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2019年08月10日

N国党台頭で話題沸騰する「NHK受信料」の現実



 N国党台頭で話題沸騰する

 「NHK受信料」の現実



           〜東洋経済オンライン 8/10(土) 8:20配信〜


 



  
 「放送の独立性」と「負担の公共性」と云う2つの観点で考える必要がある

 今年7月に行われた参院選では、新興勢力である「NHKから国民を守る党」(「N国党」)が議席を獲得したことが大いに話題と為った。N国党は、自身もNHKに過つて在籍して居た立花孝志氏が率いる政党だ。公然とNHKを批判するその姿は、従来の政党とは違って一風変わったイメージを与えた。
 有ろうことか、NHKの政見放送で「NHKをブッ壊す」と叫ぶ姿は、瞬く間にインターネットを中心に話題を集めて行った。同党は既に国政だけでは無く、4月に行われた統一地方選においても、首都圏や関西のベッドタウンを中心に26人が当選して居り、改選前の既存議員と合わせると、地方議員における勢力も39人迄拡大して居る。次回の衆院選でも更に勢力を拡大する見通しが強い。

 その政策は極めてシンプルで、一律強制でNHKに受信料を支払うのは不当であるとして、放送スクランブル化を訴えて居る。これが実現されれば、受信料を支払った人のみが視聴する事が出来、NHKを見たく無い人は受信料を支払わ無くても好いと云う事に為る。WOWOWやスカパー! の様な有料放送と同じ仕組みと為る訳だ。
 この風変わりなシングル・イシュー政党が支持を集めて居る背景には何があるのだろうか。公共放送の有り方と云うものに着いて改めて振り返ってみたい。


 




 NHKの受信料制度・・・放送法64条の意義とは? 

 大前提として、公共放送の財源をどう確保するかと云うのは「放送の独立性」と「負担の公共性」と云う2つの観点のバランスをどう取るかで決定されると言って好いだろう。
 公共放送は、時の政府や政権に阿る事無く不偏不党を貫いて真実を放送する事がとても重要だ。この観点を重要視すれば、税金やスポンサーの広告料に依存し無い事が望ましいと言える。他方で、公共料金を財源とする以上、国民間の負担は公平である事が望ましい。
 この点を強調する事に為れば、税金による運営や罰則を設けて支払いの強制力を高める事と為る。支払った者が損をする様な仕組みでは国民の支持は得られ無いからだ。皆で平等に公共放送を支える事で公平感は担保される。

 それでは、現状のNHKの受信料制度はどの様な仕組みに為って居るのだろうか。放送法64条1項は「協会の放送を受信する事の出来る受信設備を設置した者は、協会とその放送の受信に着いての契約をし無ければ為ら無い」と規定して居る。詰まり、受信設備であるテレビを設置した場合には、NHKと受信契約を結ぶ事が法律上義務付けられて居るのだ。

 民法には、両当事者双方の合意が在って契約が成立すると云う、契約自由の原則があるが、当事者の意思無く契約を成立させる放送法64条1項の規定はこの原則の例外と為る。そこで、こうした契約締結を強制する様な条項がソモソモ憲法に反して居ないのか。こうした問題を正面から議論したのが平成29(2017)年の最高裁判決だった。
 この裁判において最高裁は、放送法64条1項は適正・公平な受信料徴収の為に必要な内容の受信契約の締結を強制する旨を定めたものとして、憲法の規定に違反するものでは無いと判示した。公共放送を維持する為には契約自由の原則の例外も許容した事に為る。

 他方で、放送法が具体的に契約を成立させる方法に着いて定めて居ない事等を理由に、受信契約の成立には、原則として双方の意思表示が合致する事が必要であると述べた。法律上の義務があったとしても、一方的なNHKからの申し込みだけで契約が締結される事は無いと云う訳だ。
 とは言え、全員が素直に「ハイ、そうですか」と納得して契約締結に応じて呉れる訳は無い。そうした場合に備えて、裁判所は、契約締結を拒絶して居る者に対しては、民法上の規定に従い、裁判をもって利用者の意思表示とすると云う形で契約締結させる事が出来ると示して居る。


 




 合憲であり有効だが・・・誠実な協議による合意が必要

 可なり複雑な構成ではあるが、以上をまとめると以下の様に為る。

 放送法64条1項の強制契約締結義務自体は合憲であり有効。しかし、その場合でもNHKは受信者と誠実に協議し合意によって契約を締結する必要がある。もしそれでも受信設備を設置して居るのに、契約を締結しない者が居た場合は、裁判を起こして判決を勝ち取れば契約を成立させる事が出来ると云う訳だ。

 実際には、不払いの受信者全員に対して訴訟を提起して判決によっ契約締結に変えて行くのはおよそ現実的では無い。法律上の契約強制締結義務と言っても、こうして観ると放送法64条によってもNHKは強大な権限を持って居ると迄は言え無い。この事は、NHKが受信者の理解を得て業務を遂行して行く事業体である事を考えると、最高裁の判断は穏当なものと言えるだろう。

 海外の制度を見てみると、例えばドイツでは、全世帯と事業所が支払い義務を負う放送負担金を公共放送の主な財源として居る。テレビを持って居るかどうかに関わらず、公共放送の運転資金を国民全体で公平に負担すべきであると云う考えに基づいて居る訳だ。
 又、イギリスでは、BBC(英国放送協会)の受信料制度の法的拘束力は日本よりも強く支払わ無いと罰金を課せられる。更に、フランスやイタリア等では、国営放送として税金で運営して居る。

 こうした国と比較した場合、NHKは飽く迄任意の受信契約を下に運営して居る以上、放送の独立性は高い水準で確保される仕組みと為って居ると言えるだろう。他方で、受信契約の締結・受信料の支払いを拒絶する事が事実上可能と為って居る為、国民間における負担の公平性と云う意味では、幅のある緩やかな制度と為って居る。

 それでも、直近のNHKの決算発表によれば、平成30年度の受信料収入は、7122億円と過去最高額に達して居る。支払い率についても、2004年のプロデューサー制作費着服に端を発した不祥事の際には70%程度迄下落したものの、近年では大分盛り返して居り、過去最高の81.2%にまで達して居る。表面上は、国民の多数が現行の受信料制度を支持して居ると言えるだろう。


 




 近年相次ぐ受信料を巡る裁判例
 
 そうであるとすれば、何故今「NHKをぶっ壊す」と云うテーゼが票を集める事が出来るのだろうか。その一つの理由として、情報社会の複雑化に伴う情報獲得手段の多様化が背景にあると考えられる。

 今年3月には、ワンセグ放送を受信出来る携帯電話を持って居れば、NHKの受信料契約は必要と云う判決が出た。携帯電話を「携帯」する事が受信設備の「設置」に当たるのか。言葉の自然な意味を考えると可なり微妙ではあるが、東京地裁はこれが受信設備の設置に当たると判断し、最高裁が上告不受理をした為この判決が確定して居る。
 更に、今年5月には、テレビ放送が見られるカーナビでも受信契約が必要と云う判断が東京地裁で下された。放送法64条1項但書には「放送の受信を目的としない受信設備」に付いては、受信契約を結ぶ必要が無いとして居る為、カーナビが当て嵌まるかどうかが争われた。

 この点に付き東京地裁は、放送の受信を目的として居るかどうかは利用者の主観では無く、客観的・外形的に判断するのが相当だとして、カーナビは「放送の受信を目的としない受信設備」には該当し無いと判示して居る。
 こうした判断には、疑問を持つ人は少なく無いだろう。携帯電話やカーナビ購入者の殆どは通話や道案内の為に買うのであって、テレビを見る事を主目的として居る訳では無いからだ。仮に携帯電話やカーナビが偶々テレビ放送を受信出来る機能を備えて居たとしても、飽く迄それは副次的なものでしか無い。
 テレビを持って居らず、NHKを見て居る訳でも無いのに、携帯電話やカーナビを購入したからと言って受信料の支払いを強制されれば、NHK受信料制度に対する国民の不満・不信が募るのは自然な事だろう。

 放送法が成立したのは昭和25(1950)年の事だ。当時と令和の今とを比較すると、社会の様相が大きく変わって居り、人々の情報に対する接し方も大きく変化を遂げて居る。新聞やテレビ、ラジオと云ったマスメディアが無くてはおよそ情報を得る事が出来無かった時代に比べ、現代では、インターネットやスマートフォンを活用する事で、政治経済のニュースや災害情報等の様々な情報にアクセスする事も極めて容易に為って来て居る。
 こうした社会構造の変化を考慮してみると、将来的にはN国党の政策が今以上に人々の支持を集める事が無いとは言い切れ無い。増してや、今年度中にはNHKのインターネット同時配信を開始する事が予定されて居り、今年5月にはその為に必要な放送法の改正も行われた。

 現時点では、NHKの受信契約者がネットでも視聴する事が出来る様にするとの事だが、インターネットで全てのNHK放送作品が視聴出来る様に為り、テレビと云う受信設備が不要と為って行く場合においても、現行の受信料制度をそのママ維持するのかどうか、議論が高まって行く事が予想される。
 インターネットに接続されるパソコンやスマートフォンに掛かる受信契約をどうするのかと云う論点は避けられ無いからだ。

 同時配信が完全実施された場合における徴収実務の煩雑さを考えると、今後の受信料制度が向かう方向性は2つあると考えられる。
 1つは、負担の公平性を重視して、ドイツの様に受信設備の有無に関わらず広く公共の負担を求める法制度に変える方向性。もう1つは、N国党が主張する形の、放送スクランブル化を行って受信契約者のみが視聴出来る有料放送化の方向だ。

 後者の方向に進んだ場合は、契約者数減少によりNHKの財政基盤は悪化し、結果として放送作品の質の低下は免れ無いだろう。今後益々放送の国際化が進む中、世界の放送局と伍して行くにはマイナス材料と為り得る。個人的には、充実したサービスが提供されるのであれば、公共放送の社会的意義に鑑みても、ドイツ方式の公益負担制度に切り替える事に賛同したい。


 




 国民の理解を得る為の改革は避けられ無い

 但し、その場合にはNHKとしても国民の理解を得る為の改革は避けられ無いだろう。放送内容の充実化、公共性の更なる強化は勿論の事、同時配信・見逃し配信のみ為らず過去放送作品のオンデマンド提供等、より一層のサービス拡充を図る事によって、真に「豊かで、且つ、良い放送番組」(放送法81条1項)を提供し、放送法の趣旨に適った国民の支持を確かなものとする事が不可欠であると考える。

 更には、N国党の支持が広がっている背景として「NHK職員が既得権益を享受する特権階級なのではないか」と云う心情的な部分も大きいと思われる。NHK自身が経費や職員待遇の見直し等を行って、国民に理解し愛されるNHKを目指さ無ければ、N国党の主張に世論が傾く事も十分有り得るだろう。
 又、NHKの受信料徴収員とのトラブルに付いては、年間1万件近く消費生活センターに相談があり、強引な徴収方法に付いては批判も根強い。

 最後に、イギリスのBBCは王立憲章(ロイヤル・チャーター)と云う免許によって営業権が認められて居るが、一定期間で更新する制度を取って居る。NHKも同様に10年等一定の期間を設けて、事業免許の更新タイミングで都度国民が納得する様に制度を見直して行く形も検討に値する。


 田上 嘉一 弁護士 弁護士ドットコム取締役  以上


 



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消え行く「陸軍中野学校」の跡と記憶 「結局は駒」と卒業生は語った



  消え行く「陸軍中野学校」の跡と記憶

 「結局は駒」と卒業生は語った


      〜神戸新聞社 Yahoo!ニュース 特集編集部 7/8(月) 9:02 配信〜


 





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 〜21階建ての複合ビル「中野セントラルパークサウス」は、東京のJR中野駅を見下ろす様に立って居る。北隣の親水公園では家族連れが遊び、西側には私立大学のビル型キャンパスが並ぶ。
 タワーマンションや中野区役所庁舎の移転等も計画され、駅北口周辺は変化が著しい。昔ながらの街並みの雰囲気が薄れ行く中、戦時中、その一角に存在した「陸軍中野学校」の記憶もまた消え掛かって居る。日本軍制史上唯一とされる秘密戦要員の養成機関。そこに所属し、戦後を生き抜いた96歳の思いとは〜



 突然の面接「長机の上に何があった?」

 兵庫県明石市に住む井登慧(いと・さとし)さん(96)は、アノ「面接」を今も好く覚えて居る。1944(昭和19)年7月。騎兵部隊の将校を養成する陸軍騎兵学校(千葉県船橋市)の会議室に、即席の面接会場が出来た。日本敗戦の1年程前の事である。米軍を相手に日本は守勢に回り、本土防衛の生命線とされたサイパン島もこの月に陥落。戦況は日に日に悪化して居た。
 21歳だった井登さんが会議室に入ると、部屋の真ん中に、背もたれの無い丸椅子がポツンと置いてあった。促され正面を向いて座る。長机越しに、面識の無い4、5人の将校が居た。無表情のママ視線を投げて来る。

 「後ろを向け」

 命令に従い、井登さんは体を180度回転させた。同校を間も無く卒業すると云う時に、上官に呼び出され、この不可思議な面接を受ける。何の目的なのか、将校は誰なのか。説明は一切無く、不安ばかりが募(つの)った。

 合図があり井登さんが向き直ると、将校の一人が口を開いた。「この長机の上に、何が置いて在ったか」思いもしない質問だった。見ると、雑然と置かれて居た小物が、綺麗に片付けられて居る。灰皿、万年筆、たばこ・・・井登さんは懸命に記憶を辿り五つ程挙げた。「好し、帰って宜しい」それで面接は終わった。
 この年の9月、井登さんは旧満州(現・中国北東部)に居た所属部隊への復帰予定を覆(くつがえ)され、静岡県の二俣に在った「東部33部隊」と云う聞き慣れ無い組織に配属と為った。士官学校や工兵学校等で同じ様な〈試験〉を受けた見習士官が集められて居た。その数、約230人だったと云う。


 




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「正規軍の将校では無く、秘密戦士に為って貰う」
 
 幹部からそう告げられたと云う井登さん。東部33部隊はカムフラージュの為の通称で、正式名称は「陸軍中野学校二俣分校」自分達は分校の1期生だと現地で初めて知る。陸軍内部でも一部しか存在を知ら無い組織。井登さんの「中野学校」はそうヤッテ始まった。

 戦時中に「死ぬな、生き延びろ」の教え

「謀略」「潜行」「破壊」独特のカリキュラムによる3カ月の教育が始まった。或る日の行軍中、川を渡り終えた所で教官が突然足を止めた。矢継ぎ早に質問を浴びせて来る。「橋の長さは?」「川の水深は?」「どの位の爆薬があれば橋を壊せるか?」井登さんは「私生活を含め、全てにおいて気が抜け無かった」と振り返る。
 1週間程農家に下宿し、鍬(くわ)を担いで農作業を手伝った事もある。変装して敵地に潜入する想定の訓練だった。教官の助言も又独特だったと云う。「芸者遊びをした事が無い者は役に立た無いぞ」「軍隊要務の典範令では無く、マルクスの資本論を読め」最も印象に残って居るのは「戦陣訓」の否定だった。


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              二俣分校の跡地(浜松)


 井登さんが言う。「騎兵学校迄は、捕虜に為るなら死ね。最後は突撃だとスリ込まれて来た訳ですね。それが、中野学校では『兎に角死ぬな。任務を重んじて生き延びろ』と。兵士一人一人の力は大きくて、例え捕虜に為ったとしても、敵にデマを流したり情報を取って味方に伝えたり出来ると言うんです」

 将校としての心構えを叩き込まれて来た井登さん等は、戸惑い憤慨(ふんがい)した。20〜30人が集まり、教官に直談判もした。「秘密戦がどうこう言われても難しくて分から無い、早く第一線に送って欲しい」血気盛んな見習士官の訴えにも教官は全く動じず「難しいと分かるだけでも優秀だ。ここでミッチリ学べば、絶対に好く為る」と語ったと云う。

 この記憶が戦後、井登さんに蘇って来たのは1974(昭和49)年の事だ。あの時の直訴に加わった人物に世界中の注目が集まった為だ。その名は「小野田寛郎」


 




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「最後の日本兵」も中野学校出

 小野田さん(故人)はその年、フィリピンのルバング島で人前に現れ〈投降〉した。軍刀を渡し敬礼をする小柄な日本人兵士。「最後の日本兵」と形容された姿は、経済大国に伸し上がった日本の人々を驚かせた。敗戦から30年近くもフィリピンのジャングルでゲリラ戦を続けて居たからである。

 和歌山県出身の小野田さんは旧制中学校を卒業後、商社勤務を経て陸軍に入り、井登さんと同じ中野学校二俣分校の1期生として3カ月間の特殊訓練を受けた。1944(昭和19)年12月、フィリピンに派遣され、ルパング島で米軍に抗戦。敗戦を迎えても「任務解除の命令が無い」として、1974年迄ジャングルに留まって居たのだ。その間、小野田さんはレーダー施設を攻撃する等抵抗を続けたと云う。

 井登さんは振り返る。「小野田の行為は『兎に角生き延びて、最後の1人に為るまで戦い続けろ』と云う中野学校の教育そのものなんです。演習でも何でも、兎に角真面目に取り組む男でしたから『アノ小野田なら』と思いましたね」


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 小野田さんの帰国によって、戦後も秘匿されていた中野学校の存在にスポットが当たる様に為った。「中野は語らず」と胸中に秘めて居た出身者も、その実態を少しずつ明かす様に為って行く。

 「何時迄も秘密のベールに包み秘して置く事は、ともすれば世上一般の異常な興味と好奇心をソソリ、誤った事実の下に色々な憶測が行なわれ、無責任な流説が横行する原因にも為りました」

 中野学校出身者等が編んだ「陸軍中野学校」の冒頭にはそう記されて居る。小野田さんの帰国から4年後の1978(昭和53)年。この〈正史〉は世に出た。2部構成で、9編70章、計900ページにも及ぶ大著だ。
 それによると、陸軍中野学校の前身と為る「防諜研究所」は、日中戦争開始翌年の1938(昭和13)年、東京・九段で発足した。欧米列強に遅れを取る情報戦に対応する為で、翌年には「後方勤務要員養成所」に改組。更に1940(昭和15)年には東京・中野に移転し、その地名から「陸軍中野学校」と改称された。当初は少数精鋭で、外国語教育等カリキュラムも充実し、スパイ養成の側面も色濃かった。

 1941(昭和16)年に太平洋戦争が勃発すると、連合国側との比較で物量の劣勢が明確に為り、情報戦の重要度が下がって行く。その為、中野学校の方針もゲリラ戦要員の育成へと転換したと云う。ゲリラ戦指揮官の短期集中教育に特化した二俣分校はその象徴的な存在だった。

 この本は市販されず、関係者のみに配布された。その〈内輪感〉も手伝ってか、出身者一人一人の実名や配属先等が詳細に記されて居る。一方、当人が頑なに拒んだのか、僅か乍ら匿名の箇所がある。「離島残置工作員」の項目もその一つ。
 この工作員は、米軍の本土上陸に備え、島民によるゲリラ戦を指揮する為に配置された。南西諸島や本土周辺の離島に潜入したのは11人。その内10人は実名だが、沖縄県久米島に配属された1人は「T少尉」と記されている。兵庫県出身の故・竹川実さんである。竹川さんはどんな任務を背負い、戦後はどんな人生を送ったのだろうか。


 




 虚仮の半生 「悔やまれます」

 1945(昭和20)年1月頃、沖縄本島から西に約100キロ離れた久米島に、本土から男性が遣って来た。スラリとした姿で「上原敏雄」と名乗り、国民学校の教壇に立つ。一方では、警防団(空襲等に対する住民の自衛組織)の幹部に為り、地元に溶け込んで居たと云う。
 久米島の住民調査によると、この「上原先生」が竹川さんだった。井登さんや小野田さんと同じ中野学校二俣分校の1期生。教員養成の「師範学校」卒業と云う経歴を生かし、偽名で子供達の教師と為った一方、住民等の動向を探り、戦闘時の斬り込み計画の立案に関わって居た。結局、久米島で大規模な戦闘は無かった。

 島で敗戦を迎えた竹川さんは「上原敏雄」と名乗ったママ教員を続けた。小野田さんの様に任務続行の為に留まったのか、島への愛着や後ろめたさからだったのかは分から無い。親しく為った女性と同居し、住民には島に骨を埋める覚悟だと映った。
 敗戦翌年の1946(昭和21)年3月、工作員だった事が米軍に発覚した。竹川さんは、沖縄本島の収容施設に送られ二度と久米島に戻ら無かった。同年11月に本土へ帰った後、神戸で教員を務め小学校の校長として定年を迎えて居る。家族によると、1991年に68歳で亡く為るまで、工作員の経験を明かす事は無かったと云う。

 当時の心境を伺わせるのは、師範学校卒業30年の記念冊子だ。多くの卒業生が、戦中・戦後を努めて前向きに振り返る手記を寄せる中、竹川さんの書き振りは異様とも映る。

 「沖縄での敗戦や収容生活の記憶が強烈過ぎて、その後、一体何をして来たのだろうかと影薄く、何かに奪われてしまった様な30年とさえ思われます」「この30年は虚仮(こけ)の半生だったと悔やまれます」

 竹川実さんが戦争体験への思いを綴った記念冊子。文章の横に家族写真が添えてある。「虚仮」とは「真実で無い」の意味だ。竹川さんは神戸で教員として再出発した後、結婚し、2人の子供にも恵まれた。その個人史を否定する程、工作員の日々は心に深い傷を残したのだろうか。
 長女(64)等家族が「父の経歴」を正確に知ったのは竹川さんの他界後である。久米島の住民による戦時調査によって、家族は「上原敏雄だった竹川実」の真実に接した。長女は父の心情を推し量り、取材にこう語った。

 「父は、戦争に行きたくて行った訳でも、工作員に為りたくて為った訳でも無かった筈です。久米島だって、命令で派遣されただけ。それなのに、心の傷を一人で抱え続けて最後迄打ち明けられずに亡くなったんですね」

 防諜研究所、後方勤務要員養成所時代も含め「陸軍中野学校」は、敗戦迄の8年間しか存在しなかった。戦後は既に70年以上。その痕跡は容易に手に出来無い。中野の本校跡には、茂みに隠れた小さな石碑が残るだけだ。
 小野田さんは2014年に92歳で他界。出身者の多くは鬼籍に入り、体験を語る人もホボ居ない。過つての記憶は社会全体から消え掛かって居る。そうした中、井登さんは数少ない証言者である。今、振り返って観ると、中野学校とは、どんな存在だったのか。井登さんは言う。

 「現実と掛け離れた幻の様なものでした。二俣分校で学んで居た当時、死を美化し生への執着を否定した正規軍に対し、(中野学校では)個々の能力を認めた。死ぬな、生き延びろと云う独特の教育方針が、合理的に思えた事もありました」

 中野学校を出た後、井登さんは日本が統治して居た台湾に渡った。先住民族の「高砂族」に遊撃戦を指導し、米軍等の上陸に備えて居たが、戦闘を経験する事無く生き延びた。学校の同期生には、フィリピンで斬り込み隊に加わったり、沖縄戦の特攻部隊「義烈空挺隊」に組み込まれたりし、そして戦死した者も居る。そうした行為もゲリラ戦の指揮官養成も、根本には市民も巻き込む「一億玉砕」に基づく発想があった。


 井登さんは今、こう言って居る。「秘密戦士も、任地や命令によって生死が分かれた訳で、結局は正規軍の兵士と同じ。一つの駒でしか無かったんです。戦争の大きな流れの中では、人間一人の力はチッポケで、自分の意思で生き延びるなんて出来ませんでした」


 





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 中野学校跡地に立つ東京警察病院。植え込みの奥には、ヒッソリと石碑が佇んで居る 東京都中野区


 神戸新聞 1898(明治31)年に創刊した兵庫県の地元紙。神戸、姫路本社の他東京、大阪、東播(加古川)の3支社と阪神、明石等7総局、23支局を置き、兵庫県全域をきめ細かくカバーして居る。


 



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