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2014年06月16日

皇帝の夢(故宮博物院C)

当時、北宋の北の脅威であった遼は国勢が衰えてきていました。また遼の背後に当たる満州では女真族が台頭していました。北宋は女真(金)と協力し、遼を攻撃しようとしますが、その戦いを通じて、金は北宋は戦えば勝てる相手であることを理解します。

地方での反乱、北の脅威にもかかわらず、開封は相変わらず平和で繁栄した町でした。
「清明上河図」はまさにこの時代のものです。

1125年、北から金軍が侵入し、ここにいたって初めて徽宗は事の重大さに気づきます。
しかし軍事力では抵抗できず、開封はあっけなく陥落します。
金の軍は略奪をほしいままにし、徽宗は捕虜として北へ連れ去られました。

開封陥落後、徽宗は覚悟を決めたものと見えて、一族のものが連れ去られても眉ひとつ動かしませんでした。しかし、自ら収集し愛した文物が持ち去られるのを見て、激しく動揺したといいます。

「文物をもつことが中国の正当な王権の継承者である」
そうした考えはそのとき文物を持ち去った金において初めて生まれたといえるかもしれません。

台北故宮博物院所蔵の絵「江行初雪図」は、そのとき持ち出された絵画の一つですが、金、元、明と歴代の王朝に所蔵されてたことを示す印が残されています。徽宗が集めた書画は、幾多の戦乱の中でも、歴代の王朝に引き継がれてきました。それが、現在故宮博物院のコレクションの原点となったのです。

金へ運ばれた徽宗は、長く厳しい寒さが続く北の大地で、土壁に囲まれた小さな部屋に囚われ、食事は毎日1回、晩年は失明していたといいます。

1135年、北宋滅亡の8年後に徽宗は53(又は54)歳で亡くなります。皇帝としての華やかな時代、虜囚としてのつらく苦しい時代、死に臨んで彼の心の中をよぎったものは何だったのでしょうか?

「清明上河図」は春の清明節を描いているにもかかわらず、夏や秋の風景が描かれています。また絵の作者である張択端はこれほどの絵が描けるにもかかわらず、画院の名簿には載っていません。また、絵につけられた跋は、金が書いたのが最初です。
こうしたことから、「清明上河図」は、金で、徽宗とともに連行された画家が盛時の開封の繁栄をしのんで描いた、ともいわれています。
「清明上河図」は徽宗の夢の中の都を再現したものだったのでしょうか?

徽宗は、美に憑かれて国を滅ぼした皇帝として悪名は高いのですが、彼なりに文化国家を目指そうとしたという見方もできるでしょうし、そこまでしなければ青磁のような名品は生み出されなかったともいえるでしょう。

美術史上でも最高レベルの技術と感性をもった芸術が生まれ、育ったた宋という時代。
次回は南宋という日本美術に大きな影響を与えた時代について述べてみたいと思います。



posted by はまやん at 05:43| アート
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