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2016年03月24日

第49回 若い燕(一)






文●ツルシカズヒコ


 らいてうが奥村から受け取った手紙の文面は、こんなふうだった。


 それは夕日の光たゆたっている国のことでした。

 その国の、とある海辺の沼に二羽の可愛い鴛鴦(おしどり)が住んで居りました。

 それはそれは大そう睦まじく……いつもいつも一緒でないことはありませんでした。

 そして姉の鴛鴦は口癖のように《私の子供》と言っては妹鳥のことを話す程でした。

 とある夏の日のことでした。

 若い燕には赤い憧れの夢があったのです。

 燕はみずからその夢を覗いて見ては、何よりもの楽しみにして居りました。

 燕はそれ程に若く、そうしてまた実際美しかったのでした。

 すると、その燕の夢の鏡の中に、何処からともなく映った影がありました。

 ……燕はその夏の幾日かをこの姉妹の鴛鴦の沼に来ては共におもしろく遊んでは帰りました。

 ある日のこと、みんなして海へ行って帰りが遅くなってしまって、とうとうその沼のほとりに泊まることになりました。

 ……雷と稲妻のとてもとても烈しい晩でしたので燕は眠られずに居りましたら、姉鴛鴦が迎いに来て《私の巣に来ておやすみ》と言うのでした。

 それから燕はそのまま伴われて姉鴛鴦の巣まで来てしまいました。

 そうしてその夜は明けたのでした。

 しかし燕はその夜のことをもうよく覚えては居りません。

 心の稚ない燕には、それを覚えているには余り荷がかち過ぎたのでした。

 それきり燕はその沼のほとりを飛んでしまいました。

 そしてとある嶋に渡ってしまったのでした。

 そして燕の淋しさは姉鴛鴦から貰う手紙やいろいろの本などに嶋の秋を慰めて居りました。

 するとある日のこと、突然思いがけなく妹の鴛鴦からてんで見当違いの手紙が舞い込みました。

 それは燕に宛てた絶交状でした。

 燕は一度は怒りました。

 一度は悲しみました。

 が、それもいっとき、やがてものを落着いて思わせられるようになりました。

 かれこれしているうちに秋も半ばになりました。

 ……燕は、もうその頃には昔のままの燕ではありませんでした。

 で、時にはこんなふうに考えることがありました。

《さてさてこうした呑気な日もいつまで続くことだろう。いやいやこんなくだらぬ騒ぎに捲き込まれてぐずぐずしている間に、自分の仕事はどんなふうになるのだろう。自分は男だ。自分の仕事が何より大事だ。殊に自分が手を引けば変になった姉妹の仲もまた甦ろうというものだ》

 そしてこのことを長い手紙に書いて姉妹の鴛鴦に送り、自分というものーー燕というものを忘れてもらうように二人に頼みました。

 燕は……しじゅう鴛鴦のことを思い出さぬ日とてはありませんでしたが、……鴛鴦たちはやがて……燕のことなど忘れてしまって、《燕とはいったい何処の野良鳥だろう》などと言うようになりましたとさ。

 九月十七日 嶋を去る日に H生

 そのかみのロゼッチの女の君へ


(奥村博史『めぐりあい 運命序曲』_p71~72)

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 これを読んだらいてうは奥村に小包を送った。


 浩が急いで包みを解くと前田夕暮の新刊歌集『陰影』が出た。

(おや?)と思いながら開いてみると見返しの中央にーー

 あれは、あの美しい鳥が燕というのでしたの。

 けれどほんとうにね、私の知っている、そうして愛している燕なら、きっとまた季節が来ると気まぐれにでも街中のあの酒屋の軒を訪れることをよもや忘れやしないでしょうね。

 きっときっとまた季節が来ると。

 と書いてある。

 そして頁を返すと、裏にまたーー

 おしどりが時たま沼の水を濁したからって……何でそれがあの若い燕の艶のいい翅をよごすものですか。

 燕はいつまでもいつまでも蒼空に清い美しい夢を描いていればいいじゃありませんか。

 ほんとうにね。

 私の知っている、そうして愛しているあの燕なら、そうそう小利口な分別くさい鳥じゃない筈ですが。

 ……と書いてある。

 ……昭子はあの燕の手紙の怪しいことを、その上それが彼の本心から出たもので無いことまでも、既にはっきり見抜いてしまっているもののように思われた。

《火種はまだ残っている。しかし、そうは言っても……いや、そうじゃない……》


(奥村博史『めぐりあい 運命序曲』_p73~74)





 結局、らいてうと奥村の関係はひとまず途絶えるのだが、らいてうはこの一件をこう回想している。


 その手紙というのは「池の中で二羽の水鳥たちが仲よく遊んでいたところへ、一羽の若い燕が飛んできて池の水を濁し、騒ぎが起こった。この思いがけない結果に驚いた若い燕は、池の平和のために飛び去って行く」というような筋で、いろいろのことが巧みに寓話のなかに織りこまれていました。

 わたくしにはあまりに奥村の人柄にそぐわない技巧的な、気取った文章がどうも気にかかりました。

 あとでわかったことですが……新妻さんが仕組んだ筋書だったのです。

 ……このときから「若い燕」ということばが時の流行語となり、いまなお生きているようです。

 これは若き日の新妻さんの創作から生まれたことばなのでした。


(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』_p391~392)




 
 このらいてうの回想について、堀場清子が気になる指摘をしている。


 この記述は、二つの点で首をかしげさせる。

 まず「水鳥」が、原文(「めぐりあい」)では「鴛鴦(おしどり)」だが、この言い換えで「鴛(えん)」と「鴦(おう)」のセクシャルな含みが消え、意味が通らない。

 流行語となるには、世間に拡めるプロモーターが不可欠だが、紅吉を庇って指摘を避けているため、流行語となった経過が納得されない。

 後に再会した恋人たちは、紅吉が「方々へ行って若い燕の話をばらまきましたからね」(同前)と語りあうのだが。


(堀場清子『青鞜の時代』_p135)


「(同前)」は『世界』一九五六(昭和三十一)年二・三月号に掲載された座談会「〈青鞜社〉のころ」である。

 この堀場の指摘については、記述をもう少し前に進めてから、言及してみたい。



★奥村博史『めぐりあい 運命序曲』(現代社・1956年9月30日)

★『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(大月書店・1971年9月6日)

★堀場清子『青鞜の時代』(岩波新書・1988年3月22日)



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 21:22| 本文

第48回 新妻莞






文●ツルシカズヒコ



 奥村は藤沢の実家から転送されて来た、紅吉からの二通めの手紙を受け取った。

 簡単な絶交状だったが、奥村はともかくらいてうに知らせておこうと思い、さっそく手紙を書いた。


 手紙と《青鞜》ありがとう。

 雑誌は待ち切れず、三崎郵便局まで取りに行きました。

 きょうしげりからこんな手紙を貰いました(別に二通の写しが添えてある)が、何んにも知らないわたしは これに対していったいどうしたら好いでしょう?

 しかし、ほんとうのところ、この時からあなたとしげりの関係というものが、わたしには全く新しい謎として何か妙に薄気味悪いものに映って来ましたが、なぜでしょう?

 もし違ったら許して下さい。

 九月四日 浩


(奥村博史『めぐりあい 運命序曲』_p62)

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 この手紙と行き違いに、帰京したらいてうから奥村に手紙が届いた。


 私は茅ガ崎から今戻ったところです。

 私の知らぬまにしげりがあなたの藤沢のお宅宛に絶交状を出したそうですが、私の子供はもの狂おしくなりました。

 あなたの詩の書かれたはがきは、そのとき丁度私の部屋に来ていたしげりの目にいちはやく触れました。

 何も知らない、何の罪もないあなたに絶交状を送ったしげりを悲しんでいる私は、恐ろしい復讐をあなたに対して企てたと聞いたときどんなに驚いたことでしょう。

 けれどご安心下さい。

 しげりの心はやや平穏を得て来ました。

 私はしげりの今度の行動に対する責任のすべてを負う覚悟をしています。

 あなたに対してしたあの発作的な無法の行為のかずかずをどうか咎めないで下さい。

 あの可哀そうな心情も憐れんでやって下さい。

 けれど今夕限り私はしげりを失いました。

 あなたを想う私の愛に生きることの不安に堪えないというしげりと私は涙を呑んで別れて来ました。

 九月四日 昭


(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』_p63~64)





 この手紙を読んだ奥村は唖然としたが、奥村自身もらいてうを想う自分の心の迷いがなくなった。


 きょうも三時を過ぎると雨の中を渡し場まで出かけて行きました。

 そして三崎から来る舟の中に郵便配達の帽子が見えたときわたしの胸は俄に騒ぎました。

 やがて舟が着いてこっちから言葉をかけるまでもなく、もう見知りごしのわたしの手に手紙と小包が渡されました。

 ほんとに嬉しかった。

 ほんとに有難う!

 九月七日 浩


(奥村博史『めぐりあい 運命序曲』_p65)





 そんなおり、突然、城ヶ島の宿に滞在中の奥村を新妻莞(にいづま・かん)が訪ねて来た。

 後の『サンデー毎日』編集長、新妻莞である。

 新妻も前田夕暮が主宰する短歌雑誌『詩歌』の同人で、奥村の先輩格にあたるが、さほど親しい仲ではなかった。

 新妻は「歌心を肥やす目的でやって来た」と言い、ふたりは奥村の部屋でしばらく起居をともにすることになった。

 新妻は奥村に届く女性からの手紙や小包に興味を示し、その送り主が煤煙事件で有名なあの青鞜社の平塚らいてうであることを知り、驚いた。

 らいてうから奥村に届く郵便物が、新妻に筒抜けになった。

 明治天皇の大喪の礼が執り行われたのは九月十三日だったが、紅吉が南湖院から退院したのは翌十四日だった。

 らいてうは奥村宛ての手紙に、こう書いている。


 とうとう明治も終わりましたね。

 ゆうべ私は家を飛び出して白い高張提灯の並ぶ諒闇の淋しい町をひとりさまよい歩きながら、わけもなく涙が流れて……。

 しげりは今日午後退院して小母さんに送られて帰京するのです。

 私はよろこばずにはいられません。

 けれど、わずかの間にこうも変りはてたふたりの仲を思うとき、私はどう考えても涙を綺麗にぬぐい去ることが出来ないのです。


(奥村博史『めぐりあい 運命序曲』_p68)





 この手紙を読んだ新妻は、強度の近視の眼鏡の内の眼を異様に鋭く輝かせ、奥村に煤煙事件について語り、らいてうと紅吉と絶交すべきだと強く主張した。

 やがて、新妻はひとつの寓話を作り上げ、それをさも得意気に奥村につきつけながら言った。

「さ、博くん! これを写し給え、そうして平塚と紅吉に送ろう。君のために今あんなへんちくりんな女たちと絶交することが一番大事なんだから……ね、そうしよう!」

 奥村はらいてうと紅吉の関係に関しても何かもやもやしたものが醸し出され、茅ケ崎で泊まった日のことまでを妙に憶い出した。

 雨にばかり呪われ、せっかく取りかかった絵が頓挫したことが、奥村の憂鬱に輪をかけた。

 奥村はらいてうと紅吉に絶交する決意をして、新妻が書いた原稿を写し始めた。

 一九一二(大正元)年九月十七日、二通の絶交状を城ヶ島のポストに投函した新妻と奥村は、秋雨の中、島を去った。




★奥村博史『めぐりあい 運命序曲』(現代社・1956年9月30日)

★『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(大月書店・1971年9月6日)




●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 20:01| 本文

第47回 モンスター






文●ツルシカズヒコ



 奥村は画家の視点で、らいてうをヴァン・ダイクが描いた『オランジュ公と許嫁』のプリンセス・マリイのようで、さらにボッティチェッリラファエロが描くマドンナが「この人の内にある」と思った。


 中世の貴族を思わす端正な顔、小柄ながらバランスの良くとれた体躯、充実して生きいきとした小麦色の皮膚、聡明さをあらわす額、それにかかるどこやらいたずらっけの交じった渦巻く煉絹のように柔かい癖毛。

 いつも中心を動かぬ、山の湖を思わすーーそのじつ底知れぬパスションを内蔵するかに見えるーー物を射るような鳶色の大きい瞳。

 絶えず何ものかを求めて燃える唇!

 そして腹部から腰に連らなる線のいっかな物に動じぬ牝豹のような、しかし、どこやら未成熟な少女のからだつき。

 むっちり肉の盛り上った、人一倍小さい可愛い可愛い子供そのままの手。

 もし難を言うならば胸のあたりの寂しさだが、これがこの人と矛盾した静的な印象を見る者に与えることであろう。

 おしろいけのないのがいっそう彼の気に入った。


(奥村博史『めぐりあい 運命序曲』_p54)

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 絵を描くために城ヶ島に行き、部屋を借りた奥村はこう返信した。


 見たところ、おかしいほど良助の家によく似ています。

 紅いかんなの花も咲いているし、その上グラスの赤い風鈴までが同じように部屋の天井にぶら下がっていて何だか妙な気持になります。

 これでもしあなたが居て下さったら、と思うのはわたしの贅沢(リュックス ※仏語のluxe)というものでしょうか?

 これが嶋で書く最初の手紙です。

 あなたからもお便り下さい。

 九月一日 浩


(奥村博史『めぐりあい 運命序曲』_p55)


 翌日、奥村は前夜、床の中で浮かんだ詩を葉書に書いて、らいてうに出した。


 やみのよの おもひはなみに ただよひて かなしみの はてもなし

 はるかなる きみがこころに よせてはかへす わがおもひ いまあらたなる


(奥村博史『めぐりあい 運命序曲』_p56)





 奥村はまもなく、らいてうからの手紙を受け取った。


 あなたの自画像の前で私は静かに読書しています。

 けれども、ふとしたことで私の心はたちまち烈しく波立ちます。

 そしていつか同じ頁ばかり見つめています。

 小母さんが茅ガ崎から持って来た東さんの撮ったあなたの写真を留守中にそっと出して何度覗いたことでしょう。

 しまいにはあなたの絵と並べて立てて置いたんです。

 笑わないで下さい。

 私は口に出してそれを欲しいと小母さんに言いはしませんでしたけれど、もう駄目です。

 小母さんはそれを持ってしげりといっしょにゆうべ茅ガ崎へ帰ってしまいました。

 記念号はゆうべ遅くできて来ました。

 さっそくお送りします。

《青鞜》の記念号はやがてふたりの記念号でもあることをどうぞ覚えていて下さい。

 九月三日 昭


(奥村博史『めぐりあい 運命序曲』_p56~57)





「東」は馬入川での船遊びのときに、棹をさばいた小野青年のことだ。

 奥村が城ヶ島の灯台の下で絵を描いた日のことだった。

 絵は断崖から海を見下ろした横長の構図で、奥村は完成した感じまでが目に浮かんで愉しかったが、秋の日の晴れたり曇ったりの天候の激変が煩わしく気がかりだった。 

 奥村が宿に戻ると、藤沢の実家に届いた手紙が転送されていた。

 紅吉からの手紙だった。


 きのう午後、広岡の家であなたの悲しい詩の書いてあるはがきを見た。

 あなたにはもちろん何の罪もないのです。

 罪はないがきっときっとこの復讐はするつもりです。

 私はあなたによって生きることの出来ない傷を受けたのです。

 私の前途は暗くなった。

 広岡を私は恋しています。

 私は近いうちにあからさまにこの間のことをある場所で書き出すつもりです。

 きっと書きます。

 あなたの名前も手紙も詩もみんなその通り発表します。

 私は最近ある人からあなたのことをよく聞いた。

 あなたの両親宛にも書くつもりです。

 モンスター


(奥村博史『めぐりあい 運命序曲』_p60)





 らいてうは当時の紅吉との関係を、こう書いている。


 紅吉の手紙のなかに「私はらいてうを恋しています」などと書いてあるのを見て、奥村はさぞ理解に余ったことでしょう。

 変わり者の紅吉が、そのころわたくしに夢中になっていたことは事実でした。

 それを他から見て同性愛というならば、紅吉のわたくしに対して抱いた感情は、「同性への恋」であったのでしょうが、わたくしとしては紅吉の生まれながらもっている類のない個性的な魅力にとらわれていたことは事実としても、いわゆる同性愛的な気持で、紅吉をうけいれていたのではありません。

 ……それが同性愛でなかったことは、奥村に大きく傾いたわたくしのそれからの心の動きが、正直に物語っているといえましょう。


(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』_p388)



★奥村博史『めぐりあい 運命序曲』(現代社・1956年9月30日)

★『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(大月書店・1971年9月6日)




●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 18:24| 本文

第46回 ロゼッチの女






文●ツルシカズヒコ



 伊藤野枝「雑音」(『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』)に、らいてうと奥村が一夜をともにした件について、紅吉が野枝に語って聞かせる場面がある。

「雑音(十六)」によれば、らいてうと奥村が一夜をともにしたのは、らいてうが一時帰京するはずだった日の夜だという。

 その日、奥村が南湖院に来たので、紅吉の病室でらいてう、保持、奥村、紅吉の四人で遅くまで話をして、結局、奥村は保持が寝泊まりしている小屋に泊まることになった。

 紅吉はいやな予感がして、眠るどころではなかった。

 じっとしていられなくなり、病室を抜け出し、奥村がいるはずの小屋に行ってみた。

 人の気がないので思い切って戸を開けて見ると、案の定、誰も寝ていなかった。

 敷かれた蒲団にも人が寝たような気配はなかった。

 手で蒲団に触ってみたが、冷たくて人肌の温(ぬく)みがない。

 その瞬間、紅吉はらいてうが奥村を自分の部屋に連れて行ったに違いないと思ったが、夜中なので仕方なく、一睡もせずに夜明けを待った。

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 そして「雑音(十七)」によれば、朝五時ごろ、紅吉はらいてうの宿に駆けて行った。

 すでに起きていたおかみさんが家の外に出ていたが、おかみさんは紅吉の顔を見るとひどく慌てて家の中に入って行った。

 紅吉は胸がドキドキして頭がボーッとしたが、らいてうが間借りしている部屋を開けてみた。

 らいてうの影は見えなかったが、床が並べて敷いてあり、見覚えのある奥村のスケッチ箱や三脚が置いてあった。

 紅吉がおかみさんにふたりはどこに行ったのかと尋ねると、「浜へお出でになったんでしょう」と決まりが悪そうに答えた。

 おかみさんの後について浜の方に行くと、向こうから毛布にくるまったらいてうと奥村が歩いて来た。

 紅吉はカッとなったが、ふたりを迎え、しばらく浜で遊んだ。

 紅吉は不快で不快で面白くもなんともなかった。





 紅吉は病院に帰ってから、保持に黙っていようと思ったが、黙っていられず、すっかり話してしまった。

 保持は紅吉に同情してくれた。

 その日もらいてうと奥村は一日、茅ヶ崎で遊び暮らした。

 夜、奥村は藤沢に帰ると言って病院を出た。

 しかし、紅吉は奥村が帰ったとはどうしても思えず、その夜も眠らず朝を迎えた。

 朝、らいてうの宿に裏から入って行くと、らいてうの部屋の戸は閉じていて、ふたりの下駄が沓脱ぎの上に麗々と揃えて置いてあった。

 ここで紅吉は野枝に、こう語りかけている。

「ね、野枝さん、そういう意地の悪いことをあの人はするんです」

 紅吉はその場に立ちすくんでしまい、しばらく泣いていた。

 真っ紅な鶏頭が咲いていた。

「平塚さん、さようなら!」

 紅吉は力一杯の声を張り上げて怒鳴って駆け出し、病院に帰ってきた。

『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(p388~389)によれば、この後、逆上した紅吉は「きっとこの復讐はするつもりです」という脅迫状を奥村に送ったり、東京に帰ったらいてうのもとへ、保持から「紅吉が剃刀をといでいる」という手紙も届いた。

「雑音(十七)」の紅吉の証言によれば、奥村は二夜連続らいてうと床を並べて寝たことになるが、『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』にも、奥村博史『めぐりあい 運命序曲』にも、その記述がない。

 紅吉の「妄想」とも考えられるが、真相は不明だ。





 らいてうは奥村に手紙を書いた。


 これを書く私の手があんまり震えるのを私は只じっと眺めているのです。

 あれからいつも美しいこと悲しいことばかり夢見てる私をどうぞときどき思い出して下さい。

 私の子供(しげりのことを、なぜか昭子はこう呼んでいる)は、あなたからもう便りがありそうなものだと言っています。

 私の子供を可愛がってやって下さい。

 嫉妬深い心にも同情してやって下さい。

 私は三十日までここに居ります。

 それまでにあなたの絵をぜひ一枚頂きたい。

 あなたの自画像ならなお好いのですけれど、こんなこと聞いて頂けるかと心配です。

 三十日の夕刻までに。


(奥村博史『めぐりあい 運命序曲』_p53)


 らいてうはこの手紙に、南郷の弁天様の境内で撮った記念写真を同封した。


 海水帽に浴衣がけの男の方は評論家の生田長江先生で、一番右の端にお行儀よく立っていられるのが先生の奥様です。

 しげりは坊やのように可愛くとれましたでしょう。

 ある人は私をロゼッチの女だと言いました。

 お便り心からお待ちしております。

 八月二十七日  昭


(奥村博史『めぐりあい 運命序曲』_p53)



★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)

★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)

★『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(大月書店・1971年9月6日)

★奥村博史『めぐりあい 運命序曲』(現代社・1956年9月30日)



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第45回 雷鳴






文●ツルシカズヒコ



 西村と奥村が南湖院を訪れてから二、三日すると、写生の帰りだといって画材を持った奥村が突然、らいてうの宿を訪ねて来た。

 描き上がったばかりの「南郷」という松林のスケッチを見せてもらったらいてうは、ふと『青鞜』一周年記念号の表紙を奥村に描いてもらいたいと思い、さっそく依頼した。

 それから二、三日した日の夕方、奥村が表紙絵の図案を持って来た。

 その夜、らいてう、奥村、保持、紅吉は馬入川(ばにゅうがわ)の河口の柳島から小舟を出した。

 棹をさばいたのは、後に保持の夫になる結核回復期の小野という元気な青年だった。

 月夜だった。

 馬入川の船遊びは五人に時を忘れさせた。

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 藤沢に帰る汽車に乗り遅れた奥村が、保持が寝起きしている南湖院の松林の奥にぽつんと立っている、古びた藁屋の小屋のような一軒家に泊まることになった。

 保持は病院の誰かの部屋に、紅吉は自分の病室へ、らいてうは自分の宿である漁師の家へ、それぞれ引き上げた。

 みんなが寝床についたころ、遠雷が聞こえた。

 瞬く間に激しい雷鳴となり、闇に稲妻が閃めいた。

 らいてうは病院の死亡室のそばにある、不気味な一軒家に泊まっている奥村のことが心配になった。

 宿のおかみさんに提灯を持ってつき添ってもらい、松林を切り裂く稲妻の中を奥村を迎えに行った。

 奥村をらいてうの部屋に泊めることにして、ふたりは提灯持ちのおかみさんの後について松林の中を抜け、ようやく病院の裏門を出た。

 強烈な光の一閃と雷鳴の一撃を全身に受けた瞬間、らいてうは奥村の体でかたく包まれていた。

「落ちた!」

 先に駆け出したおかみさんに続いて、ふたりは甘藷畑を踏み越え、大粒の雨の中を宿まで走り続けた。

 ふたりは宿から粗い滝縞のお揃いの浴衣を借りた。

 漁師の大漁祝いの浴衣だった。

 長身の奥村には裄(ゆき)も丈もつんつるてんで、子供のようにあどけなく見えた。





 女ひとりの部屋に連れてこられた奥村は戸惑ってはいたが、悪びれるふうでもなく、らいてうはなんとなく好もしいものに思った。

 大きな緑色の蚊帳の中に寝床を並べた。


 部屋の闇を切り裂く稲妻の光りが、ようやく間遠になってゆくとき、わたくしはこちらから隣りの寝床の方に静かに手をさしのべて、彼の熱い血潮にふれたいような衝動を抑えかねたほどでした。

(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』_P387)


 しばしまどろんだふたりは、東の空が明るくなりだしたころ、海岸に出た。


 ……指をからませながら二人寄りそって、人影はもとより、足あとの一つも残っていない広々とした浜辺を歩くとき、わたしの心は水平線のかなたまで無限にひろがって、満ちあふれる生命の幸福感でいっぱいになっていました。

(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』_P387)





 と、らいてうはこの一夜を記しているが、奥村はこう回想している。


 灯を消した昭子の部屋のま新しく匂う緑の蚊帳のうちに、遠のく雷鳴を聞くともなく、ふたりの心もいつか和み、話も途絶えたひととき……うとうととする浩の手に何か触れたかと思うと、引き寄せられて闇に燃える焔の花びらは彼の唇に火を移した。

 ……と、みるみる彼の血潮はみなぎり溢れて快いヴィブラァションが全細胞をたぎりたたせた。

 蘭の花を思わせるひとの匂に彼は息づまり、愉悦の嵐に身を巻きこまれて危うく濁流に押し流されそうである。

 しかし……。

 ーーそれを享受するには浩は余り純真であり、歓ぶには何か怖ろしかった。

 ーー肉体と精神の不協和音(ストナンテ/※筆者註 stonanteはイタリア語の不協和音)の悩み!

 ついに彼はこのとき逃れて元に戻ってしまった……。


(奥村博史『めぐりあい 運命序曲』_P44)


「昭子」はらいてう、「浩」は奥村のことである。

 茅ケ崎に泊まった夜のことを想い、奥村は心が動乱したという。





 夏の海辺の気やすさか、昭子に初めて遇ってからものの七日と経たぬ日の事である。

 人を疑うことを知らぬ彼も、相手の真意を測りかねて苦しんだ。

 心は強く惹かれながらもその判断にひとり迷い悩んだ。

 しかし、昭子のあの燿いた眼を思うとき浩にいっさいが消え失せた。

 それほど偽りのない眼である。

ーー(本気になると女は大胆になるんだろうか、やっぱり、ああするよりほかに愛し方はないのかしら? ああ、またあの人に会いたい!)

 彼は今にして女性に秘められた愛情の一端を覗いたように思った。


(奥村博史『めぐりあい 運命序曲』_p45)


 らいてうは触れていないが、どうやら海禅寺の中原秀岳の唇を奪ったように、彼女は突然,
奥村に接吻をしたようだ。




★『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(大月書店・1971年9月6日)

★奥村博史『めぐりあい 運命序曲』(現代社・1956年9月30日)



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 14:37| 本文

第44回 運命序曲






文●ツルシカズヒコ



『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(p381)と奥村博史『めぐりあい 運命序曲』(p31~32)によれば、一九一二(大正元)年八月の半ばを過ぎた日のことである。

 この日の午前中、奥村博は実家から一キロの距離にある東海道線・藤沢駅に出かけた。

 父親の知り合いから荷物を受け取るためである。

 骨太で長身、真っ黒な長髪を真ん中からわけた面長の奥村が、一、二等待合室で上り列車が入ってくるのを待っていると、向かいの席に座っている男が手にしている雑誌の『朱樂(ざんぼあ)』という表紙文字が目に入った。

『朱樂』は北原白秋が主宰する詩歌雑誌で、自分よりも若そうな男が手にしているのは、その最新号だった。

 奥村は見たくてたまらなくなり、男に声をかけて見せてもらった。

 奥村は自分は洋画修業中の画学生であり、詩歌にも興味があり前田夕暮が創刊した『詩歌』の同人であると言った。

『朱樂』を手にしていた西村陽吉は、自分も歌作をしていると語った。

 まもなく黒い煙をはいた上り列車がホームに滑り込んできた。

 奥村の父の知人が客車から素早くホームに下りて来て、奥村に紙包みを渡し、あわただしくまた客車に乗り込んだ。

 まだ朝飯をすませていなかった西村と奥村は、近くの料理屋で朝食には似合わない鰻丼を食べた。

 ふたりは打ち解けた会話を交わし、奥村は自分より年下の西村が、前田夕暮の歌集『収穫』を刊行し『朱樂』の版元でもある、東雲堂の若主人であることを知った。

「これから茅ヶ崎の南湖院へ用があって行くのですが、ご一緒にどうです?」

 という西村の誘いに、奥村は道案内をかねて同行することにした。

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 日本橋の東雲堂書店は、この年の春に逝った石川啄木の第一歌集『一握の砂』や第二歌集『悲しき玩具』、あるいは北原白秋の処女詩集『邪宗門』などを刊行し、当時、新しい才能を発掘する文芸・評論関係の出版社として名が通っていた。

 この日、西村が南湖院を訪れたのは、創刊一周年記念号から『青鞜』の発行・発売など経営に関する事務を東雲堂が引き受けることになり、その最終打ち合わせをするためだった。

『青鞜』と西村の間を取り持ったのは、かねてから西村と知り合いだった紅吉である。

『青鞜』創刊号の部数は千部だったが、結果的に東雲堂との提携は功を奏し、最大三千部まで部数が伸びた。

 西村と奥村が南湖院に着いたのは、十時をたいぶ過ぎたころだった。

 ふたりはなんの装飾もないがらんとした、休日の病院の応接室に通された。

 テーブルにはらいてう、保持、紅吉の三人が並んで座っていた。

 奥村は三人の中のひとり、らいてうと視線が合った刹那、そのまま視線がそこに釘づけにされた。

 らいてうもジーッと鋭い視線を固定させたままだった。

 奥村の自己紹介がすむと、青鞜社の社員と西村の話し合いが始まったが、奥村はまったく口を挟まなかった。

 らいてうの奥村の第一印象は、こうだった。



 

 といって悪びれた態度はみじんもなく、黙ってみんなの話に耳を傾ける顔の表情の、軽くつまんだような上唇のあたりに漂う、あどけないほどの純良さが、わたくしにはひと目で好もしいものに思われました。

 しかし、身のこなしに品のあるこの画家らしい青年の、テーブルの上におかれた大きな白い手を見ると、長い指に黒々とした毛が生えていて、それが、ひどく奇妙なものに眺められました。


(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』_p383)


 奥村はらいてうの第一印象をこう書いている。


 これまで見たこともない無造作の、真中から二つに分け、三つ組に編んで襟元で束ねた髪に結い、思いきって荒い滝縞の浴衣に薄はなだ色のカシミヤの袴をはいた、すっきりした広岡の姿が彼の心を捕え離れなかった。

(奥村博史『めぐりあい 運命序曲』_p34)


「広岡」はらいてうである。

 奥村は夏休みで藤沢の実家に帰省中なので、今度は画材を持って近々来ると言って、西村を残し先に帰った。

「またいらっしゃい、絵を描きにね」

 保持と紅吉が大きな声で送り出した。




 
 後に奥村は、らいてうにこう述懐したという。


 最初に私を見、眼と眼があった瞬間、心臓を一突きに射ぬかれたようなせんりつが走り、青年になってはじめて、かつて覚えぬ想いで、ひとりの女性を見たーー

(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』_p384)


 らいてうにも未体験の感情がわき起こった。


 わたくしもまたこの異様な、大きな赤ん坊のような、よごれのない青年に対して、かつてどんな異性にも覚えたことのない、つよい関心がその瞬間に生まれたのでした。

(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』_p384)


 ふたりとも互いに激しいひと目惚れをしたのだが、ふたりはそれを誰かに口外したわけではない。

 しかし、らいてうを独占したい紅吉の鋭い勘が、彼女を迅速な行動に走らせた。

 らいてうと奥村が初めて出会った、その日の夜か、その翌朝、紅吉が奥村に宛てて手紙を出したのである。





 不吉の予感が私を襲って、私は悲しい、恐ろしい、そして気遣はしいことに今ぶつかっているのです。

 それがはっきり安心のつくまであまり面白くもない生活を送らねばなりますまい。

 そして幾日かののちに私は生まれて来るのです。

 だがそれまでは私は淋しい、私は苦しい。

 広岡がぜひあなたに来るようにと、そして泊りがけです。

 待っています、いらっしゃいまし。

 八月十九日 しげり


(奥村博史『めぐりあい 運命序曲』_p35)





「しげり」は紅吉のことである。

 奥村博史(博から博史に改名)の自伝小説『めぐりあい 運命序曲』が刊行されたのは一九五六(昭和三十一)年九月だが、紅吉が奥村に手紙を出したことをらいてうが知ったのは、奥村がこの自伝を書いたときだという。


 手紙の最後には、あたかもわたくしからの伝言であるかのような一節があり、紅吉の病的な神経の動きの鋭さ、速さ、とくに嫉妬の場合の複雑さにわたくしは驚くよりほかありませんでした。

(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』_p385)


 紅吉からこの手紙を受け取った奥村は、「ぜひあなたが来るようにと、そして泊りがけです。待っています。いらっしゃいまし」以外は、なんのことなのかさっぱりわからなかった。

 堀場清子『青鞜の時代』は、このらいてうと奥村の運命的な出会いの日を八月「十八日の日曜日であろう」と断定・推測している。

 しげり(紅吉)が奥村に宛てた手紙の日付けが八月十九日であること、『青鞜』九月号の紅吉「南湖便り」の日付けが「八、二六」であること、『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(p384)に西村と奥村が「なんの装飾もないがらんとした休日の病院の応接室」に通されたとあることなどからの断定・推測である。

 とすると、らいてうが茅ケ崎に来たのが八月十七日だったのは、翌日の西村との打ち合わせに備えて、前日に茅ケ崎入りしたことになり、いろいろと辻褄が合うのである。



東雲堂の西村陽吉と孫娘西村亜希子




★『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(大月書店・1971年9月6日)

★奥村博史『めぐりあい 運命序曲』(現代社・1956年9月30日)

★堀場清子『青鞜の時代』(岩波新書・1988年3月22日)



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2016年03月23日

第43回 南郷の朝






文●ツルシカズヒコ






 青鞜社内からも非難され追いつめられた紅吉は、らいてうの短刀で自分の腕を傷つけた。


 いったいどういう激情に動かされたものか、自分を責めようとする激動の発作からか、紅吉は自分の左腕に刃物をあてたのでした。

 厚く巻いた繃帯をほどいて、その傷を眺めたとき、それはわたくしに対して示された、紅吉のいじらしい愛の証しを語るもののようでありました。


(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』_p379)


 と、らいてうは後に淡々と語っているが、らいてうが紅吉に繃帯を取って傷を見せてもらう場面をリアルタイムで書いた文章には、らいてうの紅吉への強い「愛情」が表れている。


「見せて、見せて、ね、見たい。見たい。」

 私の心は震えた。

 ……紅吉は只一人を守らうとする恋の為に私の短刀で……柔らかな肉を裂き、細い血管を破ったのだ。

 私は何でもそれを見なければならない。

 長い繃帯が一巻/\と解けて行く。

 二寸ばかりの真一文字に透明な皮膚の切れ目からピンク色の肉が覗いている。

 もう血は全く出ない。

 私は膓(はらわた)の動くのを努めて抑へた。

 そしてぢつと傷口を見詰めながら、真直に燃える蝋燭の焔と、その薄暗い光を冷たく反射する鋭利な刀身と熱い血の色とを目に浮べた。

「血はどうしたの? すすつて仕舞つた?」

「とつてあります。」

 傷口は石灰酸で消毒された。

 私は又もとのように心を入れて繃帯した。

 私は自分の身体の震へるのに注意した。


(らいてう「円窓より」/『青鞜』1912年8月号・第2巻8号_p80~81)

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 そんな折りも折り、結核を発病した紅吉は、茅ヶ崎の南湖院に入院した。

 一九一二(大正元)年七月十四日のことである。
 
 南湖院は日本女子大の校医である高田畊安(こうあん)が経営するサナトリウム(結核療養所)で、らいてうの姉である孝や保持も入院したことがあった。

 地名の南湖は「なんご」と読むが、高田が濁音を嫌い「なんこいん」と命名した。

 保持は青鞜社の仕事をやりながら、南湖院の事務の手伝いなどをしていたので、紅吉の入院中の面倒をみることになった。

 らいてうも茅ヶ崎に来た。

 当時、南湖院の付近には旅館がなかったので、見舞う人や予後を養う人のための貸間があり、らいてうは南湖下町の「良助」という漁師の家に一間を借り、九月発行の『青鞜』一周年記念号を編集することになった。

 そこへ荒木郁が訪れ、『青鞜』創刊の肝いりと言われる生田長江が妻を伴い避暑にやって来た。

 さらに、らいてうの日本女子大・家政科時代からの親友で、尼崎で教師をしていた木村政子も学校の夏休みを利用してやって来た。

 入院中の紅吉も、らいてうが借りている部屋に押しかけてきたので、あたかもその部屋は『青鞜』編集部が移ってきたような賑わいになった。

 紅吉はらいてうのそばにいられる幸福にひたっていた。


 毎日五時頃から紅吉は遊びに行きます。

 食事と診察と深夜(よなか)だけ病院にゐて、あとは、みんならいてうの家で邪魔ばかりしてゐる。

 毎日海岸に寝ころむでゐるものですから真黒になつて丁度「ぐるみ」の様になつてゐます。

 らいてうも紅吉のおかげで大変に日に焼けました、東京に帰つたらきつとみんなが驚くでしよう。

 今こんな暑ついのに毎日一生懸命に一葉全集を読むでゐます。

 その内になにか書くつもりなんでしょう。


(紅吉「南湖便り」/『青鞜』1912年9月号・第2巻9号_p223)


 らいてうが一葉全集を読んでいたのは、『青鞜』十月号に寄稿した「女としての樋口一葉」の原稿を執筆するためだった。





 そうしたある日、生田先生御夫妻を誘ってみんなで馬入川(ばにゅうがわ)の河口に出かけ、船遊びや釣りをたのしんで半日を賑やかに遊びました。

 その日、南郷(馬入川が海へそそぐ河口あたりの地名)の弁天さまの境内で、記念写真をとったものが、大正元年九月の一周年記念号に載っております。


(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』_p380)


 船遊びや釣りに行く前に弁天さまの境内で撮った写真は、「南郷の朝」と題して『青鞜』一周年記念号である九月号に掲載された。

 長江夫妻、らいてう、荒木郁、紅吉、保持、木村政子が写っている。

 青鞜社の伸び伸びとした自由な雰囲気が伝わる写真である。

「醜聞」にも負けず、創刊一周年を前に溌剌としている青鞜社の空気が感じ取れる。

 明治天皇の崩御は七月三十日であるが、それからまだひと月も経っていないころ、『青鞜』は青春の真っ只中にいた。

 らいてうはこう回想している。


「天皇」を意識することも、社会に目を向けることも少ないこのころのわたくしたちでしたから、茅ヶ崎の海べの香にみちた一周年記念号には、世を挙げての諒闇(りょうあん)色といったものは、なにひとつ反影されていないのでした。

(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』_p390)





 らいてうはこの「南郷の朝」という写真を見ると、思い出すことがあると書いている。

 船遊びや釣りをした後、らいてうたちは長江夫妻と別れて、らいてうが借りている部屋に集まった。


 そのとき荒木さんが「生田先生はどうもわるい病気らしい」といい出しました。

 生田先生が毎月一回くらいお留守になられ、帰ってこられるときっと顔のどこかに小さな、小さな絆創膏の貼られていることや、手先の動きがどこかぎこちなく不自由そうなのを、先生御自身がふだん「リューマチ」というふうに説明されていることは知っていました。

 けれども荒木さんのいう意味の「病気」とは考えおよばなかっただけに、「そんなこと軽率にいうもんじゃない」と、みんなで荒木さんをたしなめました。

「だって、あのマッチをする手つきを見たら分かることでしょう。確かにそうです」と、荒木さんはいつまでも自分のいい出した「病気」説を主張してやまなかったのでした。


(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』_p390)


 荒波力『知の巨人 評伝 生田長江』(p119)によれば、長江がハンセン病を発病したのは一九一〇(明治四十三)年の夏ごろだった。





 紅吉「南湖便り」によれば、らいてうたちが写真撮影をし、船遊びをしたのは八月二十一日か二十二日ごろだった。


 …生田先生と一所に弁天さまの境内で写真を写つしたのです。

 漁師の子供がうぢやうぢや出て来て、いろんなことをからかふものだから紅吉は本気になつて怒りだしたのです、そんな時パチンとやられたもんだから紅吉は不良少年のようにとれたのです。

 らいてうは、毎日不良少年、不良少年つて呼むでゐます。

 らいてはまるつきりロゼツチの描く女の様です、白雨は一番叔母さんらしくすましこむだのです。

 写真を写すとすぐ馬入川に出かけました。

 あつちこつちの岸に舟をつけて釣りをやつたのです。

 荒木さんは鰻ばかり釣り出すので、その度に紅吉は蛇だ蛇だと云つて真青にになつてゐました。

 いつも釣れそうになつたり、魚が集りそうになつたら紅吉は水を動かしたり場所をがたがた換へて仕様がないことをやり出すのです。

「はぜ」が一匹はねたといつちや、ばたばた動くのでみんなが大弱りしてゐました。

 この日一日で生田先生もらいてうも、叔母さんも荒木さんも真赤に焼けてしまいました。


(紅吉「南湖便り」/『青鞜』1912年9月号・第2巻第9号_p223~224)


南湖院 ※馬入川



★『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(大月書店・1971年9月6日)

★荒波力『知の巨人 評伝 生田長江』(白水社・2013年2月10日)





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第42回 吉原登楼






文●ツルシカズヒコ



 紅吉こと尾竹一枝は菊坂の女子美術学校を中退後、叔父・尾竹竹坡の家に寄寓していたが、一九一一(明治四十四)年十一月に実家のある大阪に帰郷していた。

 紅吉がらいてうの存在を知るきっかけとなったのは、森田草平が『東京朝日新聞』に連載(一九一一年四月二十七日〜七月三十一日)した小説「自叙伝」だった。

 森田は塩原事件(煤煙事件)を題材にして小説「煤煙」を『東京朝日新聞』に連載(一九〇九年一月一日〜五月十六日)したが、「自叙伝」は「煤煙」の続編である。

『青鞜』創刊前から、紅吉は塩原事件(煤煙事件)のヒロインのモデルであるらいてうに憧れ、崇拝の念を持っていた。


 私が一番最初平塚さんを知つたのは草平氏の自叙伝を読んだ時なんです。

 その時私は随分、様々の好奇心を自叙伝通して平塚さんの上に描いておりました。

 そしてどうも不思議なすばらしい人だとも考へ、恐ろしい人のやうにも考へ、女として最も冷つこい意地の悪い人のやうにも思つてをりました、そして読み終つた日などは、すぐにでも東京に出て面会して私の解釈がどうだか見きはめたいとまで好奇心を一ぱいもつてをりました。


(尾竹紅吉「自叙伝を読んで平塚さんに至る」/『中央公論』1913年7月増刊・婦人問題号「平塚明子論」_p175~176)

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 紅吉は大阪から、青鞜社の社員になりたい旨の熱い手紙をらいてうに書いた。

 らいてうが入社了承の返事を出し、紅吉が社員になったのは一九一二(明治四十五)年一月だった。

 それからたびたび、らいてう宛てに熱い手紙が来るようになり、編集部では大阪の「へんな人」と見られていた。

 一九一一年十二月に社員になった小林哥津は、知り合いを通じて紅吉と面識があり、紅吉の印象をらいてうにこう語っていた。


 ……小娘のような口振りだが男のようなたいへんな大女、声が大きくてあたりかまわずなんでもいう女(ひと)、白秋の詩が大好きな十九歳の娘ーー「そりゃあずい分変わった女(ひと)よ、恐い女だわ」

(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下)』_p364)


 大阪から上京した紅吉が哥津に連れられて、らいてうの書斎を訪れたのは一九一二年二月十九日だった(らいてう「一年間(つづき)」/『青鞜』一九一三年十二月号・第三巻第十二号)。

 尾竹紅吉「自叙伝を読んで平塚さんに至る」によれば、「東京にロダンの展覧会を見に来たとき平塚さんに初めてお目にかゝつたのです、丁度二月の十八日でした」。

 らいてうは二月十九日と書き、紅吉は二月十八日と書いている。

「ロダンの展覧会」というのは、白樺主催第四回展覧会のことである。

『白樺』一九一〇(明治四十三)年十一月号は特集「ロダン号」だったが、ロダンから白樺同人に彫刻作品三点が贈られ、一九一二年二月に白樺同人が公開したのである。

『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下)』(p366)によれば、らいてうに初めて面会した紅吉は以後、青鞜社の事務所にも顔を出すようになり、編集の手伝いや表紙絵やカットの仕事などをするようになった。

 久留米絣に袴、あるいは角帯に雪駄ばきと粋な男装で、風を切りながら歩き、言いたいことを言い、大きな声で歌ったり笑ったり、因習とは無縁な生まれながらに解放された人、紅吉。

 らいてうは紅吉に好感を抱き、紅吉は他の社員からも可愛がられた。





 一九一二年五月、尾竹越堂は一家で上京し、中根岸に居を構えた。

 紅吉は第十二回巽画展に「陶器」と題する二曲一双の屏風を出品し、褒状三等を受けた。

 五月十三日、紅吉は『青鞜』の仲間を中根岸の自宅に招き祝いの会を開いた。

 その祝いの席でらいてうと紅吉は抱擁し接吻した。

 紅吉は『青鞜』にらいてうへの想いを書いた。


 不意にあらわれた、年上の女、

 私は只それによつて、生きて行きそうだ、又、行かねばならぬ、

 冷たいと思はせて泣かせられる時も来るだらう、けれど私は、恋しい、

 私は如何なる手段によつて私自身の勝利が傷けられても、
 
 その年上の女を忘れる事が出来ない、

 DOREIになつても、いけにへとなつても、

 只、抱擁と接吻のみ消ゆることなく与へられたなら、

 満足して、満足して私は行かう。


(「或る夜と、或る朝」/『青鞜』1912年6月号・第2巻第6号_p115~116)





 らいてうも「ふたりの紀念すべき五月十三日の夜」のことを書いた。


 紅吉を自分の世界の中なるものにしやうとした私の抱擁と接吻がいかに烈しかつたか、私は知らぬ。

 知らぬ。

 けれどあゝ迄忽に紅吉の心のすべてが燃え上らうとは、火にならうとは。


(「円窓より」/『青鞜』1912年8月号・第2巻第8号_p82~83)


 紅吉は五月十三日の「青鞜ミーチング」で、みんなで日本酒、麦酒、洋酒を飲んだことも書いた(「編輯室より」/『青鞜』一九一二年六月号・第二巻第六号_p121)。

 たちまち『読売新聞』や『中央公論』で非難された。

 さらに追い打ちをかけるように、紅吉が絡んだふたつの「醜聞」が報道された。

 当時、日本橋区小網町鎧橋筋にあったレストラン兼バー、メイゾン鴻の巣は若い文士や画家たちに人気があった(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』p373)。

 六月、紅吉は『青鞜』に載せる広告を取りにメイゾン鴻の巣を訪れ、比重によって色わけされるカクテルを見せられて「五色につぎ分けたお酒を青いムギワタの管で飲みながら」(『青鞜』第二巻七号_p109)と書いた。





 そして七月の初旬。

 紅吉、らいてう、そして青鞜社発起人のひとり中野初が吉原見学に出かけた。

『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(p374~375)によれば、そういうところを見ておくのも、社会勉強になるのではないかと誘ったのは紅吉の叔父・尾竹竹坡だった。

 竹坡のお膳立てで吉原でも一番格式が高い妓楼「大文字楼」に上がり、「栄山」という花魁(おいらん)の部屋に通された。

 寿司やお酒が出て、栄山を囲んで話をした。

 その夜、らいてうら三人は花魁とは別の部屋に泊まり、翌朝、帰った。

 堀場清子『青鞜の時代』(p112~113)によれば、七月十日の『万朝報』が「女文士の吉原遊」を記事にした。

『国民新聞』は「所謂新しい女」のタイトルで四回連載(七月十二日〜十五日)を組み「五色の酒」や「吉原登楼」に言及したが、それは噂話を面白おかしく暴露的に綴った中傷記事だった。

 世間は青鞜社を非難した。

 得体の知れない男が面会を強要したり、脅迫状が届いたり、らいてうの家には石のつぶてが投げられた(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』_p376)。

 青鞜社の社員からも、紅吉と彼女をかばうらいてうへの非難の声が起こった。

 塩原事件で受けた心の痛みを知るらいてうは、紅吉をかばい叱咤激励した。


 私の少年よ。

 らいてうの少年をもつて自ら任ずるならば自分の思つたこと、考へたことを真直に発表するに何の顧慮を要しよう。

 みずからの心の欲するところはどこまでもやり通さねばならぬ。

 それがあなたを成長させる為めでもあり、同時にあなたがつながる青鞜社をも発展させる道なのだ。


(らいてう「円窓より」/『青鞜』1912年8月号・第2巻第8号_p85)





 発起人のひとりで、らいてうが雑誌創刊を最初に相談し、青鞜社の事務を一手に引き受け、社員から「おばさん」と親しまれていた保持研子(やすもち・よしこ)からも、らいてうに叱責の手紙が届いた。


 君達三人は吉原に行つたさうだ。

 随分思ひ切つた惨酷な真似をしましたね。

 私は君達が行つた深い理由は知らないが、何だか自分が侮辱されたやうで悲しかつた。

 さうしてたまらなく不快だつた。


(らいてう「円窓より」/『青鞜』1912年8月号・第2巻第8号_p78)


『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(p378)によれば、小学校や女学校の教師からは職を失うことを恐れ、『青鞜』の購読中止を申し出る人もいたし、青鞜社の事務所を置くことを家の人から断られた物集和子が、藤岡一枝というペンネームを使い始めたのもこのころからだった。



★『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(大月書店・1971年9月6日)

★堀場清子『青鞜の時代ーー平塚らいてうと新しい女たち』(岩波新書・1988年3月22日)



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第41回 同性愛






文●ツルシカズヒコ



 野枝が円窓のあるらいてうの書斎を初めて訪れた日の夜、青鞜社員の西崎花世が友達ふたりを連れてやってきた。

 ひとりは西崎が下宿している家の主婦で、もうひとりはやはり社員の小笠原貞だった。

『元始、女性は太陽であった(下)』(p397~402)によれば、らいてうが西崎に初めて会ったのは一九一二(大正元)年十月十七日、「伊香保」で開催した『青鞜』一周年記念の集まりだった。

 鴬谷の「伊香保」は当時、会席料理の有名店で文人墨客がよく利用していたが、紅吉の叔父・尾竹竹坡も常連だったので、竹坡の紹介でこの店にしたのだった。

 西崎は四国の徳島にいたころから長曽我部菊子というペンネームで、河井酔茗が編集する『女子文壇』の投書家として鳴らしていた。

 文学に精進する決心をして上京し、食べるために雑誌の訪問記者などをしていた。

 人一倍小柄な体を地味な着物に包んで、目立たない束髪に結った西崎は、らいてうにおよそ若さなど感じさせない「生活とたたかっている人」という印象を残している。

「伊香保」での一周年記念の集まりの後、西崎はらいてうの円窓の書斎に顔を出すようになっていた。

 西崎は四国徳島のお国訛で粘っこい話し方をした。

 らいてうに近寄ってくる人に対して誰彼となく嫉妬する紅吉は、小柄な西崎を毛嫌いして「小たぬき」という綽名をつけた。

 『元始、女性は太陽であった(下)』(p413~414)によれば、西崎と同様に『女子文壇』で育てられた小笠原貞も文学を目指していたので、ふたりは親しかった。

 小笠原は絵の勉強もしていたので、青鞜叢書第二編『青鞜小説集』(一九一三年二月/東雲堂発行)の木版の装幀(自画自刻)を手がけた。

 らいてうの記憶によれば「色白の、ほっそりした美しい人、日本的なつつましい感じの娘さん」だった。

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 紅吉はらいてうと哥津の間に座り窮屈らしい体つきをしながら、ばかに丁寧な挨拶をして、まじまじと西崎の顔に見入っていた。

 向き合って座っていた哥津と野枝は、そっと目で笑い合った。

 西崎たちが来る前に、らいてうが話したことを思い出したからである。

「西崎さんと話しているとね、だんだんに夢中になってくると、こんなふうに膝でこちらにいざり寄って来て、しまいにはこちらの膝をつかまえて話すのですもの、なんだか少し薄気味悪いような人よ」

 紅吉はその話をとてもおもしろがって聞いていた。

 それを思い出したのだ。

 七人の会話はなかなか打ち解けなかった。

 イライラし始めた紅吉は、哥津の手を引っ張り寄せて捻ったり揉んだりした。

「紅吉はどうしたの、なんだか落ちつかないじゃないの」

 らいてうがたしなめるように紅吉の方を向いた。

「もう帰ります。西崎さん、ここを開けますから、ここにいらっしゃいまし。私はもう帰ります」

「なんだって急に帰るなんて言い出すの、いやな人ね」

 哥津は肥(ふと)った紅吉の手をグイグイ引っ張りながら、おかしそうに笑った。

 野枝も笑わずにはいられなかった。

「さっきから帰ろうと思っていたんです。西崎さん、本当にここにいらっしゃい。私は本当に帰りますから」

「それじゃ、お帰んなさい。さっきからだいぶ帰る帰るが出ているんですから、もう帰ってもいいでしょう」

 紅吉はらいてうにこのように強く出られると、すぐに当惑してしまうのだった。

 帰っていいか悪いか、まだいたいような帰りたいような。

 そんなとき、子供のような紅吉はいつでもそばにいる哥津のほっそりした肩や背中を、大きな肥った手で力まかせに打つのだった。





 紅吉と明子とは世間にさへ同性愛だなどゝ騒がれてゐた程接近してゐた。

 明子は本当に、紅吉を可愛がつてゐた。

 紅吉は世間からはたゞ多く変り者として取扱はれてゐたが、彼女は子供らしい無邪気と真剣を多分に持つてゐた。

 彼女が並はづれて大きな体をもつてゐながら何となく人に可愛いゝと云ふ感を起させるのはそれだつた。

 彼女は何時でも何か新しいものを見つけ出さうとしてゐた、一寸した動作にも、言葉にも、其処に何か驚異を見出したいと云つたやうな調子だつた。

 で彼女の気まぐれが時々ひどく迷惑がられることがあつた。

 明子は何時でも彼女に愛感をもつてゐた。

 紅吉ももまた夢中になつて明子の傍を殆どはなれることもないやうに、二人の間は非常に強い愛をもつて結ばれてゐた。

 併し紅吉が病気になつて、その夏湘南のある病院に行つてゐたとき其処でーー紅吉の言葉を借りて云へばーー「ふたりの大事な愛に、ひゞがはいつた」のだ、「ひゞはもう決してなほりつこはない」と紅吉は主張してゐた。

 紅吉の大事な愛に「ひゞ」を入れたその明子の恋愛事件が紅吉の子供らしい嫉妬を強くあほつた。

 それに其頃、これも矢張り紅吉の気まぐれから明子と他に一人二人を誘つて紅吉の叔父がよく知つてゐると云ふ吉原の或る花魁(おいらん)の処に遊びに行つたのが大げさに新聞に報道されて問題になつた為に、小母(おば)さんと皆が呼んでゐる、クリスチヤンで、一番道徳家の保持(やすもち)が制裁と云ふ程の強い意志でもなく紅吉に退社をすゝめて、紅吉もそれを承諾して雑誌にそれを発表してから直(すぐ)だつたので、それも紅吉には明子の仕事から周囲から、いくらか遠くなると云ふことが不安なのだつた。


(「雑音」/『大阪毎日新聞』1916年1月3日・1月6日/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p15~17/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p131~132)





 紅吉に打たれた哥津は痛さに肩をすくめながら、

「まあ痛い、本当にひどいわ、私はなにもしないのに」

 またかというふうに顔をしかめながら、冗談らしく紅吉を睨みつけるのだった。

 らいてうはそちらには目もくれずに、静かな調子で向こうの三人に話しかけていた。

 哥津が調子を変えるように言った。

「野枝さん、あなたの頭はずいぶん寂しい頭ね、なんだか私、有髪(うはつ)の尼って気がするわ。私、結ってあげましょうか?」

「そう、じゃ結ってちょうだい」

「ええ、ハイカラな頭に結ってあげるわ。私、学校にいたときはよくハイカラな頭に結ったのよ」

 哥津は気軽に座を立って、自分の懐中から櫛を出して、野枝の頭をとき始めた。

 前を三七に分けて編みながら根を低く下げた、本当は洋服でも着なければ似合わないような頭になった。

「本当にずいぶんハイカラな頭ね」

 野枝はらいてうの本棚の上に載っていた鏡を手にとって、面変わりのしたような自分の顔と頭を驚いたように眺めた。

「よく似合いますよ」

 らいてうも話をやめて微笑みながら言った。

「本当によく似合うでしょう、野枝さん。これからこういうふうにお結いなさいよ」

 哥津は得意らしく、それでもまだなにか思うようにいかないところがあるのか、チョイチョイいじりながら鏡を覗きこんだ。

 みんなが野枝の頭を眺めていた。





 紅吉はひとりつまらなそうにしていたが、突然、お腹の底から跳ね出したような声を出した。

「小笠原さん、あなたは油画をおやりになるのでしょう」

「ええ、描くというほどじゃありませんけれど、好きでただいい加減なことをやっていますの」

 西崎はいつのまにか、らいてうをつかまえて、ねっつりねっつり話している。

 それを見て不快そうに黙りこくっていた紅吉は、なにかじれったそうに膝をむずむずさせだした。

 野枝と哥津は顔を見合わせては忍び笑いをした。

 とうとう紅吉は頓狂な堪えかねたような声で、

「西崎さん、ここにいらっしゃい。私はそっちにゆきます。ここはらいてうさんのそばですから」

「いいえ、それにはおよびません。ここで結構です。どうぞおかまいなさらないで」

 西崎は丁寧にそう言って紅吉に頭を下げた。

 らいてうは「仕方がない」といったような顔をしながら、吸っていた「敷島」の灰を落としていた。

 紅吉は少しも落ちついてはいられなかった。

 このおおぜいの人が、自分の帰った後まで、らいてうのそばに居残っていることが堪えられないような気がして、思い切って立ち上がることもできなかった。


女子文壇2 ※女子文壇3



★『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(大月書店・1971年9月6日)

★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)

★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



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2016年03月22日

第40回 円窓






文●ツルシカズヒコ




「雑音」第一回は『青鞜』一九一二年十二月号の編集作業のシーンから始まっている。

 野枝が本郷区駒込曙町一三番地のらいてうの自宅を訪れたのは、おそらく十一月も半ばを過ぎたころだろうか。

 野枝が三畳ほどの円窓のあるらいてうの書斎に入るのは、そのときが初めてだった。

「いらっしゃい、この間の帰りは遅くなって寒かったでしょう」

 らいてうは優しく微笑みかけ、火鉢を野枝の方に押しやった。

 この日は小林哥津も来ることになっていた。

「哥津ちゃんはまだお見えになりませんか」

 そう訊ねた野枝の目が本箱の中の書籍の背文字を追った。

「ええ、まだ。ダンテはわかりますか。この次までにね、林町の物集さんがあの本が不用になっているはずですからね、行って借りていらっしゃい。ところはね、千駄木の大観音をご存知? ええ、あすこの前を行ってねーー」

 らいてうは万年筆で地図を書きながら、

「本当に、行ってらっしゃい、本がなくちゃね」

「ええ、ありがとう」

 野枝はそれだけ言うのがやっとだった。

「物集さん」は青鞜社の発起人のひとり、物集(もずめ)和子

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 当初、青鞜社の事務所は、本郷区駒込千駄木林町(はやしちょう)九番地の物集の自宅にあったのだが、『青鞜』一九一二年四月号(二巻四号)に掲載された荒木郁の小説「手紙」が発禁になり、刑事が物集邸に来て『青鞜』を押収したことなどがあり、同年五月半ばごろ青鞜社は本郷区駒込蓬萊町の万年山(まんねんざん)勝林寺に事務所を移転したのだった。

 この寺をらいてうに紹介してくれたのは、らいてうが懇意にしていた浅草区松葉町の臨済宗の禅寺、海禅寺の住職・中原秀岳だった。

 このころ、青鞜社では講師を呼んで講義をしてもらう勉強会を再開していた。

『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(p393)によれば、火曜と金曜の週二回、生田長江「モーパッサンの短篇」と阿部次郎「ダンテの神曲」である。

 しかし、『白樺』一九一二年十月号に掲載された『青鞜』の広告には、阿部次郎「ダンテの神曲」が水曜日、生田長江「モーパッサン」が金曜日とある。

 らいてうは物集が持っているダンテの『神曲』を、借りてきなさいと野枝に言ったのである。

 物集は青鞜社から離れたので、『神曲』が不用になっているはずだからだ。

 
 これから歩き出さうとする私を導いてくれるのは明子(はるこ)の手より他にはなかつた。

 明子もまた、最近にすべての繫累(けいるい)を捨てゝたゞ自分の道に進んでゆかうとする若い私の為めに最もいゝ道を開いてやらうとする温かい親切な心持を私に投げかけることを忘れなかつた。

 私にとつてはこの明子の同情は何よりも力強い喜びであつた。

「私は、この人のこの親切を、この同情を忘れてはならない、この人の為めにはどんな苦しみも辞してはならない。」

 私はさうした幼稚な感激で一杯になつた。


(「雑音」/『大阪毎日新聞』1916年1月3日/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p7/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p127)





「今日は紅吉も来るかもしれません。それに晩には西崎さんと小笠原さんがいらっしゃるはずです」

「まあそうですか。ではずいぶん賑やかですね。紅吉さん、私が以前、図書館で見ていたころとはずいぶんお変わりになりましたよ」

 野枝は尾竹紅吉のことを上野高女時代から見知っていた。

 夏休みの間、毎日のように通った上野の帝国図書館でよく見かけていたのだ。

 厖大な体を持った彼女は、本を読まずいつもスケッチブックを広げていた。

 ふたりは同じ根岸に住んでいたので、図書館以外でもちょいちょい顔を合わせた。

 ふたりは一緒になると無言のまま意地を張って歩きっこをした。

「あの方があらい紫矢絣の単衣に白地の帯を下の方にお太鼓に結んであの大きな体に申し訳のように肩上げを上げていたのを本当に可笑しいと思って見ていました。その格好で道を歩きながら、いつも歌っているから、ずいぶん妙な人だと思いましたわ。あの方の叔父様やお父様が画家として名高い方だということも、そのころからわかっていました。あの方の今のお住居は以前、私の叔父の住居だったこともあるのです」

「そうですか、でも紅吉がお太鼓になんか帯を締めていたことがあるのですかね」

 らいてうが可笑しそうに笑った。

「じゃそろそろ仕事を始めましょうね。原稿はたいていそろっていますから、頁数を決めましょう。この社の原稿紙三枚で一頁になるのですから、そのつもりで数えて下さいね」

 教えられたとおりに、野枝は一枚一枚数えていった。

 広い邸内はひっそりしていて、縁側に置いた籠の中の小さな白鳩が喉を鳴らす音が柔らかにあたりに散る。

 後ろの部屋のオランダ時計がカチカチ時を刻む。

 静かだ。

 本当に静かだ。

 らいてうはうつむいて原稿紙にペンを走らせている。





 小刻みな下駄の音が門の前で止まったと思うと間もなく、くぐり戸が開いて、けたたましいベルの音がして、内玄関で案内を乞う声がした。

「哥津ちゃんですよ」

 らいてうがペンを置いて、そこの敷布団を直した。

「ごめんください、こんにちは」

 哥津はスラリと長い体をしなやかに折って座りながら、格好のいい銀杏返しに結った頭をかしげて、らいてうと野枝に挨拶をした。

「他にまわるところがあったものですから、つい遅くなりましたの。もうお始めになってるの。目次やなんかお書きになって? そう、じゃ私が書くわ」

 明るい調子で話す哥津が来てから、急に場は賑やかに伸びやかになった。

「野枝さんて、もっと若い人かと思った。二十二、三には見えるわ。着物の地味なせいかもしれないけど」

「哥津ちゃん、今度は何か書けて?」

「ええ、だけどずいぶんつまらないものよ。私小説は初めてですもの、なんだか駄目よ」

「でも、まあ見せてごらんなさいよ」

 哥津は派手な模様のついたメリンスの風呂敷の中から原稿を出して、らいてうの前に置いた。

 野枝は哥津とらいてうの隔てのない会話を聞きながら、その前に哥津が『青鞜』に書いた「お夏のなげき」という戯曲のひとくさりを思い浮かべていた。

 ちなみに一幕ものの戯曲「お夏のなげき」のラストは、こうである。


 子供の声ーー清十郎殺すなら……お夏も殺せ……。

 お夏の声ーー向こう通るは清十郎ぢやないか、笠がよくにたすげの笠……


(小林哥津「お夏のなげき」/『青鞜』1912年10月号・第2巻第10号_p)





 静かな通りに突然、ソプラノで歌う声がした。

「あ、紅吉が来たわ」

 哥津は一番に耳をそばだてた。

 らいてうが静かに微笑んだ。

 紅吉が三人の笑顔に迎えられて入ってきた。

「編集ですか、手伝いましょうか。だけど私はもう社員じゃないからいけないんですね」

 座るとすぐ、紅吉は原稿紙とペンを持ちながら、あわててそれを下に置いて三人の顔を見まわした。

「あのね、今月号の批評読みましたか。カットが誉めてありました、プリミティブだって。あなたの詩に使ったカットね、野枝さん、あれはね、特別にあなたのあの詩のために私が描いたんですよ。南国情緒が出ているでしょう。ねえ、哥津ちゃん、本当にあの詩のために描いたんですね」

「ありがとう、あんなつまらない詩のために、すみません。平塚さんからもうかがいましたの。私の詩にはすぎるくらいです、本当に」

「哥津ちゃんはどう思います」

「いやな紅吉、私あのときちゃんと誉めてあげといたじゃないの」

「そうそう、すいません」

 可愛らしく頭を下げる紅吉の大きな体を見ながら、哥津と野枝は心からおかしがった。





 紅吉は『青鞜』十月号に掲載された野枝の詩「東の渚」のカットを描いたのだが、「東の渚」は見開き始まりの三頁で、各頁の上に横長の地紋のようなカットがあり(一点描いたものを流用)、絵柄は花壇に咲いているアールヌーボ風のチューリップである。

 らいてうは若い三人の対話から離れて、哥津の原稿を読んでいた。

 鋭い紅吉はらいてうが熱心に原稿に目を通しているのを見ると、すぐ立ち上がりかけた。

「今日は邪魔になりますからもう帰ります。野枝さん、今度、私の家に遊びにいらっしゃい」

 原稿に目を通しているらいてうが、顔を上げて穏やかに言った。

「今来たばかりのくせに、なんだってもう帰るの」

「だって編集の邪魔になるじゃありませんか。それに私はもう退社したのに、ここにいると誤解されるから」

 真顔に答える紅吉の顔を、野枝はあきれて眺めた。


尾竹紅吉2 ※尾竹紅吉3 


★『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(大月書店・1971年9月6日)

★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)

★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)





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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)『秩父事件再発見』(新日本出版社)など。
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