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2020年01月31日

ロッテ創業者の重光武雄氏が死去



 
 ロッテ創業者の重光武雄氏が死去 韓国出身 98歳

         コピーライトマーク一般社団法人共同通信社 2020/1/19 20:51 (JST) 〜


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 【ソウル共同】ロッテグループを創業したロッテHD名誉会長の重光武雄(しげみつ・たけお、本名・辛格浩=シン・ギョクホ)氏が19日午後4時半(日本時間同)頃、老衰の為ソウル市内の病院で死去した。98歳。

 戦後日本で、チューインガムの成功をスタートにロッテを菓子業界大手に育て上げた。韓国にも逆上陸し、製菓に留まらずホテルや流通業に進出。ワンマンのオーナー経営者として知られ、日韓を往復し多くのグループ企業を率いた。1921年、韓国南東部・蔚山市生まれ。1940年代前半に日本へ渡った。終戦後に東京で化粧品の製造に乗り出し、稼いだ資金で1948年にロッテを設立した。

 ロッテ・重光オーナーとは、どの様な人なのでしょうか。参考文章が探せ無かったので、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ロッテグループ・重光 武雄(辛 格浩)から抜粋し引用します。 

 重光 武雄(辛 格浩)しげみつ たけお(シン・キョッコ) 

 生誕 1921年11月3日 (戸籍上は1922年10月4日) 日本統治下朝鮮・慶尚南道蔚山郡・蔚山広域市
 死没 2020年1月19日(98歳没)
 国籍 大韓民国
 出身校 早稲田実業学校
 職業 ロッテグループ創業者・総括会長 ロッテホールディングス取締役名誉会長 千葉ロッテマリーンズ代表取締役オーナー 韓国ロッテ・ジャイアンツオーナー

 重光 武雄 1921年11月3日生 日本の実業家。日本統治時代の朝鮮慶尚南道蔚山郡(現・蔚山広域市)出身の在日韓国人一世で、本名は辛 格浩( シン・キョクホ、又はシン・キョッコ)。韓国第5位のロッテグループ財閥の元総帥

 経歴 1921年、日本統治時代の朝鮮(現・大韓民国)の慶尚南道蔚山郡で5男5女の長男として誕生。戸籍上の生年月日は1922年10月4日。しかし老人が牛耳る故郷に未来は無いと見切りを着け、妻と娘を残したママ1941年に関釜連絡船に乗って所持金僅か83円で日本本土へ転居。
 文学徒を夢見て居たので文学を専攻する積りだったが、徴兵を避けるには工学の専攻が必要と云う事に為り、化学工学を専攻した。新聞・牛乳配達等をしながら1944年に早稲田実業学校を卒業した。

 日本人の友人の勧めで切削油生産工場を設立し事業を開始。戦時中の連合国の爆撃で建設したばかりの工場は全焼したが、アルバイトで働く学生時代の辛の誠実な性格を信じて5〜6万円と云う多額を出資した日本人投資家は、稼働前に工場が爆撃で灰に為っても辛を最後迄信じた。辛は崩れた軍需工場で石鹸を作って再起し、日本人投資家に借金を1年半で全額返済。感謝の気持ちで住宅1軒を贈った。
 1945年太平洋戦争が終結。進駐軍が持ち込んだチューインガムが人気を博して居るのを見て、1947年にガム製造に乗り出す。1948年6月に株式会社ロッテ設立、代表取締役社長に就任する。ゲーテの若きウェルテルの悩みを愛読して居た辛が主人公シャルロッテより名前を捕った。
 ロッテのガムは人気を博し、辛は実業家として成功を収めた。1954年、サッカーW杯予選出場の為に来日する韓国代表チームの支援活動を始める。後に1964年東京オリンピックの韓国選手団を支援した。

 祖国の観光業への参入

 1965年の日韓基本条約によって両国関係が正常化し、1967年4月、祖国に貢献すると云う信念を引っ下げ韓国にロッテ製菓を設立。日本で稼いだ資金で一方的に韓国に投資し、その逆は無かった。辛は韓国に進出する際、食品会社では無く重化学会社の設立を希望して居たが、石油化学事業はLGグループが事業者に為って断念した。
 製鉄業を朴正煕大統領に勧められたが、後にポスコと云う半官半民の会社が遣ることに為って製鉄業も諦めた。ヤガテ資源が乏しい韓国には観光立国作りが必要に為ると考え、しかし韓国には一流ホテルが無かった為将来性があると判断し観光業への参入を決めた。

 ホテル業の経験は無かったので世界各国にある一流ホテルを回って勉強し、国際観光公社(現在の韓国観光公社)が経営して居た半島ホテルを買収した上で、日本の帝国ホテルをモデルにした38階建てのロッテホテルを建設する事にした。
 ホテルは1979年に完成し成功を収め、1988年のソウルオリンピックの際には同ホテルに五輪組織委員会本部が置かれた。こうした功績が評価され、1995年には観光産業分野では初めて金塔産業勲章を受章した。1997年3月に釜山ロッテワールドがオープン。開館式のテープカットには日本の元首相4人が参加し、交遊の幅広さを示した。

 野球との関わり

 1969年、親交のあった岸信介元首相による仲介で、東京オリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)のスポンサーと為った事から野球との関わりが始まった。球団名をロッテオリオンズとするが、球団経営は引き続き大映に委ねた。
 その後、大映の経営危機により、1971年に正式にロッテオリオンズの経営権を譲り受けるが、オーナー職は球団の個人株主で大映経営時代の副オーナーだった中村長芳に委ねた。1972年に中村が退任して他球団の経営権を買収した為、11月にロッテオリオンズのオーナーに就任した。

 しかし、元来は野球よりサッカーが好きであったとも言われ、オーナー会議や球場にはホボ姿を見せず、現場を訪れたのは1973年7月11日の神宮球場での対日拓ホームフライヤーズ(現・北海道日本ハムファイターズ)戦や1984年8月25日の川崎球場での対西武ライオンズ戦など数度に留まる。

 晩年 2009年7月1日、創業以来務めて来たロッテグループ社長を退き会長に就任。2015年7月には代表権の無い名誉会長に退いた。
 2017年、次男の昭夫と共に勤務実態の無い親族等に計500億ウォン(当時のレートで約52億円)台の給与を支払う等したとして横領・脱税等の罪に問われ12月22日に懲役4年(求刑懲役10年)を言い渡され、2019年に刑が確定したが健康上の理由から収監はされ無かった。 2020年1月19日、ソウル市内の病院で老衰の為死去した。98歳没。これにより、1960年代に韓国の急速な高度経済成長(漢江の奇跡)を支えた10大財閥の創業者は全員世を去った。

 三つの経営原則 

 1 理解出来ていない事業には行き成り手を付けないこと。
 2 可能性がある事業を始める時は徹底的に調査をしながら準備すると云う事。
 3 事業に失敗しても株主も経営者も誰も被害を受け無い範囲で投資資金を借り入れること。

                 以上









 そのロッテが聞く処によると、現在、創業家のお家騒動の渦中にあるらしい。それに関する報道の一部を下記する。



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 ロッテホールディングス(HD)の取締役を2015年1月に解任された重光宏之氏が、プレジデントオンラインの取材に応じた。宏之氏は創業者の重光武雄氏の長男。ロッテグループの経営権を巡って創業家のお家騒動が続いて居る。その舞台裏を直撃した。

 重光宏之ロッテHD前副会長激白! 「従業員持ち株会の27%がカギを握る」

          〜PRESIDENT Online ジャーナリスト 松崎 隆司〜
 

 虚偽やそれに近い理由で追い出された

 ・・・現経営陣に対する現在の気持ちは。

 大変残念な事が起きたので早く解決したい。ロッテホールディングス(HD)社長の佃(孝之)さんは私を虚偽やそれに近い様な理由で追い出した上、現経営陣は創業者である重光武雄会長の代表権も剥奪してしまった。そんな人間達が経営者として居座って居る事は大変残念な事だと思って居ます。

 ・・・宏之さんは2014年12月、ロッテHDの副会長やグループ会社の取締役を解任された訳ですが、何故この様なクーデターが起こったのですか。

 切っ掛けは2014年後半から年末に掛けて佃さんが代表取締役会長をして居た父・重光武雄に虚偽や著しく誇張した説明をした事からです。佃さんに促され、会長は私の解任に同意しました。その後12月にはロッテHDから取締役の辞任を求められ、そして26日にはロッテHDの取締役会で副会長の解職が決議されました。その後グループ会社計26社の取締役も解任されました。

 ・・・佃社長は武雄会長にどの様な話をしたのでしょうか。

 元々佃さんが社内を活性化させたいと云う事で、1億円迄の新規事業を募集したのです。その中に私が代表取締役を兼務して居た子会社の社員が出した提案があり、それが審査を経て最終的に残ったのです。只、金額は1億円では済ま無いものだったのでそれをどうしようかと云う話に為り、佃さんが議長をして居た取締役会に掛けて全会一致の承認を得、支払いも必要な決裁を受けて居ました。
 処が佃さんは、皆が止めたにも関わらず私が勝手に事業化を進めて、大きな損失を出したかの様に会長に報告したのです。しかも組んだ相手は私の悪い友人で、会社のお金を騙し取られたと会長に再三再四、吹き込んだ様です。
 実際には佃さんが議長をして居る取締役会で全会一致で決めた事ですし、支払先は上場して居る大手電機会社の子会社です。云い加減な会社ではありません。それを会長には捻じ曲げて報告してしまったのです。

 ・・・それは取締役議事録にも載って居る事ですから、直ぐに誤解を解く事が出来たのではないですか。

 会長は一旦相手を信じるとナカナカ考えを変え無い。それを納得して貰うのに時間が掛かってしまいました。それでも7月に為って、会長も騙された事に気が付いたんです。それで7月3日に業務報告に来て居た佃さんを厳しく詰問して、辞任を求めた訳です。
 佃さんは「長い間お世話に為りました」と言って下がって行ったのですが、辞めずにそのママ居座ってしまいました。本人は「自分は辞めるとは言ったが、何時とは言って居ない」と言って開き直って居るそうです。

 韓国を担当して居た弟はそれ迄全ての人事に付いて決裁を仰いで居た会長の了解を得る事無く7月15日に勝手にロッテHDの代表取締役にも就任して居る。
 会長は92歳(当時)と可成りの高齢で、2011年頃から、韓国の執務室に常駐して居たのですが「事態を収束させる為なら日本にでも何処にでも行く。取締役達にも幾らでも事実を説明する」と言って呉れました。

 そして会長自ら7月27日にロッテ本社に赴いたのです。取締役を辞めさせるのは株主総会でしか出来ませんので、先ずは職務権限を無くして解職しました。その上で新たに執行役員を任命して会社の運営に当たらせる様にしたのですが、現経営陣達はこれも事実を曲げて対外的には「取締役を解任しようとした」と発表しました。
 佃さんはこれ迄に私を含めて7・8人の役員を辞めさせ、自分達の息の掛かった者達を役員にして居ます。そして7月28日にはトウトウ創業者である会長をロッテHDの代表取締役から解任し、名誉会長に棚上げしてしまいました。

 中国投資で大きな損失が出て居る

 ・・・今回のクーデターの背景には韓国ロッテの大きな問題も隠されて居ると云われていますが。

 会長は経営の怠慢で損失を出す事に非常に厳しい。佃さんの話を聞いた会長から私も非常に怒られました。しかしそれ以上に大きな損失を弟(重光昭夫)が中国投資で出して居たのです。今判って居るだけでも中国や香港で5年間で1兆ウォンの損失を出して居ます。これを会長にはキチンと報告して居なかった。

 ・・・兄弟の対立の切っ掛けは、元々宏之さんが韓国ロッテのロッテ製菓の株を買い集め様とした事が切っ掛けと為ったと云う話も出て居ますが

 アレは父からは株を買う様言われて買ったのです。その時、全然関係無い企業の株を買っても仕方ありませんから、ロッテ製菓の株を買ったのです。

 ・・・ロッテグループは日本と韓国の2つに分かれて居て、複雑な株主構成に為って居ると云われて居ますが、どの様な組織に為って居るのでしょうか。

 韓国ロッテは、ホテル・ロッテが持ち株会社に近い役割を果たして居ます。韓国では持ち株会社が認められて居ませんでした。又ホテル・ロッテが出来た当時は外国からの投資の規制が非常に厳かったのですが、ホテルはその例外的な業種だったのです。だからソコを窓口にして成長分野に投資をして来ましたし、M&A をして会社を買収して行く内に資本関係が入り組んで行ってしまったのです。

 日本の場合も、会社の構造がヤヤ複雑だと言われ、以前は事業会社であるロッテが持ち株会社の様な役割を果たして居たのですがこれを分離し、2007年に持ち株会社であるロッテ・ホールディングスを立ち上げました。
 資本関係が複雑だと配当に対して余計に課税されてしまう。ソコで持ち株会社と事業会社を分離する事によって、資本関係をスッキリとした形に整理したのです。只それでも、日本の税制と韓国の税制が異なりますので、それを満たす為には可成り複雑な構造に為り時間が掛かってしまって今の形に為って居ます。

 ・・・韓国と日本のロッテは持ち合いの様な状態に為って居るのですか。

 それはありません。日本のロッテグループは持ち株会社がロッテ・ホールディングス、その下に事業会社であるロッテがあり、投資会社としてはロッテ・ストラテジックインベストメントと云う会社が韓国投資への日本側の窓口に為って居ます。
 その下には元々ホテル・ロッテの株を持って居たL投資会社と云う会社があります。これは元々事業をして居た会社なんですが、韓国では会社が分割等で名義が変わってしまうと、売買された扱いと為り課税されてしまうので、それが無い様に、分割した会社を残して居るのです。最終的にはロッテホールディングスが持ち株会社に為って居ます。只傘下の会社ではどうしても持ち合いの様なものが起きてしまって居るのです。

 「人を裏切ら無い」「人に迷惑を掛け無い」

 ・・・昭夫副会長は新聞のインタビューに答えて、事業会社のロッテの上場を検討する方針だと答えて居ますが、それに付いてはどの様に考えていますか。

 事業会社のロッテを上場すると弟が発言した事が報じられて居る事は知って居ます。しかしその真意は好く判りません。事業会社のロッテは製造部門で販売はロッテ商事が担当して居ます。製造部門だけを上場させると云うのはどう云う事を意味して居るのでしょうか。
 会社のコンプライアンスや透明性を強化する為に上場するのであれば、ロッテホールディングスを上場すべきなのではないでしょうか。只最近は相当無理してM&Aをして居る様ですから、その為の財源の手当てが必要なのかも知れません。

 ・・・韓国でもホテル・ロッテの2016年に向けて上場を準備して居るそうですが。

 中国投資での大きな損失に加えて、サムソンケミカルを買収し様としてしますので、向こうは大きな資金需要がある。そうした中でホテルロッテを上場させ様として居ました。只ホテルロッテの収益構造を見てみると、ホテル部門では殆ど収益が挙がって居らず、免税店の事業で利益を出して居るのです。
 免税店事業の売り上げの半分は、本店とチャムシルにあるロッテ・ワールド内に在る2つの免税店です。韓国では免税店事業の免許が5年毎に見直される事に為り、韓国ロッテグループはワールドタワー店の免許を更新する事が出来なかったのです。此処は最近、3000億ウォン掛けて大規模な設備投資迄して居たにも関わらずです。その為ホテルの企業価値が可成り落ちてしまい、上場で入ると見込んで居るキャピタルゲインも半減してしまって居る様で、資金調達の見通しが可成り厳しく為って居る様です。

 ・・・従業員や会社関係社に対してはどの様に思って居るのですか。


 大変申し訳無いと思って居ます。早く収めないといけ無いと思います。只、今のママで好いのか。真面目にものを作って、世の中に無かった商品を作ってお客様に指示をされて伸びて来た会社です。今のロッテHDの取締役は8人居るのですが、父を除けば、お菓子の製造や開発に関わって来た人はもう一人も居ません。
 佃さんや小林さんは銀行出身ですし、弟は証券会社出身です。アトは広告代理店から来た人が一人、営業と資材・購買に居た人達です。それに社外取締役が一人居るだけです。消費者は今、食品会社に対しては非常に厳しい対応をする様に為って居ますが、何か事故が起きた場合に、正しい対応が取れるのか心配で為りません。

 ・・・クーデター以降、佃社長や昭夫副会長が経営の実権を握って居る訳ですが、そうした経営手法をどう思いますか。

 金融関係者が役員に多い所為か、どうしても減点法の様な評価体制に為って居る様です。しかし製造業と云うのは、減点法では無く加点法で評価して挙げなければ伸び無い。失敗したから始末書を書けと言われて居たら、社員はドンドン萎縮してしまう。好い処を評価しながら遣って行かないと、メーカーの仕事と云うのは上手く回ら無いと思います。

 ・・・ロッテとはソモソモどの様な会社なのですか。創業者の理念とは。

 会長は20歳位の時に韓国から日本に出て来て、戦争の最中相当苦労したそうです。それでも知り合いから「自分の空いて居る工場を使って好いから」と言われモノ作りを始める。処が戦争で工場が焼かれてしまい、仕事を続ける事が出来無く為ってしまった。
 それでも信頼して呉れた人を裏切ってはいけ無いと、韓国に戻らずに日本でもう一度事業を遣ってお金を返さ無ければいけ無いと云う事で始まったのがロッテの原点です。「人を裏切ら無い」「人に迷惑をかけ無い」と云うのが会長の創業の理念です。だから今の経営陣の遣って居る事はそうした創業の理念とは真逆の事を遣って居るのです。

 自由にものが言える会社に戻したい

 ・・・今後はロッテをどう変えて行こうと考えて居るのですか。

 昔のロッテの様な状況を取り戻して行かなければ為らないと思います。昔は新しい商品や今迄に無かった様なカテゴリーの商品を作りましたし、設備投資も確り遣って来た。消費者からも信頼されて来た。私が米国から日本に戻って来た頃は、ロングセラーのブランド商品のガーナチョコレートがお店から消えそうで、ライバルメーカーの半分以下に為って居た。
 それを何とか努力し、ライバルメーカーを抜いて逆転した訳です。商品開発と云うのは通常は半年から1年、長いものでは数年掛かる。だから今は未だこれ迄積み上げて来たものがあるので、目に見えて業績が悪化する様な事には為って居ませんが、何れこの様な状況が続けば、色々な問題が出て来ると思います。
 そう為る前にキチンと手を打た無ければ為ら無いと思って居ます。私達は甘いものは強いんですが、そうで無い分野は弱い。或は健康分野等も今後の課題だと思います。そうした新規の分野にも力を入れて行かなければ為らないと思って居ます。

 ・・・最近同族企業の経営が批判的な扱いを受けますが、同族企業には同族企業としての良さがあるのではないでしょうか。

 長期的な視点に建った研究開発等を進めて行き易いと云うのは同族企業の良さだと思います。うちも新カテゴリー商品を開発する為に5年位掛けて遣って居ますし、設備投資に付いてもチョコレート等は1ライン10数億円掛けて遣って居ます。必ずしもヒットする訳では無いのですが、同族経営はこうした大きな決断をする事が出来る処にその良さがあると思います。
 世界的に見ると、お菓子業界の再編は急ピッチで進んで居ますから、出遅れてしまうと取り残されてしまう恐れがあります。積極的に世界に出て行かないと、ロッテは日本と韓国だけのローカルメーカーに為ってしまいます。それを長い目で見て決断して行かなければ為らないのですが、そう云う面でも心配があります。

 ・・・現経営陣はコーポレートガバナンスを問題にして居る様ですが、その点に付いては。

 経営陣が虚偽で経営権を握ろうとしたり、力で押さえ着ける様な経営は企業に取って好ましく無いのは当然です。そうした問題が起こら無い様な企業体質にして行くい事が今後の重要な課題だと思っています。自由にものの言える会社に戻したい。

 ・・・韓国ロッテに対しては今後はどう対応しますか。

 私が経営を遣る事に為れば、韓国ロッテに付いても対応して行かなければ為らないと思って居ます。只韓国ロッテは、多岐の分野に跨り、企業数も80あり、コチラを入れると100位に為りますから、経営の専門家やアドバイザー等にお願いする様な形に為るのだと思います。

 ・・・今後の株主総会に付いては。

 弟の持ち株はそれ程多くはありません。ロッテHD株式の1.4%しかありません。逆に、従業員持ち株会、役員持ち株会、関係会社が保有する株式等を合わせると、佃さんや小林さんの影響下にある株は議決権のある株式の53.3%に為ります。過半数を影響下に置いて居ると云う状況です。
 しかし直接経営陣が株主権を行使出来る役員持ち株会が所有して居るロッテHD株式の6%程度に過ぎず、私共の光潤社が保有して居るロッテHDの株は28.14%あります。最終的には従業員持ち株会の約27%の株式が大きなカギを握る事に為ると思います。


       松崎 隆司(まつざき・たかし) ジャーナリスト  以上








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新型肺炎は、中国共産党支配の「終わりの始まり」かも知れない




 新型肺炎は、中国共産党支配の「終わりの始まり」かも知れ無い

        〜現代ビジネス 長谷川 幸洋 1/31(金) 7:01配信〜


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 「武漢封鎖」と「チェルノブイリ」の類似性

 感染が拡大して居る新型肺炎は、中国の政治指導体制に重大な影響を与えるのではないか。チェルノブイリ原発事故が旧ソ連崩壊の切っ掛けを作った様に、新型肺炎は中国共産党支配の「終わりの始まり」に為る可能性もある。

 中国当局は武漢における初動の情報隠蔽を内外で批判された為に、連日、記者会見を開いて、感染者と死者の数を公表して居る。それでも、未だ実態には程遠い筈だ。病院に来た患者を収容し切れず、自宅に追い返して居るのだから、正しい数字を把握出来る訳が無い。
 感染者数に付いて、当初は米欧の研究チームが公表した様に「最大で35万人以上に為る」と云う推計もあった。但し、1月27日時点での改訂版推計では、具体的な数字が削除された。状況が流動的で、信頼出来る推計値を出せ無いのかも知れない。

         1-31-40.jpg

 何れにせよ、感染者数も死者数も増加の一途を辿って居り、何時ピークを打つのか、現時点では見通せ無い。日本でも、武漢からの帰国者の中に感染者が居た。数人の感染者で大騒ぎなのだから、武漢では事態の沈静化処では無い筈だ。
 マスクに防護服姿の当局者達が武漢駅を封鎖した光景を見て、私は、1986年4月26日にソ連で起きたチェルノブイリ原発事故を思い出した。防護服だけで無く、当局による情報隠蔽と慌て振りがソックリだったからだ。

 事故がもたらした「共産党崩壊」
 
 チェルノブイリ事故も発生直後、現場の当局者によって事実が隠蔽された。世界が事故を知ったのは、事故発生から2日後である。スウェーデンの原発で働いて居た作業員のアラームが鳴り響き、靴から高い放射線量が検出されたのが切っ掛けだった。 
 付着して居た放射性物質を調べた処、汚染の発生源は自分達の原発では無いと分かり、方角からソ連の原発を疑った。スウェーデン政府が問い合わせて、初めてソ連が事故発生を認めたのである。当時の様子を、ソ連共産党書記長だったゴルバチョフ氏は回想録で、次の様に記して居る。

 ・・・事故の第一報がモスクワに入ったのは26日早朝だった。・・・直ちに政府委員会を事故現場に派遣する事が決定された。・・・27日に委員会からの情報が入り始めた。・・・28日にルイシコフが委員会の活動に関する最初の成果を政治局に報告した。・・・意図的に隠したと云う告発に対して私は断固否認する。単に我々は当時、未だそれを知ら無かっただけだ。
 事故の直後に政治局会議で行ったアカデミー会員の・・・発言が今でも忘れられ無い。・・・「恐ろしいことは何も起こって居ない。こんな事は工業用原子炉には好く有る事です。ウォトカを1、2杯飲み、ザクースカ(注・ロシアの前菜)を摘まんで一眠りすれば、それで終わりですよ」(ゴルバチョフ回想録 上巻、1996年、新潮社、以下同じ)


 ゴルバチョフ氏は「自分達は知ら無かった」と言い訳をして居るが、一方で、自分達も「アカデミー会員に騙されて居た」と認めて居る。詰まり、ソ連が世界に事故を隠した事実は変わら無い。その上で、次の様に関係者を断罪し事故を総括して居る。

 ・・・極度に否定的な形を取って現れたのが、所轄官庁の縄張り主義と科学の独占主義に締め付けられた原子力部門の閉鎖性と秘密性だった。・・・私は1986年7月3日の政治局会議で言った。「・・・全システムを支配して居たのは、ゴマすり、へつらい、セクト主義と異分子への圧迫、見せビラかし、指導者を取り巻く個人的、派閥的関係の精神です」 
 事故は、我が国の技術が老朽化してしまったばかりか、従来のシステムがその可能性を使い果たしてしまった事をマザマザと見せ着ける恐ろしい証明であった。・・・それは途方も無い重さで我々が始めた改革に跳ね返り、文字通り国を軌道から弾き出してしまったのである。


 ゴルバチョフ氏は事故の教訓を深刻に受け止めて、グラスノスチと呼ばれた情報公開を武器にして急進的なペレストロイカ(改革)に乗り出した。それは部分的に成功したが、最終的に共産党体制の崩壊とソ連と云う国家の解体をもたらす結果に為った。

 余りにお粗末な中国の役人達

 ゴルバチョフ氏が指摘した「役所の閉鎖性や秘密主義、官僚のゴマすり、へつらい」等 は、今の中国共産党にそのママ当て嵌る。
 読売新聞によれば、武漢市の病院は「許可を得ずに、公共の場で感染状況を語ったり、メディアの取材を受けては為ら無い」と医師達に指示して居た。武漢市長は1月26日に開いた会見で、情報提供の遅れを認めた上で「上層部の許可を得無ければ、情報を公表出来なかった」と釈明して居る。

 この時の会見で、湖北省の省長がマスクを着用して居なかったり、武漢市長がマスクの裏表を逆にして居たり、マスクの生産量を億単位と万単位で間違えたりした。果ては、会見後に呟いた「オレの回答は良かったでしょ」と云う言葉が動画に流れて、中国のネットで「無能の証明」等と大荒れに為った。
 お粗末な対応を見る限り、中国の当局者達は、ソ連と同じ様に、上司のご機嫌伺いを最優先にしただけで無く、ソモソモ行政能力が話に為ら無い程低レベルなのが伺える。共産主義の独裁体制が何十年も続くと、どの国もこう為ると云う証明だろう。

 新型肺炎は原発事故より厄介な面もある。原発近くで放射能を浴びれば、健康に障害が出るのは確実だが、新型肺炎は自分が感染して居るのかどうか判然とせず、感染して居たとしても、必ず死に至るとは限ら無い。それだけ人々の不安は一層、高まるのだ。

 ソ連崩壊は「5年後」だったが・・・

 被害拡大の様相も異なる。放射能汚染は風に乗って時間と共に拡大したが、新型肺炎のウイルスは人間が媒体に為って、中国と世界の各地に散らばって行った。武漢市長は街が封鎖される前に500万人が街を出たと明らかにした。
 そうであれば、今後、上海や北京等大都市が「第2、第3の武漢」に為る可能性が高い。潜伏期間を考えると、今週から来週に掛けてがヤマ場ではないか。上海や北京が汚染されれば、混乱は武漢の比では無いだろう。今度コソ、中央政府による徹底的な情報隠蔽が始まる可能性もある。嫌、もう始まって居るかも知れない。

 新型肺炎で中国経済が打撃を受けるのは明白だが、それは政治体制への打撃にも為る。感染対応のお粗末さに加えて、失業と倒産が増え政府に対する人々の怒りが増幅する。米国と合意したばかりの「2年間で2000億ドル」の輸入拡大策もどう為るか。内需が劇的に落ち込めば輸入拡大処では無い。
 反政府勢力によるバイオテロが起きる可能性もある。テロリストから見れば、新型肺炎の蔓延は、ウイルスを使ったバイオテロを実行する絶好の機会に為る。ウイルスをバラ撒いても、意図的なテロか自然の感染拡大か政府には直ちに見分けが着か無いからだ。

 チェルノブイリ原発事故がソ連の崩壊を招いたのは、究極的には、人々がソ連共産党を信頼し無く為ったからだった。ゴルバチョフ氏が書いた様に、事故は「国を軌道から弾き出してしまった」のである。新型肺炎も、中国共産党に対する信頼を傷つけて居るに違い無い。ソ連が国毎崩壊したのは、原発事故から5年後だった。中国は、どう為るのだろうか。


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          長谷川 幸洋 ジャーナリスト    以上









【管理人のひとこと】

 世界の人を恐怖に陥れ、所構わず感染を拡大する新型肺炎。中国を発祥とするこのパンディミックを、筆者は旧ソ連・チェリノブィル原発で起きた事故に例える。事故を隠蔽し初動の措置が拙かった・・・そして、実際の罹患者数やその後の経過の発表に対しても、統計に信頼置け無い中国政府に対する不信の気持ちも指摘する。
 しかし、原発事故と今回が決定的に異なるのは、チェリノブイリ原発事故は、原発の持つ不完全な技術を起因とする人為的ミスが原因なのに対し、今回は、人の過失やミスでは無く、今の処原因不明の自然発生的・特別変異による新たな病原菌の発生を起因としている点だ。
 5人に一人が中国系と云われる程、世界には中国人が溢れて居る。そして、その中国本土からの発祥だから、アッと云う間に世界に拡散してしまう。無論、お隣の日本にも多数の罹患者が出てしまった。

 厚生省を初め、我が国の防疫体制の質や実力が試される事態に為ってしまった。ホボ自由に人類が移動可能な世の中、この拡散を止める手立ては大変に困難だろう。早く予防ワクチンや、罹患しても治療出来る技術の確立を望むしか無い。
 この様な時、一番に気を付け無ければ為ら無いのは、この記事の様なデマや陰謀論だろう。人の恐怖に訴え、根拠の無い話へと摩り替える・・・多くの人が驚き震えるのを見てホクそ笑む。筆者は、所謂、安倍晋三氏を応援したくて堪ら無いグループの一人であり可笑しな右派の一員でもある。常に韓国や中国を根拠も無く攻撃し続ける癖が治ら無い人達だ。確かに批判の絶え無い中国政府であるが、WTOと図って早期な事態収拾を願って止ま無い。








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1932年に巻き起こった大相撲「春秋園事件」 革命の裏に居た意外な人達


 

 以前当ブログで「国技」大相撲が戦前から批判されて来た大きな矛盾・・・を取り上げた際、その中で「春秋園事件」との項目があり気に為って居た。今回その記事が掲載されたので早速取り上げてみます・・・管理人 


 1932年に巻き起こった大相撲「春秋園事件」         
 
 マゲを切って料亭に立て籠もる力士32人 90年前の大相撲を騒がせた「春秋園事件」とは?

        〜文春オンライン「戦後の事件簿」 1/31(金) 17:00配信〜


 大相撲初場所も盛況の内に終わった。最近は相撲ブームが続いて居ると云われる。確かに毎場所の土俵は連日「満員御礼」人気力士への注目度も高い。しかし、外国人力士が増えて「国際化」が進んだ様に見える半面、暴力事件等の不祥事が頻発。土俵への女性の立ち入り問題等、前近代的とも思える体質は現代社会の常識と軋轢(あつれき)を起して居る。


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                 天竜三郎


 90年前の角界を騒がせた「革命」

 そうした伝統と因習が入り混じった相撲の世界で90年近く前、30人以上の力士がマゲを切って料亭に立て籠もる事件が起きた。給料引き上げや茶屋制度・親方制度の廃止等、土俵の近代化を求めたが容れられず、大日本相撲協会(当時)を脱退。大阪や東京で独自興行を続けたが、次第に人気を失い、結局、力士等は復帰したり廃業したりして「革命」は力尽きた。
 彼等の要求の幾つかはその後も時折論議に為ったが、根本的には実現され無いママ、課題として現在に至って居る。「国技」の華やかな世界の裏側にそうした問題がある事に目を向けるべきだろう。

 大相撲界の「革命児」天龍三郎による爆弾十カ条

 天龍と云えば、筆者の年代だと、東京放送(現TBSテレビ)が大相撲中継を遣って居た時、辛口の解説をして居た天龍三郎だろう。その頃は、彼が大相撲界の「風雲児」「革命児」と呼ばれる程大それた事を遣った人だとは知ら無かった。
 その天龍が決起したのは大相撲の西関脇だった1932年の正月6日。場所は東京・大井町の中国料理がメーンの料亭「春秋園」だった。

 「我々は・・・大関大ノ里を筆頭に出羽一門の十両以上の力士合わせて32名・・・大井町の春秋園なる料亭2階80畳の勤王の間に会合し、次に述べる趣旨の要求書を協会に提出したのだった」 

 「文藝春秋」1957年6月号の「読物・大日本相撲協会」で天龍はこう書いて居る。更に、1955年に出版した「相撲風雲録」では、10項目の要求を爆弾十カ条として説明して居る。要約して紹介する。

 明瞭な会計制度の確立、興行時間の改正、利権の絡む相撲茶屋撤廃

 (1) 協会の会計制度を確立されたい 全くこの膨大な組織体たる相撲協会位奇妙で因習的な会計制度を持ったものは日本にも稀有であろう。どれだけの収入があってどれだけ支出して居るのであるか。責任の有る収支の報告が過つて出された事が無い。一切の不明瞭がこの会計の遣り方の曖昧さに端を発して居る。
 (2)興行時間を改正されたい 大人数の力士が一つ土俵の上で入れ代わり立ち代わり相撲を取るのだから、朝暗い内から前相撲を始め、午後5時半頃に至って打ち出す方式は止むを得無い段取りとも思えるけれども、相撲が真に世間大衆のものだとする為らば、ソコに時間の改正を行う必要が確かにある。勤労者の方々の為も考えて、責めて夏分だけでも夜間興行(ナイター)を遣ってみてはどうであろうか?
 (3) 入場料を低下して大衆の相撲であらしめたい 現行の入場料金は決して高過ぎはしないと当局者は言うが、最低料金たる大衆席は遠くてすし詰めで便所へも行け無いと嘆いて居る半面、桝席の高価は確かに法外。
 しかも、その桝席は殆ど茶屋の独占に任せてある。金が有ってお義理や御馳走で見物する人々が桝席で見て、本当に相撲を見たいと思う人々が全く国技館から締め出しを食って居る。この様に不合理な入場方法を墨守している興行物は、恐らく地球上のどの国にも存在し無いだろう。大衆の為に全場内を開放すべきである

 (4)相撲茶屋を撤廃されたい 相撲見物不純化の親玉が茶屋制度である。会計制度の曖昧さと相まって、協会の内部に深く食い入って居るのだから、ナカナカこれを撤廃するという英断が取り難い。
 一個の利権に対する給付として、茶屋が桝席を壟断して居る。場外には入場出来なくて弱って居るご見物衆が沢山あるのに、桝席は何時も悠々閑々、そして割り振りの狂った切符が闇屋の手に渡って法外な値段を生んで居る。癌腫を先ず切開し無ければ生命は保て無い
 (5)年寄制度を漸次に廃止されたい この年寄と云うのも奇怪な存在である。年寄で無くては力士の養成が出来ない。力士は親方(年寄)を通じて協会の構成員に為って居ると当局は上手い事を言って、力士の収入の低下を理論づけている。
 年寄は何もしないで、協会から相当の分け前金を貰っている。この制度が無く為れば、相撲界の金銭関係はもっとスッキリするし、力士の公式収入もグッと増えて行く。長い仕来りだから、明日直ぐこれを廃止することは困難であろう。だから漸次とうたった訳である
 (6)養老金制度を確立されたい 力士が長年の間、汗水垂らして働いて、一朝怪我でもして土俵を去る様に為ると、幕内力士で5000円(今は30万円、他に力士会から30万円)=当時の5000円は2017年の貨幣価値で約1000万円=の養老金(退職金)では何も出来っこない。ソコで昔は堂々たるお関取が牛肉屋の下足番をすると云う事態も持ち上がる。他にヘンな方面へ支出される金がウンと有るのだから、養老資金だけは世間の会社・銀行並みに張り込むべきである

 (7)地方巡業制度を根本的に改められたい 協会巡業部の年寄連中は地方巡業の一切を切り盛りする。その方法は全て出先親方連中と地方顔役(勧進元)との秘密契約で取り行われ、力士の立場の弱さは全くお話に為らない。相撲不条理の縮図の1つがこの巡業制度である
 (8) 力士の生活を安定されたい 当時、私が相当の人気を持つ新関脇で居て、固定給として勘定をしてみると月収70円内外であった(2017年の貨幣価値で約15万円)これで女房でも貰うとすればどう為るか。その力士が三役に進んですら到底一人並みの生活が出来なかったのである。収入が極端に低いから、ソコで力士は卑屈に為り、旦那衆にペコペコ頭を下げ玄関番(書生さん)以下の便佞阿喩(口先でおもねること)を重ねる他無い
(9)冗員を努めて整理されたい 協会内部には実に無駄な役員(有給職員)が多い。職階性そのものが幹部のお手盛りで固まって居るから、年寄に仕事(位置)を与えようとすれば、至って簡単にそれを増やして行く。ナカナカ高給らしい。こう云う仕来りが積み重なって次第に冗員が出来無用な金が消えて居る。恐らく昭和7年頃も、今の3分の1の職員で協会の全ての事務は十分に運営されて行けたであろう
(10)力士協会を設立し、専ら力士の共済制度を確立されたい 従来も「力士会」と云うのは有ったが、イザと云うと幹部力士(横綱・大関)は協会の側に付き、弱体なものに為り易い。本当の「力士協会」が出来て、十両以上は1人1票、厳正な選挙によって代表者を選び、強力な組織を持つ事が出来れば、力士相互の共済機関も生まれて、安んじて皆土俵に生きる事が出来るであろう

 以上、要求項目は10カ条に渉って居るけれど、これ等は大部分、皆共通の基盤を持ち、密接な連携を有している案件である・・・。

 当時としては革新的過ぎた提案

 今読んでも革新的な提案。嫌、1世紀近く前の相撲の世界では進み過ぎていたのではとの感は否め無い。天龍が主導した運動に、当時の新聞は総じて同情的だった。「角界内部から、突如 積弊大廓清運動起る 十ケ条の要求を提出」の見出しを付けた1932年1月7日付東京朝日夕刊の記事はこう書き出して居る。

  「相撲界多年の積弊は、先に武蔵山をして拳闘界への転身迄決意させ、この積弊に対する力士多数の不満は日を追うて内昂し、その爆発は時の問題とされて居たが、果然5日の春場所番付発表を機会に、西方の人気力士武蔵山、天龍、大ノ里以下が結束して、この積弊打破の為起つ事に為り、西方幕の内及び十両力士一同は6日正午過ぎ、稽古が終わると共に三々五々出羽ノ海部屋を出で、京浜沿線大井町駅前春秋園に秘密裡に会合・・・」

 相撲より高まる拳闘の民衆的人気

 7日付朝刊も「角界空前の大騒動! 4力士要求書を提出 協会側極度にらうばい(狼狽)す」「親方に引き替え 生活苦の力士連 協会の台所は滅茶々々」等の見出し。相撲好きで横綱審議会委員も務めた作家・尾崎士郎はエッセイ「相撲を見る眼」で「当時ジャーナリズムと対立状態に有った協会は宣伝能力の大半を殺がれ」と書いて居り、その点からも、新聞は騒動を好意的に見て居たのだろう。以後も天龍等の一挙手一投足を細かく伝えて居る。

 此処で当時の大相撲の事情を説明して置かなければ為ら無い。年6場所、1場所15日間と云う現行の形に為ったのは戦後の1958年。
 明治以降、東京での相撲は原則1月と5月の年2回の各10日間だった。それが1925年、東京と大阪に別れて居た団体が合併して「大日本相撲協会」が発足。1場所が11日間と為った上、東京と大阪で2回ずつ年4回の開催に。

 出羽ノ海部屋の全盛期で、西方の力士は全員が同部屋。東方は他の部屋所属の力士が入り交じって居た。詰まり、春秋園に集まった出羽ノ海部屋の幕内・十両計32人はそのママ、前日発表された番付の西方の力士全員がスッポリ居なく為った事を意味する。
 それで無くとも、当時は関東大震災と昭和恐慌の煽りもあって相撲人気はドン底。「相撲を見る眼」「相撲の魅力が衰えて、拳闘の民衆的人気がこれに代わろうとする時代」と書く程だった。協会が「上を下への大騒ぎと為り」(1月7日付東京朝日)慌てフタメイテ対応に苦慮したのは当然だった。

 春秋園事件の前にも在った「相撲の改革を求める」2つの動き

 相撲の改革を求める動きは以前も在った。大山眞人「昭和大相撲騒動記」は春秋園事件を中心に大相撲改革の流れに詳しいが、それによれば、明治初年、前頭筆頭の高砂浦五郎「力士の窮状打破」「年寄らの金銭問題糾弾」を訴えて「改正組」を旗揚げ。5年後、要望の一部が受け入れられて収束した。1901年の春場所直前には、幕内力士数人が関脇以下の力士の同意を得て協会に要望書を提出した。

 内容は (1)場所の総収入の1割を十両以上の力士に分配 (2)その一部を養老(資)金にの2項目。協会に拒否された為、力士達は東京・新橋の社交クラブ等に立て籠もり、相撲愛好家の黒岩周六(涙香)「万朝報」社長らに調停を依頼。和解に至ったが、当初要求より後退した和解条件も履行されず、有耶無耶にされた様だ(新橋事件)
 更に1923年春場所前の1月11日、横綱・大関・立行司等を除く幕内力士や行司等が決起。養老金の増額を骨子とする要求を協会に突き付けた。協会は引き延ばしを図った為、力士側は(1)協会幹部改革(2)決算報告の明確化(3)相撲茶屋改革等も要求に追加。一時、東京・三河島の工場に籠城した。今度は警視総監が調停に入って解決したが、収拾案はその後起きた関東大震災等の為、実行され無かったと見られる(三河島事件) 協会の回答は「一片の誠意も認められぬ体のものであった」

 こうして改革を求める力士等の運動は概ね失敗に終わった。三河島事件当時、若手力士だった天龍は「だらしない結果」としながらも「後年の私達の運動にも、無論若干の参考に為る事件だった」と「相撲風雲録」に書いて居る。要求書の内容説明にも三河島事件を教訓にして居る処がある。

 結局、1月7日に天龍等に示された協会の回答は「年寄制度、茶屋制度の廃止、力士協会の設立等、全て私達が最も力点を置いた要求は殆ど黙殺か不同意、表現文字も極めて抽象的であって、協会側に一片の誠意も認められぬ体のものであった」(「相撲風雲録」)
 9日、天龍等は全員の「脱退届」を提出。10日には「大日本新興力士団」を結成した。

 これに付いて、事件から約40年後の1975年に出版された日本相撲協会の「正史」「近世日本相撲史第一巻」は厳しく評して居る。

 「財政難に喘いでいた協会の実情を把握せずに入場料の低減を唄い、切符販売に有効な方法である茶屋制度撤廃を叫んでも、これの受け入れに付いては絶対に即答は出来ない。年寄制度漸次廃止の要求は、自らの師匠、先輩をも切り捨てる下克上の態度であり、現役力士の利益のみを追求せんとする底意があまりにも露骨であった」

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        「檄文を背に秘策を練る天龍」(「大相撲八十年史」より)

「春秋園事件」の主導者・天龍三郎は現静岡県浜松市出身 16歳で出羽ノ海部屋に入ったが、切っ掛けは、当時出羽ノ海親方と為って居た明治の大横綱常陸山が直々足を延ばして勧誘に来た事だった。

 1932年に巻き起こった大相撲「春秋園事件」 革命の裏に居た意外な人達

 「こんな事態では相撲そのものがヤガテ衰微する」

 「相撲風雲録」によれば、親方からは「常に力士は一個のサムライであると云う毅然たる誇りを持って、先ず技と共に精神を鍛え挙げねば為らぬ」と教えられた。その為もあって、以前から強い問題意識を持って居た様だ。同書にこう書いている。

 「関脇と為ってみて、相撲の内部生活の不合理さがイヨイヨ身に沁みるばかりであった。力士がどうしても一個の職能人として当たり前の暮らし方が出来無い様に、相撲社会そのものが出来上がって居るのである」「何とか今の内にせねば為らぬ。こんな事態では相撲そのものがヤガテ衰微する」「私一個の存意は要約固まって来た。後は同志の獲得である」
 
 1931年3月、京都巡業の際に「力士会の長老」大関大ノ里に話をした。「確か10分か、嫌15分間位考え込んで居たかと思う。ヤガテ『やろう』と答えた」(同書)

 新興力士団に影響を及ぼして居た或る組織

 一方、新興力士団には親方等を使った協会の懐柔工作以外にも手が伸びて来た。「関東国粋会」と云う右翼団体。以前から相撲界と関連があり、今回も仲介を買って出たと見られる。
 公安調査庁が1964年にまとめた「戦前における右翼団体の状況 中巻」によれば、頻発した労資紛争に刺激されて関東・関西の土建業者や顔役達が結成した「大日本国粋会」から分離・独立。1930年に関東国粋会を名乗った。「専ら皇室中心主義を持し、国体に背馳する思想の撲滅に主力を注ぐ」が綱領。

 荒原朴水「大右翼史」は「事実上、関八州の関東侠客陣の流れを汲む純然たる任侠団体の集合であった」と書いて居る。1927〜28年の野田醤油争議に介入。春秋園事件にも登場する梅津勘兵衛は後に理事長に為るが、クリスチャンで「最後の侠客」と呼ばれた。そうした圧力が力士団にも影響を及ぼし始める。

 「悲劇の横綱」武蔵山の脱走

 「武蔵山脱走す 脱退組から除名さる」1月13日付東京朝日朝刊はこう報じた。

 「風邪で医師の手当を受けて居た武蔵山が12日夕6時頃、病院に行くと突然言い出し」監視役を振り切ってタクシーで姿を消した。力士団の1人が本人を探し当てたが、武蔵山は 「何とも申し訳無い。自分はソモソモこの運動の最初から病気と称して避け様と思って居たが、諸君の熱情に引きずられて、自分を偽りながら今日迄行動を共にして居たが・・・」と語ったと云う。

 武蔵山は決起前日の番付発表で兄弟子の天龍を追い越して新大関に昇進したが、1月7日付東京朝日夕刊の記事にあった様に、以前から拳闘(ボクシング)界への転向が噂されて居た。ソコには右翼団体「大行社」の清水行之助と北一輝の腹心の右翼活動家・岩田富美夫が介在して居たとされる。
 しかし、結局その道も取らず協会に復帰する。「裏切り者」と云う罵声を浴びながら、後に横綱に昇進するが、ケガで不振のママ引退「悲劇の横綱」と呼ばれる。

 「協会へは戻ら無い」意思表示としてマゲを切る
 
 関東国粋会の仲介で手打ち直前迄行ったが、天龍の強い抵抗で破談に。以後、関東国粋会の襲撃を恐れる様に為る。ソコで、天龍は驚くべき行動を起こす。

 「天龍以下卅名の力士 今朝遂にマゲを切る 悲痛な決意を表現」(1月17日付東京朝日夕刊見出し)記事にはこうある。

 「(1月)16日午前5時、早くも力士団31名は本部楼上に全員集合。緊張した協議会を開き、その席上、突如天龍は隣室に退いたので、大ノ里、山錦の両名が後を追って入ると、天龍はヤニワニ隠し持った鋏で自らのマゲを切らんとしたので、驚いて遮(さえぎ)り宥(なだ)めたが、天龍は声涙共に『諸君の復帰を要望する自分だ』と一言血を吐く様に言うばかり」

 結局31人中30人が一斉にマゲを切る事に決定。午前8時、紋服姿に着替えて集まり「予て用意の四寸位の鋏を各自に配り、一同白紙を懐中から出し膝の前に置き一斉に断髪。直ちに白紙に包み署名を行った」マゲを切るのは「協会へは戻ら無い」意思表示。調停を拒絶する文書と共に関東国粋会に届けた。

 此処で「30名」と有るのは、人気の巨漢力士・出羽ヶ嶽が「肉体その他の条件から、マゲを切らすに忍び無い」(東京朝日)と云う事に為り1人だけマゲを残したからだ。「『俺はマゲ切ったら何にも出来ねえ。これだけは勘弁して呉れ』と6尺8寸(206センチ)の巨体を震わせてワアワア泣いたと云う」(「昭和大相撲騒動記」)

 新興力士団の旗揚げ興行「大成功と言っても過言で無い」

 そして紆余曲折の末、新興力士団の旗揚げ興行が同年2月4日、東京・根岸の邸宅跡地に突貫工事で造られたテント張りの相撲場で開催された。大相撲の東西制や横綱・大関等の名称を廃し、6日間の個人競技に。31人をABCの3クラスに分け、総当たりで夫々優勝と順位を決める方式。

 「何もかも新味横溢 華々しい旗揚げ 楽隊、観衆の声援も賑はしく ザンギリ頭の大熱戦」2月5日付東京朝日夕刊は好意的に報じて居る。東京日日も「人気上々、新興力士団の旗揚げ興行」の見出し。「新興力士の意気正に衝天、相撲場付近の町は紅白の幕を張ってお祭りの様な騒ぎ」と伝えた。
 相撲ファンの判官びいきもあってか「昭和大相撲騒動記」によれば、初日だけで入場者は4700人超。 「天龍は『大成功と言っても過言で無い』と評価した」(同書)

 天龍の方針に対する反発が強まった

 しかしこの頃、別な動きも起きて居た。大相撲で残った東側力士の内14人が伊勢神宮参拝に行き、ソコで「革新力士団」を結成。名古屋の支援者宅に籠城して協会に反旗を翻した。
 これに対し、大日本相撲協会は幹部の体制を一新して、延期して居た春場所を2月22日から8日間開催。番付から幕内・十両が計22人居なくなった為、十両から3人・幕下から5人を幕内待遇に引き上げた。西十両6枚目から引き上げられたのが、後に69連勝を記録する名横綱・双葉山だった。

 新興力士団は革新力士団との提携に成功。3月19日から大阪で新興・革新合同大阪場所を開催し好評だった。東京・蔵前でも両団体合同場所を開き、両力士団は新たに「大日本相撲連盟」を結成。帯同して全国巡業に出た。
 しかし、その前に出羽ヶ嶽が、義兄弟の歌人・斎藤茂吉等の協力で協会に復帰。更に巡業中に革新力士団の間に天龍の方針に対する反発が強まった。結局、革新力士団の力士の多くは協会に復帰。新興力士団からも復帰する力士が出た。

 それでも天龍達残った力士32人は大日本相撲連盟を解散して、大阪を拠点に「関西角力協会」を設立。1933年に独自興行を大阪、次いで東京でも実施した。そして「満州・朝鮮慰問巡業」に出る。「昭和相撲騒動記」は「国内での興行が頭打ちに為り、大陸に目を向けざるを得無い状態に為ったのだろう」と想像する。

 大ノ里の死と、革新的な相撲興行の限界

 大陸での巡業は兵隊達には好評だったが、その中で大ノ里が発病。大連の病院に入院し長い闘病の末、1938年1月、肋膜炎で死亡する。それに先立つ1937年1月、関西角力協会は大阪で7日間の興行を打ち、それを最後に同年12月解散する。

 「関西角力突如解散 天龍・山錦は引退 新進力士は東京方に復帰」12月5日付東京朝日の見出し。「苦節五年土俵を割る」が物悲しい。「革命」は成就し無いママ終わった。17人が協会に復帰10人が廃業した。
 「力士の生活権を確立しようとして動いた天龍一派の行動には明らかに時代的な合理性があった」と尾崎士郎「時代を見る眼」は述べる。

「昭和大相撲騒動記」は、天龍等の革新的な相撲興行に付いて「新鮮味の追求は同時に『常に新しいものを開発し無くては為ら無い』と云う泥沼に嵌り続ける事を意味した」と分析。存続が危ぶまれた大日本相撲協会が、復帰組を迎えて曲がり為りにも興行を続けて居るのと対比して「本家の相撲協会で行われて居る『伝統の相撲』に勝てるのは叛の一瞬でしか無かったのだ」と述べている。
 「日本の相撲界が続いて来たのは、保守性の中に或る種の納得性が存在して居たからだと思う。所謂『偉大なるマンネリ化』を観衆が認めて呉れて居るのだ」とも。

 天龍には強力なブレーンが居た

 これに対し、天龍は「相撲風雲録」で地方巡業でのトーナメントなどの方式を「最良・至上のもの」と強調する一方、挫折の最大の原因として「協会の目に見えぬ圧力」を挙げている。しかし、この事件の新聞記事や資料を読んでいると、もう少し裏があったような気がして為らない。
 天龍には強力なブレーンが居た。後援会「天龍会」会長で、前・東京市会議員の茂木久平。早稲田大在学中、後に有名作家と為る尾崎士郎と共に学内の勢力争いに絡んだ「早稲田騒動」に加わり大学を中退。尾崎と共に社会主義者堺利彦が経営して居た出版社「売文社」に入った後、市会議員選挙に出馬し当選した。尾崎の人気小説「人生劇場」に登場する高見剛平のモデルとされる。

 この名前を見た時、筆者は思い出した。「昭和の35大事件」の「 東京都大疑獄事件 」で、京成電鉄の都心乗り入れに絡んで、同社の実情を革新倶楽部の志村清右衛門衆院議員に伝え、京成から志村を通じて現金を受け取ったとされた市会議員。相次ぐ汚職事件で市会議員が大量逮捕されて市会が解散命令を受け失職。有罪判決を受けた。
 茂木には逸話が多い。ロシア革命直後に現地に行き、レーニンから活動資金300万円を貰う約束をした事を自分で書いて居る。佐野眞一氏は「畸人巡礼怪人礼讃」で茂木を一種独特の魅力を持つ人物として取り上げている。

 事件を巡って動いた人達の意外な共通点

 又これより前、社会改革に関する意見交換の場として1918年に生まれた「老壮会」と云う組織があった。「戦前における右翼団体の状況 上巻」等によれば、アジア主義の思想家・大川周明と満川亀太郎が発起人で、毎月1回程度集まって時局を語り、講演会を開く等したが、1921年頃には自然消滅状態に為ったとされる。
 参加者は国家主義者から社会主義者まで雑多で、国家主義者系では北一輝、権藤成卿、笠木良明、社会主義者系は堺利彦、下中弥三郎、その他として大井憲太郎、草間八十雄ら。実はソコに茂木久平も社会主義者系の1人として加わって居る。

 そして、春秋園事件で武蔵山復帰を巡って登場する岩田富美夫、清水行之助も国家主義者系として参加。更に、参加者の1人で「純正国家主義」等の著者・角田清彦も天龍側の人物として事件に絡んで居る。詰まり、事件を巡って動いた人間達はお互いに知り合いだった訳だ。
 そこから筆者は、彼等が暗黙の了解の内に手分けして協会側と天龍側に立ち、調停を図ったのではないか、と云う疑いを持つ。その場合、目的は相撲への愛に加えて矢張り金だったのではないか。

 戦後の国会でも改革の必要性を訴え続けた天龍
 
 茂木は、アナーキスト・大杉栄を殺したとされる元憲兵大尉・甘粕正彦と偶然知り合って親しく為り、敗戦迄、甘粕が理事長を務めた「満州映画協会」の東京支社長の役職にあった。後に首相と為る岸信介(当時「満州国」総務庁次長)とも知り合いだった事が「岸信介の回想」に書かれている。
 天龍は引退後「満州」に渡り、満州国政府の体育事業に関わる。それには満州国総務長官だった星野直樹の力が大きかったと「相撲風雲録」に書いているが、茂木と甘粕の繋がりも背後にあったのではないか。

 大日本相撲協会はその後、双葉山の快進撃や、騒動後に登場した新鋭力士の活躍で息を吹き返す。戦争を挟んで現在の日本相撲協会に変わり、繁栄と沈滞を繰り返すが、天龍等の訴えの内、茶屋制度と親方問題、そして組織の体質は今も本質的には変わら無いままの様に思える。メディアもその点に深くは踏み込ま無い。

 天龍は戦後、協会と関係を修復しつつ、国会でも改革の必要性を訴えた。1989年8月85歳で死去。朝日の訃報は社会面ベタ(1段)だったが、見出しは「『春秋園』事件 反骨の元関脇」だった。



【参考文献】

▽和久田三郎「相撲風雲録」 池田書店 1955年
▽尾崎士郎「相撲を見る眼」 東京創元社 1957年
▽大山眞人「昭和大相撲騒動記」 平凡社新書 2006年
▽日本相撲協会博物館運営委員「近世日本相撲史第一巻」 ベースボール・マガジン社 1975年
▽「戦前における右翼団体の状況 中・上巻」 公安調査庁 1964年
▽荒原朴水「大右翼史」 大日本国民党 1900年
▽佐野眞一「畸人巡礼怪人礼讃」 毎日新聞社 2010年
▽岸信介・矢次一夫・伊藤隆「岸信介の回想」 文藝春秋 1981年


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               小池 新   以上








 

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戦場秘話 命懸けでフィリピンを脱出した搭乗員 下された「非情命令」




 戦場秘話 命懸けでフィリピンを脱出した搭乗員 下された「非情命令」

             〜現代ビジネス 1/31(金) 12:01配信〜

 今から75年前の昭和20(1945)年1月、フィリピン・ルソン島の山中を密かに行軍する数百名の日本軍将兵の姿があった。
 飛行服姿の者も居れば草色の第三種軍装の者、半袖半ズボンの防暑服姿の者、中にはランニングシャツに半ズボンと云う者も居る。武装と云えば、銘々が所持して居る拳銃と日本刀位。皆、一様に薄汚れた格好をして、それは、何処から見ても敗残兵の群れだった。
           
 大敗を喫し、編成された「特攻隊」

 昭和19(1944)年10月17日、米軍が突如、レイテ湾口のスルアン島に上陸したのを切っ掛けに、フィリピンを巡る日米の熾烈な攻防戦が始まった。
 過つてアメリカが統治し軍事拠点を置いて居たフィリピンは、昭和16(1941)年12月8日の開戦と同時に日本軍の猛攻を受け、昭和17(1942)年5月に米軍が全面降伏、日本の占領下に置かれた。
 昭和18(1943)年10月14日、フィリピンは日本政府の支援の下独立宣言を発しホセ・ラウレルを大統領とするフィリピン共和国(今日「フィリピン第二共和国」と呼ばれる)が誕生。日本は占領以来の軍政を廃し、新たに結ばれた日比条約に基づいて陸海軍部隊を引き続き駐留させて居た。

 既にマリアナ諸島のサイパン・テニアンは敵手に落ち、この上フィリピンを取られたら、日本本土は周囲を敵に囲まれ丸裸同然に為る。10月18日、日本海軍は「捷一号作戦」を発令、総力を以てレイテ湾に押し寄せる米上陸部隊を迎え撃とうとしたが、米海軍との「決戦」で、10月24日、戦艦「武蔵」が航空攻撃で撃沈されたのを初め、戦艦3隻・空母4隻を含む主要艦艇の多くを失い、レイテ湾突入を果たせ無いママ大敗を喫した。

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 最初に特攻隊を送り出した第一航空艦隊司令長官・大西瀧治郎中将 大西は後軍令部次長と為り、終戦を告げる玉音放送の翌日未明、割腹して特攻隊員の後を追った

 この時、基地航空部隊の少ない機数を以て、味方艦隊のレイテ湾突入を支援する為、敵空母の飛行甲板を一時的に使用不能にする事を目的に編成されたのが、爆弾を搭載した飛行機諸共敵艦に体当りする「神風特別攻撃隊」(特攻隊)である。

 第一航空艦隊司令長官・大西瀧治郎中将の命で10月20日に編成された特攻隊は、10月25日、延べ10機の体当り攻撃で護衛空母1隻を撃沈、3隻に損傷を与えると云う、艦隊による砲撃や通常の航空攻撃を上回る戦果を挙げた。
 日本艦隊が壊滅し米上陸部隊への攻撃が失敗に終わった後も、特攻隊は内地からの補充を受けながら次々に編成され、更に陸軍も特攻に加わって、米軍の侵攻を少しでも遅らせるべく多くの若者達が眦(まなじり)を決して飛び立って行った。

 航空隊が飛行機を失い「陸戦隊」に

 昭和20年1月4日から5日に掛けて、空母を含む艦隊に護衛された敵の大規模な輸送船団が、ルソン島の西側を北上して居るのが索敵機により確認された。レイテ島をホボ制圧した敵は、今度はマニラ湾外を北上し、ルソン島西側のリンガエン湾から上陸して来るものと予測された。
 フィリピンの日本軍は、既に食糧も不足して居る。比較的優遇されて居た海軍の航空隊でサエ、この頃に為ると食事は、朝、昼、晩共にサツマイモだけ。直径60ミリ程のものなら1本、30ミリ程のものなら2本が支給されるに過ぎ無い。これから特攻に出撃する搭乗員にだけ、大きいサツマイモ2本と塩湯が供された

 1月5日・6日と、陸海軍の航空部隊は、この敵船団に向け総力を挙げて体当り攻撃を掛けた。米側記録によると、1月5日は豪重巡「オーストラリア」・米護衛駆逐艦「スタフォード」が大破した他、護衛空母2隻・重巡1隻・水上機母艦1隻・駆逐艦2隻・歩兵揚陸艇1隻・曳船1隻が何れも損傷を受け、1月6日は、掃海駆逐艦「ロング」が沈没、戦艦「ニュー・メキシコ」「カリフォルニア」他、重巡3隻軽巡1隻駆逐艦3隻が何れも大破、他に、駆逐艦4隻・高速輸送船1隻・掃海駆逐艦1隻が損傷を受けて居る。

 それでも、1月6日、米軍は遂に、リンガエン湾への上陸作戦を開始。日本側に飛べる飛行機はもう殆ど残って居ない。翼を失った航空隊は、ピナツボ山麓に立て籠り、今度は陸戦隊として戦う事に為った。

 「我々搭乗員も急遽、陸戦隊を編成し、手榴弾の投擲訓練等陸上戦闘の準備に入りました。草色の第三種軍装に編上靴・ゲートル・拳銃二挺・・・戦死者の遺品の中から頂戴した日本刀を腰に差した、何ともお粗末な陸戦姿でした」

 と語るのは、当時18歳の飛行兵長(飛長)で、零戦搭乗員だった小貫貞雄(後一飛曹、戦後、杉田と改姓、工場経営1926-2019)である。

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 第二航空艦隊司令長官・福留繁中将が、整列した特攻隊員を前に訓示する 小貫貞雄はこの中に居た

 小貫は、前年10月、第二二一海軍航空隊(二二一空)の一員としてフィリピンに送り込まれ、既に敵戦闘機との空戦を経験して居る。
 10月末、クラーク基地群(ルソン島中部、クラーク・フィールドに設けられた11の飛行場)のアンヘレス基地で搭乗員整列が掛けられ、第二航空艦隊司令長官・福留繁中将が直々に特攻志願者を募った際「一瞬、凍り着いたかの様なその場の雰囲気に耐え切れず、意に反して一歩前に出てしまった」小貫は、特攻部隊に指定された第二〇一海軍航空隊(二〇一空)に転属と為り、体当り出撃を待つ身だった。

 「特攻隊に編入され、藁半紙と鉛筆を渡されて、遺書を書けと言われたんですが、そんな急に気の利いた言葉なんて出て来ない。仕方無く〈大和男の子と生まれ来て 明日は男子の本懐一機一艦 先立つ不孝をお許しください〉と書いて、最後に〈天皇陛下万歳〉と付け加えた。
 『天皇陛下万歳』って云うのは便利な言葉で、最後にそう書いて置けば、何と無く軍人の遺書らしく恰好が付くんです。虚勢ですね。『顔で笑って心で泣いて』と云う言葉そのママの心境でしたよ。

 それが、今度は陸戦隊に為って玉砕する迄戦えと云う。どうせ死ぬのなら、ジャングルの中で腹を空かせたり、弾丸に当たって痛い思いをするより、飛行機でひと思いに死んだ方が楽だったかなとも思いましたが、乗る飛行機が無いのなら仕方が無い。陸上戦闘の怖さを知ら無い我々は、山に籠る準備をしながら、仲間と日本刀を振り回して『俺は宮本武蔵だ』等と、田舎芝居の役者気取りでした。
 当時、私は飛行兵長(兵の階級)でしたが、他所の部隊の兵隊にナメられ無い様にと、二階級上の一等飛行兵曹(下士官)の階級章を軍服の肘に縫い着けて居ても、誰にも怒られ無かったですね。軍紀も緩んでたんでしょう」

 
 もう一人、前年12月に二二一空の一員としてフィリピンに着任した19歳の零戦搭乗員・長田利平飛行兵長(後一飛曹、戦後神奈川県警刑事1925-2019)は、特攻志願に応じ無いママ、幾度か敵機と空戦を交え、ロッキードP-38戦闘機を1機撃墜したものの、風土病のアメーバ赤痢に罹り、アンヘレス基地近くの医務室に入院中に米軍の上陸を迎えた。

 「入院と云っても病院らしい設備は無く、現地人から接収した洋館風の建物の板張りの部屋にアンペラ(むしろ)を敷いただけの病室に、病名を問わず多くの患者が雑魚寝をして居る様な有様です。赤痢患者に投薬は無く、絶食させられて、脱水症状を防ぐ為お湯だけ飲んで居る様な入院生活でした。
 1月6日、敵が同じルソン島のリンガエン湾に上陸するらしい、海軍は陸戦用意が発令され、8日迄にピナツボ山麓に入るらしいと云う噂が病室内で流れた。私は、病人として医療部隊に付いて行くより、戦友達と一緒に行動したいと思い、病室を脱走して隊に戻ったんです」


 山籠もりの準備は着々と進められて居た。陸海軍が協議した結果、ルソン島の防衛線を17の区域に分け、海軍はクラーク防衛部隊としてピナツボ山麓の「十一戦区」から「十七戦区」迄7つの地域に複郭陣地を構築する事が定められた。
 航空隊や対空砲台、設営隊、フィリピン近海で撃沈された艦艇の乗組員等、15.000名を超える雑多な将兵が全て陸戦隊と為ってこの中に組み入れられ、糧食や弾薬を山中に運ぶ作業は夜を徹して行なわれた。

 只、飛行機の搭乗員は、養成に時間が掛かる上に飛行適性があって誰でも為れる訳では無い。翼を失った搭乗員はクラーク基地群に400名以上、ルソン島の各基地を合わせれば500名以上が残って居る。
 大西瀧治郎中将は、飛行機さえ有れば再び戦力に為り得る搭乗員を陸上戦闘で失うのは惜しいと考え、フィリピンから脱出させる事を決めた。だが、ルソン島中部に敵が上陸した今、台湾からの輸送機がクラーク迄飛ぶのは自殺行為に等しい。そこで司令部は、搭乗員達を陸路、ルソン島北部のツゲガラオ基地に後退させ、そこから輸送機で台湾へ送る事を決めた。

 ゲリラと戦いながら 600kmを徒歩で行軍
 
 病室を脱走した長田が隊に戻ったのは、正に搭乗員の脱出が決まった時だった。二二一空は残存した僅かな零戦に搭乗員を二人ずつ乗せ、乗り切れ無い者は陸路ツゲガラオに向かうのだと云う。零戦は操縦席の後方に人が一人乗れる位の空間があり、座席を前に倒して潜り込む事が出来る。

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 長田利平飛行兵長(後一飛曹)病み上がりにも関わらず、600キロを徒歩で行軍し、命からがらフィリピンを脱出した(右写真撮影 神立尚紀)

 「病院を出て来て好かったと思いました。司令・八木勝利中佐が、お前は病人だから零戦に乗って行けと云う。司令の恩情に感謝しながら、私は、同期生の愛知正繁飛長が操縦する零戦の胴体に乗り込みました。処が、離陸するとエンジンの調子が悪く、基地に引き返して修理を待って居る間に、見知らぬ大尉が行き成り現れて『アノ飛行機には俺が乗って行く。お前は歩け』と、取り上げられてしまったんです。それで泣く泣く、行軍組に加わる事に為りました」

 1月8日、ルソン島の各基地から、司令部の有るバンバン基地に集められた搭乗員達には、一週間分の食糧として、靴下に詰めた米と缶詰が渡され、ツゲガラオ基地へ移動、そこから台湾行きの輸送機に乗る事が命じられた。
 バンバンからツゲガラオ迄は最短距離で約450キロ。米軍上陸部隊を避けての山中の行軍では、歩く距離は600キロ(ホボ東京〜神戸間と同じ)には為る。使えるトラックは5〜6台しか無い。乗れる者はこれに乗って、ピストン輸送をする計画だったが、悪路でトラックの故障が相次ぎ、結局、殆どの搭乗員は徒歩での移動を余儀無くされた。

 脱出する搭乗員達は隊列を組んでバンバンを出発したが、敵に制空権を奪われ、日中は危なくて行軍出来ないので、歩くのは専ら夜間である。だが、当時、フィリピンの治安は非常に悪く、不時着した日本の搭乗員が住民に惨殺されたり、日本軍将校を乗せた車が、親米派の武装ゲリラに襲撃される等の事件がシバシバ起きて居た。長田の回想・・・

 「途中の小さな町で、駐屯して居る陸軍の世話に為って泊まろうとして居る時、突然、銃声が聞こえました、ゲリラの襲撃です。頭上を弾丸の飛び去るヒュッ、ヒュッ、と云う音がして、薄暮の彼方にゲリラの動く姿と応戦する陸軍部隊の姿が見えた。陸軍の中隊長らしい将校が道路に仁王立ちして、左右に展開させた部下達を指揮して居る。勇敢だナァと思いましたね。
 私は持って居た十四年式拳銃に弾丸を装填して、蛸壺(タコツボ・一人用の塹壕)で身構えましたが、素人の出る幕では有りません。陸軍は流石に手慣れた様子で10分程でゲリラを撃退しました。ヤレヤレ、と拳銃の弾丸を抜いて蛸壺から出たら、何だか周囲が騒がしい。今のゲリラ騒ぎで搭乗員が拳銃を暴発し、弾丸が別の搭乗員の背中に命中したと云うんです」

 
 暴発したのは杉山善鴻飛長、撃たれたのは加藤光郎飛長・・・二人共長田の予科練同期生だった。

 「痛みと苦痛で『痛いよう、痛いよう』『お母さん、痛いよう』と叫びながら暴れる加藤を押さえ着けながら、只『頑張れ』としか言葉が出無かった。ヤガテ大人しく為り、明け方に息を引きとりました。彼の両目の目尻からは涙が流れて居ました・・・」
 
 或る時は空襲に怯え乍ら平坦な水田地帯を歩き、又或る時は急峻な山道をトラックで走り乍ら、長田が要約ツゲガラオに到着したのは1月25日。実に半月以上に及ぶ行軍だった。

 到着した搭乗員を待って居た「非情な命令」

 激戦地ラバウルや硫黄島で戦い、日本海軍切っての歴戦の零戦搭乗員だった26歳の角田和男少尉(後中尉 戦後は開拓農家1918-2013)も、徒歩で行軍した搭乗員のうちの一人である。

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 角田はフィリピン上空で零戦を空輸中、乗機のエンジンが故障、マニラのニコルス基地に部下を引き連れ4機で着陸した処「この中から一名を選抜して特攻隊員として残せ」と命じられた。部下を差し出す位なら自分が残るしか無いと特攻を志願、以来、特攻隊の直掩機(爆弾を搭載した爆装機を掩護し、戦果を確認する)として、仲間の体当り攻撃を見届ける辛い出撃を重ねて居る。

 角田が行軍の為バンバンを出発する時、局地戦闘機「紫電」で編成された第三四一海軍航空隊司令・舟木忠夫中佐が山籠もりの陣地からワザワザ見送りに来た。舟木は半年前、角田が二五二空に属し硫黄島で戦った時の司令である。三四一空は飛行機の殆どを失い、舟木は陸戦隊指揮官の一人としてこの地に残る事に為ったのだ。

 「航空隊司令は、搭乗員しか腹心の部下が居らず、搭乗員を帰して一人残られるのが気の毒でした。私は、予科練で陸戦の小隊長としての訓練は受けて居るし、部下の搭乗員が10人近く居たから、舟木中佐と此処に残って指揮小隊として戦うべきか迷いました。今でも、アノ時残って挙げれば好かったナアと後悔して居ます」
 
 一緒に行軍した搭乗員の中に、角田が練習生の頃から実戦部隊に出る迄、同じ航空隊で共に訓練を受けた岡部健二飛曹長が居る。開戦以来、空母「翔鶴」零戦隊の一員として数々の激戦を潜り抜けて来た29歳の岡部は「特攻反対」を公言して憚(はばか)ら無かった。
 岡部は、大きな布袋に一杯の荷物を背負い、それを宿営の度に広げて皆に見せビラかす。荷物の中身は、シンガポールで買ったと云う女性用のハイヒール、香水、化粧品等。全て日本で待つ妻への土産だった。

 「俺は、死な無い。かあちゃんにコレを持って帰って遣るんだ」

 岡部は言い、角田にも「角(つの)さん、特攻ナンか辞めちゃい為さいよ。ブツカッたら死ぬんだよ。戦闘機乗りは死んだら負けだよ」と、特攻を思い留まらせ様とした。岡部の気持ちは有り難いが、一度特攻隊に組み入れられた以上、角田が自分の一存でソコから抜ける事は出来ない。角田が、約200名の搭乗員と共にツゲガラオに着いたのは、長田と同じ1月25日の事である。

 「搭乗員は普段歩き慣れ無い上に、飛行服・飛行靴姿で歩くのは重くて大変でした。一週間程で食糧も無く為り、後は所々に駐屯して居る陸軍のご厄介に為りました。陸軍さんは自分達が食うものも乏しいのに、苦労して行軍して居る戦友を見ると必ず助けて呉れる。短い区間でしたがトラックにも乗せて呉れましたしね。随分世話に為りました」
 
 処が、ヤッとの思いでツゲガラオ基地に辿り着いた搭乗員達に下されたのは『零戦が4機整備されて居るので、直ちに士官1名下士官兵3名の特攻隊員を選出する様に』 と云う非情な命令だった。基地には他に、10数名の飛行服姿が見えるが、彼等は志願する気は無いらしく、特攻隊員が着くのを待って居た様だった。
 此処で選んだ4名は休憩の暇も無く特攻に出すが、残りの者は今夜、迎えの飛行機で台湾に送ると云う。角田は、甚だ割り切れ無いものを感じた。結局、一緒に行軍して来た予備学生十三期出身(長崎師範学校卒)の住野英信中尉「どうせ早いか遅いかの違いですから、私が遣ります」と志願して指揮官に決まった。

 住野中尉以下の特攻隊は、第二十七金剛隊と命名され、直ちに発進した。だが、長く露天に置かれたママの零戦は十分な整備がされて居なかったらしく、住野機は辛うじて離陸したものの2機は故障で不時着し、住野機だけが直掩機・村上忠広中尉機と2機でリンガエン湾へと向かった。
 敵艦が見えた途端、住野機はマッシグラに突入して行く。村上機もアトを追う。だが、途中、敵戦闘機の襲撃を受け、そこで村上は住野機を見失った。米軍記録によると、この日の特攻機による損害は無かった。これが、フィリピンから出撃した最後の特攻機であった。

 昭和19年10月からの約3ヵ月の間に、海軍の出した特攻隊の未帰還機は333機(陸軍は202機)に及ぶ。一方、昭和20年1月9日から2月10日迄の間に台湾に脱出出来た搭乗員は、約525人と言われて居る。

 否応無しに全員が特攻隊員に

 しかし、要約台湾へ脱出した角田や長田に小貫達搭乗員を待って居たのは、又しても特攻だった。角田達が、輸送機で台湾の高雄基地に到着したのは1月26日早朝のこと。これで暫らくは休めると誰もが思ったが、彼等には、翌日から交代で特攻待機に入れとの命令が言い渡される
 台湾では、最早特攻隊員の志願募集は行なわれず、フィリピンから帰された戦闘機乗りは、今まで特攻隊員で無かった者も含めホボ全員が、否応無しに特攻隊に為った。

 角田は、フィリピンから帰って来た名も知らぬ予備士官の中尉が一人、飛行長・中島正中佐に、志願した覚えの無い特攻編成から抜けさせて呉れる様直訴し、怒った中島中佐に顔が紫色に腫れ上がる程殴られても屈せず、後に内地に転勤して行ったのを記憶して居る。
 昭和20年2月5日付で、フィリピンから台湾へ引き上げた特攻隊員を中心に、新たな特攻専門部隊として第二〇五海軍航空隊(二〇五空)が編成された。二〇五空の特攻隊は「大義隊」と命名され、103名の搭乗員がソコに組み入れられた。これ迄一度も特攻を志願した事の無い長田利平も、その一人である。

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 「戦闘機乗りとして一人前に為りたい一心で猛訓練に耐えた私に取って、敵機と空戦を交える事も無いママ、爆弾を抱いて敵艦に突っ込むと云うのはいかにも無念な事でした。空戦で、自分の技倆が劣って居て結果的に撃墜されるなら仕方が無い。
 でも、特攻は、任務を果たす事が即ち『死』です。待って居るのが同じ『死』であるにしても、ソレとコレとは全く別だと思い私は志願し無かった。それナノに、二〇五空が編成されると自動的に特攻隊員とされてしまったんです」
 

 長田と同様、フィリピンで特攻を志願し無かった19歳の零戦搭乗員・西川勇二飛曹(後上飛曹 戦後 岩倉と改姓1925-2019)は、昭和20年1月9日、ツゲガラオ基地を発進、米軍の上陸部隊が犇めくリンガエン湾上空でグラマンF6F戦闘機20機と空戦に為り、撃墜され落下傘降下した。
 そこには偶々敗走中の日本陸軍部隊が居て、岩倉は陸軍と共に2ヵ月半を掛け、必死の思いでツゲガラオに舞い戻る。だが、搭乗員の台湾への輸送作戦は既に終わって居て、自分の部隊はもう誰も残って居なかった。

 途方に暮れて居ると、3月28日、内地に飛ぶ飛行機便があると云う。それは、米軍に追われ、日本に亡命するフィリピン共和国のホセ・ラウレル大統領を救出に来る日本海軍の輸送部隊の第一〇〇一海軍航空隊の一式陸攻だった。
 恐らくコレがフィリピンを脱出出来る最後の機会である。陸攻が着陸すると、便乗を希望する者が周囲を取り囲んだ。中には、トランク一杯の札束を陸攻の搭乗員に見せて懇願する士官も居たと云う。だが、大統領一家4名を乗せると飛行機には幾らも空席が無い。

 ソコで、海軍の基地指揮官が西川に「台湾に二〇五空と云う、優秀者揃いの精鋭部隊がある。お前は搭乗員だから、この飛行機に乗ってその隊に行け」と命じた。陸攻は慌ただしく便乗者を乗せると、3月29日未明、ツゲガラオを離陸した。2時間半後に台湾・高雄基地に着陸、ソコで西川は降ろされる。「ヤレヤレ、助かった。これからは精鋭部隊の一員だ」と思ったが、これから行く「優秀者揃い」の二〇五空が特攻専門部隊だとは知る由も無い。西川も此処で、否応無しに特攻隊に編入される事に為った。

 ラウレル大統領は日本の敗戦時、滞在先の奈良ホテルで、占領軍に戦犯容疑で逮捕されるが、後に恩赦を受け、戦後もフィリピン上院議員を務めた。米軍が沖縄に侵攻すると、二〇五空特攻「大義隊」は、4月1日を皮切りに、台湾の各基地や石垣島・宮古島を拠点に沖縄沖の敵機動部隊に向け、特攻出撃を繰り返す事と為る。

 6月22日、沖縄が事実上陥落する迄の3ヵ月足らずの間に、小貫貞雄は5回・長田利平は4回、爆装機として出撃し、角田和男は直掩機として4回の出撃を重ねた。特攻隊は、早朝の索敵機による「敵発見」の報告を受けて出撃するが、数時間後の推定地点に敵艦隊が居るとは限らず、発見出来ずに帰投する事の方が多かったのだ。大義隊の特攻戦死者は35名だった。

 「私は『決戦』と云う言葉が大嫌いでした」
 
 一方、ピナツボ山麓の複郭陣地に立て籠もったクラーク防衛海軍部隊約15.400名と言われる。彼等は、慣れ無い陸上戦闘で、戦車を前面に立てた米軍の圧倒的な火力を前に絶望的な戦いを続け、その殆どが戦死、生還者は約450名に過ぎない。

 複郭陣地は、左翼(北)から、十三戦区、十四戦区、十五戦区が順に制圧され(当初構築された十一戦区、十二戦区は指揮官が転出し、何れも解隊されて居る)総指揮官・杉本丑衛少将は、昭和20年4月中旬、クラーク防衛部隊の編成を解くとの命令を発した。残る部隊は、夫々の指揮官の下、山中に隠れ自活の道を講じなおもゲリラ戦を続けよと云うのである。
 だが、米軍の火力から逃れても、山中での自活は、飢餓と病気との苦しい戦いの連続だった。杉本少将は6月12日「俺の肉を食って生き延びよ」と、部下に言い残して自決した。

 角田和男のバンバンからの出発を見送りに来た三四一空司令・舟木忠夫中佐は、極限の状況下、何かの事で部下の恨みを買ったらしく、7月10日、マンゴーの実を捕ろうと木に登った処を従兵に火を点けられ、燃える草原の上に落ちて非業の最期を遂げた。
 角田が「残って挙げれば好かった」と後悔するのは、自分が付いて居れば舟木にコンな死に方はさせ無かったと云う自責の思いも含まれて居たのだ。角田は戦後、平成25年に亡く為る直前まで、舟木の命日に近い7月15日には欠かさず、不自由に為った体を押して靖国神社に詣で、戦友達の霊を弔い続けた。

 フィリピンから脱出した搭乗員達は、運好く内地へ転勤出来た者も含め、半数近くが、終戦迄の僅か半年の間に命を落とした。彼等に取って、フィリピンからの脱出行は、続く沖縄戦や本土防空戦の序章に過ぎ無かったのだ。止め時を見失った戦争は、末期に為って更に多くの犠牲を生み、軍人ばかりで無く数多の民間人をも巻き添えにした。

 思えば、昭和19(1944)年6月、米軍のサイパン、テニアン上陸を迎え撃ち惨敗したマリアナ沖海戦、10月、レイテ島に来襲した米軍を撃滅しようとして返り討ちに遭った比島沖海戦と、海軍上層部は事有る毎に「決戦」を呼号して来た。

 「私は『決戦』と云う言葉が大嫌いでした。決戦とは、その戦いで全てを決すると云う事なのに、決戦に負けたら又決戦だと決戦の大安売りです。その為に、どれ程多くの部下を失って来た事か。長期戦に為ればソモソモ勝て無い戦争であったことは判って居た筈。現場の将兵は決死の思いで戦って居るのだから、上層部も命懸けで戦争を終わらせて欲しかった・・・」
 
 とは、重慶上空の零戦のデビュー戦、そして真珠湾攻撃に始まって、大戦中のホボ全期間を零戦隊を指揮して戦い、部下からは一機の特攻機も出さ中った進藤三郎少佐(1911-2000)が、筆者に残した言葉である。

 75年前、フィリピンのジャングルを行軍した若者達も、今やその殆どが鬼籍に入った。壮絶な体験も、苦労した思い出も、重要な教訓も、当事者の死と共に大抵は無に帰してしまう。彼等の記憶の断片を拾い集め、時には戦時中に思いを馳せて見る事も「平和」を見詰め直す上で大切な事ではないだろうか。


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         神立 尚紀 カメラマン・ノンフィクション作家   以上


 【管理人のひとこと】

 世の中の全ての矛盾・不合理・不公正・悪・・・が集まったのが、所謂「戦争」と云う政府が主導する社会現象が巻き起こす悲劇なのでしよう。アラユル非人間性の塊が「我が国を守る」との美名に隠された戦争の本質でもあるのです。実際に銃を執り戦地に向かわされた多くの国民は、自分の悲劇を嘆き不幸に打ちのめされても「お国の為」の一言で「仕方ない」と犠牲に甘んじたのでした。
 本当に300万人以上の犠牲を出さ無ければ、日本は生き残れなかったのか・・・開戦を決意した為政者に取って「国民の犠牲」はどの程度の比重だったのか。当時の多くの国民は英米に宣戦布告した政府に拍手喝采したのですが・・・それがその時の国民感情の大半だったとしても、その様な世相に持って行ったのが残念です。
 アノまま勝ち続け英米が日本に降伏したら、日本は一体どの様な国へと為った事でしょうか。アノ戦争で勝た無くて好かった・・・のかも知れません。植民地支配の国際状況は変わらず、武力による植民地支配が半世紀は続く事にも為った可能性もあります。万が一戦争の目的の「植民地解放」の美名が真実であったら、どうだったでしょうか。しかし、勝利した日本は、朝鮮・台湾・満州の植民地化は辞めず、次々と他を物色し新たな利権を目指し戦争が続く・・・この様な仮定も成り立ちます。何れにしろ、歴史には仮定は許されず冷酷な事実の積み上げでしか残りません。
 戦争の話はもう嫌だ・・・そうなのですが、著者の指摘する様に・・・75年前、フィリピンのジャングルを行軍した若者達も今やその殆どが鬼籍に入った。壮絶な体験も、苦労した思い出も重要な教訓も、当事者の死と共に大抵は無に帰してしまう。彼等の記憶の断片を拾い集め、時には戦時中に思いを馳せて見る事も「平和」を見詰め直す上で大切な事ではないだろうか・・・「戦争の現実」を知る事により「戦争の無い世の中」の有り難さ貴重な事を理解出来るのですから・・・








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「奇跡の村」のその後 人口増から人口減へ 再起に挑む下條村



   「奇跡の村」のその後 人口増から人口減へ 再起に挑む下條村

      〜ライター・庄司里紗 Yahoo! ニュース特集編集部田川基成 1/31(金) 8:55 配信〜


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 2000年代半ば、山間地の小さな村が「奇跡の村」として注目された。長野県南部の下條村だ。切っ掛けは、僅か10年で総人口の1割近い人口増を達成した事だった。
 しかし、それから10年以上が経った今、村の状況は大きく変化して居た。人口が減少に転じて居たのだ。下條村に何が起こったのか。奇跡の村のその後を追った。


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 人口4227人が10年余で1割減

 JR飯田線・飯田駅から車で南にオヨソ20分。長野県の南郡の中央に位置する下條村は、急峻な南アルプスの山間(やまあい)にある。人口は3729人(2020年1月1日現在)面積オヨソ38平方kmの小さな村だ。
 産業は農業が中心だが、ベッドタウンとしての側面もある。隣接する飯田市には精密機械の工場などがあり、飯田市に通勤する村民も多い。

 村を南北に貫く国道151号を南下すると、古民家風の建物に辿り着く。2017年10月にオープンした村営の移住体験施設「お試し住宅」だ。築60年の空き家を村が改修した。眼下には農地が点在し、その向こうには山々の稜線が幾重にも広がる。


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 長く空き家に為って居た古い商店を役場の職員と村民達で改修した「お試し住宅」(撮影:田川基成)


 「お試し住宅は、村への移住を希望する方々が村での生活を体験できるよう、最長6泊7日まで無料で利用できます。これまで県外の方を中心に、延べ35組104人が利用して居ます」

 そう話すのは、下條村の「地域おこし協力隊」として活動する宮越絵美さんだ。地域おこし協力隊は、人口減少等の地域に外部からの人材を受け入れて地域活動に従事して貰う総務省の制度である。
 宮越さんは、下條村が2年前に協力隊の募集を始めた際、その第1号に選ばれた。長野市出身で高校卒業後に大阪で働いた後、協力隊に応募した。


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   「気候も人も穏やかなのが下條村の一番の魅力」と話す宮越絵美さん(撮影:田川基成)


 「下條村を選んだ決め手は、村が先進的な取り組みで人口を増やし、奇跡の村と呼ばれるに至った経緯に惹かれたからです。自分達の手で地域を変えて行こうと云う村の姿勢に、大きな魅力を感じました」

 実際、下條村は「奇跡」と呼ばれる人口増を実現させた。1990年代初頭に3800人余りだった人口を、徹底した財政改革と少子化対策によって、2005年には約1割増の4200人を超えるまでに回復させた。
 村の合計特殊出生率は、全国平均を大きく上回り、2001年から2010年迄の10年間の平均値が2.0を超えた。山間地の小村としては異例のことで、この「奇跡」はテレビ、新聞、雑誌、書籍等、様々なメディアで取り上げられた。

 そんな下條村が昨今、移住定住政策に力を入れるのには理由があった。実は、下條村の人口は2008年以降、減少に転じて居る。ピーク時には4227人を記録した人口は、2020年1月現在、3729人に。この10年余りで約500人、実に1割以上も人が減って居たのだ。

 村の奇跡に貢献した「若者定住促進住宅」

 ソモソモ1990年代から10年間で1割の人口が増えた理由は何だったのか。総務課長の吉村善郎さんは「若い世代を対象にした住宅政策が効果的だった」と語る。

 「若い世代の移住・定住を促進する為、他自治体に先駆け、若い世帯向けの集合住宅を建設しました。これが成功し、人口が増えて行ったのです」

 下條村の総人口は1955年に約6000人だったが、1990年に4000人を割り込む迄減少した。悩んだ村が取り組んだのが若者を呼び寄せる為の住宅政策だった。1997年、若者定住促進住宅、通称「メゾンコスモス」の建設を開始した。
 メゾンコスモスは1棟12室を基本とし、各室の広さは約65平方メートルの2LDK。2台分の駐車場付きで、家賃は3万円代半ばに設定されて居た。当時、隣接する中核市、飯田市内でホボ同条件の賃貸物件の家賃が7万円前後。比べると破格の安さだった。


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 道の駅の直ぐ近くに立地する「第六メゾン」若者定住促進住宅の多くは生活に便利な場所にある(撮影:田川基成)


 但し、対象の入居者には「子育て中」や「結婚予定の若者」と条件を付けた。更に地域に積極的に関わって貰う為「消防団への加入」を義務付けた。吉村さんが言う。

 「良質なコミュニティーを築く為には、地域に溶け込む意思の有る人を優先的に受け入れる必要があったからです」

 目論みは当たり、真新しいメゾンコスモスは、周辺自治体の多くの若いファミリー世帯を惹き着けた。メゾンはオヨソ1年に1棟のペースで増え、2006年迄に10棟124戸が建設された。


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   メゾンの供給が始まった1997年から2008年迄人口は増加傾向にある(図版:ラチカ)


 建設と比例し、人口は増えて行った。メゾンへの入居で若い世代の転入数が増えた上、子供が次々と生まれた為だ。こうして下條村は「子供を産める奇跡の村」として注目されて行った。2003年に第六メゾンに入居し、2012年頃迄居住した村民の小田亜弥さん(40)は「メゾンは子育てに最高の環境だった」と振り返る。


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 「私も夫も村外の出身で、下條村に移る迄は飯田市で暮らして居たんです。第1子が生まれ新居を探して居た際、先にメゾンに入居した知人の話を聞いて移住を決めました。当時のメゾンは入居待ちが20組〜30組も出る程の人気物件でした。何よりも周りに同年代の子育て世代が沢山居たのが好かったですね」


 小田家は間も無く第2子・第3子に恵まれた。メゾンには同時期に生まれた子供が沢山居り、とても賑やかだったと云う。敷地内で誰かが遊び始めると自然と皆が集まる。夏は皆でプールや砂場を作り、日が落ちる迄子供達の声が響いた。親同士も親しく為り、家族グルミの付き合いも生まれた。小田さんは言う。

 「一人で子育てして居るのでは無く、メゾンの皆で子供達を育てて居る感覚。そう云う住民同士の関係性が、本当に素晴らしかった」

 評判が評判を呼び、メゾンへの入居者を中心に下條村の人口はジワジワと増えて行った。しかし、2006年を最後に、下條村はファミリー向けの新たなメゾンの建設を辞めた。すると、2008年の4224人をピークとして、人口は減少して行った。

 人口減はメゾンの新規着工見送りから始まった

 何故ファミリー向けのメゾンは建てられ無く為ったのか。その背景には「ライバルの出現」があった。前出の吉村さんが明かす。

 「当初は村にメゾンを建てれば直ぐ満室に為る状況でした。しかし2000年以降、周辺の自治体でも若者向け住宅が作られ、下條村以外の選択肢が増えた。すると、メゾンへの入居希望者も減って行った。格安の賃貸住宅を用意するだけでは、移住先候補としての優位性を保て無く為ったのです」
 第一メゾンが完成してから10年が経ち、築年数の古い物件には空室も目立つ様に為って居た。税金を投じて新たなメゾンを建設するのは難しく為って行った。

 メゾン建設を継続して居た10年間(1997〜2006年)とメゾン建設終了後の10年間(2007〜2016年)で比較すると、村の人口の変化が浮き彫りに為る。
 メゾン建設期には10年間で1536人の転入者がいたが、建設が終わった後の10年間の転入者は1122人と400人以上も減って居る。それに伴い出生数も低下する。2004年には59人、2005年には52人と好調だった出生数も、2016年には19人と年間20人を割り込む年も出て来た。

 人口構成も大きく変わった。メゾン建設期間の2005年と終了後の2015年を比べると「25〜29歳」「30歳〜34歳」の子育て世代が4割以上も減って居たのだ。村の総人口そのものが減って居るとは云え、子育て世代の年齢層だけが顕著に減ったのは何故なのか。原因は一戸建ての土地の不足だった。


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 メゾン建設終了の直前(2005年)に比べると、2015年は子育て世代と乳幼児が顕著に減っている(図版:ラチカ、出典:国勢調査


 家を建てる土地の少なさが若年人口の流出を招く

 前出の小田さんも住宅の購入には苦労したと話す。

 「私達も5人家族と為り、2LDKのメゾンでは手狭に鳴った為、村内に家を建てたいと考えました。処が、家を建てる為の土地が下條村の中にナカナカ見付から無かったのです」

 下條村は山間の立地で平地が少ない上、農地以外の利用が厳しく制限される「農業振興地域」が多い。住宅用の土地は極僅かに限られて居り、購入しようにも販売されて居なかったのだ。幸運にも、小田さんは2012年に売りに出された民間分譲地の1区画を購入する事が出来た。だが、こうした人は少数だった。家を求めるメゾンの家族は、結果的に周辺自治体に移ってしまった人が多かったと云う。


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 民間企業による宅地開発によって住宅が増えつつある上野原地区。下條村では元農地に若い子育て世帯が移り住み、新たな住宅街が形成されるケースも増えて居る(撮影:田川基成)



 「メゾンは賃貸住宅ですし、飽く迄も仮住まい。入居者の多くはそう考えて居て、実際に当時の仲間達は皆、一戸建てを求めてメゾンを出て行きました。共に子育てをした家族の様なコミュニティーがバラバラに為ってしまったのはトテモ残念です」

 「メゾンの後」詰まり、子供が増えた世帯が長く住み続ける為には、宅地や一戸建てが必要だった。それを用意出来無かった事が、子育て世代が流出する大きな要因と為った。
 事実、2009年から2015年迄の6年間にメゾンを退去した145世帯の内、オヨソ7割に当たる101世帯が村外に転居して居た事が分かって居る。

 こうした子育て世代の減少が出生数の減少に繋がり、更に、高齢化による死亡数増加が人口減少に追い打ちを掛けた。こうして下條村は、10年間余りでピーク時の1割以上の約500人減と云う急激な人口減に見舞われた。現在、村の人口は3729人。メゾン建設等の人口増計画の頃より少ない人口と為った。

 人口増が村にもたらした20年の猶予期間

 「奇跡の村」の移住・定住政策は失敗だったのだろうか。当時、下條村の総務課長として前村長と共に若者誘致に尽力した串原良彦さん(現・下條村教育委員会教育長)は、そうは考えて居ないと言う。

 「10年で総人口の1割近く村民を増やし、10年掛けて元の状態に戻った。と云う事は、20年間、過疎化と人口減の時計を止めたと云う事ですよ」

 村はその20年間に財政を健全化し、子育て支援を充実させ、図書館やホール等様々な公共施設を整備した。それは人口減少が続いて居たら出来なかった事だ。

 「アノ時に住宅政策で手を打た無ければ、下條村が多くの若者や子供達で溢れる事は無かったし『奇跡の村』と呼ばれる事も無かった。それは失敗では無く、大きな成果だったと言えるでしょう」

 2016年に村長に就任した金田憲治氏は、メゾン後の定住対策に付いてこう話した。

 「村も、若年世代の転出に歯止めを掛ける事が急務と判って居ました。(村長就任以降は)メゾンを出た家族が購入出来る宅地の造成を村の最優先課題として位置付け、候補地の絞り込みや調査を進めて居ます」

 村は1999年と2007年の2度、計54戸の宅地分譲を行った事がある。しかし、その数では定住ニーズに応え切れ無かった。元より村内の土地は、平坦で日当たりが好く、通学や買い物にも便利な場所と為ると限られる。そう為ると農地の宅地転用が課題と為る。
 金田村長は、耕作放棄地の宅地転用も含め「アラユル角度から土地の利活用に付いて検討して居る」とする。その一方で、それだけでは十分では無いと語る。

 「これ迄の経緯から、格安の住宅を作って人を呼び込むだけでは人を定住させる事が出来ないのも判って来た。今後は住み続けて呉れる人を増やす為に、先ず下條村の事を知り、ファンに為って貰わ無いといけ無い」

 「人を増やす」から「今の村の姿を未来に残す」へ

 そんな考えから、近年の下條村が力を入れて居るのが、冒頭の地域おこし協力隊の導入やお試し住宅の開設等の移住促進施策だ。


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 養鶏家の絹田皓士さん(34)は移住者の一人だ。京都府出身で、養鶏業を営む為2011年に下條村に隣接する阿智村に移住。2013年、下條村に移住した。現在は、南アルプスを見渡す広大な農地付き戸建てに家族5人で暮らす。

 新規就農で養鶏業を営む絹田皓士さん。狭いケージ内では無く鶏舎内で地面に放して飼う「平飼い」と呼ばれる飼育法で鶏を育てて居る(撮影:田川基成)村の好さは自分と同世代の若い農家が多い事だと絹田さんは言う。

 「阿智村に居た頃は、周りに同世代の農家が居ませんでした。でも、此処には私と同世代の30代・40代の若い農家が多いので、仕事の相談から子育ての悩みの共有まで出来る。又、下條村にはお組合と云う自治組織があって、行事や各世代の活動を通して密に繋がり、互いに助け合う文化があるんです。そう云う地域との繋がりや豊かなコミュニティーに価値を感じて居ます」

 昨年2月、村外からメゾンコスモスに入居した伊藤香理さん(31)も、下條村に住み続けたいと考える一人だ。それ迄は夫と長男と共に愛知県新城市に住んで居たが、飯田市に住む実母の介護の為、実家と夫の職場との中間地点で新居を探した。


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 メゾンコスモスに入居する伊藤香理さん。夫の諒さん、長男の颯太くんと暮らしている(撮影:田川基成)

 「決め手は、子育て支援が充実して居る事、そして地域に溶け込む事が入居条件に為って居た事です。新城市のアパートでは、殆ど近所付き合いが無く、孤独を感じながら子育てして居ました。でも、此処なら子育て中の同世代の入居者も多いし、助け合いながら育児が出来そうだと思ったのです」

 実際、下條村の生活にも直ぐに馴染み「地域密着の暮らしに満足して居る」と語る。現在は、村内に家を建てるべく土地探しを始めて居る。

 「長く住み続けるなら、矢張りマイホームは必要です。下條村での土地探しは簡単ではありませんが、今のメゾンの近くで見付かれば好いなと思って居ます。折角好い関係が築けたコミュニティーから、離れたく無いんです」


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 下條村唯一の保育所では園児111人の元気な声が響く。現在、園児は減少傾向だが、人口増加が顕著だった頃には教室が不足し、園舎を増築したと云う(撮影:田川基成)


 昨今は、自治体の枠を超え、近隣の愛知県東部の東三河、静岡県西部の遠州、長野県南部の南信州の3地域が連携する動きも活発化して居る。「人口問題には周辺地域全体で取り組んで行く」と金田村長は意気込む。


 「今の対策では、メゾンの時の様に即時的な効果は望め無いかも知れない。重要なのは、20年後・30年後にも村が今と変わらぬ姿である事。そんな未来を見据えて、粛々と目の前の課題に取り組んで行きたい」


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 下條村のアチコチには村花のコスモスが植えられて居る。旺盛に茎を伸ばす姿は、未来に向けて再起を目指す村の姿に重なる(撮影:田川基成)

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 庄司里紗(しょうじ・りさ)1974年神奈川県生まれ 大学卒業後ライターとしてインタビューを中心に雑誌、Web、書籍等で執筆 2012〜2015年の3年間フィリピン・セブ島に滞在し親子留学事業を立ち上げる。明治大学サービス創新研究所・客員研究員 公式サイト
    
 写真撮影 田川基成  図版 ラチカ

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【管理人のひとこと】

 一つの物語・或る地域の短い歴史をなぞる様な素晴らしいレポートでした。一つの自治体で為せる最大の努力をし、或る種の軌跡は成し遂げられた・・・けど、それが恒久的施策とは為らず一時だけの成功に終わった。しかし、何もせずそのママ指を咥えて見過ごして居たら、その後の反省や新たな次へのステップも思いも着かず、増してやその様な意思・遣る気持ちも生まれては来なかったでしょう。
 何かを遣る事でプラスもマイナスも生まれ、マイナスを補いプラスを伸ばす・・・それしか方法は無いのですから、下条村の為した実績は、その後の村の生き方を考える上でも、成功の実績は村民全員の記憶の中に強く残るでしょう。それは、村の大きなレガシー・遺産・財産と為って子々孫々に伝えられます。
 今後は、小さな単位での孤軍奮闘に終わる事の無い、もう少し広域的・国政を交えた時間的・全地域的な大きな視点からの政策が必要なのでしょう。国からの上から落ちて来る政策は、大きな山や森や林を見ている感覚で、一本一本の木々や枝々に葉っぱを見詰めて育てる現場との連携によって立派なものへと為って育つのです。各自治体が諦めずに中央政府に働き掛け無ければ、この問題は一歩も先へとは進まないのですから。








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34歳女性首相を生んだフィンランドに女性管理職が多い理由




  




 34歳女性首相を生んだフィンランドに女性管理職が多い理由

            〜webマガジン mi-mollet 1/30(木) 8:00配信〜


 昨年末に史上最年少の女性首相が誕生したフィンランド。女性が、それも34歳の若さで国のトップに為った事は、世界中で話題を浚いました。今回お話を伺ったのは、その国で5年間を過ごし、現在はフィンランド大使館の広報を担当される堀内都喜子さん
 著書『フィンランド人はなぜ午後4時に仕事が終わるのか』は、そのタイトル通り午後4時に終わり、一ヶ月の夏休みを過ごすフィンランドの暮らしや働き方に付いて書かれた本。女性だってモッと働きたいしモッと休みたい・・・日本人が憧れるワークライフバランス実現の裏には、どんな考え方があるのでしょうか?

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 堀内都喜子 長野県生まれ 大学卒業後 日本語教師等を経てフィンランド・ユヴァスキュラ大学大学院に留学 異文化コミュニケーションを学び修士号を取得。フィンランド大使館広報部に勤務しつつ、フリーライターとしても活動中

 フィンランドに行って自分の年齢や性別を意識し無く為った

 大学時代の交換留学で行った中国で、同じ寮に住むフィンランド人と友人に為った堀内さん。初めて訪れた北欧は美しい夏の季節。サウナに呼ばれ、湖に飛び込み森でブルーベリーを摘み「フィンランドでは、夏休みは一ヶ月」と云う驚きの事実を知ります。
 その後、当地の大学院に留学し過ごした5年間で、最も変わったのは「年齢や性別と云うものを、ドンドン気にし無く為って行った事」

 「私の実家は長野の田舎街で自営業をして居ました。フィンランドに行く以前は、学校を卒業したら就職し、30歳位迄にお婿さんを取って家業を継ぎ・・・と、小さい頃から親に言われて来たママの人生をイメージして居たんです。だから、留学した自分に少し罪悪感が有ったんですよね。友達の中には『20歳半ばを過ぎて未だ働いて居ないの?』と云う厳しい人も居たし(笑)」

 フィンランドでは、女性が家庭もキャリアも持つのは至って普通の事だし、他人の結婚や年齢に付いて物申して来る人も余り居ません。「年齢や性別に限らず、遣りたい事があるなら勉強すれば好い」と云う感覚も当たり前で、大学には20代から50代迄幅広い年齢層の生徒が居たそうです。

 「女性だから・何歳だからと云う考えは一気に吹っ飛びました。自分に対しても他人に対しても『決められたレールを外れて生きても好いんじゃない?』と思える様に為りましたね」

 東京に戻ったのは、フィンランド系企業の日本支社で「働かないか」と声を掛けられたから。処が、外資系とは云え日本人が99%の会社で、その文化の違いには衝撃を受けたと云います。

 「エンジニアリング系の会社で男性社員が多く、女性はアシスタントと云う感覚があって。私はマーケティングの職で入ったのですが、何か意見を言うと『え?アシスタントが?』みたいな空気に為るんですよ。アシスタント・アシスタントと言われ続けて居ると、その内にコチラもでしゃばっちゃいけ無いと云う気がして来るし。
 年配の男性社員と一緒に出張に行った翌朝『夜はどうだったの〜?』と言われたり、クライアントの担当者に『何歳?』『結婚してるの?』何て聞かれたりした事も。皆さん悪気は無いんですよ、でも最初は本当に悩みましたね」


 ちなみに、堀内さんは今の職場で、自身の家族構成等を尋ねられた事すら無いそうです。勿論そう云う話題に為って自分から触れる事はありますが、それ以上に踏み込まれる事はありません。 

 スルーされ無い社内レクリエーション

 著書に書かれて居るフィンランドの会社文化で面白いなと思ったのは、何だか「昭和の日本」に何処か似て居る事です。
 例えば勤務時間中に始まるエクササイズは、古式ゆかしいラジオ体操の時間の様だし、社員が仕切るボーリング大会等のレクリエーションやサウナでの裸の付き合いも、似た匂いがする様な・・・日本では平成の頃には「苦痛」に為ったこうした会社文化が、フィンランドでは何故機能して居るのでしょうか。

  「社内の様々な関係性が、オープンで対等で同時に個人の意思が尊重されて居るからでしょうか。フィンランドの会社の上司と部下の関係は、上下関係では無く基本的に対等なんです。普段から或る程度、言いたい事を言い合えるし、上が命令し下は従うのみと云う関係では無いから、一緒に過ごす事が苦痛じゃ無いんですよね。
 交流はプライベートを邪魔し無い様夜の飲み会で無く、ランチやコーヒーブレイク等の勤務時間内。レクリエーションも休日で無く、勤務日に遣ります。勿論、どれも参加したく無ければし無くても構わ無いし、それをトヤカク言われる事もありません。本当の意味で、本人の意思で決められるのが好いんでしょうね」

 仕事の「効率」に関する考え方も随分違う様です。

 「日本では『長時間労働=仕事を遣って居る』と云う見方も有る様ですが『効率的に働くには心身の健康が最重要』と考えるフィンランドでは『長時間労働=非効率的』上司が唯一部下を管理して居るとすれば、それは彼等の心身の健康に気を配る事。
 そうで無いとサステナブルに働く事なんて出来ないし、環境が悪ければフィンランド人はサッサと辞めてしまうので、好い人材を確保出来ません」


 こうしたワークライフバランスの考え方は、アラユル業種・職種に徹底されて居ます。そうは云ってもお医者さんは、そうは云っても学校の先生は、と云う例外はありません。

 「勿論不便な事もありますよ。でもスーパーが日曜休業と分かって居たら、それ以外の日に買えば好いし、医療従事者も夏休みを取るのだから、緊急以外の検診等はそれ以外の季節に予約すれば好い。日本の様に『何時でも、何処でも、何でも』と云う生活は便利ですが、そこ迄便利じゃ無くても生きて行けますから。自分だってユックリお休みを取りたいのだから、そこはお互い様と思わないと」

 レジ打ちの女の子が教育を受けて首相に為れる国

 昨年末は、史上最年少34歳の女性サンナ・マリンさんが首相に為った事も話題のフィンランドですが、実は女性の首相は既に3人目。現在は国会議員の46%が女性で、連立政権に参加する党の党首は、首相の党以外は全てが女性で内3人が30代前半です。

 「彼女が首相に為った事に、性別は何の影響もして居ないと思います。ソモソモ彼女は、ココ数年党のナンバー2だったので、自然の成り行きと云う感じ。寧ろフィンランド人は、世界から注目が集まった事を驚いて居ます。
 普段は『この国ってEUだったっけ?』と云う扱いのフランスが、今や『フィンランドの女性首相の話題で持ち切り!』だと聞き喜んでましたね(笑)。只フィンランドが推し進めて来た【男女平等】を、世界に実証出来た、それを誇らしく思っては居ますね。勿論彼女には、国内に山積みの問題を解決し、頑張って呉れる事の方が大事ですが」


 若くて優秀な女性達が国のトップに並ぶ事に、恐怖を感じて居る男性が居る事も否定は出来無い、と堀内さん。でもそれを人前で口にすれば、周囲は「何と云う時代錯誤」と眉を顰める。そうした社会的なコンセンサスが出来て居ると云います。

  「エストニアの内相が『レジ係が首相に為った』と発言して居ましたよね。それに対し、首相自身はツイッターで『フィンランドの事を凄く誇りに思う、何故ならレジ打ちの女の子が教育を受けて首相に迄為れるのだから』と応じて居ました。
 フィンランド人が大事に思って居るのは正にココ。彼女は、同性カップルを両親に持ち、貧困と云うマイナス環境にも打ち勝って此処迄来た訳で、それは福祉や教育が公正に為されて居ると云う事なんです。日本メディアの中には<美人><若い>と云う点ばかり言及する処もありますが、フィンランド人からすると『は?』と云う感じだと思いますよ」


 「与えられたチャンスを必ずモノにする」フィンランドの女性達

 労働人口が減り続け「女性がモッと活用されるべき」と言われて久しい日本。フィンランドの有り方に学ぶ処はとても大きい様に思います。

 「『社会の平等と公正を守ら無ければいけ無い』と云う意識が高いのは、人口が少ないから。一人ひとりの力を底上げし集結し無ければ、国の繁栄は有りえません。人口が少ないからフットワークが軽い、変え易いと云う部分もありますよね。
 でも同時に、行動に移す力、チャレンジする意思は凄く有るし、上手く行か無ければ又別の遣り方を試せば好いと云う、失敗に対する社会の寛容さもあります。元々貧しい国だったから、メンツの様な変な拘りも無く、まとまる事が出来るのかも知れません」


 勿論そうした変化には、社会だけで無く個人の意識も大きく影響して居ます。両国の女性の有り方を見て来た堀内さんが日本人女性に感じるのは「女性だから」「妻だから」「母親だから」と云う役割に強く縛られ、そこから自由に為れ無いメンタリティだと云います。

 「私は仕事の時でも、普通にノーメイクな事もあるんですが、日本の友達に『信じられ無い、それって失礼だよ』と言われる事も、誰に対して失礼なの?と思うんですが(笑)
 勿論、楽しみとしての化粧はフィンランド人もするんですよ。でも、それも自分のしたい様にすれば好いんじゃ無い?って。女性だからキレイに、妻だから仕事も家事もチャンと、母親だから子供の為にアレモコレも・・・日本人女性には遣らナキャと思うものが余りに多過ぎるし、同時にそれを他者にも強いる様な視線があるんですよね。『なんでアノ人アアなの?』何て言って、モッと楽に為れば好いのになと思います」

 フィンランドを訪れた或る日本企業の女性幹部候補生が「男女平等を実現するにはどうしたら好いですか?」と尋ねると、当地の女性の答えは「与えられたチャンスを必ずモノにする事」だったらしい。
 最近話題のインポスター症候群(自分の評価や成功を内面的に肯定出来ず、自分はそれに対し無いと過小評価する傾向)は、只社会や環境に刷り込まれたものかも知れないと、堀内さんは考えて居る。


 「フィンランドでは、学校の成績は女性の方が男性より遥かに良いと云う統計も出て居て、女性が男性より劣ってるとはソモソモ思って居ません。私が通って居た大学の女性学長は、好く言われる女性は理系が苦手と云うのも、母親が繰り返す数学が苦手と云う言葉が刷り込まれてしまうのだと言って居ました。もし母親が『ITやエンジニアリング等の幅広い分野にも進める』と勇気付ければ、娘はスンナリとソチラに進んで行けると。
 実はフィンランド人は男女共に褒められる事が苦手で、持ち上げられると『……』と為ってしまうんです(笑)でも仕事上のポジションをオファーされて『嫌、私ごときが』何て事を言う人は居ません。チャンスはキャリアを認められた人にしか訪れ無いものだし、遣れるかどうかは遣ってみないと判らない。
 只自信を持って引き受ける為には、環境を整える事も大事ですよね。仕事に24時間捧げるべきと云う今の状況では、オファーされても『それはチョット…』と思ってしまうのは当たり前。そこを変えて行く事は、日本の社会全体の幸せの為にも好い事なんじゃないかなと思います」


 <書籍紹介>>『フィンランド人はなぜ午後4時に仕事が終わるのか』 堀内 都喜子 著 ポプラ社

 世界最年少34歳の女性首相誕生で注目のフィンランド! 有休消化100%、1人当たりのGDP日本の1.25倍、在宅勤務3割、夏休みは1カ月。2年連続で幸福度1位と為ったフィンランドは、仕事も休みも大切にする。ヘルシンキ市は、ヨーロッパのシリコンバレーと呼ばれる一方で、2019年にワークライフバランスで世界1位と為った。
 効率好く働く為にも確り休むフィンランド人は、仕事も、家庭も、趣味も、勉強も、何にでも貪欲。でも、睡眠は7時間半以上。遣りたい事を遣りつつも「ゆとり」のあるフィンランド流の働き方&生き方の秘訣を紐解きます。


 取材・文 渥美志保  撮影・構成/川端里恵(編集部) 渥美 志保    以上









 【管理人のひとこと】

 色々な政治・経済の国際的指標で、フィンランドはトップか、又はそれに近い常に上位に位置して居る理想的な国家の一つに挙げられる。北欧の代表的先進的国家なのだろう。現在まで3代もの女性首相が現れる女性が活躍する国でもある。この文章では以前は貧しい国だった・・・と、あるが、どの様にして豊かな国に為ったのかが一番に興味が湧く。

 恐らく、人口が少ない小規模な国家だから、一人が数人分の仕事を熟すことが自然に求められた結果、男女を問わず働き、その為の社会制度を整えて行く・・・その熱意と努力が在りその結果、生産性の高いものが生き残って行く・・・それが、経済的効率・政治的効率の高い今のフィンランドに為ったのではなかろうかと推測する。
 半面我が国は、遂最近までは女性の殆どが専業主婦であったり、外に働きに出ても短時間のパートが主で、貰う所得も限られて居た。最近のデフレの状況に為って「共働き」が普通の状況に為ったが、結婚もせず働く女性は限られた存在だった訳だ。人口の多かった我が国には、外に出て働くのは、一家の主人であった男の専業で、それで国も廻って居たのだ。決してその当時は、豊かで贅沢な生活は出来なかったにしろ、現在よりは夢も希望もある生活だった様に記憶する。

 今では生産性で指摘されると先進国で最低のランクに位置する程貧しい国に為ったのだが、国・政治が昔のママの「世界の経済大国」との認識に囚われ、現状を真剣に見詰めて居ない・・・意識の変革が出来ない人達が政治をコントロールし続ける不幸が続いて居る。
 そこには、現実や国民の見詰める視線と、為政者の視線が交わらぬ不幸が存在する。そして、それを知ら無いのがその為政者を選択してしまう多くの国民の存在だ。「俺は何も知ら無いし努力も嫌いだ。けど、国民が選択したのだから・・・」と為政者はナンの学習もせず努力もしない。詰まら無い失策を繰り返すだけだが、多くの国民は「他に人も居ないから・・・」と薄ら笑いを浮かべて見逃し見過ごして済まそうとする。
 ジリジリと世界から取り残されて行く、この様な国に、世界中の神様が仮に出雲に集まっても、どの様なご利益を授けようと考えるだろうか。自業自得だと突き放されるだけだ。どうすべきかは、先ずは己から、自分から変わら無くては人から言われても変われ無い。現状を正確に分析し理解するには、このブログの様な色々なものから、他から刺激を貰わ無くては為ら無い。

 政治の失策を笑うのでは無く、政府のこの様な素晴らしい政策で我が国は心から豊かな国に為った・・・と心底政治を称える国にするのは、偏に私達国民の責務でもある。







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