2011年05月06日
三国志 曹操伝 65,66回目
どもども。
天下統一までもう少し。再び赤壁にて孫呉と衝突。
木人は当たり前のように登場するようになりましたね。
しかも不完全燃焼のまま敵は見事に退却しました・・・。
次回は呉の都・建業に続く「濡須江」での戦いです。
お楽しみにってことで・・・。
今回は呉の話を少し。
曹丕が魏の皇帝となった220年、呉の君主・孫権は魏に臣従し呉王に封ぜられます。
周瑜亡き後に軍の総指揮となった呂蒙は関羽討伐後に病死し、それを継いだのは陸遜です。
陸遜は関羽の弔いに燃える劉備の軍勢と戦い、これに大勝します。
その後、呉は蜀と和睦を結び魏と敵対しました。
幾度もの魏の侵攻による守備、諸葛亮の北伐の援護などで魏と戦い、229年に孫権は魏から独立して初代皇帝となり、呉が建国されました。
孫権は家臣団をまとめあげ(ゴタゴタはありましたが)魏と戦いますが、241年に後継ぎだった孫登が病死し、三男の孫和が後継者に選ばれますが、それを不満がる4男の孫覇と後継者争いが始まります。
これによって家臣団は真っ二つとなりました。
お互いの謀略が呉内で飛び交い、孫和側についた丞相・陸遜もこの内紛に巻き込まれ、孫覇側の謀略によって丞相の権限を剥奪させられ憤死します。
また、孫和派の家臣の多くが流罪となって孫覇が勝利を収めますが、この事態を重く感じた孫権は後継者に7男の孫亮を指名し、孫和は庶子となり、孫覇には自害を命じました。
252年に孫権は病死し10歳の若さで孫亮が皇帝となり、諸葛瑾の長男で孔明の甥にあたる諸葛恪が政権を握ります。
魏の侵攻を防いだ諸葛恪は反撃に魏に侵攻しますがこれが失敗に終わって、声望が低迷することをおそれて中央集権を試みますが、皇族の孫峻がクーデターをおこして諸葛恪は殺害され孫峻が丞相となり暴政を行います(しかし諸葛恪に殴られる夢をみて死んだらしいです)。
呉はメチャクチャになり、謀略によって孫亮は失墜し、孫権の6男・孫休が皇帝についたりします。
孫休は264年に死亡し、孫権の3男・孫和の子である孫晧が皇帝となります。
彼は優秀だとそれまで言われ、最初は貧民の救済などを行いますが、孫休の家族を謀略によって皆殺しにして武昌へ遷都を行います。
そこで酒池肉林の生活を送り、逆らう家臣を拷問したりとムチャクチャします。
反乱も相次ぎ、大国・晋に寝返る武将もでてきます。
ついに晋は20万の大軍をもって呉に襲い掛かり、もはや孫晧に忠誠を尽くす兵も少なく、士気は低迷、戦わない者も多く、280年に孫晧は降伏し呉は滅亡しました。
黄巾の乱から始まった三国志という話は、曹操、劉備、孫権の死後、あっけなく尻すぼみな感じで終わってしまいます。
実は晋もわずか51年で滅びます。
まぁ、劉備やら曹操が生きた時代をお祭りだとすれば、彼ら亡き時代は祭りのあとって感じで寂しいですな。
天下統一までもう少し。再び赤壁にて孫呉と衝突。
木人は当たり前のように登場するようになりましたね。
しかも不完全燃焼のまま敵は見事に退却しました・・・。
次回は呉の都・建業に続く「濡須江」での戦いです。
お楽しみにってことで・・・。
今回は呉の話を少し。
曹丕が魏の皇帝となった220年、呉の君主・孫権は魏に臣従し呉王に封ぜられます。
周瑜亡き後に軍の総指揮となった呂蒙は関羽討伐後に病死し、それを継いだのは陸遜です。
陸遜は関羽の弔いに燃える劉備の軍勢と戦い、これに大勝します。
その後、呉は蜀と和睦を結び魏と敵対しました。
幾度もの魏の侵攻による守備、諸葛亮の北伐の援護などで魏と戦い、229年に孫権は魏から独立して初代皇帝となり、呉が建国されました。
孫権は家臣団をまとめあげ(ゴタゴタはありましたが)魏と戦いますが、241年に後継ぎだった孫登が病死し、三男の孫和が後継者に選ばれますが、それを不満がる4男の孫覇と後継者争いが始まります。
これによって家臣団は真っ二つとなりました。
お互いの謀略が呉内で飛び交い、孫和側についた丞相・陸遜もこの内紛に巻き込まれ、孫覇側の謀略によって丞相の権限を剥奪させられ憤死します。
また、孫和派の家臣の多くが流罪となって孫覇が勝利を収めますが、この事態を重く感じた孫権は後継者に7男の孫亮を指名し、孫和は庶子となり、孫覇には自害を命じました。
252年に孫権は病死し10歳の若さで孫亮が皇帝となり、諸葛瑾の長男で孔明の甥にあたる諸葛恪が政権を握ります。
魏の侵攻を防いだ諸葛恪は反撃に魏に侵攻しますがこれが失敗に終わって、声望が低迷することをおそれて中央集権を試みますが、皇族の孫峻がクーデターをおこして諸葛恪は殺害され孫峻が丞相となり暴政を行います(しかし諸葛恪に殴られる夢をみて死んだらしいです)。
呉はメチャクチャになり、謀略によって孫亮は失墜し、孫権の6男・孫休が皇帝についたりします。
孫休は264年に死亡し、孫権の3男・孫和の子である孫晧が皇帝となります。
彼は優秀だとそれまで言われ、最初は貧民の救済などを行いますが、孫休の家族を謀略によって皆殺しにして武昌へ遷都を行います。
そこで酒池肉林の生活を送り、逆らう家臣を拷問したりとムチャクチャします。
反乱も相次ぎ、大国・晋に寝返る武将もでてきます。
ついに晋は20万の大軍をもって呉に襲い掛かり、もはや孫晧に忠誠を尽くす兵も少なく、士気は低迷、戦わない者も多く、280年に孫晧は降伏し呉は滅亡しました。
黄巾の乱から始まった三国志という話は、曹操、劉備、孫権の死後、あっけなく尻すぼみな感じで終わってしまいます。
実は晋もわずか51年で滅びます。
まぁ、劉備やら曹操が生きた時代をお祭りだとすれば、彼ら亡き時代は祭りのあとって感じで寂しいですな。
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