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2014年06月29日

中華王国の覇者、乾隆帝の時代(故宮博物院E)

マルコポーロは元の時代にフビライ・ハーンの命により、中国各地をまわり、「東方見聞録」を執筆します。
その中に南宋の首都であった杭州のこともでてくるのですが、国は滅んでも杭州の賑わいは変わることはありませんでした。
北宋の将軍が南唐を無血開城させたように、臨安府(杭州)を無傷で降伏させよと、命令したのはフビライ・ハーンでした。
元軍に包囲された宋の都は戦うことなく降伏したため、杭州は戦火と略奪を免れました。
「元史・ 姚枢伝」は、人々は元が新たな支配者となったことを知らないまま、平常どおり生活していたと伝えています。 

故宮博物院のことを語るのに欠かせない、乾隆帝のことを最後に触れたいと思います。

清朝6第皇帝の乾隆帝は、晩年、十全老人と号しました。完全無比ということです。この号は国内外に10回の遠征を行い、国の版図をゆるぎないものにしたことからきています。皇帝自ら戦地に赴くことはなかったそうですが、乾隆帝の時代に新疆、チベットも制圧し、史上最大の版図に君臨することになりました。

乾隆帝は幼い頃から才知に恵まれ、武にも優れた素質をもち、20歳のときには、それまで7年間の間に作った詩文を集めて全40巻の文集を作成しました。その後も精力的に詩文を作成し、生涯に9集に及ぶ詩文集をまとめました。

また、元から明の時代には、宮廷に収蔵されていた書画の多くが民間に流出しますが、乾隆帝は熱心に書画の募集を続け、それらを整理分類した目録を作成します。
さらに、全国の過去の書物全てを集め、筆写し、分類した中国最大の漢籍叢書「四庫全書」を作らせるなど、乾隆帝の時代に宮廷の書画は格段に充実したものとなりました。

故宮の中で、歴代皇帝が日常の起居だけでなく、政務を行なう場として、最も時間を費やしたのが養心殿です。
三希堂というのは養心殿の片隅にある小部屋で、その広さは畳でいうと3畳ほどにすぎず、部屋の入口には前室とよばれる4畳半くらいの通路がつながります。皇帝は、日常の政務に疲れると、この前室を通りぬけて三希堂に入ってくつろいだのでした。

その名は、この書斎に乾隆帝が愛玩した王羲之(おうぎし)の「快雪時晴帖」(かいせつじせいじょう)、王献之(おうけんし)の「中秋帖」(ちゅうしゅうじょう)、王c(おうじゅん)の「伯遠帖」(はくえんじょう)という三つの希(まれ)な書跡の名宝を秘蔵したことにちなみます。
他にも書では、顔真卿、蘇軾、黄庭堅、趙孟頫など、絵画では、徽宗、李唐、董源、郭熙など、素晴らしい名品が所蔵されており、皇帝は好きなときにそれらを見ることができたといいます。

2012年の特別展「北京故宮博物院200選」では、三希堂を再現した部屋が展示されていて興味深く拝見しましたが、乾隆帝のように中国史上でも抜群の権勢をほこった皇帝でも、政務に疲れ、小さな書斎にこもり、くつろぎたくなるときもあったのですね。数々の名品に囲まれ、満足そうに微笑む皇帝の姿が目に浮かぶようです。

王朝交代のたびに宮中から文物が持ち出され、新たな王朝に引き継がれました。これらの文物をもつことが、正統な存在であることを内外にも示す手段でもあったのです。

さまざまな動乱や権力者の変遷をくぐりぬけて今日まで伝わる故宮の名品の数々。
この貴重な人類の財産を、この夏じっくり拝見したいと思っています。


posted by はまやん at 08:05| アート
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