アフィリエイト広告を利用しています

広告

この広告は30日以上更新がないブログに表示されております。
新規記事の投稿を行うことで、非表示にすることが可能です。
posted by fanblog

三国志 曹操伝 68,69回目

どもども。曹操伝、最後の戦です。



この戦いはやっかいでしたね。
つってもまだ終わってませんが・・・・。

程cが落ちて、いつも何だかんだ言って活躍する司馬懿も落ちました・・・。
終盤の孫権の捨て身の攻撃には参りましたね〜。
敵の配置も難しいし、こっちの初期位置にも参りました。
まぁ、最後の戦いっぽくていいですな!
つうかゲームに熱中しすぎて話もおろそかになっちゃいました、申し訳ないです。

次回は諸事情により6月3日にうpします。
ではではノシ

三国志 曹操伝 67回目

どもども。
今回は濡須口での戦いでした。



完全なる不完全燃焼でした・・・。
まぁ、孔明は負け戦ばかりなので逃げ癖でもついたんじゃねぇのか?とすら思えます。

しかも、ココに来て南蛮軍まで登場とは・・・。
もう何でも出しちゃえ!みたいになってきましたね・・・。

曹操軍と孫権軍ってのは赤壁の戦い(208年)以降、合肥城らへんでよく衝突しましたが、今回の濡須口でもよく戦っています。

今回は長きに渡った曹孫の戦いを簡単に書きますね。

まず語らないといけないのは劉馥(リュウフク)という人物ですね。
この劉馥は曹操の配下です。
200年、合肥は孫策死後に大いに荒れて空城となってました。
そこで曹操が劉馥に修復を命じ、劉馥は見事に軍事面のみならず政治面でも合肥を修復します。
208年に劉馥は没しますが、彼の築き上げた合肥は赤壁で大敗した曹操軍への孫権の追撃を見事に退けました。

馬超を破った曹操は212年から213年にかけて孫権討伐に向かいました。
曹操は赤壁並み(それ以上?)の軍勢で自ら出陣し、呉も孫権自ら出陣しました。
お互いは濡須口にて衝突し、孫権の将・董襲が死亡したり、甘寧の100人での奇襲などなど、色々ありましたが、曹操軍は決定打にかけ、いたみわけの結果に終わります。

215年に孫権は自ら10万の大軍を率いて合肥に迫ります。
曹操陣営は張遼・李典・楽進が7000の兵で10万の大軍に挑みます。
この戦で有名なのは、張遼が800人の精鋭を率いて孫権を追い詰めるというものですね。
張遼は孫権を追い詰めますが逃げられて、敵陣を強行突破して脱出したらしいですが、数人しか付いてこれず、取り残された兵が助けをこうと、再び敵陣に突っ込んで行って助けてまた脱出したらしいです。
ゲームじゃ夏侯惇がやけに強いですが、実際は張遼の方が強いんでしょうね・・・。

翌年の216年から217年にかけて再び濡須口にて衝突します。
この戦は夏侯惇やら張遼、臧覇や曹仁などの名だたる武将が参戦し、曹操も決着を付けるつもりで大軍を率いて出陣します。
疫病や呂蒙の戦いぶりに苦戦は強いられたものの、遂に孫権は降伏します。

その後、お互いは盟を結び、関羽を討ち取るなどします。
曹操没後、呉と蜀は夷陵の戦いなどで衝突しあいますが、和睦を結び、再び呉は魏に敵対します。

222年、魏の皇帝・曹丕は呉が孫登を人質に出さなかったことを大義名分として呉に出陣します。
洞口、江陵、濡須口と、大きく3つの戦場でお互いは衝突しますが、結局、疫病が魏の陣中で流行し、魏は退却しました。

230年らへんに満寵の進言によって合肥新城が建設され、233年に新城に攻めてきた孫権を撃退させます。
翌年には同盟関係にある蜀の孔明の北伐に呼応して孫権が大軍を率いて合肥新城に出陣しますが、戦果はあがらず、魏の2代目皇帝・曹叡(ソウエイ)が出陣したと聞いたら撤退しました。
ちなみに孔明もあんまり結果を出さないまま、五丈原の戦いの中、陣没します。

以降は晋と呉の戦いになりますが、前回書いた通りなので割愛します。

呉は個性豊かな武将やそれにまつわるエピソードが豊富なのに、どうしても劉備や曹操にスポットが当てられて何かとかわいそうですよね・・・。

いつか、三国志・孫呉伝っていうタイトルでゲームが出ることを影ながら祈っています。

次回の戦が最後です!
ではではノシ

三国志 曹操伝 65,66回目

どもども。
天下統一までもう少し。再び赤壁にて孫呉と衝突。




木人は当たり前のように登場するようになりましたね。
しかも不完全燃焼のまま敵は見事に退却しました・・・。

次回は呉の都・建業に続く「濡須江」での戦いです。
お楽しみにってことで・・・。

今回は呉の話を少し。
曹丕が魏の皇帝となった220年、呉の君主・孫権は魏に臣従し呉王に封ぜられます。
周瑜亡き後に軍の総指揮となった呂蒙は関羽討伐後に病死し、それを継いだのは陸遜です。
陸遜は関羽の弔いに燃える劉備の軍勢と戦い、これに大勝します。
その後、呉は蜀と和睦を結び魏と敵対しました。

幾度もの魏の侵攻による守備、諸葛亮の北伐の援護などで魏と戦い、229年に孫権は魏から独立して初代皇帝となり、呉が建国されました。
孫権は家臣団をまとめあげ(ゴタゴタはありましたが)魏と戦いますが、241年に後継ぎだった孫登が病死し、三男の孫和が後継者に選ばれますが、それを不満がる4男の孫覇と後継者争いが始まります。
これによって家臣団は真っ二つとなりました。
お互いの謀略が呉内で飛び交い、孫和側についた丞相・陸遜もこの内紛に巻き込まれ、孫覇側の謀略によって丞相の権限を剥奪させられ憤死します。
また、孫和派の家臣の多くが流罪となって孫覇が勝利を収めますが、この事態を重く感じた孫権は後継者に7男の孫亮を指名し、孫和は庶子となり、孫覇には自害を命じました。
252年に孫権は病死し10歳の若さで孫亮が皇帝となり、諸葛瑾の長男で孔明の甥にあたる諸葛恪が政権を握ります。
魏の侵攻を防いだ諸葛恪は反撃に魏に侵攻しますがこれが失敗に終わって、声望が低迷することをおそれて中央集権を試みますが、皇族の孫峻がクーデターをおこして諸葛恪は殺害され孫峻が丞相となり暴政を行います(しかし諸葛恪に殴られる夢をみて死んだらしいです)。
呉はメチャクチャになり、謀略によって孫亮は失墜し、孫権の6男・孫休が皇帝についたりします。
孫休は264年に死亡し、孫権の3男・孫和の子である孫晧が皇帝となります。
彼は優秀だとそれまで言われ、最初は貧民の救済などを行いますが、孫休の家族を謀略によって皆殺しにして武昌へ遷都を行います。
そこで酒池肉林の生活を送り、逆らう家臣を拷問したりとムチャクチャします。
反乱も相次ぎ、大国・晋に寝返る武将もでてきます。
ついに晋は20万の大軍をもって呉に襲い掛かり、もはや孫晧に忠誠を尽くす兵も少なく、士気は低迷、戦わない者も多く、280年に孫晧は降伏し呉は滅亡しました。

黄巾の乱から始まった三国志という話は、曹操、劉備、孫権の死後、あっけなく尻すぼみな感じで終わってしまいます。
実は晋もわずか51年で滅びます。
まぁ、劉備やら曹操が生きた時代をお祭りだとすれば、彼ら亡き時代は祭りのあとって感じで寂しいですな。

三国志 曹操伝 63,64回目

どもども。
蜀の残党達との戦いです。





木人の初登場!!まぁ、強い敵ではありませんでしたが。。。
諸葛亮は呉に逃亡・・・おそらく姜維も追従したでしょう。

次回からは呉との戦いになります。
それも赤壁での衝突になるようです。楽しみですな。

俺は馬超よりも従弟の馬岱が好きなのですが、遂に戦死しましたな。
馬岱は涼州の馬氏一族の出自です。
馬超と共に曹操と戦いますが、惨敗して蜀に流れます。
この際、馬一族200人以上が曹操に殺されたと言われています。(馬超が乱心を起こして惨殺したという説もあったと思います。)
諸葛亮亡き後、蜀では魏延と楊儀が仲違いを始め、お互いが反乱を起こしたと嘘をつき戦いはじめました。
この戦いは楊儀が勝利を収め、敗走する魏延を追走し殺したのが馬岱です。
演義では、諸葛亮が生前に残した策によって、馬岱は魏延の配下になったフリをして、魏延が反乱を起こした際に切り殺したとされています。
その後、魏の将・牛金と戦いますが敗走し、以降は活躍しません。

馬超の方がメジャー過ぎてその影に隠れてしまった人物ですが、馬超死後〜蜀滅亡まで何かと要所に登場しますね。
なんつうか、地味ながら実力者って感じが好みですね。
まぁ、そんな人にも注目してみると違った楽しみがあって良いと思います。

ではではノシ

三国志 曹操伝 61,62回目

どもども。
なんか長かった成都での戦いに決着です。



本当にもったいない戦でしたね・・・。
曹操と劉禅を隣り合わせちゃダメだったんですね。。。
ストーリー部の長さを知るために次回の戦の本陣まで流すんで解ったのですが、まだ蜀との戦いは続くようです。
内容は観てないので解りませんが、おそらく蜀の残党の殲滅を狙った戦のようです。

今日は蜀の滅亡について少し書きます。

蜀は先主とされる劉備が建国した国ですが、劉備亡き後は劉禅が皇帝に即位します。
彼を支えたのは丞相(総理大臣のようなもの)である諸葛亮です。
諸葛亮は蜀科という法律を作って政策と軍を取り締まります。
この法の厳しさは、軍法をやぶり、大敗した愛弟子の馬謖を死罪にするくらい厳格だったらしいです。
しかし、諸葛亮亡き後、姜維の過度な北伐による国力の衰退と、諸葛亮の跡を継ぎ国政を行った費禕の死後に政治権を握った宦官の黄皓の悪政により、軍も政治もメチャクチャになります。
そんな中、魏の司馬昭の命によりケ艾と鍾会が率いる魏軍の蜀に対する猛攻が始まります。
姜維は剣閣にて魏を迎え撃ちますが、その隙を突いて剣閣を迂回した魏の別働隊が蜀に入り成都に向け進軍を始めます。
これを受けた劉禅は戦わずして降伏しました。

姜維は降伏後、鍾会と内通して魏に反乱を起こし、蜀を再興しようとしますが、これが失敗に終わり殺されました。

蜀の衰退は姜維のせい、というふうな見方が多くされている一方、ゲームなどではやたら美男子で文武両道のナイスガイってことになってますね。
まぁ、美男子だったかどうかはわかりませんが、実際文武両道だったらしいです。

でも、この姜維だけじゃなくて、宦官の黄皓というヤツの方がかなり悪いです。ちなみにコイツは悪評だらけだったので魏の将・ケ艾に殺されるところだったんですが、賄賂を渡して生き長らえています。
まぁ、蜀は劉備が劉章から強奪した国だったので、元より大した事なかったんでしょうね。
次回こそ諸葛亮との決着かな?
ではではノシ

三国志 曹操伝 59,60回目

どもども。
遂に蜀との最終決戦開幕です。




このシリーズ始まってから初の週またぎになりました・・・。
おそらく決着は次週でしょうね。

まぁ、まだギエンやら南蛮軍も登場してないので油断は禁物。
何より諸葛亮との決着をつけないといけませんね。。。

バショクも殺せなかったので多分ヤツは呉に逃げたんでしょう。

今回は曹操一族が出陣ってだけあり、最悪な陣容ですね。。。
使えるのは夏侯惇だけ、息子達と曹仁、曹洪は帰ってもらいたいです。

曹操の子で有名なのは、戦死した曹昴、魏の初代皇帝になった曹丕、詩歌で名を上げた曹植、武に秀でた黄髭こと曹彰、献帝に嫁いだ三姉妹(曹憲、曹節、曹華)あたりがメジャーですが、実際は30名を越える子供がいたと言われています。

曹操亡き後の魏は、諸葛亮の北伐を食い止めた司馬懿は強大な権力と軍事力を手に入れますが、曹爽らによって閑職させられます。
これらの理不尽な待遇を受けた司馬懿は息子らとクーデターを起こし、これが成功して司馬氏は実権を掌握します。
その後、司馬懿は死に、権力は司馬氏内で引き継がれていき司馬昭の息子である司馬炎が実権を握ると、曹奐(魏の5代目皇帝で曹操の孫)から禅譲(帝位を譲ること)を受け、魏に代わり西晋が建国されます。

司馬氏が帝位についたことや、曹爽への報復を危惧した曹氏は、「曹」から「操」へ性を改めた者もいたそうです。

曹操は、偉業だけでなく、恨みや恐れも多く背負っていたことでしょう。
それらは自ら背負い込んだことだから良かったものの、その一族の者は自分の意思とは関係なくそれらを受け継ぐ形となったのでたまらなかったでしょうね・・・。

まぁ、今も昔も、偉大すぎる親を持つと子は大変って所でしょうね。。。

ではではノシ

三国志 曹操伝 57,58回目

どもども。
剣閣の戦いです。




今回の戦いはこれまでに一番苦戦したものになりましたね。
お見苦しい所をたくさん見せてしまいました。

反省点として、南蛮軍と馬超が来た時点で関まで引き返していればよかったんですな。
楽進とホウトクで南蛮と馬超を食い止めながら後退。
張遼と夏侯惇で関に突入して北の賊兵の奇襲を退けるといった感じにすればよかった・・・。
まぁ、たまにはこんな苦戦もあっていいでしょう。。。

今回登場した南蛮軍とは、ミャンマー北部にあたる場所(南中)を拠点としています。
ジャングルっぽい場所で、猛獣などを軍に加えたり、ゲリラ的な戦術に長けた集団だといわれています。
中でも象を戦闘に用いたことが有名です。

この南蛮軍を率いるのが孟獲(もうかく)という人物です。
この孟穫は漢人とタイ人の血を引いています。

蜀の南の豪族・雍闓(ヨウガイ)が反乱を起こします。
しかし、雍闓は殺されてしまい、南蛮の王である孟獲が擁立され乱の主となります。
この乱を受け、諸葛亮は南征に出ます。

猪突猛進的な南蛮軍は、ことごとく諸葛亮の策の前に敗れ、孟獲は捕縛されては蜀軍にもてなされて丁重に彼を逃がします。
7度目の捕縛の際、遂に孟獲は蜀軍に感服し、蜀への帰順を誓いました。

その後はあんまり登場しないというか、登場しなくなりますが、ゲームなどではキャラ的に使い易いのかガンガン登場しますね。

象騎兵ってのはエジプトあたりでは当たり前(?)のような兵種ですが、あまり戦闘向きではなかったようです。
敵の動揺を誘うには最適だったらしいですが、象が混乱したら敵味方お構いなしに象が暴れて大変だったらしいし、言うこと聞かなかったりと大変だったらしいです。

まぁ、大きい動物に乗るってのは一種のロマンだからいいですよね。
そんな感じで・・・ではではノシ

三国志 曹操伝 55,56回目

どもども。
陽平関の戦いをお送りしました。





今回の戦である「陽平関の戦い」とは、46,47回目にあった張魯との戦いのことを実際はさします。
まぁ、場所的な問題だと思うので、その辺はテゲテゲにしておきましょう。

今回のストーリー部分ですが、話が一気に進んだなって感じでしたね。
まず、関羽が呉軍に討ち取られ、その首を呉は魏に送ったとありましたね。
正史では、関羽は孫呉の将「馬忠」によって捕らえられたありますが、この馬忠は謎が多い人物でもあります。
正史でもこの部分にしか登場せず、この前にも後にも一切登場しません。
関羽のような大人物を捕らえたにも関わらずこの扱いは謎としかいえませんね。

で、劉備は呉に弔いの戦を仕掛けます。
この準備をしていた張飛は、部下である張達(チョウタツ)と范彊(ハンキョウ)によって暗殺されます。
この報せは劉備に届けられますが、その使者が劉備の元へ着いた途端、伝令の内容を聞かずして張飛の死を悟って泣いたといわれています。

で、その劉備は2人の義兄弟を弔うべく親征します。
親征と言いましたが、これは天子(皇帝)自ら出陣することを意味します。
この時、劉備は蜀漢の皇帝を名乗っていました。
この背景は、曹操が死去したあと、そのあとを継いだ曹丕が漢の皇帝・劉協から帝位の禅譲を受け、魏の皇帝となりました。
それに対するべく、劉備の家臣らが帝位に着くようすすめて皇帝になったわけです。
蜀と呉の戦は、序盤こそは蜀が勝ってましたが、次第に負け戦が続くようになり、夷陵で呉の司令官・陸遜の火刑によって大敗します。
劉備は白帝城に逃げ込み63歳で逝きました。

俺は曹操が好きなので劉備という人物は嫌いですが、この人は本当に良い人だったらしいです。
礼儀正しくておおらかな心を持ってたとされています。

ここからは劉備の悪口なので劉備ファンの方は見ないほうがいいかもです・・・。

嫌いな理由を書きます。
公孫讃の世話になった後、陶謙の世話になり、彼の死後にその領地を手に収めるも曹操に攻められ呂布に奪われる始末。
で、公孫瓚の仇であるはずの袁紹の元に転がり込むも、曹操と袁紹の戦いが激化すると劉表の元に転がり込みます。
で、その劉表が病死して曹操に攻められ劣勢となると城を捨てて逃げ出す始末。
民もその逃亡に付いてきますが、曹操に追いつかれて民は壊滅したと言われています。
その時に民を守って死んだり、自害するなどすれば美談だと思いますが、自分は逃げきることに成功します。
で、呉と同盟を結んで赤壁で曹操軍に大勝を収めますが、ちゃっかり元々は呉の領地であった場所を奪ってしまいます。
その後、同族(?)である劉章に蜀に招かれて接待されますが、恩をあだで返すとはまさにこのことで、蜀を武力でのっとってしまいます。

何故コレで賊と言われないのかがわかりません。

まぁ、文面にすると悪者に見えますが、善政をしたり、その人柄の良さがあったりして善玉とされ愛されてきたのでしょう。

こんなエピソードがあります。
公孫瓚と袁紹の戦いにおいて公孫瓚側につき、功をあげた功績で平原の相となった劉備は善政を行い民の信頼を集めます。
これを面白くないと思う劉平は、劉備に刺客を送り込みますが、それを知らない劉備はその刺客を心からもてなし、それに感銘をうけた刺客は自分が何をしに来たかを打ち明けて去っていったとあります。
本当に劉備って人は良い人だったんでしょうね。

まぁ、好きではありませんが・・・。

次回は諸事情につき金曜ではなく日曜、4月10日です。
ではではノシ

三国志 曹操伝 53,54回目

どもども。
荊州侵攻戦です(今回の動画は3月8日に収録したものです)。





三国志ながら、武士道を垣間見れる良い戦いでした。
この戦いの補足をします。

漢中を奪った劉備は漢中王を名乗ります。
漢中王というポジションは、漢の始祖「劉邦」が就いていたもので、世論は劉備を劉邦になぞり善玉、曹操を覇王「項羽」になぞり悪玉というふうに認識させます。
これを期に曹操領内で乱が相次ぎ、関羽との戦いに備えていた曹操配下の侯音と衛開が関羽と内通して乱を起こします。

これに対し曹操は、曹仁と龐徳を送り込みます。
龐徳は関羽の額に矢を当て撤退させるなどして活躍します。

長雨の影響により戦場は水没、龐徳は孤立無援となって関羽の猛攻を受けます。
味方の兵や将は戦意喪失となり、関羽に投降、もしくはそれがばれて龐徳に切り殺されます。
そんな中、龐徳は小船で脱出をこころみますが転覆し捕縛されます。

関羽は漢中王に降るよう龐徳に言いますが、龐徳はこれを断固として拒否し首を刎ねられました。
龐徳は馬超の部下ながら、馬超は世話になってるはずの張魯とゴタゴタがあって、勝手に劉備の元へと向かっていった人物です。こんなヤツに尽くす義理はありません。
敗戦の将ながら、重用してくれた曹操への忠義を貫き、龐徳は命を落としたんですな。

上記したものは史実のもので、ゲームでは周倉に殺されてましたが、周倉は架空の人物で、実在はしてません。

関羽はその後、呉との戦いで命を落とします。
まぁ、その辺は次回出てくるかと思います。

正史では、関羽の死後、まもなくして曹操も老衰だったかな?まぁ、亡くなります。
このゲームじゃ流石にそれはないとは思いますが、物語も佳境に入ってると言って間違いないかと思います。
まぁ、そんな感じで次回もよろしくおねがいします!



今回は、うpする日程にすごく悩みました。
九州の自分が長く自粛する必要は無いのでは?というコメントがありましたが、正直言って、そのようにも考えました。
しかし、このゲームはゲームながら人命にも関連するものですし、今回は戦場が水没しているという描写もありました。
いろんな葛藤があったのは事実でしたが、このような形であっていいものかどうかは解りませんが、やれることをやろうと考え、うpさせていただきました。
宮崎にも火山灰の問題や鳥インフルエンザ、口蹄疫など様々な問題が続く中、たくさんの方に様々な形でエールをいただきました。
実況プレイ動画というものがエールになるかどうかは全く解りませんが、少なくとも楽しみにしていただいている方がいて、待っていただけているならばと思い、うpをさせていただいた次第です。
この場を借りて、心より被災地・被災者の皆様にお見舞い申し上げます。

次回からは震災後、初の収録となりますが、あえてその事には触れずにプレイさせていただく所存です。
皆様のご理解とご協力をお願いいたします。

三国志 曹操伝 51,52回目

どもども。
漢中の防衛戦です。




今回は激戦!って感じがしましたね。
蜀の大軍との戦いでした。

ちょっと解説しますと、劉備は荊州と蜀を有しています。
今回の北伐は、蜀の五虎大将軍の内4人(張飛、趙雲、黄忠、馬超)と軍師の法正が主力となっていましたね。ゲームでは不参加でしたが、劉備も実際は参加しています。
関羽は荊州の守備を任されています。

定軍山の戦いは、名将・夏侯淵が戦死するってことで有名な戦いです。
張郃が劉備に夜襲をうけ、夏侯淵が張郃に援軍を送ります。
そこで法正が手薄になった夏侯淵にも攻撃をかけます。
乱戦になった定軍山で黄忠の急襲攻撃を受け、夏侯淵はじめ、多くの兵や将が討たれます。
あまり知られていませんが、夏侯淵の五男、夏侯栄は周りの人に退却を進められますが、
「父や兄が戦っているのに自分だけ逃げる訳にはいかん」
と言って、劉備軍の大軍に突入していき、彼もまた戦死しています。
この夏侯栄は演義では出てきませんね。ゲームでも。
それもそのはずで、夏侯栄はこの時12歳くらいでした。

夏侯栄は幼いというか、若すぎる人ながら、凄まじく濃い12年を送ったのでしょうね。
じゃないとこんな行動は取れるはずもありません。
まぁ、死ぬのが偉いとは言いませんが、俺には美談だと思えてしょうがありません。

こういった有名な戦いの裏に隠れているエピソードも、三国志の魅力かもしれませんね。

ではではノシ
<< 前へ     >>次へ
×

この広告は30日以上新しい記事の更新がないブログに表示されております。