2014年06月14日
夢の都、開封〜清明上河図(故宮博物院A)
徽宗の都は、現在の現在の河南省開封(かいほう)市におかれました。
当時の面影を残すものはあまり残っていませんが、徽宗の時代の町の繁栄を示す貴重な絵画が残されています。
北京故宮博物院の清明上河図」(北宋時代)です。2012年に「北京故宮博物院200選」展で公開され、連日すごい行列でしたので、ご覧になった方も多いと思います。私も1時間半並んで拝見できたのは3分でした^^;
ただただ乾隆帝ですら、本物は見たことがなかったとも言われていますから、とても貴重な機会だったというべきなのでしょう。
これは、北京の故宮博物院のなかでも最も大切にされている絵画で、制作されてから数百年は民間に持ち出されたりした時期もあったようですが、清の時代になって宮廷に収められました。
長さ5メートルの絵巻には、およそ700人の人々が詳細に描きこまれ、北宋が経済が繁栄した豊かな国であることがよくわかります。者である張択端(ちょうたくたん)は、北宋の宮廷画家であったということ以外、詳しいことがほとんど分かっていない謎の画家です。
当時の開封は、人口百万。世界最大の都市でした。者である張択端(ちょうたくたん)は、北宋の宮廷画家であったということ以外、詳しいことがほとんど分かっていない謎の画家です。
汴河(べんが)の流れに沿って、市民の生活が衣食住にいたるまで細かに描かれ、宋代の風俗を知るためにも一級の資料です。北宋文化の絶頂期・徽宗のために描かれたとされ、楽しく安らかに暮らし、働く、庶民の幸せな日常生活が画面に満ち溢れています。
清明上河図は、その後の中国美術に大きな影響を与えました。明時代には盛んに模本が作られ、そのうちいくつかは日本にも伝来しています。昨年東京・大倉集古館で開催された「描かれた都」展でもいくつか公開されましたね。
大倉集古館の清明上河図は明の時代のものですが、大倉喜八郎氏がどのようにしてこの絵を入手したかは、資料が失われて不明だそうです。
見る者を夢中にし、幸せな思いに至らせる清明上河図は、長い歴史の中で最も中国の人々に愛された作品であり、中国世界の本質を表すともいえる名品なのです。 仕事に熱中する者、ぼんやりと休息する者、そして、食事や飲酒の風景、それぞれがそれぞれの人生を精いっぱい生きています。
当時の開封を描いた、孟元老「東京夢華録(とうけいむかろく)」では、「人も物も盛りを極めていた。・・・あrとあらゆる世界の珍宝は、みな交易に持ち出され、・・・華の光は道に溢れて、果つべくもない春の遊び・・」と記しています。孟元老は
金に滅ぼされ、廃墟となった開封の姿に心を打ち砕かれ、往時の繁栄の様子を文字にとどめておこうと、北宋滅亡の20年後の1147年に「東京夢華録」を記しました。
同書のなかでは、戦乱は遠い昔の思い出となり、人々は豊かな時代を謳歌していたことがわかります。
開封はその書名にあるように、まさに「夢の都」だったのです。
「清明上河図」と徽宗の時代」そして輝きの残照 伊原弘 編(勉誠出版)は「清明上河図」が後世の画巻美術に与えた影響を考察するとともに、「政治的に無能で国民の怨嗟の声をあびた」とされる皇帝徽宗の評価を、内外のさまざまな研究者が再検討するとても興味深い本です。ぜひご一読をおすすめします。
ところでは龍亭湖の西側に位置する、清明上河園のことをご存知ですか?
1998年10月オープンしたのですが、ここは「清明上河図」に描かれた風物を再現し、宋代の民俗風情を集めた遊園地です。
園内には「清明上河図」に描かれた配置に従って城門楼、虹橋のほか、宋代の酒楼、茶屋などの店舗が再現されているそうです。また、当時の儀式などの出し物もあり、日本の観光地にも良くあるテーマパークのようなものでしょうか?
なかなか面白そうですね。
でも北宋時代の一枚の絵からテーマパークができるのも、清明上河図ならではだと思います。
范寛、郭熙などが描く巨大な深山、雲、瀑布という雄大な山水画での世界では、テーマパークを作っても人を集めるのは難しいかも。。。
次回は引き続き北宋時代の美術について述べたいと思います。
当時の面影を残すものはあまり残っていませんが、徽宗の時代の町の繁栄を示す貴重な絵画が残されています。
北京故宮博物院の清明上河図」(北宋時代)です。2012年に「北京故宮博物院200選」展で公開され、連日すごい行列でしたので、ご覧になった方も多いと思います。私も1時間半並んで拝見できたのは3分でした^^;
ただただ乾隆帝ですら、本物は見たことがなかったとも言われていますから、とても貴重な機会だったというべきなのでしょう。
これは、北京の故宮博物院のなかでも最も大切にされている絵画で、制作されてから数百年は民間に持ち出されたりした時期もあったようですが、清の時代になって宮廷に収められました。
長さ5メートルの絵巻には、およそ700人の人々が詳細に描きこまれ、北宋が経済が繁栄した豊かな国であることがよくわかります。者である張択端(ちょうたくたん)は、北宋の宮廷画家であったということ以外、詳しいことがほとんど分かっていない謎の画家です。
当時の開封は、人口百万。世界最大の都市でした。者である張択端(ちょうたくたん)は、北宋の宮廷画家であったということ以外、詳しいことがほとんど分かっていない謎の画家です。
汴河(べんが)の流れに沿って、市民の生活が衣食住にいたるまで細かに描かれ、宋代の風俗を知るためにも一級の資料です。北宋文化の絶頂期・徽宗のために描かれたとされ、楽しく安らかに暮らし、働く、庶民の幸せな日常生活が画面に満ち溢れています。
清明上河図は、その後の中国美術に大きな影響を与えました。明時代には盛んに模本が作られ、そのうちいくつかは日本にも伝来しています。昨年東京・大倉集古館で開催された「描かれた都」展でもいくつか公開されましたね。
大倉集古館の清明上河図は明の時代のものですが、大倉喜八郎氏がどのようにしてこの絵を入手したかは、資料が失われて不明だそうです。
見る者を夢中にし、幸せな思いに至らせる清明上河図は、長い歴史の中で最も中国の人々に愛された作品であり、中国世界の本質を表すともいえる名品なのです。 仕事に熱中する者、ぼんやりと休息する者、そして、食事や飲酒の風景、それぞれがそれぞれの人生を精いっぱい生きています。
当時の開封を描いた、孟元老「東京夢華録(とうけいむかろく)」では、「人も物も盛りを極めていた。・・・あrとあらゆる世界の珍宝は、みな交易に持ち出され、・・・華の光は道に溢れて、果つべくもない春の遊び・・」と記しています。孟元老は
金に滅ぼされ、廃墟となった開封の姿に心を打ち砕かれ、往時の繁栄の様子を文字にとどめておこうと、北宋滅亡の20年後の1147年に「東京夢華録」を記しました。
同書のなかでは、戦乱は遠い昔の思い出となり、人々は豊かな時代を謳歌していたことがわかります。
開封はその書名にあるように、まさに「夢の都」だったのです。
「清明上河図」と徽宗の時代」そして輝きの残照 伊原弘 編(勉誠出版)は「清明上河図」が後世の画巻美術に与えた影響を考察するとともに、「政治的に無能で国民の怨嗟の声をあびた」とされる皇帝徽宗の評価を、内外のさまざまな研究者が再検討するとても興味深い本です。ぜひご一読をおすすめします。
ところでは龍亭湖の西側に位置する、清明上河園のことをご存知ですか?
1998年10月オープンしたのですが、ここは「清明上河図」に描かれた風物を再現し、宋代の民俗風情を集めた遊園地です。
園内には「清明上河図」に描かれた配置に従って城門楼、虹橋のほか、宋代の酒楼、茶屋などの店舗が再現されているそうです。また、当時の儀式などの出し物もあり、日本の観光地にも良くあるテーマパークのようなものでしょうか?
なかなか面白そうですね。
でも北宋時代の一枚の絵からテーマパークができるのも、清明上河図ならではだと思います。
范寛、郭熙などが描く巨大な深山、雲、瀑布という雄大な山水画での世界では、テーマパークを作っても人を集めるのは難しいかも。。。
次回は引き続き北宋時代の美術について述べたいと思います。