2014年06月15日
中国芸術の黄金時代(故宮博物院B)
現在の故宮博物院の源流の多くは北宋時代の宮廷コレクションといわれていますが、書画文物をこよなく愛し、「風流天子」とも呼ばれたのが徽宗です。
芸術に情熱を傾けた結果、政治はそっちのけとなり、政治は宰相である蔡京に任せて、芸術の世界にのめりこんでいくことになるのですが、蔡京は水滸伝にも宮廷四姦のひとりとして登場する悪名高い人物です。
蔡京は、多くの税を新設し、庶民を苦しめました。このような悪政によって民衆の恨みは高まり、民衆反乱が続発するようになりました。こうした反乱の指導者の中に、山東で活動した宋江と言う者がおり、これをモデルにして講談から発展して誕生したのが『水滸伝』です。水滸伝は、南宋時代に作成され、明代に成立したといわれていますが、清明上河図の繁栄の裏で、庶民は官僚の腐敗や増税に苦しんでおり、世直しを掲げて立ち上がった豪傑たちの物語なのです。
再び徽宗の話に戻ります。
彼はまず、パトロンとして、美術学校である画院をつくり、自ら指導にあたります。
10日に一度は宮中に所蔵する絵画を持ち出し、学生たちに学ばせました。
有名なエピソードですが、宮殿の庭先に見事な実がなり、その下に孔雀が訪れました。徽宗は喜び、画院の人々に絵を描かせます。
しかし、当時の花鳥画の伝統に則り、できあがった作品ではどれも孔雀が右足を上げて羽ばたいていました。
徽宗はこれを見て「うそが描いてある」と怒り、「孔雀が羽ばたいたとき、左足からあげたはずだ」と指摘しました。
実際良く見てみると確かに左足を上げており、一同彼の写実への厳格さに敬服しました。
ただ皇帝としては、孔雀の足の上げ下げよりも、もっと庶民の暮らしに目を配ってほしかったとも思います・・・。
徽宗は、画家の身分の向上にも力を尽くし、政治家と同じような社会的身分が与えられるようになります。画院の入試も科挙と同様に行われるようになり、自ら試験を行い、学生を評価します。これによって多くの有能な青年が絵を学べるようになります。
徽宗が編纂させた「宣和書譜」、「宣和画譜」は、史上初の本格的な宮廷所蔵品の目録です。散逸していた書や絵画を集め、分類し、彼はこれまでの中国美術を集大成した偉大なコレクターでもありました。
その後、徽宗は石へ興味をもつようになります。
多くの穴が穿たれている太湖石は、大きなものは10メートルを超えますが、これを都に運ばせ、庭園を造ろうとしたのです。太湖石で周囲30キロもある広大な庭園を造り、そこに南方から珍しい植物を集め、数千の鳥や獣を放し飼いにしました。夜になると開封の街まで禽獣の声が聞こえたそうです。
石の運搬は蘇州から開封への沿道の人々の負担となり、10年にも及び人々を苦しめました。
これは破滅への序章でした。しかし、徽宗の耳には庶民の声は届かなかったのです。
芸術に情熱を傾けた結果、政治はそっちのけとなり、政治は宰相である蔡京に任せて、芸術の世界にのめりこんでいくことになるのですが、蔡京は水滸伝にも宮廷四姦のひとりとして登場する悪名高い人物です。
蔡京は、多くの税を新設し、庶民を苦しめました。このような悪政によって民衆の恨みは高まり、民衆反乱が続発するようになりました。こうした反乱の指導者の中に、山東で活動した宋江と言う者がおり、これをモデルにして講談から発展して誕生したのが『水滸伝』です。水滸伝は、南宋時代に作成され、明代に成立したといわれていますが、清明上河図の繁栄の裏で、庶民は官僚の腐敗や増税に苦しんでおり、世直しを掲げて立ち上がった豪傑たちの物語なのです。
再び徽宗の話に戻ります。
彼はまず、パトロンとして、美術学校である画院をつくり、自ら指導にあたります。
10日に一度は宮中に所蔵する絵画を持ち出し、学生たちに学ばせました。
有名なエピソードですが、宮殿の庭先に見事な実がなり、その下に孔雀が訪れました。徽宗は喜び、画院の人々に絵を描かせます。
しかし、当時の花鳥画の伝統に則り、できあがった作品ではどれも孔雀が右足を上げて羽ばたいていました。
徽宗はこれを見て「うそが描いてある」と怒り、「孔雀が羽ばたいたとき、左足からあげたはずだ」と指摘しました。
実際良く見てみると確かに左足を上げており、一同彼の写実への厳格さに敬服しました。
ただ皇帝としては、孔雀の足の上げ下げよりも、もっと庶民の暮らしに目を配ってほしかったとも思います・・・。
徽宗は、画家の身分の向上にも力を尽くし、政治家と同じような社会的身分が与えられるようになります。画院の入試も科挙と同様に行われるようになり、自ら試験を行い、学生を評価します。これによって多くの有能な青年が絵を学べるようになります。
徽宗が編纂させた「宣和書譜」、「宣和画譜」は、史上初の本格的な宮廷所蔵品の目録です。散逸していた書や絵画を集め、分類し、彼はこれまでの中国美術を集大成した偉大なコレクターでもありました。
その後、徽宗は石へ興味をもつようになります。
多くの穴が穿たれている太湖石は、大きなものは10メートルを超えますが、これを都に運ばせ、庭園を造ろうとしたのです。太湖石で周囲30キロもある広大な庭園を造り、そこに南方から珍しい植物を集め、数千の鳥や獣を放し飼いにしました。夜になると開封の街まで禽獣の声が聞こえたそうです。
石の運搬は蘇州から開封への沿道の人々の負担となり、10年にも及び人々を苦しめました。
これは破滅への序章でした。しかし、徽宗の耳には庶民の声は届かなかったのです。