屋へは佐藤春夫、谷崎潤一郎、芥川龍之介、武林無想庵今東光……はじめいろいろの詩人や作家がよく遊びに来たばかりでなく、近藤憲二、大杉栄、宮嶋資夫といった戦闘的なアナーキストまで時々顔を見せていたのである。

 これらの危険人物の行動を内偵するため、また交遊する連中の動静を探るために警察はしばしば探索にきたり、スパイをもぐり込ませていたのだった。

 犬猫刑事とはそのスパイに対するウイットに富んだ挑戦であったわけである。


(松本克平『日本新劇史ーー新劇貧乏物語』)





 このころ野枝も浅草に足を運んでいたようで、小生夢坊は大杉と野枝のカップルをこう書いている。


 アマカスに虐殺された大杉栄、伊藤野枝が、いとも仲よく(若し二人にして一人が欠けたら反射鏡のない顕微鏡のやうなものだつたらう?)時に私のシヤツポとマントを野枝さんがかむつたり着たりして、十二階裏から吉原の仲の町と流れ歩いたつけが、演歌を真似て唄つてゐるうちにそれがいつの間にか革命歌に変つたりして冬の夜を驚ろかしたりしたものよ。

(小生夢坊『浅草三重奏』)


 大杉は金龍館の楽屋にも出入りしていた。


 大杉はときどきてん屋ものを金龍館の三階に届けさせる。

 それを女たちと食べるから三、四人前だったりもする。

 文無しのくせに、と思う高田らを意に介するでもない。

「カネは下で待ってる人から受けとってくれたまえ」

 下で待ってる人といえば、楽屋口で待機している刑事しかいない。


(岡村青『ブラリ浅草青春譜ーー高田保劇作家への道ーー』)





『トスキナア』は五月に二度、小屋にかかった。

 第一回公演は五月六日から一週間、第二回公演は五月十四日から一週間。

 二公演とも最終演目が『トスキナア』で、前座として文士劇や沢田柳吉のピアノ独奏がプログラムに組まれていた。

 文士劇は第一回公演がシング『谷間の影』、第二回公演がゴーリキー『どん底』だった。


 第一回公演の『谷間の影』のプロローグとして辻潤作の表現派ふうの詩劇『虚無』をやった。


 幕が明いても舞台は暗黒であった。

 登場人物はみんな目だけ出した黒ずくめの衣裳を着ていた。

 瀬川つる子の淫蕩な女という役が「ええ、妾の心臓は薔薇色よ」と言う。

 俺は天上の反逆者だ。

 俺は数学から生まれた何とかだと誰かが怒鳴る。

 最後に作者の辻潤が黒衣でとび出してきて、「一切は虚無だ」と怒鳴ると幕という迷作であった。

 全然難解で何が何やらわからなかった。

 だがそれは本邦はじめてのダダイストの詩劇であったという。


(松本克平『日本新劇史-新劇貧乏物語』)





『谷間の影』では辻潤は放浪者の役をやった。


 佐藤惣之助の老人が寝床の中で死んでいる。

 山路千枝子の若い女房が泣いていると辻潤の放浪者が「おかみさん今晩は!」と入ってくる。

 二人は妙に仲良くなって、女房が山の向うの叔母のところへ行ってくると言って出て行くと、放浪者が針仕事をしながら歌を唄う。

 辻潤御自慢の独唱である。


(松本克平『日本新劇史-新劇貧乏物語』)


『どん底』には木村時子竹内鶴子、あるいは谷崎潤一郎作『鮫人』のモデルと言われている林初子など本職の女優が三十人も出演したが、本職は脇役にまわり、文士や詩人が主要な役をやるのが狙いだった。

 夜でも昼でも

 牢屋は暗い

 ……………

 恐ろしく汚いルパシカやボロを着て、ヒゲをボウボウ生やしドーランをぬたくった連中が、所かまわず歌いまくっていた。

『どん底』は三幕目に入っていた。

 男爵が詩人の佐藤惣之助、サチンが同じく詩人の陶山篤太郎、役者が天才ピアニストの沢田柳吉、奇声を発する錠前屋が辛辣な風刺随筆家であり表現派画家の小生夢坊、ナターシャが山路千枝子、ナースチャが瀬川つる子である。

 文士連は調子外れの声で勝手に歌いまくる、セリフは甲高い声でわめきちらしたり、ボソボソとつぶやくばかりだった、てんでんバラバラの勝手放題……。

 文士劇はとうてい入場料を取れるものではなかったが、役者たちはいい気分だった。





 どうだい……すばらしい雰囲気が出たじゃないかッ!

 雰囲気、アトモスフェアーというのがそのころの合言葉であった。

 スッカリ自分たちのアトモスフェアーにひたっていたが、舞台の演劇的効果はお話にならなかった。

 むしろ楽屋の方が『どん底』の雰囲気そのものであった。

 マチネーのメーキャップをするとそのまま夜までずうっと役の気分にひたってうっとりしていた。

 誰かが下らないことを言うと、

 おいッ! 日本人みないなことをいうなッ!

 と怒鳴りつけられた。

 つまりロシア人になりきったつもりでクロポトキンやバクーニンを論んじていたのである。

 みんながみんな人生を語り真実について論じ合っていたのだった。

 ロシアで暮しているようだな、これでウオッカさへあればねえ。

 そしてみんなウオッカの代りにショウチュウを飲んだ。

 夜の芝居もすんで、皆が自前の姿に戻る時になっても、巡礼ルカに扮した役者だけがそのままの姿で相変らず気分にひたっていた。

 誰かがうながすとルカは物倦(う)そうに言った。

 今夜はもう、辻潤に扮するのなんか俺は厭だよ!

 そしてハゲた鬘をとり顎ヒゲを外し、ワセリンを塗って傍の汚い布でつるりと拭ったその顔はまごうかたなきダダイストの辻潤であった。


(松本克平『日本新劇史-新劇貧乏物語』)



★松本克平『日本新劇史ーー新劇貧乏物語』(筑摩書房・1966年1月1日)

★小生夢坊『浅草三重奏』(駿南社・1932年)

★岡村青『ブラリ浅草青春譜ーー高田保劇作家への道ーー』(筑波書林・1997年7月1日)




●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 12:55| 本文

2016年07月05日

第277回 演説もらい






文●ツルシカズヒコ




 一九一九(大正八)年初頭のころから、北風会のメンバーは「演説もらい」を精力的にやり始めた。

 翌年に北風会に参加する詩人・岡本潤が「演説もらい」に言及している。


 そのころ、いわゆる大杉一派のアナーキストたちは「演説会乗っ取り」という戦法をよくつかっていた。

 他で主催する演説会へ押しかけていって、聴衆のなかへもぐりこみ、反動的な演説に対して猛烈な弥次をとばしたり、機をみて演壇へ駆けあがって反対演説をぶったり、各所でいっせいにビラをまいたりして、会場を混乱におとしいれるのである。


(岡本潤『詩人の運命』)

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 和田久太郎は「演説もらい」の意図するところを、こう書いている(要約)。


「演説会貰いは北風会の戦術、宣伝方法だ。演説の短評を猛烈にやり、いわゆる労働運動指導者の面皮を剥ぐ。労働運動をエライ人に指導してもらわねば出来ないと思い込んでいる労働者に、労働者自身の力を意識させる。かつ公開の禁じられている僕等の意見を発表する。弁士に迫り、演壇を乗っ取る場合もある。僕等には公開演説が許されないのだから、それに僕等は文なしだ」
(「集会の記」『労働運動』二一・二・十)


(大杉豊『日録・大杉栄伝』)





 大杉によれば、「演説もらい」は逮捕や下獄を覚悟しての戦術だった。


 春頃からの労働運動の勃興以来、僕等の同志の労働運動同盟(当時は北風会と云つた)は、殆んど連日連夜何処かしらに開かれる労働団体の演説会を利用して、僕等一流の宣伝運動を試みた。

 そして其の度に新聞は、『大杉一派』云々の初号か一号かの大みだしで、其のあばれ方をプロパガンダしてくれた。

 尤も僕等は、其の前年の米騒動の時から、いつやられるか知れんと覚悟はしてゐた。

 お上の鼻いきが急にあらくなつて来たのだ。

 が、戦後の労働運動の勃興を予期し且つ準備してゐた僕等には、其の鼻いきに遠慮することは出来なかつた。

 僕等は毎日、今日はやられるか、明日はやられるかと、時としては手拭やハガキまで用意して駈けづり廻つた。


(「新獄中記」/一九二〇年八月執筆/大杉栄・望月桂『漫文漫画』/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』/日本図書センター『大杉栄全集 第13巻』)


 大杉が「戦後」と言っているのは、もちろん第一次世界大戦のことであり、当時は「欧州大戦」などと呼んでいた。





 近藤憲二は、こう回想している。


 当時、日本の労働運動は社会情勢の波に乗って画時代的勃興をみ、労働組合は続々として発生し、労働問題の演説会は連日各所に開催された。

 しかしその多くは労働ブローカーの跳躍であり、御用学者の労資協調的ゴマ化し演説であった。

 毎週土曜日に集合して労働運動の闘士養成所の観を呈していた北風会は、それらのまやかし屋どもの演説会を片っぱしから打ちこわした。

 長い間、言論の自由をまったく奪われていたウッ憤がこれを機会にほと走ったのである。

 筆者もこの北風会の一員であったが、今なお遠慮なく断言することができる、北風会のこの時期に際しての運動は、日本の労働運動を戦闘化し、労使協調への堕落を防ぐうえに一つの功績を残したものである。


(近藤憲二『私の見た日本アナキズム運動史』)





「演説もらい」の標的になったのは、友愛会などの労使協調的な演説会だったが、友愛会会長の鈴木文治が大杉や「演説もらい」を評価しているコメントを残しているのがおもしろい。


 大杉君は、ただ理論で労働者を率いていただけでなく、そのなりふりや性格ーー世事を気にせず、明るく世間ばなれした趣があり、あっさりしていて、名誉、利益などに執着せず、純情で、情熱的で、生一本なーーで同君に接近していった多くの労働者を引き付けていたようである。

 同君は、そのころよく、同じ考えの一味を引き連れては、例の筒そでの和服の着流しなどで、いろいろな労働者の集会に顔を出し、野次やその他の方法で、満座の空気をざわつかせていた。

 無政府主義者に、ほとんど言論の自由の認められなかった当時としては、これもまた、かなり有力な宣伝方法であった。


(鈴木文治『労働運動二十年』現代文訳版・「労働運動二十年 」刊行委員会・一九八五年九月)





 北風会が「演説もらい」という戦術をとったのは、官憲の圧力によって自分たちの運動を自前でプロパガンダできなかったための苦肉の策ではあったが、大杉は「演説もらい」にまた別の意義を見出していた。

 大杉は演説会には、現代でいう「双方向」性が必要だという発想を持っていたのである。


 長せりふは昔の芝居の特徴で、新しい芝居では短かい対話が続く。

 人間の長話を黙つて聞いてゐるのは……上の階級の人に対してだけだ。

 同じ階級の人の間では、長せりふがなくなつて、短い対話が続く。

 長い独白から短かい対話へ、これが会話の進化だ、

 人間の進化だ。

 ……学校でも演説会でもさうだが、講壇や演壇の上の人は一人で長い独白を続けて下の人々に教へる。

 下の人々を導く。

 しかし人間がだん/\発意を重んずるようになると、其の長い独白がちよいちよい聴衆の質問や反駁に出遭つて中断される。

 そして遂には、謂はゆる講義や演説が壇上の人と壇下の人々との対話になつて、一種の討論会が現出する。

 演説会は討論会ぢやないと云ふ。

 又さうなつては会場の秩序が保てないと云ふ。

 そして弁士の演説に一言二言の批評を加へる僕等を、その演説会の妨害か打ち毀しかに来たものと考へ、警察官と主催者と聴衆とが一緒になつて騒ぎ出す。

 馬鹿なことだ。


(「新秩序の創造」/『労働運動』1920年6月号・1次6号/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第二巻』/日本図書センター『大杉栄全集 第6巻』)





 四月二十三日、大杉一家は千葉県東葛飾郡葛飾村小栗原一〇番地、斎藤仁方に移転した。

 大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、現在の船橋市中山で総武線下総中山駅の近くで、「中山の家」と呼んだ。

 引っ越したのは、北豊島郡滝野川町西ヶ原の家の家賃が滞納して追い立てをくったのと、野枝が病気がちだったので空気のよいところに転地するためだった。

 橘あやめとその子の宗一も同居、飼い犬の茶ア公も連れてきたようだが、山羊は手放したと思われる。





★岡本潤『詩人の運命』(立風書房・1974年)

★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)

★大杉栄・望月桂 『漫文漫画』(アルス所収・1922年11月)

★『大杉栄全集 第四巻』(大杉栄全集刊行会・1926年9月8日)

★『大杉栄全集 第13巻』(日本図書センター・1995年1月25日)

★近藤憲二『私の見た日本アナキズム運動史』(麦社・1969年6月)

★鈴木文治『労働運動二十年』現代文訳版(「労働運動二十年 」刊行委員会・1985年9月)

★『大杉栄全集 第二巻』(大杉栄全集刊行会・1926年5月18日)

★『大杉栄全集 第6巻』(日本図書センター・1995年1月25日)




●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 14:23| 本文

2016年07月04日

第276回 おうら山吹






文●ツルシカズヒコ


  一九一九(大正八)年三月五日、久板が満期出獄し、大杉&野枝の家に帰って来た。

 このころ、大杉は黒瀬春吉が設けた「労働問題引受所」の顧問を引き受けるが、結局、大杉はその顧問を辞退した。

 しかし、大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、このころ大杉は黒瀬などとの関係を通じて、浅草オペラの楽屋に出入りするようになったという。

 浅草十二階下にあった黒瀬の店「グリル茶目」は、伊庭孝、沢田柳吉、石井漠などオペラ関係者の溜まり場になっていたし、黒瀬と親交が深かった辻潤も常連だった。

「グリル茶目」の二階に六畳敷きほどの一室があり、隣家との間を隔てている壁が酔客の落書きの場になっていた。

 黒瀬がそう仕向けていたと思われるが、思い思いの名文句とサインが書きなぐられていたという。

 大杉の同志例会である北風会のメンバーである中村還一が、この落書きされた壁の真ん中の空いたスペースに書かれた、あるひとかたまりの文字を読み取り、その文字が目の底に灼きついたという。

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 お前とならばどこまでも 栄

 市ヶ谷断頭台の上までも 野枝

 おうら山吹の至りにぞんじそろ 潤


 もちろん黒瀬の演出であったことが想像できる。

 大杉と野枝が立ち寄ったおりに書かせておき、後日辻が飲みに来たとき、頃合いに酔わせて筆をとらせたものであろう。

 文句の配列は植字の煩わしさを考慮して変えてある。

 実物は大杉と野枝との行間に多少の空白があったところへ、割り込んで辻が書いていた。

 しかし列べて書かず、三字分くらい下げて書いたのはどういう心理によるのか謎のままになってしまった。

 書かれたのは大正六年と想定される。

 一見しただけでは大杉と野枝とで辻をからかっているように受けとられるが、ふたりはそれを書いたとき辻の書くのを予想できなかったはずだし、大杉もそれほど粗野暴慢な人物ではなかった。

 むしろ日蔭の茶屋事件以来ふたりに集中した世間の悪意に対し、尻をまくってみせるというほどの気持ちで書いた文句であろう。

 それは辻にもわかったはずだ。

 受けとめ方がいかにも辻らしいではないか。


(中村還一「スチルナーと日本の思想風土」/『辻潤著作集 別巻』)





 関東大震災後、中村が黒瀬に会って例の壁の保存計画はどうなったかと尋ねると、経師屋(きょうじや)を頼んで壁紙を剥がすのはうまくいったが、震災で失ってしまったという。

 大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、四月三日、北豊島郡滝野川町西ヶ原の大杉宅に同志二十数名が集まり、観桜会が催された。

 花見の会だから運動などの話は抜きで、浪花節、都々逸、物真似などを演じ大いに飲食したという。

 野枝も三味線をつま弾きながら、得意の端唄や歌沢を披露したかもしれない。

 午後三時ころ、大杉宅を出た十七、八名は浅葱色の地に赤い布で「AW」と縫いつけた二尺四方ほどの旗を押し立てて飛鳥山に行き、革命歌を歌ったり演説の真似などをして気焔を上げ、午後六時ころ大杉宅に引き上げた。

 引き上げた一同は、私服警官に殴打された者がいたことへの憤りが再燃し、大杉を先頭に十三、四名が王子警察署へ押しかけて抗議をした。





 岩佐作太郎が大杉宅を訪問したのは四月十二日ころだった。

 大杉の同志会である北風会に参加することになった岩佐は、こう回想している。


 大杉君はかなり大きな二階家に住んでいた。

 庭の空地には山羊が一匹遊んでおり、犬さえ飼っていた。

 立派な体格の青年が犬とふざけていた。

 家の中にも二、三青年がいた。

 大杉君は二階に案内して、野枝女史を紹介してくれた。

(岩佐作太郎「私の思い出」『アナキストクラブ』五二・一)


(大杉豊『日録・大杉栄伝』)


「立派な体格の青年」とは、吉田一(はじめ)のことだろうか。


南天堂




★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)

★『辻潤著作集 別巻』(オリオン出版社・1970年)





●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 20:28| 本文

第275回 婦人参政権






文●ツルシカズヒコ




 一九一九(大正八)年当時の日本の衆議院議員選挙は制限選挙であった。

 一八八九(明治二十二)年の衆議院議員選挙法では、満二十五歳以上の男子で直接国税15円以上を納めている者に選挙権の資格が与えられ、満三十歳以上の男子で直接国税15円以上を納めている者に被選挙権の資格が与えられていた。

 一九〇〇(明治三十三)年になり、選挙権、被選挙権ともに他の条件は変わらず、直接国税納入額が十円以上に改められた。

 普通選挙運動が高揚した一九一九年六月には、直接国税納入額が三円以上に改められたが、女子は依然として対象外だった。

 そもそも女子は政治に関与することを禁止されていた。

 すなわち、治安警察法五条一項で女性の結社権(政党加入の権利)、二項で集会の自由(政治演説会に参加ないし主催する自由)を禁止していた。

 ちなみに諸外国の「女性参政権の獲得年代」を見ると、一九一九年時点で女性参政権があった国は、ソ連、カナダ、ドイツなどである。

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 そうした時代の趨勢の中で、婦人の参政権を要求したのが与謝野晶子だったが、野枝は『新公論』三月号に「参政権獲得是非ーー与謝野晶子氏に問ふ」を寄稿した。


 二三日前の各新聞紙で見ますと、与謝野晶子氏が、真先きに、普通選挙運動と共に婦人参政権を要求されたと云ふ事は報道されてあります。

 ……至極当然な事だと云へませう。

 その点では私はこれに賛成してもいゝと思ひます。

 しかし乍(なが)ら……。

 ……与謝野氏その人さへも、治安警察法の前には半人前しかない女としてその演説会に出席する自由さへ持たないのです。

 しかし……その不当と不自由を痛感してゐる婦人が果して幾人ありませうか、私は与謝野氏程の聡明さを持つた婦人が先づ十指にも満たないと等しく、此の不自由と不当を感じてゐる人も恐らくは十指には満つまいと思ふものであります。


(「参政権獲得是非ーー与謝野晶子氏に問ふ」/『新公論』1919年3月号・第34巻第3号/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p71)





 以下、野枝が言わんとするポイントを挙げてみた。

 ●現在の日本婦人たちは、できるだけ非社会的に従属的に教育されて生活しています。

 ●娘はすべての目的が妻や母親になることと教育されます。

 ●女学校の教育方法を見れば、すべてのことがわかります。独立した一個の人間としての生活に必要なことは何ひとつ教えられません。男子の庇護を受けるために都合のいいように教育されます。

 ●こうして女たちは家の中で小さくなって生活しているので、頭脳の働きは遅鈍になり、動作は醜くなり、すべての考えや決断は従属的であり、小さな利己心のみが強くなるのも無理はありません。

 ●今日、多くの男子がその妻を始末におえない荷厄介として苦しんでいるのは、当然のことだと思います。





 ●いや、今は独立した生活を営んでいる新時代の女も多くいるではないか、と言う人もあるかもしれません。

 ●しかし、彼女たちもその最終目的は妻たり母たることであることにおいては、なんのかわりもないものだと思います。

 ●さらに、今日の職業婦人の賃金が独立して生計を立てるまでにいたっていない、これが独立して生計を立てる収入を得ることができるようになったら、もう少し違う見解を持つかもしれないという意見もあるかもしれない。

 ●私もそう思うひとりではありますが、悲しいことに、女の最終目的は結婚だと小さいときから叩き込まれている女たちは、現在の職業の待遇改善に骨を折るというような考えよりは、一日も早く相手を見つけて結婚しようと考えることを優先するのです。

 ●したがって、選挙権の拡張を民主的傾向として、単純に賛同することに疑問を抱いています。





 ●すべての点で従属的に教育されてきた今日の日本の女子に、参政権が与えられれば、政治家の野心の餌食になるのではないかと危ぶんでいます。

 ●与謝野氏の意義ある示威は決して無用なことではなく、必要なことです。

 ●氏の最初にあげた叫び、その勇気に感謝したいと思います。

 ●ただ、私が与謝野氏に求めたいのは、その叫びを無意味なものに終わらせない用意をしていただきたいということです。

 ●氏の後ろには、氏の頼みになるような人間はひとりも続いてはいないと思います。





 ●もし本当に氏が聡明ならば、この機会を利用して、多くの職業婦人をその無智な夢から呼び覚まし本当の利害の観念を注ぎ込まなければならないと思います。

 ●婦人の職業だからといって、決して内職であってはなりません。女の内職は女自身をいつまでも経済的な弱者の位置から救い出さないばかりではなく、男子の賃金の率までを低くするものです。

 ●職業婦人が真に社会的地位に経済的生活に目覚めたとき、一般婦人の上にも新しい時代がくるのではないでしょうか。

 ●そして、そのときこそは参政権必要も真に起こり、その行使も心配なくできるかもしれません。

 ●その大事な仕事を怠ったならば、ただ虚名を馳せることを喜ぶ人の一手段として、貶められても仕方がありません。


★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)




●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



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第274回 スペイン風邪






文●ツルシカズヒコ




 大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、一九一九(大正八)年一月二十六日、大杉は売文社で群馬県からこの日上京した蟻川直枝と会い、気が合ったふたりは浅草十二階下にある黒瀬春吉の店「グリル茶目」で食事をした。

 このときの話を、安成二郎が大杉からおもしろおかしく語って聞かされた。

 大杉と蟻川は「グリル茶目」での食事を終えると、吉原に行くことにした。

 売文社に行くとき、大杉は尾行をまいていたので、黒瀬の尾行に案内をしてもらい吉原のある家に行った。

 夜中になって、大杉は揺り起こされた。

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 象潟署の高等視察がやつて来たのである。

 大杉は取次ぎから其の名刺を受とると、わざとびつくりしたやうにぶる/\頸えながら女に抱きついて、実は俺は大泥棒だがいよ/\年貢の納め時が来て仕舞つたとか何とか、でたらめを言つて女をおどかしたのである。

 すると、そこへ高等視察が上がつて来ると、大杉は、こんなところへ遣つ来てるやつがあるかと怒鳴りつけたところが、役人は、御愉快なところを誠にすまないが、実は田端のあんたの家が丸焼けになつたと言ふ電話が田端の方の署から象潟署へかゝつたと言ふのである。


(安成二郎「かたみの灰皿を前に」/『改造』1923年11月号_p100~101/安成二郎『無政府地獄-大杉栄襍記』)





『日録・大杉栄伝』によれば、火事は一月二十七日の午前三時、隣接の工場・東洋ブルーム製造所から出火し、十軒ばかりが類焼した。

 大杉家の住居は全焼し、家財道具も蔵書もすべて灰になった。

 急きょ、北豊島郡日暮里町大字日暮里一〇五五番地の山田斉(丙号主義者)方に一時移転した(「伊藤野枝年譜」/『定本 伊藤野枝全集 第四巻』)

 大杉は火事で「引っ越し料」も焼いてしまったと残念がったという。

 田端の家の隣家に博徒がいて、夜になると遊び人が集まって博打を打っていた。

 しかし、大杉一家が引っ越して来てから、警官が大杉の家の門口で見張っているので博打ができない。

 そこで引っ越し料として百円払うから出て行ってもらうように大家に頼み、大杉は二、三日前にその話を聞き、好都合だと思っていたからである。

 二月三日、北豊島郡滝野川町大字西ヶ原前谷戸三一三番地(現・北区西ヶ原三丁目七番)に移転、田端の家より大きい高台の家で山羊と犬も連れて来て飼った(『日録・大杉栄伝』)。

 二階家であった。

 大杉の末妹の橘あやめとその子の宗一も同居を続け、橘あやめと宗一はこの年の秋に米国に帰国するまで大杉宅で暮らした。





 二月五日、大杉は朝早く、牛込区市谷富久町の東京監獄前で山川と荒畑の出所を迎えた。

 東京監獄前の差入室の一室で、しばらくみんなで歓談した。

 迎える者も迎えられる者もたいがいは獄通である。

 山川と荒畑は盛んにその新知識を語った。

 迎えた大杉たちも急転直下した世間の出来事を語った。

「おい、抱月が死んで、須磨子がそのあとを追って自殺したのを知っているかい?」

 堺がふたりに尋ねた。

 島村抱月がスペイン風邪で死んだのは前年の十一月五日だった。

 そして、二ヶ月後の一月五日、松井須磨子が芸術座の道具部屋で縊死した。

「ああ知ってるよ。実はそれについては面白いことがあるんだ」

 荒畑が堺の言葉がまだ終わらぬうちに笑いながら言った。

 荒畑は妻からの手紙で抱月の死を知ったのだが、荒畑は抱月と自分は師弟関係だと偽り、監獄の教誨師に回向をお願いした。

 教誨師である坊さんは教誨堂に荒畑を連れて行った。

 実は荒畑は教誨堂なるものを一度見たかっただけなのだった。





『どうだい、それで坊さん、お経をあげてくれたのかい?』

 荒畑がお茶を一杯ぐつと飲み干してゐる間に僕が尋ねた。

『うん、やつてくれたともさ。しかも大いに殊勝とでも思つたんだらう。随分長いのをやつてくれたよ。』

『それや、よかつた。』

 と皆んなは腹をかかへて笑つた。

「で、こんな因縁から、お須磨が自殺した時にも、直ぐ其の教誨師がやつて来て知らせてくれたんだ……。」


(「続獄中記」/『新小説』1919年4月号/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第三巻』/日本図書センター『大杉栄全集 第13巻』)


 このとき安成二郎は久しぶりに大杉に会った。

 山川と荒畑を迎える集まりがお開きになると、安成は大杉と連れ立って、滝野川町西ヶ原の大杉の家に行った。

 その道々に大杉が安成におもしろおかしく語ったのが、田端の家が全焼した夜の話である。

 さて、二〇一八(平成三十)年一月十日の『しんぶん赤旗』の「ひと」欄は、原和夫さん(七十一)についての記事である。

 原さんは東京都北区の銭湯「殿上湯(でんじょうゆ)」の四代目である。

「殿上湯」について、原さんは「社会運動家の大杉栄や伊藤野枝も通った老舗です」と語っている。

「殿上湯」の住所は「北区西ヶ原一丁目二十番」であり、大杉と野枝が「殿上湯」に通っていたのは「北豊島郡滝野川町大字西ヶ原前谷戸三一三番地(現・北区西ヶ原三丁目七番)」に住んでいたころだろうと思われる。


★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)

★安成二郎『無政府地獄- 大杉栄襍記』(新泉社・1973年10月1日)

★『定本 伊藤野枝全集 第四巻』(學藝書林・2000年12月15日)

★『大杉栄全集 第三巻』(大杉栄全集刊行会・1925年7月15日)

★『大杉栄全集 第13巻』(日本図書センター・1995年1月25日)




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2016年07月03日

第273回 尾行







文●ツルシカズヒコ




 一九一八(大正七)年十二月のある夜のことだった。

 野枝は所用で日比谷に出かけた。

 例によって尾行がひとり尾(つ)いている。

 その尾き方が下手で露骨でみっともないので、野枝は癇癪を起こし、電車の中でその尾行に怒りをぶつけた。

 電車を降りると、野枝はその尾行にこう言った。

「今夜は用がすんだら、お前の後を尾けてやるから」

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 ある家に入って用をすました野枝は、その家の主人の外套と黒いソフト帽を借り受けた。

 野枝がコートを着た上からその外套を着て襟を立て、帽子を深くかぶると、見ていた人たちが大笑いした。

 これで尾行をまくのだと野枝が言うと、活動写真のようだななどと囃し立てられた。

 その姿で外に出た野枝が、日比谷の交差点まで来て後ろを振り返ると、誰も尾(つ)いて来ていない。

 暗い濠にそって馬場先門の方へ三、四丁来ても、誰も尾(つ)いて来ている者はいない。

 野枝は完全に作戦が成功したことを確認した。


 それから八重洲町の暗い淋しい通りにはいつて外套をぬいだり帽子をとつたりしてゐますと、丁度其処を通りかゝつた車を引いた男がびつくりしたやうな様子をして、立ち止まつて見てゐました。

 私はひとりで、うす暗がりを笑ひながら歩きました。


(「夢に男に蹤〈つ〉かれるの記」/『夢の世界』1919年3月号・第2巻第3号/「男に蹤〈つ〉かれるの記」の題で大杉栄・伊藤野枝共著『悪戯』/「男に蹤〈つ〉かれるの記」の表題で『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』/「夢に男に蹤〈つ〉かれるの記」の表題で『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p79)


 野枝が所用に訪れた日比谷の家は、服部浜次の「日比谷洋服店」だろうか。





 野枝は「夢に男に蹤〈つ〉かれるの記」で尾行について言及しているが、あまりにプライバシーを侵害する尾行の手口について、彼女は憤っている。


 私には此の三年ばかり、外に出さへすれば、大の男が一人づゝはキツトのそ/\後ろから尾いて来ます。

 お湯に行くにも髪を結ひに行くにも八百屋や魚屋の買ひ出しのお供までする。

 ……大勢の人達の為めに交番に立たす筈のお役人様を、わざ/\毎日私の為めに尾けておいて下さるのです。

 此度の内閣になつてからは大臣達でさへ辞退されるのを、私達には依然尾けて下さるのです。

 今日は何処へ誰を尋ねて行つて何をしやべつた。

 帰りに何処によつて何を喰べた、位まではまだいゝんですが、八百屋でおねぎを五銭、お芋を五銭、酒屋でお味噌『ハゝア、おつけでもこしらへるのかな』等と何も彼も知れてしまふのは感心しません。

 その上に米屋へ行つては『どうだ、払ひはいゝか?』

 家主へ行つては『今月家賃は払つたか?』

 質屋へ尾いて行つては後へまはつて何を幾らで預けて来たまで一々調べられては感心しない処の話ではなく、迷惑どころの話ではなく、癪に障(さわ)つてどなり度くなるのです。


(「夢に男に蹤〈つ〉かれるの記」/『夢の世界』1919年3月号・第2巻第3号/「男に蹤〈つ〉かれるの記」の題で大杉栄・伊藤野枝共著『悪戯』/「男に蹤〈つ〉かれるの記」の表題で『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』/「夢に男に蹤〈つ〉かれるの記」の表題で『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p75~76))


 しかし、その気になれば尾行をまくのはそう難しいことではないらしい。

 通りがかりの空車(からぐるま)をつかまえて乗ったり、ちょっと工夫して電話を借りてタクシイを呼んだり、変な男に後をつけられて困っていると事情を言えば、知らない家でもたいていは同情して何かの方策を講じてくれるという。





 野枝は変装のほかにも、尾行をまいた具体例をいくつか書いている。

 本郷区菊坂町にいたころのことだというから、一九一六年の秋ごろから翌年の六月ごろの間の、ある日のことだった。

 その日は日本橋の方に出かける用事があったが、野枝はどうも尾いている男の顔が気に入らなかった。

 まいてやろうと思い、まず松住町で電車を降りて、万世の方に歩きながらその方法を考えたが、妙案が浮かばない。

 足を返して上野の方へ歩いて行き、お汁粉屋の「太々(だいだい)」に入った。

 ここで、方法を考えようと思ったのである。

 野枝のあつらえがまだできないうちに、野枝に尾いていた男が店の勝手口から入って来て、少しして外に出て行った。

 野枝はすぐに女中を呼んで様子を聞くと、この家に裏口があるかどうかを確かめに来たという。

「よけいな先回りをするな」

 癪に障った野枝は外に出ると、

「おまえのような馬鹿に尾かれると不愉快だから」

 と散々に往来を怒鳴りながら歩き、自働電話のあるところまで来ると、本郷の警察に電話した。

「今日の尾行は馬鹿でいやだからすぐ取り代えてくれるように。これから上野の博品館で買い物をしながら待つから」

 と言って、代わりをよこしてもらう約束をした。

 野枝は博品館の前まで来ると、代わりが来るから待っていろと言い置き、中に入るなり場内を走るように通り抜け、外に出て俥に乗って走り去った。

 二時間ほどで用をすませ、神田の方をまわり、電車が上野広小路を通る際に電車の窓から見ると、まだふたりの尾行がボンヤリ立っていた。





 あるときは、行きつけの髪結のところに飛び込んだ。

 変なやつに尾けられて困っているから、隣りの家に俥を呼んでもらうことにしたのである。

 野枝はこの髪結の家と隣家が、自由に行き来できることを知っていたのである。


『まあ、いやだ、さうですか、よござんすとも、お急ぎ? ぢやおちか早く行つてそいつといで。』

 すきての一人が直ぐ俥をあつらへに出て行つた。

『まあ本当に、世間にはずゐぶん馬鹿な男がゐるもんだね、此の間もうちへ来た娘さんが一人矢張り困つてゐなすつたけが、知りもしない女のあとつけて何が面白いんだらう。』

 髪結さんは六ケ(むずか)しい顔をして島田のいちの工合を気にしながら独り言のやうに云ひました。

『好奇(ものずき)なんだか暇なんだか知らないけれど御苦労様だわねえ、私はまだ一度もそんな覚えはないけれどよくそんな話は聞くわ。一体どう云ふつもりでつけるんでしようねえ。それにそんな事のあるのは堅気の娘さんだの奥さんに多いわね。』

 フケを取つて貰つてゐた若い芸者が直ぐ口を出しました。

『どう云ふつもりも斯う云ふつもりもあるもんかね。つまり男は助平だからさ。』

 火鉢の傍で煙草を吸つてゐた細襟のはんてんを着た、色の浅黒い年増の人がまた直ぐさう云つて笑つた。

 皆んなも笑つた。

 私はまた皆んなとは違つた意味でおかしくてたまらなかつた。


『今直ぐ来ます。』

 おちかは前垂の下に両手を入れて背中をまるくしながら帰つて来て私の方に向つてさう返事をしておいて、また云つた。

『向ふのね袋物屋さんの横の処に一人の男が立つてゐるんですよ、あれぢやないかしら奥さんについて来たのは?』

『どんな男?』

『黒い様な外套を着た背の高い痩せて四十位の男ですよ、ひげを生やした、目付きの悪いーー』

『えゝ、それ/\、立つてるのまだーー私の俥に乗る処見えやしないかしら、尤(もつと)も見えても構やしないけど、直ぐ駈け出しさへすればーー』

『大丈夫ですよ。俥屋さんにさういつて蔭になつて貰ふとよござんすわ。だけどまあ何んでせうねえ四十面下げて女の後をつけ歩くなんて、ひげなんか生やしてゐるんだつて? 呆れたもんだね。』

 髪結さんは一人で憤慨するやうにそいつてゐました。

『お師匠さん、馬鹿にムキになるのね。』

 若い芸者が笑ひました。

『何もムキになる訳じやないけどさ、あんまり馬鹿々々しいぢやないの、若い人ならまあそんな、ものずきも聞こえるけど四十にもなつてさーー』

『いゝぢやないかお師匠さん、他所(よそ)の人の御亭主だもの、お前さんのぢやあるまいし、妬(や)かないだつていゝやね。』

 火鉢の傍の年増がおつかぶせるやうにさう云つてまぜつかへしたので皆んなが大笑ひしました。

 私は直き隣りの門へ引き込んだ俥に乗つて見事にその男を置き去りにする事が出来ました。


(「夢に男に蹤〈つ〉かれるの記」/『夢の世界』1919年3月号・第2巻第3号/「男に蹤〈つ〉かれるの記」の題で大杉栄・伊藤野枝共著『悪戯』/「男に蹤〈つ〉かれるの記」の表題で『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』/「夢に男に蹤〈つ〉かれるの記」の表題で『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p77~78))





 旅行など長距離を移動する際にも、もちろん尾行がつくのである。


 旅行をしますと、県から県へと護衛の責任が汽車の進行と共に移つて行きます。

 そして私達が寝台の上に楽々と長くなつて眠つてゐる間でも先生達ちは車室の外に立つて眠りもやらずに護つてゐてくれるのです。

 さうして見失はないやうに注意します。

 先達て九州に行きました時にも矢張りその通りにして送られました。

 処が下の関の、私を出迎へに出てゐた二三人の先生と広島県から受けついで徳山あたりから私を送つて来た先生とが、どうした事か下の関のプラツトフオームを歩いてゐるうちに私を見失つたらしいのです。

 私は駅の改札口に立つてゐる正服や私服の物々しい様子をひとりで笑ひながら連絡船に乗りました。

 お蔭さまで、九州へはいつてからは駅々のうるさいお出迎へがなくて呑気に家までかへりつく事が出来ました。


(「夢に男に蹤〈つ〉かれるの記」/『夢の世界』1919年3月号・第2巻第3号/「男に蹤〈つ〉かれるの記」の題で大杉栄・伊藤野枝共著『悪戯』/「男に蹤〈つ〉かれるの記」の表題で『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』/「夢に男に蹤〈つ〉かれるの記」の表題で『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p79~80))


★大杉栄・伊藤野枝共著『悪戯』(アルス・1921年3月1日)

★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)

★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)


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第272回 山羊乳






文●ツルシカズヒコ



 大杉の末妹、橘あやめは一九〇〇(明治三十三)年生まれである。

「あやめ」という命名は、六月二十五日生まれだからであろう。

 大杉は十五も歳下のあやめを可愛がっていた。

『日録・大杉栄伝』によれば、あやめは一九一六年にアメリカのポートランドのレストラン料理人・橘惣三郎と結婚して渡米した。

 一九一八年十二月、病を得て帰国したあやめは、北豊島郡滝野川町大字田端二三七番地の兄・栄の家で養生することになった。

 あやめが連れて来た子・宗一(むねかず)は、一九一七年四月十二日ポートランドで生まれ(『定本 伊藤野枝全集 第三巻』「書簡 橘あやめ宛・一九二三年一月十五日」解題)、魔子と同じ歳で野枝にもすぐなついた。

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 大杉の末弟・進も勤務先の休暇で遊びに来ていたので、大杉家は賑やかになった。

 あやめは十八歳、進は二十一歳である。

 あやめは当時のことをこう回想している。


 野枝さんには此時初めて会つたので、二人の間には二つになる魔子ちやんが出来てゐました。

 私の宗一も丁度二つなので、すぐ子供の話しから野枝さんと親しくなりまして、気の置けない、親切さうないゝ姉さんだと思ふやうになりました。

 それに魔子ちやんと宗坊とを犬や小羊(ひつじ)の背に乗せてアツハアツハと嬉しさうに笑つてゐる榮兄さんを時々見ては、私はたゞもう嬉しさで一杯でした。

 貧乏で困つてはゐられましたが、しかし私は楽しく感じてしばらく一緒に暮らして居りました。


(橘あやめ「憶ひ出すまゝ(栄兄さん夫婦と宗坊のこと)」/『女性改造』1923年11月号_p169)


 犬は茶ア公のことであり、あやめが「小羊」と書いているのは当時、大杉家で飼っていた牝山羊のことである。

 近所から買い込んだこの牝山羊は、乳がたくさん出た。

 山羊乳は貧乏だった大杉家の貴重な栄養源であり、特に母乳がわりの山羊乳は魔子と宗一を育てるのに重宝したと思われる。

 当時、大杉家を頻繁に訪れていた和田信義も、この山羊乳をごちそうになったひとりだった。





 ……いつも進君が乳搾りの役を勤めて呉れた。

 いつだったか大杉君も野枝さんも進君も皆留守で、妹さんと僕と二人きりの時だつた。

 例によつて腹が空いて来たので乳を搾らうと相談が纏つた。

 そこでバケツに湯を持つて来て布で乳を温めながら搾るのが妹さんの役、山羊の両方の角を抑へて山羊が動かない様にするのが僕の役と決まつたのだが……。

 モウ……と牛の啼く様な聲を立てゝ頭を振られたり、両肢をもがかれると、僕はもう堪らなかつた。

 力一杯角を握つて、両肢を膝の上に乗せてゐるんだが、山羊先生も一生懸命に暴力を振るほうとするんで、僕は気味が悪くなつて終つて、とうとういつもの三分一ほども搾れなかった。


(和田信義「初めて知つた頃のこと」/『自由と祖国』1925年9月号_p31)





 大杉家で山羊を飼うようになった経緯は不明だが、ヒントになるようなことを山川菊栄が書いている。

 山川均は売文社の社員であり、菊栄も売文社とは密な関係だった。

 売文社にはさまざまな奇人変人が出入りしていたが、「高井戸の聖者」こと江渡狄嶺(えと-てきれい)も、そのひとりだった。

 江渡は高井戸で「百姓道場」を経営するトルストイズムの実行者だった。


 この人が休日にはときどきフラリと私たちの家にやって来て、田んぼを見はらす日当りのいい縁側に腰をかけ、ナタマメぎせるをたたいて、山川と百姓話に興じ愉快そうに高笑いをしていました。

 ……この人のすすめで庭の片隅に鶏小屋ができ、やがてその農場から白レグ三羽が送られて来て、私ははじめて鶏を飼いました。


(山川菊栄『おんな二代の記』_p252)


 大杉と野枝が発刊していた『文明批評』への資金協力も惜しまなかった江渡である。

 大杉夫妻とは親交が深かっただろう江渡が、山川夫妻に鶏を飼うことを勧めたように、大杉夫妻に山羊を飼うことを勧めたのかもしれない。





 当時の大杉家の経済状態はまったくお話にならないほど逼迫していた。

 しかし、大杉は平気だった。

 いつも呑気そうに魔子のお守りをしたり、書物を読んでいた。


 そして主として野枝さんが、其の生活費の心配に歩いてゐた様だ。

 電燈の点く頃他所からオペラバツグを下げて帰つて来る野枝さんと留守居の大杉君との第一の話は、いつも金が出来た出来ないといふことだつた。


(和田信義「初めて知つた頃のこと」/『自由と祖国』1925年9月号_p30)


 和田は「初めて知つた頃のこと」に、窮乏の極にあった大杉夫妻から、五円をもらった思い出も書いている。

 米代を支払う必要に迫られ、そして大杉が裁判所かどこかに行くために、下駄を買ったり、帯の質受けをする必要にせまられてこしらえた金だった。

 一日中、原稿を売り歩いた野枝の努力が無駄になったある夕方のことだった。

 その日は一日中、北風会信友会の連中、和田信義らが遊びに来ていたが、野枝が帰って来るまでは昼飯も夕飯も食うことができなかった。





 野枝が帰って来てから、野枝があやめの指輪を質屋に入れた。

 そして野枝の手にはなんとか十二円の金ができた。

 その中から大杉夫妻は和田に五円をやった。

 和田の妻が近々、三人目の子供を生むので、その心付けとしてである。

「そんなことをしては、明日からこっちが困るじゃないか」

 と、和田は遠慮して言ったが、大杉は、

「こっちはどうにかなるさ。細君に温かいものでも買ってやるさ、途中で使ってしまってはいけないぜ……」

 と、いつもの調子で笑っていた。

 そして、残りの金で、その晩みんなに寿司を取ったり、酒を買ったりして奢ってしまった。

 和田は「深く感激させられた」という。

 和田は「其の時分の僕の生活も随分ひどかつた」と書いているが、妻と子供ふたりの四人家族の和田の月給は、諸手当て込みで五十円にはならなかったという。


江渡狄嶺


★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)

★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)

★山川菊栄『おんな二代の記』(岩波文庫・2014年7月16日)


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2016年07月02日

第271回 クララ・サゼツキイ






文●ツルシカズヒコ



 大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、一九一八(大正七)年十一月一日に開かれた同志例会で、外国の新聞や雑誌の情報を入手していた大杉は、近くドイツで革命が起きることを予見したという。

 ドイツでは十一月三日にキール軍港の水兵の反乱が起き、十一月九日に皇帝が退位、ワイマール共和国が誕生する革命が進行中だった。

 ドイツが連合国との休戦協定に調印し、第一次世界大戦が終結したのは十一月十一日だった。

 十一月十五日の同志例会で、大杉はドイツ革命に言及し、その潮流が日本にも及び、社会民主党くらいはできるかもしれないなどと述べたという。

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 こういう世界情勢の中、野枝は『新小説』十二月号に「ロシアの一友に」を書いた。

 近藤憲二『一無政府主義者の回想』によれば、イワン・コズロフという「怪露人」がいた。

 コズロフはロシア人であるが、アメリカ生まれのアメリカ育ちなので、ロシア語は知らなかったらしい。

 コズロフはIWW(Industrial Workers of the World)の会員だった。

 一九一七(大正六)年ごろに来日し、レコード会社の仕事をしていたコズロフは、売文社に英会話を教えに来ていた。

 二十六、七歳だっという。

 コズロフ夫人のクララ・サゼツキイは、ロシア生まれのユダヤ人であり、アメリカではロシア・ユダヤ人無政府主義者団体に加わっていた。

『一無政府主義者の回想』の口絵写真の中に「大正6年ごろ有楽町の通称山勘横町にあった売文社に、ロシア人の客が訪ねてきたときの写真」があり、その写真にコズロフとクララも写っている。

 コズロフ夫妻には日本で生まれたスガチカという娘がいたが、その名前は菅野須賀子からとったという。

 スガチカは魔子と同じ歳だった。

 大杉夫妻とコズロフ夫妻は、のちに家族ぐるみのつき合いをする仲になる。





 大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、大杉がコズロフ夫妻に初めて面会したのは、一九一七(大正六)年十一月ごろだった。


 イワン・コズロフは一八九〇年ポーランド生まれのロシア人で、四歳の時、米国へ渡った。

 IWW(世界産業労働者)の組合員。


 ロシアに二月革命が成ったので、それまで米国に亡命していた革命派のグループは、日本を経て帰国するため、四月ころから来日する。

 その一人で、五月に家族と来た。

 彼らは売文社と交流があり、コズロフは日本のアナキストへの紹介を依頼、高畠が引き受けて、大杉との会談が実現した。

 グループはロシアへの入国を拒否されて目的を果たせず、米国に引き返すことになるが、彼は日本にとどまり、やがて大杉と親交する(沿革一)。


(大杉豊『日録・大杉栄伝』_p213)


「沿革一」は官憲の資料に基づいているということである。





「ロシアの一友に」は「欧州の婦人に与ふるの書」欄の中の一文であり、他に山川菊栄、岡田八千代、遠藤清子、山田わか(山田のみ「亜米利加の婦人に」)が執筆している。

 コズロフ夫妻はこの年の六月ごろ日本を発ち、モスクワに滞在中だった。

「ロシアの一友に」は、モスクワにいるクララ宛ての書簡形式で書かれている。

 野枝は冒頭にこう書いた。


 遥かなる露都にて

 クララ・サゼツキイ

 最近の新聞紙の報道によりますと、お国ではあの革命の祖母マダム・エカテリナ・プレシユコフスカイヤがボリシエヴヰキの政府に反抗した廉(かど)によつて銃殺されたと云ふ事ですが本当でせうか。


(「ロシアの一友に」/『新小説』1918年12月号・第23年第12号/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p61)


 しかし、ブレシコフスカヤが銃殺されたというのは誤報だった。

 ともかく野枝は、ブレシコフスカヤが真の革命家として、ボルシェビキに反抗したことに賛同している。

 アナキストである野枝ももちろん、反ボルシェビキの立場だからだ。





 貴族や資本家の圧制から漸く放されて自由になつたと思つてゐた民衆は、どんな心持でレニン政府の社会本位の圧制政治の支配を受けてゐるでせう。

 シベリアの雪中に埋められ、或は断頭台に処刑された幾多の人々は、こんな不自由な、専制的な革命を起さう為めの犠牲になつたのではなかつたのでせうに。

 万人の自由が少数の者の為めに指図されたり煩はされるやうな事があつてはならない筈です。

 ボリシエヴヰキの独裁政治はツアールの専制よりもより以上に悪(にく)むべきだと私は思ひます。


 クララ・サゼツキイ

 私は恐らくあなたが多くの人々の自由の為めに、今頃はきつと勇敢に戦つてゐらつしやる事と信じてゐます。

 ……多くのロシア人も……さう何時までも、現在のセントラリズムの独裁政治に屈従してゐる筈はあるまいと思ひます。

 まだもう一度や二度は革命戦争が繰り返される事でせう。

 レニンは今……大ロシア主義通りに統一しやうかと……夢中になつてその標榜してゐる労働者や農民の人間性に対しては非常に不親切でゐるやうですね。

 凡てが野心で一杯になつてゐる政治家のやうに彼もまた何も彼も概念的に片づけて行かうとしてゐるやうですが、そんな事でやつて行けるかどうかゞ観物ですね。


(「ロシアの一友に」/『新小説』1918年12月号・第23年第12号/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p61~63)





 ところで、大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、野枝が支持したブレシコフスカヤは、十二月三日に来京している。

 このときロシアの「革命婆さん」ブレシコフスカヤは、七十四歳だった。

 大杉らが売文社と合同で彼女の所説を聞く招待会を企図したが、高畠素之らの反対で実現しなかった。

 実は十二月四日、高畠と堺は彼女を基督教女子青年会館に訪ね、三十分ほど会話をした。

 彼女がボルシェビキ独裁を批判したので、高畠や堺との呼吸は合わなかったという。


★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)

★近藤憲二『一無政府主義者の回想』(平凡社・1965年6月30日)

★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)


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第270回 タイラント






文●ツルシカズヒコ



 吉田は「警察が恐くない」という妙な自信もあって、これも彼を慢心させ堕落に陥れた要因になった。

 大杉一家が滝野川の家に越してから間もなくだった。

 大杉が何かの用事で吉田の家に行くことになった。

 吉田と彼の啓蒙者であった水沼が住む浅草区田中町の裏長屋、ふたりはそこに「労働者相談所」の看板を掲げ小集会を開いていたが、一度その小集会に参加した大杉が野枝をぜひその家に連れて行きたいと言っていた。

 ある晩、野枝は大杉に連れられて、半ば好奇心から魔子をおぶって吉田の家に出かけて行った。

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 それは四畳半一間の家だった。

 四畳半の半畳が板の間の台所、突きあたりの押し入れは半分が押入れで、あとの半分が便所という住居だった。

 露路を入ると、なんとも言いようのない臭気がした。

 吉田の家に入った野枝は、そこでもその臭気に悩まされ続けた。

 話が弾んで、少し遅くなって帰ろうとすると、吉田が泊っていけとしきりに勧めた。

 野枝は無茶な申し出に驚いた。

 さすがに水沼は、

「こんなところに泊めちゃ、迷惑じゃないか」

 と、吉田を諌めていたが、吉田はいっこうおかまいなしだった。

「くっつき合って寝れば、八人は寝られる」

 吉田はムキになって主張する始末だった。

「後学のためだ、一つ我慢して泊まって見るか」

 と、大杉は野枝の方を振り向いて言った。

「とんだ後学だなあ……」

 水沼も野枝の顔を見ながら、気の毒そうに苦笑した。

「このへんの様子が、夜でちっともわからなかったろう? 明日の朝、もっとよく見て行くことにして泊ろうか。だいぶ遅くもあるようだし」

「ええ……」

 大杉がそう言うので、野枝も仕方なしに泊まることにした。

 薄い蒲団の中でのゴロ寝は窮屈だった。

 魔子を寒くないように窮屈でないように眠らすために、寝返りを打つこともできず、体が半分痺れたような痛さを我慢しながら、どうして一人ででも帰らなかったろう、と野枝は後悔した。

 大杉も眠れないらしく、魔子が少し動くとすぐ振り返った。

 吉田一人が気持よさそうに熟睡しているようだった。





 朝、水沼は早く仕事に出て行ってしまった。

 吉田が起きると、野枝と大杉も帯をしめ直し、顔を洗いに外に出た。

 ずらりと並んだ長屋の門なみに、人が立っていて野枝たちを不思議そうに見ていた。

 野枝は大急ぎで顔を洗うと、逃げるように家の中に入った。

 吉田によると、昨晩から刑事が三人も露路の中に入って来ているので、長屋中で驚いているという。

 野枝たち三人が家を出て、通りを少し歩いていると、すぐ後ろに尾行が三人くっついて来た。

「尾(つ)くのはかまわないですがね、もう少し後へ下がって尾ついて来てもらいたいですね」
 
 野枝はあんまりうるさいので、尾行のひとりにそう言った。

 彼はぷっと顔を膨らませて野枝を睨みつけたが、野枝はかまわず、急いで先を行く吉田と大杉に追いついた。

 しかし、彼らはやはりピッタリと三人のすぐ後を尾いて来る。

「おまえさんたち、私が言ったことがわらないのかしら?」
 
 野枝はさっきの男を睨みながら言った。

「よけいな指図は受けない」

 彼は憎々し気に野枝に言い返した。

「よけいな指図? おまえさんたちは尾行の原則、尾行の方法を知らないの?」

「よけいなことは言わなくてもいい」

 彼が恐ろしい顔つきをして言い終わったか終わらないうちに、大杉がそこまで引き返して来ていた。





「なにっ! もういっぺん、言ってみろ! 何がよけいなことだ。貴様らは、他人の迷惑になるように尾行をしろと言いつけられたか」

「迷惑だろうが迷惑であるまいが、こっちは職務でやっているんだ」

 彼は蒼くなって肩を聳かした。

「よし、貴様のような奴は相手にはしない。来いっ! 署長に談判してやる!」

 大杉はいきなりその男の喉首をつかんだ。

「何を乱暴な!」
 
 と叫んだが、彼はもう抵抗しえなかった。

 あとの二人は、腑甲斐なく道の両側に人目を避けるように別れて、オドオドした様子をしてついて来た。

 往来の人たちは、この奇妙な光景をボンヤリして見ていた。

 たいていの人たちは、首を締められて引きずられてゆく巡査の顔を見知っていた。

 吉田は真っ青な顔をしていた。

 吉田は大杉に日本堤の警察に案内するようにと言われて、妙に臆したような表情をチラと見せて、ろくに口もきかずに歩いた。

 それでも途中で一、二度知った人に訊かれると、

「なにね、あいつが馬鹿だからね、これから警察へしょっぴいて行ってとっちめるのさ」

 と、ちょっと得意らしく説明していた。





 日本堤署の署長はまだ出ていなかった。

 居合わせた警部は、引きずられてきた尾行の顔を見るとのぼせ上がってしまって、大杉や吉田の言うことには耳も貸さずに、のっけから検束するなどとわめき立てた。

 野枝はそっと署を出て近所で署長の家を尋ねた。

 署長の家はすぐにわかった。

 署長はもう出かけようとしているところだった。

 野枝が簡単にわけを話し、すぐ署の方に出かけるように促すと、そこに大杉と吉田が来た。

 署長は案外話がわかった。

 野枝たちは尾行を取り替えてもらって帰って来た。





 吉田にはこの小さなできごとが、よほど深い感銘を与えたのか、それから少しの間は絶えずこのことを吹聴して、警察は少しも恐れるに足らないと豪語していた。

 同志たちには苦笑いの種だったが、吉田は警察に対して急に強く出るようになった。

 警察をへこましてゆくたびに、吉田は増長していった。

 吉田の住んでいるあたりの人たちは、世間一般の人より、いっそう警察を恐れていた。

 その真ん中で、吉田は集会や演説会のたびに群らがってくる警官を、同志の力を借りては翻弄して見せて得意になっていた。

 同志たちはその稚気を、かなり大まかな心持ちで、笑い話の種にしていたが、彼は大真面目だった。

 確かに、吉田の話にはもっともな点がかなりあった。

 一般の労働者階級は警察を極度に恐れていると同時に極度に憎んでいる、だから自分たちが警察を相手に喧嘩することは、彼らの興味をひきつける最上の手段だというのだった。

 そう信じた吉田は、かなり無茶に暴れた。





 警察はこの無茶な男に手こずり出した。

 尾行の巡査たちは、この男のためにしくじりを少くするために、いろいろと猾いやり方を始めた。

 非常に自惚れの強い吉田は、尾行のおだてに乗るようになった。

 彼は馬鹿にされながら、自分だけは偉くなった気で威張っていた。

 狡猾な吉田は尾行を脅かして電車賃を立て替えさせたり、食べ物屋に案内させたりすることを、一人前になったかのように自慢していた。

 近隣の労働者に配布するチラシ「労働者相談所」を作り始めると、本職の鍛冶屋を辞めてしまい、チラシの印刷費の何割りかを広告から捻出しようと目論んだ。

 広告集めに奔走し始めた吉田を見て、大杉は憂慮するようになった。

「いい男だが、あの悪い方面が多く出てくるようになると、運動からはずれてしまう」

 はたして、吉田は悪辣な図々しさを発揮し、彼が警察をなめ切ってからは、ずんずんそれに輪をかけていった。





 増長しだした吉田に苦言を呈せるのは、彼を教育し助けてきた水沼と大杉だけだった。
 
 さすがの吉田も自分よりはずっと思慮分別も知識も優れた水沼には、一目も二目も置いていたが、やがて水沼も匙を投げるようになった。


 誰も彼も、彼の図々しさにおそれを成して、彼を避けて通るやうになりました。

 が、彼はこれを、自分のえらくなつたせいにしはじめたのです。

 其の頃に、彼はもういゝかげん、同志の中の、持てあまされたタイラントでした。

 もう少し前のやうに、誰も彼を大事にするものはありませんでした。


(「或る男の堕落」/『女性改造』19231923年11月号・第2巻第11号/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』)


★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)

★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 11:04 | TrackBack(0) | 本文

第269回 無遠慮






文●ツルシカズヒコ



 大杉一家が南葛飾郡亀戸町から、北豊島郡滝野川町田端の高台の家に引っ越したのは、一九一八(大正七)年夏だったが、この家には大勢の労働者、同志が出入りするようになった。

 和田久太郎はこのころの野枝が一番よかったと回想している。


 亀戸から田端へ移つて、それから西ヶ原、中山、駒込曙町と家を変つたが、此の間(あひだ)の、即ち大正七年の暮れから大正九年の夏頃までの野枝さんは中々よく活動した。

 僕は此の頃が野枝さんの一等よかつた時代だと思つてゐる。

 野枝さんは、自ら女工さん達の裡(うち)に飛び込んで行つてお友達になる事は出来なかつたが、大杉君の處へ集つて来る労働者に対しては、心から理解し合ひ、o親味のお友達となることが出来た。


(和田久太郎「僕の見た野枝さん」/『婦人公論』1923年11月・12月合併号_p22)

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 しかし、野枝は北風会会員の吉田一(はじめ)には、どうにも馴染めなかった。

 野枝の遺作「或る男の堕落」は、吉田について書いた作品である。

 野枝が吉田を初めて見たのは、米騒動の後、仲間の家で開かれた集会の席だった。


 その時の印象は、たゝ、何となく、今まで集まつてきた人達の話しぶりとは一種の違つた無遠慮さで、自分が見た騒動の話をしてゐましたのと、其の立ち上つて帰る時に見た、お尻の処にダラリと不恰好にいかにも間のぬけたようにブラ下げた、田舎々々した白縮緬(しろちりめん)の兵児帯(へこおび)とが私の頭に残つてゐました。

 彼はまだその時までは、新宿辺で鍛冶屋の職人をしていたのです。


(「或る男の堕落」/『女性改造』1923年11月号・第2巻第11号/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』)


 野枝が吉田を初めて見た集会とは、八月二十四日に下谷区上野桜木町の有吉三吉宅で開かれた「米騒動茶話会」のことであろう。

『日録・大杉栄伝』によれば、当時、吉田は「車両会社の鍛冶職」をしていた。





 大杉一家が滝野川に引っ越したころから、吉田は頻繁に来訪するようになった。

 彼がまだ遠慮していたころは、無学だがなかなか理解力があるこの労働者を、野枝は興味深く眺めていた。

 同志の間の吉田の評判もなかなかよかった。

 しかし、彼が無遠慮のハメを外すようになってきたころから、野枝は彼の粗野なところが気になりだした。

 大杉も野枝も来客の無遠慮はむしろ望むところだったが、吉田の無遠慮には野枝の眉をひそめさせるものがあった。

 当初、自分の方に問題があるのかもしれないと思ったこともあった野枝だが、どうしても彼を許すことができなかった。

 野枝は大杉によくこぼした。





「吉田さんの無遠慮はいいけれど、このごろのようだと本当に閉口しますわ」

「どうして?」

「どうしてって、火鉢の中にペッペッと唾を吐いたり、わざと泥足で縁側を歩いたり。どこか不自然な誇張があるんですもの」

「うん、まあそんなところもあるね。だが、僕らのこんな生活でも、やはりときどきは癪に障るんだよ。階級的反感さ。まあ、気にしないことだね」

「でも、ときどきは本当に腹が立ちますよ。あの人、ここに来てずいぶん気持ちよさそうな顔をしてるじゃありませんか」

 昼間から大声で流行歌などを歌いながら風呂に入り、湯から上がると二階の縁側の籐椅子の上に寝転んで、とろけそうな顔をして日向ぼっこをしている吉田の姿などを思い出しながら、野枝が言った。

「無邪気ないい男なんだよ。だが、あなたの気にするようなデリカシイは、あの男には持ち合わせがないんだ。あなたのような人は、あんな男は、小説の中の人間でも見るようなつもりで、もっと距離を置いて見るんだよ。あの男は本当の野蛮人だからね。あいつが山羊や茶ア公とふざけているときを御覧。一番楽しそうだよ。すっかり仲間になり切っているからね」





 本当にそれは一番の愉快さうな時でした。

 彼は私の家の庭つゞきの広い南向きの斜面の原つぱで、私共の大きな飼犬と山羊を相手にころがりまはりました。

 彼のがつしりした、私には寧ろ恐ろしい程な動物的な感じのする体が真白な山羊の体と一緒に犬に追はれながら、まるで子供の体のやうにころがりまはるのです。

 さうしては青い草の中に一ぱい陽をあびて、ゴロリと横になつては犬をからかつてゐました。


(「或る男の堕落」/『女性改造』1923年11月号・第2巻第11号/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』)


 後述するが、当時、大杉家では犬の他に牝山羊を飼っていた。





 野枝の中にも吉田を小説の中の人間でも見るような視点はあったが、吉田の中に深く根ざしている、他人の心の底を窺うような狡猾さ、他人の好意につけ込む図々しさと執拗さに、野枝はどうしても目をつぶるわけにはいかなかった。

 しかし、そのころ、吉田は非常に熱心に運動をしていた。

『日録・大杉栄伝』によれば、吉田は同志の水沼辰夫浅草区田中町の裏長屋に住んでいたが、「労働者相談所」の看板を掲げ、組織されていない人夫や野外労働者を対象とした運動を企て、小集会をしたり、大杉が執筆した「労働者相談所」というチラシを近隣の労働者に配布したりしていた。

 吉田はメキメキと頭角をあらわすようになった。

 自分の姓名さえも満足に書くことができない吉田が、いつのまにか難しい理屈を複雑な言葉で自由に話すよになったのには、同志のみんなが感心した。

 彼の質問攻めにはみんなが悩まされたが、しかし、一度腹に入った理屈を立派に自分のものにコナしてしまう頭を彼は持っていた。

 他人同士の会話にも無理やり入り込んで、その会話を台なしにしてまでも、吉田は執拗な質問攻めをして耳学問を磨いていった。

 吉田は聞きかじった理屈を、自分の過去の生活に当てはめてるみることも忘れなかった。

 聞きかじりの間違った言葉や理屈で、若い同志たちに笑われることもよくあったが、吉田はそんなことで凹(へこ)みはしなかった。





 大杉や野枝のまわりには大勢の労働者が集まって来たが、たいては「信友会」などの活版印刷工で、そうひどい肉体労働をするわけでもなく、知的レベルもかなり進んでいる人が多かった。

 そうした中で、単純で無知だが労働者として大杉の言わんとすることをよく理解する人夫や野外労働者に対する宣伝において、吉田の辣腕が光っていたので、大杉はじめ同志たちの彼の評価は高かった。

 それを吉田が見て取ったころから、彼の無遠慮にますます嫌な誇張が多くなってきたと、野枝は感じていた。

 彼はわざと垢と脂で真っ黒な着物を着ては、ゴロゴロと畳の上に寝転ぶようになったり、

「虱(しらみ)なんかを嫌がって、労働運動面もあるもんか」

 と、豪語しながらわざとかゆくもない体をボリボリかいたりしだした。


★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)

★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)

★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)


●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)『秩父事件再発見』(新日本出版社)など。
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