アフィリエイト広告を利用しています
ファン
検索
<< 2019年04月 >>
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30        
最新記事
写真ギャラリー
最新コメント
タグクラウド
カテゴリーアーカイブ
プロフィール
ヨリちゃんさんの画像
ヨリちゃん
プロフィール

広告

この広告は30日以上更新がないブログに表示されております。
新規記事の投稿を行うことで、非表示にすることが可能です。
posted by fanblog

2019年04月20日

原発事故はなぜくりかえすのか 高木仁三郎氏を忍ぶ




 




 【管理人より】


 貴方は「高木仁三郎」と云うお名前をご存知だろうか。原子力科学者で、科学に基づいた見識で原子力業界を指導された人です。前回の最終ページに彼のNHKで収録されたVTRを掲載しましたが、ご覧に為ったらお分かり頂けたと思う。興味の無い方でも、彼の名前だけでも記憶に留めて欲しいと思い、今回取り上げました。



          4-20-13.jpg

          原爆と原発の反人類史・非人間史を語る高木仁三郎氏




 高木仁三郎 署 「原発事故は何故繰り返すのか」著作評論


 

 



 岩波新書 2000 ISBN:4004307031 編集:岩波新書編集部 装幀:岩波書店 より引用します



 日本における反原発思想を本格的な運動として立ち上げたのは、市民科学者の高木仁三郎だった。早くからプルトニウムの危険を訴え、次いでは「原子力安全」と「原子力文化」が決して成立し得無い事を、常に根底から告発し続けた。頑固で、勇気があって、誠実な人だった。
 しかし激痛と闘病の中でJCOの臨界事故を知り、本書を遺して無念のまま他界した。もしフクシマのことを知ったらどう為って居たことか。


 2000年10月8日、築地の聖路加国際病院で高木仁三郎が亡く為った。最終病名は直腸ガン。62歳と2カ月余。その3年程前に会った時は顔色は優れ無かったが、大病を患って居るとは思わ無かった。暫くして大腸ガンであることが判明したと人づてに聞いた。
 高木さんには最後の最後に口述した『鳥たちの舞うとき』(工作舎)と云う唯一のフィクションがある。十川治江が編集した。その「あとがき」を書いた久仁子さんによると、1998年の7月に大腸ガンだと判って切除手術をした時には既に肝臓や胆嚢(たんのう)に転移して居た様で、本人も1年位の余命だと覚悟して居たらしい。それでも何とか退院をして、新たに計画していた高木学校の連続講座で第1回の「プルトニウムと市民」を講演した。

 1999年は闘病しつつも6回分の高木学校を了えたのだが、腫瘍マーカーの値がドンドン上がり、タチマチ抗ガン剤を打ちながらの日々に変じた。そんな時の9月30日にJCOの臨界事故が起こった。何度も何度も、嫌、数百回にわたって高木さんが警告していた原発事故だった。本書はその記述から始まっている。
 しかし容体は益々悪化するばかりで、2000年には東京女子医大病院の人と為り、9月18日に聖路加に移って居た。もう、時間は無い。全てを察知して最後の仕事に向かおうとして居た高木さんは、自身で酸素チューブを外し、本書のゲラと『鳥たちの舞うとき』のゲラを遺して死んで行った。今日はその高木さんの祥月命日なのだ。追悼したい。


 




 本書には、原発事故は無く為ら無いと云う事が「原子力文化と云うものナンて有り得無い」と云う視点から繰り返し説かれている。「原子力は文明であるかも知れ無いが、到底文化には為り得無い」と云うのが高木仁三郎の確信だ。
 確かに原子力技術に基づいた原子力文明は在り得るだろう。又、原子力発電が既にそう為って居るのだけれど、利潤を追求する原子力産業も在り得るし、医療や宇宙開発に応用することも可能だろう。けれども生活の安心や安全を満喫する原子力文化が何処かに在るとは思え無い。この事を高木さんは原子力技術の研究開発に関わった現場で実感した。


 高木仁三郎が日本原子力事業と云う会社に入ったのは、東大理学部化学科卒業直後の1961年である。1955年に原子力基本法が出来、その翌年から日本の原子力研究が少しずつ本格化すると、三井(東芝)・三菱・日立・富士・住友等による原子力産業グループが形成されるが、高木が入ったのはその三井系の会社だった。
 そこは東芝や石川島播磨や三井東圧から派遣された人材によって構成されて居たらしく、高木は核化学研究室に配属に為った。
 核化学は元々高木の専門で、ウェット・ケミストリーとして放射性物質を水溶液状態で扱う研究開発に携わった。無論心高鳴る職場であった筈で、当時は原子力産業は学生に非常に人気が高く、工学部のエリートの殆どが憧れて居た。しかし実情は、原子力委員会が組み上げた「日本の国産炉」をどうするかと云う計画の前、

 @ 先ず研究所を作る
 A そこに実験原子炉を作る
 B それに関連した仕事を皆で遣る


 と云う様な事しか決まって居なかった。ハッキリ云って「無思想」だった。空想的には放射性物質をクラスレートに閉じ込めてアイソトープ商品を作る等と言った類のことも、アレコレ企画に上がったそうだが、到底原子力商品をもって新たな産業文化に寄与すると云う様なものは一つとして無かったらしい。本格的な議論も無かった。詰まり「無思想」なのである。
 それで何をしたかと云うと、アメリカの例に倣(なら)おうと云う事で、一つは原子力潜水艦の様な方向を、もう一つは原子力発電の方へ向かおうと云う事に為った。


 




 僕も好く憶えている。10歳の頃だったが、学校のクラスの男の子達は原子力潜水艦ノーチラス号の話題で持ち切りだった。1954年、アメリカのジェネラル・ダイナミックス社が華々しく進水させたノーチラス号の姿は、当時の子供にとってはジュール・ヴェルヌの『海底二万哩』の世界そのものだ。それは又『鉄腕アトム』に始まった夢多い原子力ロボットにワクワクして居た時期でもあった。
 これ等は真に他愛の無い子供ドリームに過ぎ無かったけれど、高木によると、日本原子力事業と云う〈本気の原子力屋〉の議論も実はそんな程度だったと云うのだ。

 こうして日本はアメリカを追随(ついづい)しての原子力発電に取り組んで行く事に為る。これは高木から見ると「放射能を知ら無い原子力屋」による目標の無い大プロジェクトだったと見えた。しかしその集団こそが〈原子力村〉を作り、日本の原子力発電の産業化に取り組んだ訳だ。


 1999年9月30日の東海村JCOで起きた臨界事故は、病身の高木仁三郎を激怒させ、悲しみの深淵に突き落とした。核燃料加工のプロセスで本来の手順を逸脱してウラン235の高濃度溶液が一つの容器に集中し、その為核分裂反応が持続したまま中性子がこの世に放出された事故だった。
 80日後、現場作業員の大内久氏が放射線急性障害で死亡、次いで二人目の篠原理人氏が大量被爆で死亡した。日本の原子力開発がもたらした初めての死亡事故だ。これで日本人は三たび、青い光の告発を受けることに為ってしまった。


 




 青い光と云うのは、原子炉で核分裂反応の高いエネルギーを持った粒子が水の中を通過する時に発する特殊な光のことで、核爆発や核分裂の現象に特有の光。科学用語では「チェレンコフの光」と云う。
 日本人はこの青い光を、第1には1945年8月6日に広島で、第2には8月9日の長崎で、そしてそれから54年経った東海村で見ることに為った。その他に、1954年3月1日にビキニ環礁で被爆して死亡した第五福竜丸の久保山愛吉氏も、チェレンコフの光から派生した光を見たかも知れ無い。


          4-20-14.gif

              JCO臨界事故と環境説明図


 JCO臨界事故は、濃縮ウラン溶液を手作業でバケツ7杯も運んだ所為だと言われて居るが、その様なことをさせた原子力関係者の意識が大問題に為った。本来なら原発での仕事には、全ての関係者が放射能事故について過敏で無ければ為ら無いのだが、処が日本の原子力関係者は、その理論を組み立てる者も設計に携わる者も、現場のメンテナンスに従事する者もその意識が極めて薄かった。特に事故に対する意識が薄い。
 それは、日本だけでは無くアメリカでも結構希薄だった。原発の安全性については1975年に発表されたラスムッセン報告と云うものがあって、原発事故を確率論的に評価して「メルトダウンと云った大事故が起きる可能性は10のマイナス5乗から6乗だ」と発表し「ヤンキースタジアムに隕石が落ちる様なもの」と付け加えた。


        4-20-15.jpg
 
              朝日新聞社提供


 処がこの報告の後スリーマイル島の原発事故が起こった。何かの底がスッカリ抜けて居る。その底こそは、本当は文明が文化を生み出す為の根底にあるべきものだったのに、そうでは無かった。


 1989年の『巨大事故の時代』(弘文堂)と云う本がある。そこで高木さんは事故の原因を「重畳型・共倒れ型・将棋倒し型」の3つに分けた。


 




 重畳型は、単独ではそれ程深刻では無い筈の故障やミスが〈偶然〉に重なりあって大事故に為ると云うケースで、ニューデリーの南200キロのボパールで起きた農薬工場の例を挙げて居る。
 その工場ではコークスと塩素を反応させてホスゲンを発生させ、そこからMIC(イソシアン酸メチル)を生成して居たのだが、貯蔵タンクと反応槽を繋ぐパイプを清掃中に遮断シートを使うのを忘れた為、水分とホスゲン或はMICが反応して大量のガスと為り、それでタンクの内圧が上昇して爆発した。
 洗浄のミス・メーターの無視・生ガス焼却装置の欠陥・タンク操作ミスが重なったのである。その重なりは確率で言えば10万回に1回位のことであるのにそれが起こったのだった。


        4-20-16.jpg


 共倒れ型は、1975年にアメリカのブラウンズフェリー1号炉の事故に見て獲れる。原子炉建屋の中の空気の流れを調べようとして調査作業員がローソクを灯したのだが、それが火災に繋がり、ケーブルが燃え制御装置と安全装置を使用不能状態にした。多重に防衛されて居た筈の装置が、足った一本のローソクで共倒れに為ってしまった。

 将棋倒し型は、1986年のチェルノブイリの大事故に顕著だった。既に詳しい解説書が幾つも公開されて居るので、今更説明する迄も無いが、高木さんの闘いはここから始まって居るので、以下に概略だけを書いて置く。
 詳しいことは高木仁三郎講義録『反原発出前します』(七つ森書館 1993)等を読んで頂きたい。この講義録は1987年1月から始まった出前講義の集大成で、出前そのものは3年間で300回を超えた。科学論としても技術論としても滅法詳しく記載されて居る。



 4-20-17.jpg

           チェルノブイリ事故から21年経過時


 チェルノブイリ原発事故の経緯

 チェルノブイリ原発の4号炉は、現在でこそ建設当時から色々の設計ミスや不手際があった欠陥原発だったと云う事に為って居るが、その頃は世界的にも有能な原子炉だと思われていた。ソ連もトテモ自慢して居た。

 1986年4月25日、ディーゼル発電機が立ち上がる迄にタービンの慣性回転を利用して緊急炉心冷却系に電力を供給するテストをしようと云う事に為り、この日の夜の11時から出力降下作業が着手されることに為った。
 このテストは実は2度目のトライで、最初はその半日前に行われ、出力を低下させ始めた運転員は、その時緊急炉心冷却装置(ECCS)の信号を切って居た。炉心の水位が下がった時はECCSが作動して注水が勝手に行われてしまうから、信号のスウィッチを切ったことは妥当だった。

 処が、出力を更に下げ様とした時、キエフから指示があって「電力需要の必要で50パーセントの出力で運転をしろ」と言って来た。その段階でテストは半日延期された。こうしてその後に交代した作業員がテストを再開した。直後に出力が3万キロワットに落ちた。
 慌てた作業員は出力を回復させ様として、何とか20万キロワット迄戻したが、これで原子炉の内部が極めて不安定な状態に為った。直ぐに制御棒を引き抜いた処、これは引き抜き過ぎた。加えて作業員はタービン停止に伴って原子炉を緊急停止させる信号も切った。これはルール違反だが、最初のテストが上手く行か無かった時に再度トライする為だったらしい。

 午前1時23分、緊急閉鎖弁が閉じられ、タービンは慣性で回転を続けるのだが、無論その回転数は落ち始め、タービン発電機に繋がる循環ポンプの能力も落ちた。これで炉心を流れる冷却水の量が減り、温度が上がって出力暴走が始まった。
 その直後の足った1秒の間に、出力が3億2000万キロワットに上昇すると、燃料ウランが内部から粉々に砕け、高熱に為った酸化ウランが冷却水と接触し、かの蒸気爆発を起こしたのだ。原子炉建屋の上部は吹き飛ばされ、原子炉は破壊されて内部に溜って居た放射性物質を大気中に放出して行った。


 




 これが将棋倒し型である。高木さんはこう説明した。


 「これは、一つ一つの信じられ無い様な規則違反が重なって信じられ無い事が起こったのでは無く、一つ一つでは起こり難い出来事や規則違反が連なって、返って最も信じられ無い事が起こり易く為ったのである」

 と云う風に。原発事故については、高木さんは基本的には二つに大別出来ると言っていた。

 Aは暴走事故型で、核分裂反応の制御に失敗する事故である。
 Bは冷却に失敗して炉心が溶けると云う事故、即ちメルトダウンに至る事故である。


 




 原発の事故は 人間の技術ではカバーし切れ無いのでは


 しかし当時から、これ等の複合型の事故も起こり得る、その危険性の方が返って高いとも警告し、その複合性を技術はカバーし切れ無いのでは無いかと見て居た。

 例えば暴走には、エネルギー出力の反応度の事故と原子炉の事故があり、後者の場合は燃料棒が壊れるだけで無く、それによって熱く為った燃料と蒸気が接触すると蒸気爆発に為る事も、その途中で水が分解して水素に為り、それが水素爆発に為る事もあり、一方、冷却材が破損或は喪失した場合は、メルトダウンが起こって炉心が溶けるだけで無く、そのまま原子炉の底を貫通して放射能が外部に漏れたり、それが他のエネルギーに転換して蒸気爆発や水素爆発を併発させる事が在り得るとも予告して居た。

 今更その先見性を高く評価したって何だか空しいが、高木さんは原発事故の殆ど全てを予見して居た訳だ。しかしそのことを警告するのが高木さんの仕事を占めて居た訳では無かったとも言って置か無ければ為るまい。そもそも高木さんは「プルトニウム社会」と云うものを問題にして来た。
 『プルトニウムの恐怖』『プルトニウムの未来』(いずれも岩波新書)を読まれると好い。念の為に書いて置く。


 




 一言で云えば、プルトニウムは原爆開発の為に人工的に作られた元素だ。核分裂性と毒性がヤタラに高い物質で、核兵器の大半に使われる。足った1グラムでも人の命を脅かす。そのプルトニウムは、何故原発と関係があるのか。
 元々原子炉による原子力発電にはウラン235とウラン238が使われて来た。この数字は原子核を作る粒子、即ち陽子+中性子の数を云う。ウラン235に中性子が衝突すると原子核が分裂して熱を出す。ウラン238に中性子が衝突しても核分裂は余り起こらず、その代わりに中性子を吸収して極短時間でプルトニウム239に変化することが多い。
 そのプルトニウムに中性子が衝突すると原子核が分裂して熱を出す。これ等の熱を利用して蒸気を作り、タービンを回すのが原子力発電の基本原理に為って居る。


 この原理で発電する時、地中から採掘される天然ウランには「核分裂するウラン235」が僅か0.7%しか含有してないから大変な希少価値に為る。一方「核分裂しないウラン238」を使えばプルトニウムに変えられるから、可なりの有効活用が出来る。
 これ等のことから、原子力発電をするとプルトニウムが抽出出来、それを再処理出来ると云うことに為って来た。100万キロワット級の軽水炉を1年間フルに動かせば、約250キログラムのプルトニウムが生成出来る。但しこれは、日本の全人口を何度かに渉ってガンで致死出来る量だ。

 プルトニウムが7〜8キロ程あれば一個の原爆が作れるし、日本中の43基の原発が稼働すれば、毎日原爆2〜3個が作れると云う計算に為る。
 アメリカは原発王国だが、核兵器用のプルトニウムはシコタマ保有して居るものの、民間原発からはプルトニウムを取り出して無い。ドイツと日本がプルトニウム再処理をして核燃料サイクルを確立しようとして来た。今やドイツはこれを辞め様として居るが、日本は未だそこまで踏み切っていない。何故なら核燃料サイクルがあれば、燃料の有効利用が出来、ウランに依存するよりずっと効率的に為るからだ。


    4-20-19.jpg

          もんじゅ「廃炉を想定して無い設計」


 こうして日本はプルトニウムを増やす仕組みに開発費を掛けることに為った。それが高速増殖炉の開発で、「もんじゅ」に結実した。

 もう少し説明すると、高速増殖炉は中心部にプルトニウムを20パーセント前後に濃縮したMOX燃料(ウラン・プルトラウム混合酸化物燃料)を入れて置き、その周囲にウラン238を配置する。高温度の金属ナトリウムをドロトロの液体にして使う。
 中心部のプルトニウムが核分裂しながら、その熱をナトリウムに伝えて発電エネルギーとして行くと、核から飛び出した高速の中性子がナトリウムの中を走るので、これを首尾好くウラン238に捕獲させ様と云う仕組みだ。これでウランがプルトニウム239に変化して行く。

 その結果、消費されたプルトニウムより、新しく生まれたプルトニウムの量が多ければ、資源が増して行くと云う事に為る。発電が出来て資源も増加するから一石二鳥である。しかし、1995年に「もんじゅ」はナトリウム火災を起こし停止した。核燃料再処理サイクルは止まったままだ。マア、この位で好いだろう。


 




 それで高木さんは、この様なプルトニウムを活用しようとする社会そのものが、病んで居るのではないかと告発し続けたのだった。これ等の技術を活用する社会はアクティブ過ぎると言った。
 「原発はアクティヴィズムの極致の技術である」とも書いている。 そう云うアクティヴィズムよりも、寧ろパッシブな社会に転換した方が好い。私はパッシヴィズムに向かいたい。そう断言した。

 これは僕の見方で言えば「もっと社会を、フラジャイルでヴァルネラブルなものだ見た方が好い」と云う事に為る。そこを高木さんは日本を「イントリンシックな社会」に戻した方が好いとも言って居る。イントリンシックとは「本来の社会」と云う事である。僕もズッとそう思って来た。日本の本来と将来を繫げることが、日本と云う方法の課題なのであると。



   4-20-20.jpg

          原発止めよう1万人行動(1988年)



 【著者情報】 高木仁三郎[たかぎ じんざぶろう]

 1938年生まれ。群馬県前橋市出身。1961年東京大学理学部卒業。日本原子力事業、東京大学原子核研究所、東京都立大学等を経て、1975年に原子力資料情報室の設立に参加し、1987年から1998年まで代表を務める。1997年ライト・ライブリフッド賞受賞。


                  以上



 





 【管理人のひとこと】


 長い文章でしたがお付き合い有難うございます。今と為っては、原子力・放射能の危険な情報が福島第一の事故のお陰で一般的に認知されました。しかし、原発開始の頃は数々の失敗を繰り返し、高木氏の様な現場の学者から疑問が沸いて来た。
 彼は、それと真摯に向き合い「原発は人類に不幸をもたらす」と確信を得「人間がコントロール不可能なものだ」と再発する事故を検証し「反原発」へと進むべき道を切り開いて行きました。彼には色々な本を著作し数々の報道番組にも出演して訴えたのです。更に「高木学校」為るもので啓蒙活動も行いましたが、病に伏し、62歳2か月と云う早い一生を終えました。
 が、彼には多くの人達が教えを請いその意思を引き継いで居ます。彼の著作の一つでも、書店か図書館で目に付いたら手に取って読んで頂きたいと思います。



 

 





「閉じた経済」で地方再生を 落合貴之衆議院議員(立民)



 【ネットニュースより】閉じた経済で地方再生を


 




 【管理人より】


 自民党の政策や今後の方針等は、現実の政策や、今議論されたり今後されるであろうと予想される各種法律等を知らせる報道などで概要を知ることは出来る。
 しかし、第一野党である立憲民主党の目指す政策や今後の方針は、ナカナカ具体化しない為でもあるが、私達は殆ど知ら無いのに等しいのでは無いだろうか。最も単に私が注意して見ていないだけなのかも知れないが。彼等は一体、今後、どの様な政策でどの様な目標を持って国民に訴えて行くのだろうか、と常々疑問に為って居たのです。
 彼等は、自民党の発議を殆ど反対する。無論メディアの所為なのだが、彼等はそれがダメなのであれば独自の対案を示し多くの国民に訴える・・・その力が余りにも弱いのでは無いだろうか。私達には殆ど響いて来ないのだ。そこで、立憲民主党の落合貴之衆議院議員が「閉じた経済」と云う新しい言葉を用いて提案したとの記事なので、今回はこれを取り上げます。



  




 「閉じた経済」で地方再生を 落合貴之衆議院議員



   4-20-1.jpg

            落合貴之氏 衆議院議員  (東京6区)



 Japan In-depth 4/19(金) 8:32配信  (C)Japan In-depth編集部  より引用します。(文章の一部を省略しています)



 【提案のまとめ】

 ・少なくとも今現在は景気にブレーキが掛かって居る
 ・中長期的な経済政策が必要
 ・IT、エネルギーの地産地消、農業の改革を地方から進めて行く



 




 安倍政権が7年目に突入し、アベノミクスについて、専門家・エコノミスト・各メディアからその効果について様々な見方が出て居る。景気の見通しと今後の経済対策について、立憲民主党落合貴之衆議院議員に話を聞いた。




4-20-5.jpg




 アベノミクスの評価


 先ず、アベノミクスに付いて落合氏は、最終目的は達成されて居ないとした上で、デフレから脱却し三本の矢を打って来たが、実質的な回復の為には、個人の消費とか個人の家計の部分が上手く回って行か無いと企業の投資も呼ば無い。その為、一番重要な最終目標に行き着く前に失速する。
 色々お金を注ぎ込んでしまったので軌道修正をしないと後でツケが回って来てしまうのでは無いかと危惧して居る。



      4-20-2.jpg

            2020東京五輪の経済波及効果は?


 また、景気後退の局面に入って来て居るのでは無いかと云う見方に付いては、海外でブレーキが掛かって来て居るのでその影響を受けて居るが、専門家の間では「今年の半ば以降には又、好い方向に進む」と云う意見と「今後もブレーキが掛かった状況が続く」と云う意見に二分されて居る。
 少なくとも今現在はブレーキが掛かって居る事は確かだと述べ、現下の景気は足踏みしているとの認識を示した。オリンピック効果が剥落(はくらく)する可能性について問うと、落合氏は、オリンピック効果を期待する一方で、人手不足解消策のタイミングには慎重であるべきだ。と述べた。


 




 その理由として、経済の循環を短期的では無く、中長期的な視点で見て行く必要がある。非正規の外国人労働者を急いで集めても、日本国内の不安定な雇用に外国人労働者が国に帰ってしまう可能性もある。これから人口は下がって行くから、そう云う意味で地道に経済成長の為の政策を打って行く時期に為って居るのではないかと述べた。
 又、今後、中国に対する輸出に規制が掛かる様な事があれば法制の見直しが必要だ。が、日本国内の労働人口が減少する中で自然な経済成長は見込め無いので、中長期的な効果がある法制を打って行かねば為ら無い。との考えを示した。


 子育て世代への支援を


      4-20-3.gif

  失敗する国民投票・・・深く考えずに一時のムードに流され 国民・家族を分裂させてしまう


 過つて民主党政権時に公約で掲げられた「分厚い中間層」に付いても触れ、先進国各地でデモが起こって居るが、トランプ政権の誕生もイギリスのEU離脱も、マクロンに対するデモも〈中間層の脱落〉から始まって居ると述べ、富の偏在が世界的に社会の不安定化を招いて居るとの考えを示した。
 そうした「中間層の脱落」をどう食い止めるか、と云う問題に対して、教育費の負担軽減と云うのは重要だ。シングルマザーの平均年収が180万位で3人に1人が離婚して居る。
 と云う事は、機会を均等化しないと行け無い。分配政策が今まで以上に重要に為って居る。子育て世帯を中心にすることが経済効果でも持続可能な日本の発展と云う面でも重要だと述べ、子育て政策の充実が鍵だとした。

 




 グローバル化と「閉じた経済」


 グローバル化に対して、先進国がグローバル化への対応に注力し過ぎたと述べた上で、フラットにし過ぎると、世界の賃金は一つの処に収斂(しゅうれん)して行く訳だから、賃金水準が元々高かった処は下がって行ってしまう。水野和夫さんの言葉を借りると「閉じた経済」即ち、或る程度国境を作って再構築して行くことが重要だと述べた。


  4-20-4.jpg

             世界のブレーキの原因はトランプ


 又、トランプ政権に付いては「社会の崩壊を食い止める」とか「人々の生活に焦点を当てる」と言ったその理念は支持しつつも「遣り方に問題がある」と指摘する。世界のブレーキの原因はトランプにある。マクロ経済の面で間違って居る政策が多いと述べた。
 その上で、日本にはその選択肢が無い。私は、立憲民主は保守本流と言って居るのであれば、そう云う面で国民の生活を守ると云う面から、グローバル化一辺倒を辞めた方が好いと思うと述べた。


 




 米中貿易摩擦


        4-20-6.jpg


 次に、日本の輸出に影響を与えている米中貿易摩擦の見通しについて、グローバル化への反発がトランプ政権にあり、グローバル化の象徴が昔の日本であるみたいに、今の矛先が中国なのでは無いか。外交防衛の問題で今日本と韓国が上手く行か無い様に、アメリカと中国は対立せざるを得無い。トランプ政権が続く限りは転換は無い。それによって日本経済も影響を受けている。
 新規の設備投資を見送ると云うニュースも流れて居り、機械受注も下がって来て居る。それは中国の要因では無いだろうか。中国の生産と消費が減って居るからだ。


 




 消費税増税



     4-20-8.jpg


 オリンピック効果が剥落(はくらく)する中での消費税増税に付いては、財政健全と云うより持続可能な経済成長の方が重要だ。消費税を全否定はしないが、タイミングは確り見ないと行け無い。
 今日本のGDPは6割が個人消費・2割が設備投資・1割が政府支出・1割が海外への輸出。個人消費が伸びて居無い中で消費税を上げると云うタイミングでは全く無い。増税緩和対策はオリンピック迄と云う期間限定に為って居る。今の政策だけではダメだ。オリンピック後の経済をどうして行くか、と云う事を野党側が言わなければ為ら無い。
 具体的には、安倍政府の政府支出は公共投資だが、中心と為る建設業界は人が足り無い。そこにお金を幾ら注ぎ込んでも経済循環は生まれ無い。IT等、今後に繋がって行く資産を作って行く必要がある。中長期的な視点で遣って行くべきだ。


       4-20-10.jpg

            平成29年度のエネルギーの比率


 IT・AI・医療への投資に付いては、大企業向けの政策ばかりでバランスが悪い。エネルギー政策でも「閉じた経済」を作る為にはエネルギー自給率を上げる必要がある。それは日本全体もそうだし各地方もそう。
 日本は石油を買うのに20兆円位使って居る。稼ぐ為には輸出し無ければ行け無い。再生可能エネルギーでエネルギー自給率が上がれば、コストが下がるから地方の所得は上がり農業林業に回す事が出来る。昔、田中角栄元首相が目指して居た日本中が快適な暮らしを出来る様にする、所謂『均衡ある国土の発展』と云うのは可能だと思うし、立憲はそれを経済成長戦略として示すべきだとした。


 




 落合氏はエネルギーの地産地消を念頭に置きながら、田舎の方が生活コストが高い。それはガソリンとか灯油とかの燃料費が高いから。そう云うコストを下げて行けば、GDPには反映され無いが、支出を減らすのでその分豊かに為りQOL(生活の質)は上がる。


 政権交代


 立憲民主党は現野党党1党だ。政権交代に付いての意気込みを聞いた。

 「私が初当選した時、共産党以外の新人では35歳で自分が一番若かった。しかし最近は、大臣を経験していないと当選しない。中堅若手がドンドン減って居る事が政権交代を遠ざける要因と為って居る。
 公募をして居るが、リーマンショック以降優秀な人は民間に取られてしまった。我が党は女性の優秀でヤル気のある人達を探して行こうとしている。今は女性が政界に進出する好い機会なのではないか」


 と述べ、立憲民主党として女性候補者の擁立に前向きな姿勢を示した。


 




 中長期的ビジョン



4-20-12.png



 地方では資産が残念ながら安く為って来て居る。今地方の資産は買い時で、安いコストで広い土地が買える。東京にマンションを持ちながら、もう一個「不動産を買うこと」も可能で、そうやって経済を分散させることが重要だ。健康需要も伸びるのではないか。
 今政権交代しても直ぐに金融緩和を止めることは出来ない。金融は当面これ以上出来ることは無いので、短期的な政策は安倍さんから引き継ぎながら、中長期的に違う経済の形に持って行くと云う事が必要だ。人口は減少して行くが、現在の日本の借金を返して行く為にも、IT分野や地産地消のエネルギーと農業を進め、新しい日本人の生活を見出しながら各政策を打って行く事が大切だ。と述べた。


 





【編集後記】

 一極集中の経済から、エネルギーの地産地消をベースにした「閉じた経済」を地方から進めると云う発想には共感した。実際、愛知県豊田市等、新たな経済循環や人の交流を生み出そうとして様々な取り組みを始めており(参考〈つながる つくる 暮らし楽しむまち・とよた〉の実現 豊田市「SDGs未来都市」計画)は、多くの自治体のロールモデルに為り得ると感じる。一方で、国主導の公共投資に頼り勝ちな自治体側の問題もある。折しも、今統一地方選の真っ只中だ。耳触りの好い目の前の政策の連呼が町を埋め尽くしているが、こうした中長期的な視点こそ政治家に求められている。

                  以上



 




 落合貴之衆議院議員の紹介

 経歴

 慶應義塾大学経済学部卒 元株式会社三井住友銀行 行員 衆議院議員江田憲司 元公設第一秘書 参議院議員松田公太 元公設第一秘書 元みんなの党衆議院東京6区支部長  地域主権型道州制国民協議会(堺屋太一名誉会長、江口克彦会長) 世田谷・東京6区支部長 東京特別州政治家連盟理事

 特定秘密保護法案に反対し、2013年11月27日みんなの党を離党し無所属に。翌2014年5月結いの党入党。党の合併により、2014年9月より維新の党衆議院東京6区支部長。2014年12月、衆議院議員選挙にて小選挙区では惜敗するも比例復活当選。
 2016年3月、党の合併により民進党衆議院東京6区総支部長。2017年10月、希望の党合流に異を唱え無所属に。その後、立憲民主党設立に参画。総選挙にて小選挙区勝利。衆議院議員2期目。

 [国会での主な役職]経済産業委員会 野党筆頭理事 予算委員会 委員 政治倫理の確立及び公職選挙法改正に関する特別委員会 委員
 [党での主な役職] 政務調査会 副会長 経済産業部会 会長 エネルギー調査会 副会長  政治改革部会 事務局長 統治機構調査ワーキングチーム 事務局次長 憲法調査会 幹事 外国人受け入れ制度及び多文化共生社会のあり方に関する検討プロジェクトチーム 幹事 安定的な皇位継承を考える会 幹事
青年局 顧問 東京都連 選挙対策委員長 東京都連 つながる本部 本部長
 [議員連盟] 自然エネルギー社会実現議員連盟 事務局長  若者政策推進議員連盟 事務局次長
国連世界食糧計画(WFP)国会議員連盟 顧問  立憲民主党 科学技術・イノベーション議員連盟 副会長
立憲民主党 弁理士制度・知的財産制度改革推進議員連盟 副会長

 落合貴之衆議院議員国会事務所

 〒100-8982 東京都千代田区永田町2-1-2 衆議院第二議員会館 606号室
 TEL:03-3508-7134 / FAX:03-3508-3434

 落合貴之衆議院議員世田谷事務所

 〒154-0017 世田谷区世田谷1-12-14原ビル2F
 TEL:03-6312-4505 / FAX:03-6312-5308


 





 【管理人のひとこと】


 落合貴之氏を特別に応援している訳では毛頭無い。しかし、支持すると為ると、政党としては立憲民主党しか無いのは致し方無い。無論、古い民主党体質(特に党首に為られた人達の影響が強い程)のままでは、二度と政権に復帰するのは難しいと思う。菅氏や野田氏に、党を分裂させた某氏に至っては、特に若い層からの支持は得られ無いだろう。氏の経歴をみると、色々と苦労された経緯が判る。

 田原総一朗氏が好く云う様に、日本の政党に右も左も無くオール・リベラルなのだ。特に経済に関しては、政策は似たり寄ったりで区別は付か無い。経済以外でも党としての特徴を上げるのは難しい。トウの本人達も内心は頭を悩まして居る筈だ。
 その中で「閉じた経済」との言葉は、或る意味トランプ流の「保護主義」であったり「自国ファースト」の一面を持つ、所謂「脱・グローバル」の流れの一つなのだと理解した。詰まり「行き過ぎたグローバル」の反省と「自国の為=経済的鎖国」の両面を取り入れたものだろう。


 




 イギリスのEU離脱にしても、その他欧州の移民批判も根は同じ処にある。落合貴之氏が指摘する様に、余りに制度をフラット化(規制緩和)してしまうと、逆に強弱が極端に表に出てしまう。故に、中間層が消滅し富が偏ってしまい、富裕者層と貧困層にハッキリ別れてしまう。昔で言えば階級が、特に現在は極端な貧富の階級が出来てしまった。
 その原因がグローバル化・極端なグローバル化・・・業界の一つの成功企業が全地球を圧倒してしまう。この様なものが出来てしまったのは大きな欠点だった。

 富裕者層は、自分達の努力と運が勝(まさ)ったのだが、困窮者層は決して全てがその人達の責任では無い。国内の紛争で国外へ逃げたり教育を受けられ無い環境だったりの色々な原因が考えられる。だから、政治では富の分配が一層重要と為る。これも同感だ。これに対して何らかの法律を考えると氏は云う。尤もだと思う。
 経済学者はイノベーションが大切だと説くが、中には、今更真正面から挑んでも勝て無いのだから、ルールを替えたら好い・・・それが戦略だと云う人も居る。日本は戦術に固執し戦略が無いと批判する。何か卑怯な感じがするが、根本を見直すことも時には必要だと思うから、一つの考えだと思う。竹中平蔵の様に、法律でフラット化させ利権を作り出し、それを自ら秀抜する手合が居るのが現在の日本だ。彼には、悪い意味で富者・成功者の一面を見る思いである。



 









 
×

この広告は30日以上新しい記事の更新がないブログに表示されております。