2011年04月02日
三国志 曹操伝 55,56回目
どもども。
陽平関の戦いをお送りしました。
今回の戦である「陽平関の戦い」とは、46,47回目にあった張魯との戦いのことを実際はさします。
まぁ、場所的な問題だと思うので、その辺はテゲテゲにしておきましょう。
今回のストーリー部分ですが、話が一気に進んだなって感じでしたね。
まず、関羽が呉軍に討ち取られ、その首を呉は魏に送ったとありましたね。
正史では、関羽は孫呉の将「馬忠」によって捕らえられたありますが、この馬忠は謎が多い人物でもあります。
正史でもこの部分にしか登場せず、この前にも後にも一切登場しません。
関羽のような大人物を捕らえたにも関わらずこの扱いは謎としかいえませんね。
で、劉備は呉に弔いの戦を仕掛けます。
この準備をしていた張飛は、部下である張達(チョウタツ)と范彊(ハンキョウ)によって暗殺されます。
この報せは劉備に届けられますが、その使者が劉備の元へ着いた途端、伝令の内容を聞かずして張飛の死を悟って泣いたといわれています。
で、その劉備は2人の義兄弟を弔うべく親征します。
親征と言いましたが、これは天子(皇帝)自ら出陣することを意味します。
この時、劉備は蜀漢の皇帝を名乗っていました。
この背景は、曹操が死去したあと、そのあとを継いだ曹丕が漢の皇帝・劉協から帝位の禅譲を受け、魏の皇帝となりました。
それに対するべく、劉備の家臣らが帝位に着くようすすめて皇帝になったわけです。
蜀と呉の戦は、序盤こそは蜀が勝ってましたが、次第に負け戦が続くようになり、夷陵で呉の司令官・陸遜の火刑によって大敗します。
劉備は白帝城に逃げ込み63歳で逝きました。
俺は曹操が好きなので劉備という人物は嫌いですが、この人は本当に良い人だったらしいです。
礼儀正しくておおらかな心を持ってたとされています。
ここからは劉備の悪口なので劉備ファンの方は見ないほうがいいかもです・・・。
嫌いな理由を書きます。
公孫讃の世話になった後、陶謙の世話になり、彼の死後にその領地を手に収めるも曹操に攻められ呂布に奪われる始末。
で、公孫瓚の仇であるはずの袁紹の元に転がり込むも、曹操と袁紹の戦いが激化すると劉表の元に転がり込みます。
で、その劉表が病死して曹操に攻められ劣勢となると城を捨てて逃げ出す始末。
民もその逃亡に付いてきますが、曹操に追いつかれて民は壊滅したと言われています。
その時に民を守って死んだり、自害するなどすれば美談だと思いますが、自分は逃げきることに成功します。
で、呉と同盟を結んで赤壁で曹操軍に大勝を収めますが、ちゃっかり元々は呉の領地であった場所を奪ってしまいます。
その後、同族(?)である劉章に蜀に招かれて接待されますが、恩をあだで返すとはまさにこのことで、蜀を武力でのっとってしまいます。
何故コレで賊と言われないのかがわかりません。
まぁ、文面にすると悪者に見えますが、善政をしたり、その人柄の良さがあったりして善玉とされ愛されてきたのでしょう。
こんなエピソードがあります。
公孫瓚と袁紹の戦いにおいて公孫瓚側につき、功をあげた功績で平原の相となった劉備は善政を行い民の信頼を集めます。
これを面白くないと思う劉平は、劉備に刺客を送り込みますが、それを知らない劉備はその刺客を心からもてなし、それに感銘をうけた刺客は自分が何をしに来たかを打ち明けて去っていったとあります。
本当に劉備って人は良い人だったんでしょうね。
まぁ、好きではありませんが・・・。
次回は諸事情につき金曜ではなく日曜、4月10日です。
ではではノシ
陽平関の戦いをお送りしました。
今回の戦である「陽平関の戦い」とは、46,47回目にあった張魯との戦いのことを実際はさします。
まぁ、場所的な問題だと思うので、その辺はテゲテゲにしておきましょう。
今回のストーリー部分ですが、話が一気に進んだなって感じでしたね。
まず、関羽が呉軍に討ち取られ、その首を呉は魏に送ったとありましたね。
正史では、関羽は孫呉の将「馬忠」によって捕らえられたありますが、この馬忠は謎が多い人物でもあります。
正史でもこの部分にしか登場せず、この前にも後にも一切登場しません。
関羽のような大人物を捕らえたにも関わらずこの扱いは謎としかいえませんね。
で、劉備は呉に弔いの戦を仕掛けます。
この準備をしていた張飛は、部下である張達(チョウタツ)と范彊(ハンキョウ)によって暗殺されます。
この報せは劉備に届けられますが、その使者が劉備の元へ着いた途端、伝令の内容を聞かずして張飛の死を悟って泣いたといわれています。
で、その劉備は2人の義兄弟を弔うべく親征します。
親征と言いましたが、これは天子(皇帝)自ら出陣することを意味します。
この時、劉備は蜀漢の皇帝を名乗っていました。
この背景は、曹操が死去したあと、そのあとを継いだ曹丕が漢の皇帝・劉協から帝位の禅譲を受け、魏の皇帝となりました。
それに対するべく、劉備の家臣らが帝位に着くようすすめて皇帝になったわけです。
蜀と呉の戦は、序盤こそは蜀が勝ってましたが、次第に負け戦が続くようになり、夷陵で呉の司令官・陸遜の火刑によって大敗します。
劉備は白帝城に逃げ込み63歳で逝きました。
俺は曹操が好きなので劉備という人物は嫌いですが、この人は本当に良い人だったらしいです。
礼儀正しくておおらかな心を持ってたとされています。
ここからは劉備の悪口なので劉備ファンの方は見ないほうがいいかもです・・・。
嫌いな理由を書きます。
公孫讃の世話になった後、陶謙の世話になり、彼の死後にその領地を手に収めるも曹操に攻められ呂布に奪われる始末。
で、公孫瓚の仇であるはずの袁紹の元に転がり込むも、曹操と袁紹の戦いが激化すると劉表の元に転がり込みます。
で、その劉表が病死して曹操に攻められ劣勢となると城を捨てて逃げ出す始末。
民もその逃亡に付いてきますが、曹操に追いつかれて民は壊滅したと言われています。
その時に民を守って死んだり、自害するなどすれば美談だと思いますが、自分は逃げきることに成功します。
で、呉と同盟を結んで赤壁で曹操軍に大勝を収めますが、ちゃっかり元々は呉の領地であった場所を奪ってしまいます。
その後、同族(?)である劉章に蜀に招かれて接待されますが、恩をあだで返すとはまさにこのことで、蜀を武力でのっとってしまいます。
何故コレで賊と言われないのかがわかりません。
まぁ、文面にすると悪者に見えますが、善政をしたり、その人柄の良さがあったりして善玉とされ愛されてきたのでしょう。
こんなエピソードがあります。
公孫瓚と袁紹の戦いにおいて公孫瓚側につき、功をあげた功績で平原の相となった劉備は善政を行い民の信頼を集めます。
これを面白くないと思う劉平は、劉備に刺客を送り込みますが、それを知らない劉備はその刺客を心からもてなし、それに感銘をうけた刺客は自分が何をしに来たかを打ち明けて去っていったとあります。
本当に劉備って人は良い人だったんでしょうね。
まぁ、好きではありませんが・・・。
次回は諸事情につき金曜ではなく日曜、4月10日です。
ではではノシ
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