アフィリエイト広告を利用しています

広告

posted by fanblog

三国志 曹操伝 67回目

どもども。
今回は濡須口での戦いでした。



完全なる不完全燃焼でした・・・。
まぁ、孔明は負け戦ばかりなので逃げ癖でもついたんじゃねぇのか?とすら思えます。

しかも、ココに来て南蛮軍まで登場とは・・・。
もう何でも出しちゃえ!みたいになってきましたね・・・。

曹操軍と孫権軍ってのは赤壁の戦い(208年)以降、合肥城らへんでよく衝突しましたが、今回の濡須口でもよく戦っています。

今回は長きに渡った曹孫の戦いを簡単に書きますね。

まず語らないといけないのは劉馥(リュウフク)という人物ですね。
この劉馥は曹操の配下です。
200年、合肥は孫策死後に大いに荒れて空城となってました。
そこで曹操が劉馥に修復を命じ、劉馥は見事に軍事面のみならず政治面でも合肥を修復します。
208年に劉馥は没しますが、彼の築き上げた合肥は赤壁で大敗した曹操軍への孫権の追撃を見事に退けました。

馬超を破った曹操は212年から213年にかけて孫権討伐に向かいました。
曹操は赤壁並み(それ以上?)の軍勢で自ら出陣し、呉も孫権自ら出陣しました。
お互いは濡須口にて衝突し、孫権の将・董襲が死亡したり、甘寧の100人での奇襲などなど、色々ありましたが、曹操軍は決定打にかけ、いたみわけの結果に終わります。

215年に孫権は自ら10万の大軍を率いて合肥に迫ります。
曹操陣営は張遼・李典・楽進が7000の兵で10万の大軍に挑みます。
この戦で有名なのは、張遼が800人の精鋭を率いて孫権を追い詰めるというものですね。
張遼は孫権を追い詰めますが逃げられて、敵陣を強行突破して脱出したらしいですが、数人しか付いてこれず、取り残された兵が助けをこうと、再び敵陣に突っ込んで行って助けてまた脱出したらしいです。
ゲームじゃ夏侯惇がやけに強いですが、実際は張遼の方が強いんでしょうね・・・。

翌年の216年から217年にかけて再び濡須口にて衝突します。
この戦は夏侯惇やら張遼、臧覇や曹仁などの名だたる武将が参戦し、曹操も決着を付けるつもりで大軍を率いて出陣します。
疫病や呂蒙の戦いぶりに苦戦は強いられたものの、遂に孫権は降伏します。

その後、お互いは盟を結び、関羽を討ち取るなどします。
曹操没後、呉と蜀は夷陵の戦いなどで衝突しあいますが、和睦を結び、再び呉は魏に敵対します。

222年、魏の皇帝・曹丕は呉が孫登を人質に出さなかったことを大義名分として呉に出陣します。
洞口、江陵、濡須口と、大きく3つの戦場でお互いは衝突しますが、結局、疫病が魏の陣中で流行し、魏は退却しました。

230年らへんに満寵の進言によって合肥新城が建設され、233年に新城に攻めてきた孫権を撃退させます。
翌年には同盟関係にある蜀の孔明の北伐に呼応して孫権が大軍を率いて合肥新城に出陣しますが、戦果はあがらず、魏の2代目皇帝・曹叡(ソウエイ)が出陣したと聞いたら撤退しました。
ちなみに孔明もあんまり結果を出さないまま、五丈原の戦いの中、陣没します。

以降は晋と呉の戦いになりますが、前回書いた通りなので割愛します。

呉は個性豊かな武将やそれにまつわるエピソードが豊富なのに、どうしても劉備や曹操にスポットが当てられて何かとかわいそうですよね・・・。

いつか、三国志・孫呉伝っていうタイトルでゲームが出ることを影ながら祈っています。

次回の戦が最後です!
ではではノシ

コメント

お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。

この記事へのコメント

   
×

この広告は30日以上新しい記事の更新がないブログに表示されております。