2016年08月14日
西安たっぷり満喫4日間の旅 その3 西の城門、青龍寺など
ツアー3日目。今日は、遣唐使から始まる日本と長安との歴史的関係を垣間見ることが出来る、西安西北大学内博物館を見学します。
遣唐使の展示が充実していてとても興味深く拝見しました。
次はシルクロードの拠点、西門。
西安は唐代の城門の上に建てられた明代の城門が完璧に残っています。
文化大革命のときに壊されそうになったそうですが、当時の市長が請願し、残されることになったそうです。
煎門の外観
次は空海ゆかりの青龍寺。
池の鴨
興慶宮公園
阿部仲麻呂の碑があります。中国名は仲満のち晁衡/朝衡(ちょうこう)。
3面に「天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも」を漢文に訳したもの。阿部仲麻呂の生涯を記したもの。仲麻呂が難破して亡くなったと伝えられた時に李白が作った追悼の七言絶句「哭晁卿衡」が刻まれています。
阿部仲麻呂といえば、ボストン美術館蔵の「吉備大臣入唐絵巻」を思い出します。
成立は平安時代後半の12世紀末頃、後白河院のもとで製作された絵巻の一つで、『伴大納言絵巻』などと共に蓮華王院の宝蔵に納められていたと考えられています。
絵巻の内容は、大江匡房の『江談抄』に記される物語と一致しており、遣唐使の吉備真備が在唐中に幽閉され、鬼となった阿倍仲麻呂に導かれて、皇帝による『文選』や囲碁による無理難題を解いて、日本に「文選」や「囲碁」を持ち帰ることができたというとても面白いお話です。
史実では、真備と仲麻呂は養老元年(717年)に共に入唐するも仲麻呂は唐に残留し、宝亀元年(770年)に唐で亡くなります。真備は天平7年(735年)に帰国し天平勝宝4年(752年)に再度入唐しており、鑑真らと共に帰国していますが、仲麻呂存命中です真備の2回目の入唐時のこととして描かれているものと考えられています。
遣唐使の展示が充実していてとても興味深く拝見しました。
次はシルクロードの拠点、西門。
西安は唐代の城門の上に建てられた明代の城門が完璧に残っています。
文化大革命のときに壊されそうになったそうですが、当時の市長が請願し、残されることになったそうです。
煎門の内部。今はお土産屋さんですが、シルクロードの展示も一部あります。 |
煎門の外観
次は空海ゆかりの青龍寺。
池の鴨
興慶宮公園
阿部仲麻呂の碑があります。中国名は仲満のち晁衡/朝衡(ちょうこう)。
3面に「天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも」を漢文に訳したもの。阿部仲麻呂の生涯を記したもの。仲麻呂が難破して亡くなったと伝えられた時に李白が作った追悼の七言絶句「哭晁卿衡」が刻まれています。
阿部仲麻呂といえば、ボストン美術館蔵の「吉備大臣入唐絵巻」を思い出します。
成立は平安時代後半の12世紀末頃、後白河院のもとで製作された絵巻の一つで、『伴大納言絵巻』などと共に蓮華王院の宝蔵に納められていたと考えられています。
絵巻の内容は、大江匡房の『江談抄』に記される物語と一致しており、遣唐使の吉備真備が在唐中に幽閉され、鬼となった阿倍仲麻呂に導かれて、皇帝による『文選』や囲碁による無理難題を解いて、日本に「文選」や「囲碁」を持ち帰ることができたというとても面白いお話です。
史実では、真備と仲麻呂は養老元年(717年)に共に入唐するも仲麻呂は唐に残留し、宝亀元年(770年)に唐で亡くなります。真備は天平7年(735年)に帰国し天平勝宝4年(752年)に再度入唐しており、鑑真らと共に帰国していますが、仲麻呂存命中です真備の2回目の入唐時のこととして描かれているものと考えられています。