戦国時代の忍者は、戦いの際に様々な活動をした。
戦いが始まる前には、敵城の構造、的兵の数、兵具の量などの他、何処に川が流れているのか、周辺の田は泥田なのかと言った地理的状況も調べた。
そうした情報がなく、闇雲に戦う事になったら、負けてしまう事は確実だからである。
そして、この情報を基に評定が行われ、作戦が練られた。
又、敵方に侵入して嘘の情報を流す事によって混乱させたり、寝返らせたりする事によって、戦わずして勝利する為の工作もした。
いざ戦いになった際に忍者が得意としたのは、夜討ちと火攻めである。
忍者にとって最後の参戦となった寛永14〜15(1637〜38)年の島原の乱(島原天草一揆)でも大きな役割を果たした。
吉田十右衛門と言う熊本藩の忍者は原城(長崎県南島原市)内の天草四郎の館に火矢を放って焼き払ったと言う。
これが決定打となり、原城は陥落したのだった。
火術に長けた忍者たちは、日本に鉄砲が齎されると逸早くその術を身に付けた。
そして、平和な時代になって実戦で用いる機会がなくなっても、儀礼として鉄砲を放ったり、威儀を正したりして、治安維持に貢献したのであった。
山田 雄司 三重大教授
愛媛新聞 忍者のホントから
「改正三河後風土記」によると、松平元康(後の徳川家康)による上ノ郷城(愛知県蒲郡市)攻めに当たって、元康は甲賀から忍者たちを呼び寄せたらしい。