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2014年07月21日
東京国立博物館 総合文化展に行ってきました
東京国立博物館総合文化展、いわゆる常設展に行ってきました。
今回久しぶりだったのですが、トーハクの所蔵品の素晴らしさを再認識した次第です。
国宝室は、久隅守景筆納涼図屏風。
この絵がお気に入りの方には申し訳ありませんが、癒し系のこの絵がなぜ国宝なのか、以前から疑問を抱いていました。
今回改めてみると見方が違うかもと思い、行ってみましたが、変わりませんでした^^;
国宝というと、雪舟の山水長巻とか、永徳の洛中洛外図とか、・・・。
探幽の絵でも国宝ってないんですよ〜。久隅守景の絵でも聖衆来迎寺の方がいいかなと思ったり。
トーハク本館でよく見るのが、禅と水墨画のコーナー。
今回は山水図祥啓筆筆 、李白観瀑図 惟肖得巌賛が特に良かった。
芸網の弟子であった祥啓。これぞ本流室町水墨画という感じです。
書画図屏風 伝如拙 。如拙 の絵って、瓢鮎図は有名ですが、他の絵って初めて見たような。
続いて屏風と襖絵のコーナー。
ここはたいてい大きめの絵が3点展示されています。
どれも素晴らしい作品ばかりで、絶対に見逃せません。
雨山水図屏風 呉春筆はタッチがまだ文人画時代の作品かなと思いました。 応挙の弟子となった後年の呉春の作品の方が好きです。
周茂叔林和靖図屏風 狩野探幽筆。この絵がおそらく初めて拝見しました。 右隻が茂叔、左隻が林和靖。林和靖は鶴を2羽飼っていたそうですが、1羽しか見つけることができませんでした。
柳橋水車図屏風 作者不詳。安土桃山〜江戸時代に大ヒットした、大好きな構図なのですが、等伯作と比べると、何が違うんでしょう、華やかさに欠ける気がしました。
続いて書画の展開のコーナー。
大好きな安土桃山〜江戸の作品ですから、ここも見逃せません。
今回の白眉は、瀟湘八景図屏風 長谷川等伯筆。等伯の凄さを改めて認識した次第です。
以前等伯展のときも見ているはずですが、中央に余白をたっぷりとった南宋画風の雄大で幻想的な景色に本当に魅せられました。京都・妙心寺隣華院の襖絵をほうふつさせる名作です。しばらく絵の前のソファに座って見とれていました。
他にも、山水図 海北友雪筆、 関羽・山水図狩野伊川院(栄信)筆( 色がきれい)、 山水図 曽我蕭白筆も良かった。 蕭白の山水図は人物画とはまた違うタッチで、大好きです。
最後に1階で近代の美術。
三井記念美術館で「明治工芸」展を開催していたせいか、これぞ超絶技巧の明治の工芸の名品が揃っています。
ここでは、山水 6曲1双 狩野芳崖筆が良かった! 狩野芳崖版山水長巻という感じ。
正直いって幕末から明治期の木挽町狩野家で学んだ日本画家では、橋本雅邦の方が好きなのですが、江戸時代にか描かれたこの絵を見て、芳崖の力量を再認識した次第です。
長府藩の御用絵師であった芳崖は、明治になって不遇の時期を迎えます。その後、フェノロサと知り合い、さまざまな試行錯誤の結果、畢生の名作「悲母観音」を完成させませすが、この作品を描き上げた4日後に亡くなります。
今年世紀の日本画展で久しぶりにこの絵を拝見し、とても慈愛に満ちた観音の表情が印象的で、幼子が近代日本画の誕生のように思えました。
博物館を出た後、とてもいい時間を過ごせたな・・・、と思えた1日でした。
今回久しぶりだったのですが、トーハクの所蔵品の素晴らしさを再認識した次第です。
国宝室は、久隅守景筆納涼図屏風。
この絵がお気に入りの方には申し訳ありませんが、癒し系のこの絵がなぜ国宝なのか、以前から疑問を抱いていました。
今回改めてみると見方が違うかもと思い、行ってみましたが、変わりませんでした^^;
国宝というと、雪舟の山水長巻とか、永徳の洛中洛外図とか、・・・。
探幽の絵でも国宝ってないんですよ〜。久隅守景の絵でも聖衆来迎寺の方がいいかなと思ったり。
トーハク本館でよく見るのが、禅と水墨画のコーナー。
今回は山水図祥啓筆筆 、李白観瀑図 惟肖得巌賛が特に良かった。
芸網の弟子であった祥啓。これぞ本流室町水墨画という感じです。
書画図屏風 伝如拙 。如拙 の絵って、瓢鮎図は有名ですが、他の絵って初めて見たような。
続いて屏風と襖絵のコーナー。
ここはたいてい大きめの絵が3点展示されています。
どれも素晴らしい作品ばかりで、絶対に見逃せません。
雨山水図屏風 呉春筆はタッチがまだ文人画時代の作品かなと思いました。 応挙の弟子となった後年の呉春の作品の方が好きです。
周茂叔林和靖図屏風 狩野探幽筆。この絵がおそらく初めて拝見しました。 右隻が茂叔、左隻が林和靖。林和靖は鶴を2羽飼っていたそうですが、1羽しか見つけることができませんでした。
柳橋水車図屏風 作者不詳。安土桃山〜江戸時代に大ヒットした、大好きな構図なのですが、等伯作と比べると、何が違うんでしょう、華やかさに欠ける気がしました。
続いて書画の展開のコーナー。
大好きな安土桃山〜江戸の作品ですから、ここも見逃せません。
今回の白眉は、瀟湘八景図屏風 長谷川等伯筆。等伯の凄さを改めて認識した次第です。
以前等伯展のときも見ているはずですが、中央に余白をたっぷりとった南宋画風の雄大で幻想的な景色に本当に魅せられました。京都・妙心寺隣華院の襖絵をほうふつさせる名作です。しばらく絵の前のソファに座って見とれていました。
他にも、山水図 海北友雪筆、 関羽・山水図狩野伊川院(栄信)筆( 色がきれい)、 山水図 曽我蕭白筆も良かった。 蕭白の山水図は人物画とはまた違うタッチで、大好きです。
最後に1階で近代の美術。
三井記念美術館で「明治工芸」展を開催していたせいか、これぞ超絶技巧の明治の工芸の名品が揃っています。
ここでは、山水 6曲1双 狩野芳崖筆が良かった! 狩野芳崖版山水長巻という感じ。
正直いって幕末から明治期の木挽町狩野家で学んだ日本画家では、橋本雅邦の方が好きなのですが、江戸時代にか描かれたこの絵を見て、芳崖の力量を再認識した次第です。
長府藩の御用絵師であった芳崖は、明治になって不遇の時期を迎えます。その後、フェノロサと知り合い、さまざまな試行錯誤の結果、畢生の名作「悲母観音」を完成させませすが、この作品を描き上げた4日後に亡くなります。
今年世紀の日本画展で久しぶりにこの絵を拝見し、とても慈愛に満ちた観音の表情が印象的で、幼子が近代日本画の誕生のように思えました。
博物館を出た後、とてもいい時間を過ごせたな・・・、と思えた1日でした。
2014年06月29日
中華王国の覇者、乾隆帝の時代(故宮博物院E)
マルコポーロは元の時代にフビライ・ハーンの命により、中国各地をまわり、「東方見聞録」を執筆します。
その中に南宋の首都であった杭州のこともでてくるのですが、国は滅んでも杭州の賑わいは変わることはありませんでした。
北宋の将軍が南唐を無血開城させたように、臨安府(杭州)を無傷で降伏させよと、命令したのはフビライ・ハーンでした。
元軍に包囲された宋の都は戦うことなく降伏したため、杭州は戦火と略奪を免れました。
「元史・ 姚枢伝」は、人々は元が新たな支配者となったことを知らないまま、平常どおり生活していたと伝えています。
故宮博物院のことを語るのに欠かせない、乾隆帝のことを最後に触れたいと思います。
清朝6第皇帝の乾隆帝は、晩年、十全老人と号しました。完全無比ということです。この号は国内外に10回の遠征を行い、国の版図をゆるぎないものにしたことからきています。皇帝自ら戦地に赴くことはなかったそうですが、乾隆帝の時代に新疆、チベットも制圧し、史上最大の版図に君臨することになりました。
乾隆帝は幼い頃から才知に恵まれ、武にも優れた素質をもち、20歳のときには、それまで7年間の間に作った詩文を集めて全40巻の文集を作成しました。その後も精力的に詩文を作成し、生涯に9集に及ぶ詩文集をまとめました。
また、元から明の時代には、宮廷に収蔵されていた書画の多くが民間に流出しますが、乾隆帝は熱心に書画の募集を続け、それらを整理分類した目録を作成します。
さらに、全国の過去の書物全てを集め、筆写し、分類した中国最大の漢籍叢書「四庫全書」を作らせるなど、乾隆帝の時代に宮廷の書画は格段に充実したものとなりました。
故宮の中で、歴代皇帝が日常の起居だけでなく、政務を行なう場として、最も時間を費やしたのが養心殿です。
三希堂というのは養心殿の片隅にある小部屋で、その広さは畳でいうと3畳ほどにすぎず、部屋の入口には前室とよばれる4畳半くらいの通路がつながります。皇帝は、日常の政務に疲れると、この前室を通りぬけて三希堂に入ってくつろいだのでした。
その名は、この書斎に乾隆帝が愛玩した王羲之(おうぎし)の「快雪時晴帖」(かいせつじせいじょう)、王献之(おうけんし)の「中秋帖」(ちゅうしゅうじょう)、王c(おうじゅん)の「伯遠帖」(はくえんじょう)という三つの希(まれ)な書跡の名宝を秘蔵したことにちなみます。
他にも書では、顔真卿、蘇軾、黄庭堅、趙孟頫など、絵画では、徽宗、李唐、董源、郭熙など、素晴らしい名品が所蔵されており、皇帝は好きなときにそれらを見ることができたといいます。
2012年の特別展「北京故宮博物院200選」では、三希堂を再現した部屋が展示されていて興味深く拝見しましたが、乾隆帝のように中国史上でも抜群の権勢をほこった皇帝でも、政務に疲れ、小さな書斎にこもり、くつろぎたくなるときもあったのですね。数々の名品に囲まれ、満足そうに微笑む皇帝の姿が目に浮かぶようです。
王朝交代のたびに宮中から文物が持ち出され、新たな王朝に引き継がれました。これらの文物をもつことが、正統な存在であることを内外にも示す手段でもあったのです。
さまざまな動乱や権力者の変遷をくぐりぬけて今日まで伝わる故宮の名品の数々。
この貴重な人類の財産を、この夏じっくり拝見したいと思っています。
その中に南宋の首都であった杭州のこともでてくるのですが、国は滅んでも杭州の賑わいは変わることはありませんでした。
北宋の将軍が南唐を無血開城させたように、臨安府(杭州)を無傷で降伏させよと、命令したのはフビライ・ハーンでした。
元軍に包囲された宋の都は戦うことなく降伏したため、杭州は戦火と略奪を免れました。
「元史・ 姚枢伝」は、人々は元が新たな支配者となったことを知らないまま、平常どおり生活していたと伝えています。
故宮博物院のことを語るのに欠かせない、乾隆帝のことを最後に触れたいと思います。
清朝6第皇帝の乾隆帝は、晩年、十全老人と号しました。完全無比ということです。この号は国内外に10回の遠征を行い、国の版図をゆるぎないものにしたことからきています。皇帝自ら戦地に赴くことはなかったそうですが、乾隆帝の時代に新疆、チベットも制圧し、史上最大の版図に君臨することになりました。
乾隆帝は幼い頃から才知に恵まれ、武にも優れた素質をもち、20歳のときには、それまで7年間の間に作った詩文を集めて全40巻の文集を作成しました。その後も精力的に詩文を作成し、生涯に9集に及ぶ詩文集をまとめました。
また、元から明の時代には、宮廷に収蔵されていた書画の多くが民間に流出しますが、乾隆帝は熱心に書画の募集を続け、それらを整理分類した目録を作成します。
さらに、全国の過去の書物全てを集め、筆写し、分類した中国最大の漢籍叢書「四庫全書」を作らせるなど、乾隆帝の時代に宮廷の書画は格段に充実したものとなりました。
故宮の中で、歴代皇帝が日常の起居だけでなく、政務を行なう場として、最も時間を費やしたのが養心殿です。
三希堂というのは養心殿の片隅にある小部屋で、その広さは畳でいうと3畳ほどにすぎず、部屋の入口には前室とよばれる4畳半くらいの通路がつながります。皇帝は、日常の政務に疲れると、この前室を通りぬけて三希堂に入ってくつろいだのでした。
その名は、この書斎に乾隆帝が愛玩した王羲之(おうぎし)の「快雪時晴帖」(かいせつじせいじょう)、王献之(おうけんし)の「中秋帖」(ちゅうしゅうじょう)、王c(おうじゅん)の「伯遠帖」(はくえんじょう)という三つの希(まれ)な書跡の名宝を秘蔵したことにちなみます。
他にも書では、顔真卿、蘇軾、黄庭堅、趙孟頫など、絵画では、徽宗、李唐、董源、郭熙など、素晴らしい名品が所蔵されており、皇帝は好きなときにそれらを見ることができたといいます。
2012年の特別展「北京故宮博物院200選」では、三希堂を再現した部屋が展示されていて興味深く拝見しましたが、乾隆帝のように中国史上でも抜群の権勢をほこった皇帝でも、政務に疲れ、小さな書斎にこもり、くつろぎたくなるときもあったのですね。数々の名品に囲まれ、満足そうに微笑む皇帝の姿が目に浮かぶようです。
王朝交代のたびに宮中から文物が持ち出され、新たな王朝に引き継がれました。これらの文物をもつことが、正統な存在であることを内外にも示す手段でもあったのです。
さまざまな動乱や権力者の変遷をくぐりぬけて今日まで伝わる故宮の名品の数々。
この貴重な人類の財産を、この夏じっくり拝見したいと思っています。
2014年06月23日
美は江南にあり(故宮博物院D)
1127年、金軍の前に開封は陥落し、北宋は滅びます。以後は、南方の臨時の行在所という意味で臨安(杭州)に都を移し、南宋(1127〜1279)として約150年にわたり存続することになります。
南宋は徽宗の子、高宗が興した国でした。北宋の皇族は金に拉致されますが、たまたま高宗は都開封を離れており、ただ一人難を免れたのです。
1142年、金との講和が成立し、高宗の一族は返還されますが、父徽宗と妻の皇后は既に亡くなっていました。
上海博物館展が昨年東京国立博物館で開催されました。中国絵画を代表する名画が一同に揃う、素晴らしい展覧会でしたが、その中に「人物故事図巻」という南宋時代の絵画も出品されていました。
この絵には、講和によって金から帰還した皇族を迎える南宋の人々が描かれています。中心には高宗と思われる人物がおり、左側に赤い幌車があります。これが、高宗の母を乗せた車でしょう。その後方に棺が二つ。徽宗と皇后を乗せたものです。
ちなみに高宗は父徽宗の死亡後、各所に残る徽宗の文書を集めて、「徽宗皇帝御集」100巻を編纂します。その序文にある末尾の署名は「臣 構」。構とは高宗の本名で、自らを徽宗の臣下として位置づけたもの、といわれています。
高宗の父への思いが伝わるエピソードです。
ちなみに上海博物館展の図録はすぐに売切れてしまったようで、残念ながら買えませんでした。東博さん、故宮博物院展を機会に増刷してくださ〜い。
南宋が生き残ることのできた原因の一つは、長江の南に広がる江南の豊かな土地と貿易でした。
また、金の貴族の多くは漢の文化に憧れていました。金の第6代の皇帝章宗は、徽宗に心酔し、徽宗の書体をまねたと思われる文書が伝えられています。
南宋と金は初めのころは戦争が頻発していましたが、その後約百年は、おおむね平和な状態でした。
そのため南宋は軍事費を抑えることができ、産業や文化が発展します。
都杭州の人口は百万を突破し、最大で150万人までいたといいます。
また歴代の皇帝も文化に育成に熱心でした。南宋にとって文化の高さを誇ることが、王朝の優位を保つ手段でもあったのです。
北宋の絵は雄大で深遠な大作が多く、反面情緒にかける面もあるのですが、こうした北宋絵画の伝統的技法を踏まえて、南宋では馬遠、夏珪など、多くの宮廷画家が活躍し、詩情にあふれた繊細で魅力的な絵画が多く生み出されました。
馬遠、夏珪の特色は、絵の主題を片方に寄せ、画面の中央に大きな余白を残すという構図にあります。
岩や木々、刻々と変化する空気を自在に描き、詩情豊かな山水画の世界を構築したのです。
牧谿は、南宋の僧侶ですが、日本に多くの作品が伝わり、独特な技法により描かれる、見る者に湿潤な空気までを実感させるような水墨画は、日本絵画史のなかで高く評価されてきたました。
室町時代の3代将軍義満以来の将軍家伝来の中国絵画をリストアップした「御物御絵目録」という文書では、なんと約3分の1が牧谿画とされています。
そのほかにも南宋時代の絵画や青磁、天目茶碗など多くの逸品が日本に伝わり、足利将軍や大名、堺の豪商たちの垂涎の的であり、室町時代の水墨画にも大きな影響を与えました。
雪舟は、明の時代に中国に行きますが、国宝「破墨山水図」に書かれているこの絵の由来では、「大宋国」に行った、と書いています。宋も明も同じ、と思ったのかもしれませんが、一説では日本で当時偉大な中国画家とあがめられていたのは、宋の時代の人たちだったから、とも言われています。
その後も茶道や生け花を通じて、日本文化は宋の文化の大きな影響を受けています。
宋の洗練された文物の数々は、時代を越え、これからも日本人の心を魅了し続けていくのでしょう。
ちなみに世界遺産(文化遺産)として登録された西湖は杭州にあり、松尾芭蕉の『奥の細道』の松島の部分で西湖が登場します。
「松島は扶桑第一の好風にして、凡洞庭・西湖を恥ず」松島の美しさは中国の洞庭湖、西湖にも劣らないだろう…、日本にも古くから西湖の美しさは伝わっていました。
上海までは直線距離で約160キロ、一番早い鉄道を使えばたったの49分で到着します。
私もいつかきっと訪ねてみたいと思っています。
南宋は徽宗の子、高宗が興した国でした。北宋の皇族は金に拉致されますが、たまたま高宗は都開封を離れており、ただ一人難を免れたのです。
1142年、金との講和が成立し、高宗の一族は返還されますが、父徽宗と妻の皇后は既に亡くなっていました。
上海博物館展が昨年東京国立博物館で開催されました。中国絵画を代表する名画が一同に揃う、素晴らしい展覧会でしたが、その中に「人物故事図巻」という南宋時代の絵画も出品されていました。
この絵には、講和によって金から帰還した皇族を迎える南宋の人々が描かれています。中心には高宗と思われる人物がおり、左側に赤い幌車があります。これが、高宗の母を乗せた車でしょう。その後方に棺が二つ。徽宗と皇后を乗せたものです。
ちなみに高宗は父徽宗の死亡後、各所に残る徽宗の文書を集めて、「徽宗皇帝御集」100巻を編纂します。その序文にある末尾の署名は「臣 構」。構とは高宗の本名で、自らを徽宗の臣下として位置づけたもの、といわれています。
高宗の父への思いが伝わるエピソードです。
ちなみに上海博物館展の図録はすぐに売切れてしまったようで、残念ながら買えませんでした。東博さん、故宮博物院展を機会に増刷してくださ〜い。
南宋が生き残ることのできた原因の一つは、長江の南に広がる江南の豊かな土地と貿易でした。
また、金の貴族の多くは漢の文化に憧れていました。金の第6代の皇帝章宗は、徽宗に心酔し、徽宗の書体をまねたと思われる文書が伝えられています。
南宋と金は初めのころは戦争が頻発していましたが、その後約百年は、おおむね平和な状態でした。
そのため南宋は軍事費を抑えることができ、産業や文化が発展します。
都杭州の人口は百万を突破し、最大で150万人までいたといいます。
また歴代の皇帝も文化に育成に熱心でした。南宋にとって文化の高さを誇ることが、王朝の優位を保つ手段でもあったのです。
北宋の絵は雄大で深遠な大作が多く、反面情緒にかける面もあるのですが、こうした北宋絵画の伝統的技法を踏まえて、南宋では馬遠、夏珪など、多くの宮廷画家が活躍し、詩情にあふれた繊細で魅力的な絵画が多く生み出されました。
馬遠、夏珪の特色は、絵の主題を片方に寄せ、画面の中央に大きな余白を残すという構図にあります。
岩や木々、刻々と変化する空気を自在に描き、詩情豊かな山水画の世界を構築したのです。
牧谿は、南宋の僧侶ですが、日本に多くの作品が伝わり、独特な技法により描かれる、見る者に湿潤な空気までを実感させるような水墨画は、日本絵画史のなかで高く評価されてきたました。
室町時代の3代将軍義満以来の将軍家伝来の中国絵画をリストアップした「御物御絵目録」という文書では、なんと約3分の1が牧谿画とされています。
そのほかにも南宋時代の絵画や青磁、天目茶碗など多くの逸品が日本に伝わり、足利将軍や大名、堺の豪商たちの垂涎の的であり、室町時代の水墨画にも大きな影響を与えました。
雪舟は、明の時代に中国に行きますが、国宝「破墨山水図」に書かれているこの絵の由来では、「大宋国」に行った、と書いています。宋も明も同じ、と思ったのかもしれませんが、一説では日本で当時偉大な中国画家とあがめられていたのは、宋の時代の人たちだったから、とも言われています。
その後も茶道や生け花を通じて、日本文化は宋の文化の大きな影響を受けています。
宋の洗練された文物の数々は、時代を越え、これからも日本人の心を魅了し続けていくのでしょう。
ちなみに世界遺産(文化遺産)として登録された西湖は杭州にあり、松尾芭蕉の『奥の細道』の松島の部分で西湖が登場します。
「松島は扶桑第一の好風にして、凡洞庭・西湖を恥ず」松島の美しさは中国の洞庭湖、西湖にも劣らないだろう…、日本にも古くから西湖の美しさは伝わっていました。
上海までは直線距離で約160キロ、一番早い鉄道を使えばたったの49分で到着します。
私もいつかきっと訪ねてみたいと思っています。
2014年06月16日
皇帝の夢(故宮博物院C)
当時、北宋の北の脅威であった遼は国勢が衰えてきていました。また遼の背後に当たる満州では女真族が台頭していました。北宋は女真(金)と協力し、遼を攻撃しようとしますが、その戦いを通じて、金は北宋は戦えば勝てる相手であることを理解します。
地方での反乱、北の脅威にもかかわらず、開封は相変わらず平和で繁栄した町でした。
「清明上河図」はまさにこの時代のものです。
1125年、北から金軍が侵入し、ここにいたって初めて徽宗は事の重大さに気づきます。
しかし軍事力では抵抗できず、開封はあっけなく陥落します。
金の軍は略奪をほしいままにし、徽宗は捕虜として北へ連れ去られました。
開封陥落後、徽宗は覚悟を決めたものと見えて、一族のものが連れ去られても眉ひとつ動かしませんでした。しかし、自ら収集し愛した文物が持ち去られるのを見て、激しく動揺したといいます。
「文物をもつことが中国の正当な王権の継承者である」
そうした考えはそのとき文物を持ち去った金において初めて生まれたといえるかもしれません。
台北故宮博物院所蔵の絵「江行初雪図」は、そのとき持ち出された絵画の一つですが、金、元、明と歴代の王朝に所蔵されてたことを示す印が残されています。徽宗が集めた書画は、幾多の戦乱の中でも、歴代の王朝に引き継がれてきました。それが、現在故宮博物院のコレクションの原点となったのです。
金へ運ばれた徽宗は、長く厳しい寒さが続く北の大地で、土壁に囲まれた小さな部屋に囚われ、食事は毎日1回、晩年は失明していたといいます。
1135年、北宋滅亡の8年後に徽宗は53(又は54)歳で亡くなります。皇帝としての華やかな時代、虜囚としてのつらく苦しい時代、死に臨んで彼の心の中をよぎったものは何だったのでしょうか?
「清明上河図」は春の清明節を描いているにもかかわらず、夏や秋の風景が描かれています。また絵の作者である張択端はこれほどの絵が描けるにもかかわらず、画院の名簿には載っていません。また、絵につけられた跋は、金が書いたのが最初です。
こうしたことから、「清明上河図」は、金で、徽宗とともに連行された画家が盛時の開封の繁栄をしのんで描いた、ともいわれています。
「清明上河図」は徽宗の夢の中の都を再現したものだったのでしょうか?
徽宗は、美に憑かれて国を滅ぼした皇帝として悪名は高いのですが、彼なりに文化国家を目指そうとしたという見方もできるでしょうし、そこまでしなければ青磁のような名品は生み出されなかったともいえるでしょう。
美術史上でも最高レベルの技術と感性をもった芸術が生まれ、育ったた宋という時代。
次回は南宋という日本美術に大きな影響を与えた時代について述べてみたいと思います。
地方での反乱、北の脅威にもかかわらず、開封は相変わらず平和で繁栄した町でした。
「清明上河図」はまさにこの時代のものです。
1125年、北から金軍が侵入し、ここにいたって初めて徽宗は事の重大さに気づきます。
しかし軍事力では抵抗できず、開封はあっけなく陥落します。
金の軍は略奪をほしいままにし、徽宗は捕虜として北へ連れ去られました。
開封陥落後、徽宗は覚悟を決めたものと見えて、一族のものが連れ去られても眉ひとつ動かしませんでした。しかし、自ら収集し愛した文物が持ち去られるのを見て、激しく動揺したといいます。
「文物をもつことが中国の正当な王権の継承者である」
そうした考えはそのとき文物を持ち去った金において初めて生まれたといえるかもしれません。
台北故宮博物院所蔵の絵「江行初雪図」は、そのとき持ち出された絵画の一つですが、金、元、明と歴代の王朝に所蔵されてたことを示す印が残されています。徽宗が集めた書画は、幾多の戦乱の中でも、歴代の王朝に引き継がれてきました。それが、現在故宮博物院のコレクションの原点となったのです。
金へ運ばれた徽宗は、長く厳しい寒さが続く北の大地で、土壁に囲まれた小さな部屋に囚われ、食事は毎日1回、晩年は失明していたといいます。
1135年、北宋滅亡の8年後に徽宗は53(又は54)歳で亡くなります。皇帝としての華やかな時代、虜囚としてのつらく苦しい時代、死に臨んで彼の心の中をよぎったものは何だったのでしょうか?
「清明上河図」は春の清明節を描いているにもかかわらず、夏や秋の風景が描かれています。また絵の作者である張択端はこれほどの絵が描けるにもかかわらず、画院の名簿には載っていません。また、絵につけられた跋は、金が書いたのが最初です。
こうしたことから、「清明上河図」は、金で、徽宗とともに連行された画家が盛時の開封の繁栄をしのんで描いた、ともいわれています。
「清明上河図」は徽宗の夢の中の都を再現したものだったのでしょうか?
徽宗は、美に憑かれて国を滅ぼした皇帝として悪名は高いのですが、彼なりに文化国家を目指そうとしたという見方もできるでしょうし、そこまでしなければ青磁のような名品は生み出されなかったともいえるでしょう。
美術史上でも最高レベルの技術と感性をもった芸術が生まれ、育ったた宋という時代。
次回は南宋という日本美術に大きな影響を与えた時代について述べてみたいと思います。
2014年06月15日
中国芸術の黄金時代(故宮博物院B)
現在の故宮博物院の源流の多くは北宋時代の宮廷コレクションといわれていますが、書画文物をこよなく愛し、「風流天子」とも呼ばれたのが徽宗です。
芸術に情熱を傾けた結果、政治はそっちのけとなり、政治は宰相である蔡京に任せて、芸術の世界にのめりこんでいくことになるのですが、蔡京は水滸伝にも宮廷四姦のひとりとして登場する悪名高い人物です。
蔡京は、多くの税を新設し、庶民を苦しめました。このような悪政によって民衆の恨みは高まり、民衆反乱が続発するようになりました。こうした反乱の指導者の中に、山東で活動した宋江と言う者がおり、これをモデルにして講談から発展して誕生したのが『水滸伝』です。水滸伝は、南宋時代に作成され、明代に成立したといわれていますが、清明上河図の繁栄の裏で、庶民は官僚の腐敗や増税に苦しんでおり、世直しを掲げて立ち上がった豪傑たちの物語なのです。
再び徽宗の話に戻ります。
彼はまず、パトロンとして、美術学校である画院をつくり、自ら指導にあたります。
10日に一度は宮中に所蔵する絵画を持ち出し、学生たちに学ばせました。
有名なエピソードですが、宮殿の庭先に見事な実がなり、その下に孔雀が訪れました。徽宗は喜び、画院の人々に絵を描かせます。
しかし、当時の花鳥画の伝統に則り、できあがった作品ではどれも孔雀が右足を上げて羽ばたいていました。
徽宗はこれを見て「うそが描いてある」と怒り、「孔雀が羽ばたいたとき、左足からあげたはずだ」と指摘しました。
実際良く見てみると確かに左足を上げており、一同彼の写実への厳格さに敬服しました。
ただ皇帝としては、孔雀の足の上げ下げよりも、もっと庶民の暮らしに目を配ってほしかったとも思います・・・。
徽宗は、画家の身分の向上にも力を尽くし、政治家と同じような社会的身分が与えられるようになります。画院の入試も科挙と同様に行われるようになり、自ら試験を行い、学生を評価します。これによって多くの有能な青年が絵を学べるようになります。
徽宗が編纂させた「宣和書譜」、「宣和画譜」は、史上初の本格的な宮廷所蔵品の目録です。散逸していた書や絵画を集め、分類し、彼はこれまでの中国美術を集大成した偉大なコレクターでもありました。
その後、徽宗は石へ興味をもつようになります。
多くの穴が穿たれている太湖石は、大きなものは10メートルを超えますが、これを都に運ばせ、庭園を造ろうとしたのです。太湖石で周囲30キロもある広大な庭園を造り、そこに南方から珍しい植物を集め、数千の鳥や獣を放し飼いにしました。夜になると開封の街まで禽獣の声が聞こえたそうです。
石の運搬は蘇州から開封への沿道の人々の負担となり、10年にも及び人々を苦しめました。
これは破滅への序章でした。しかし、徽宗の耳には庶民の声は届かなかったのです。
芸術に情熱を傾けた結果、政治はそっちのけとなり、政治は宰相である蔡京に任せて、芸術の世界にのめりこんでいくことになるのですが、蔡京は水滸伝にも宮廷四姦のひとりとして登場する悪名高い人物です。
蔡京は、多くの税を新設し、庶民を苦しめました。このような悪政によって民衆の恨みは高まり、民衆反乱が続発するようになりました。こうした反乱の指導者の中に、山東で活動した宋江と言う者がおり、これをモデルにして講談から発展して誕生したのが『水滸伝』です。水滸伝は、南宋時代に作成され、明代に成立したといわれていますが、清明上河図の繁栄の裏で、庶民は官僚の腐敗や増税に苦しんでおり、世直しを掲げて立ち上がった豪傑たちの物語なのです。
再び徽宗の話に戻ります。
彼はまず、パトロンとして、美術学校である画院をつくり、自ら指導にあたります。
10日に一度は宮中に所蔵する絵画を持ち出し、学生たちに学ばせました。
有名なエピソードですが、宮殿の庭先に見事な実がなり、その下に孔雀が訪れました。徽宗は喜び、画院の人々に絵を描かせます。
しかし、当時の花鳥画の伝統に則り、できあがった作品ではどれも孔雀が右足を上げて羽ばたいていました。
徽宗はこれを見て「うそが描いてある」と怒り、「孔雀が羽ばたいたとき、左足からあげたはずだ」と指摘しました。
実際良く見てみると確かに左足を上げており、一同彼の写実への厳格さに敬服しました。
ただ皇帝としては、孔雀の足の上げ下げよりも、もっと庶民の暮らしに目を配ってほしかったとも思います・・・。
徽宗は、画家の身分の向上にも力を尽くし、政治家と同じような社会的身分が与えられるようになります。画院の入試も科挙と同様に行われるようになり、自ら試験を行い、学生を評価します。これによって多くの有能な青年が絵を学べるようになります。
徽宗が編纂させた「宣和書譜」、「宣和画譜」は、史上初の本格的な宮廷所蔵品の目録です。散逸していた書や絵画を集め、分類し、彼はこれまでの中国美術を集大成した偉大なコレクターでもありました。
その後、徽宗は石へ興味をもつようになります。
多くの穴が穿たれている太湖石は、大きなものは10メートルを超えますが、これを都に運ばせ、庭園を造ろうとしたのです。太湖石で周囲30キロもある広大な庭園を造り、そこに南方から珍しい植物を集め、数千の鳥や獣を放し飼いにしました。夜になると開封の街まで禽獣の声が聞こえたそうです。
石の運搬は蘇州から開封への沿道の人々の負担となり、10年にも及び人々を苦しめました。
これは破滅への序章でした。しかし、徽宗の耳には庶民の声は届かなかったのです。