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2020年04月29日

“英雄”か?“逆賊”か? 足利尊氏

評価が分かれる征夷大将軍

今日からゴールデンウィークに入りますね。

国や自治体が最も警戒していたのが、このゴールデンウィーク。

それを国民も感じ取ってか、ニュースを見ると行楽地やそこに向かう交通機関などは例年の8〜9割近く減少しているようです。

今日のように天気が良くて気持ちのいい陽気だと、どうしても出掛けたくなるのが人間の心理ですが、そんな時僕は遊びに行きたい欲求と感染した時のリスクを天秤にかけて考えます

罹患して入院した方の経験によると、

「コロナウイルスはインフルエンザとは比べものにならないくらい辛く、本当に死を意識する」

らしいのです。

僕も昔インフルエンザを患ったことがありますが、その時は4〜5日間ほとんど食事さえ摂れないほどの高熱で寝込んでしまい、かなり辛かったことを今でもハッキリ覚えています。

そのインフルエンザと比べものにならないくらい辛いとは・・・・想像しただけでゾッとします。

コロナウイルスは感染力が強く、日本でもこれだけ蔓延してしまっている以上、自分が感染したらどうなってしまうのかまで考えて、今は一人ひとりが警戒心を怠らず自制すべきですね。


さて、明日4月30日は足利尊氏が亡くなった日です。(延文三年 1358年)
足利尊氏.jpg

これは、足利尊氏を描いたものとして長く定着していたのですが・・・・実はこの人物、足利尊氏ではないようなのです

この絵に描かれている人物は尊氏の執事であった高師直(こうのもろなお)とする説が有力です。

尊氏は室町幕府の初代将軍として新しい武家社会を作った人物です。

尊氏は、専横を極めていた北条氏を倒し、建武の新政に不満を持った全国の武士たちの期待に応えて室町幕府を開いた英雄であるにも関わらず、なぜかあまり人気がありません

人気がないどころか、皇国史観(天皇制を絶対視する歴史観)が強かった戦前には“逆賊”のレッテルを張られてしまうほどの悪人扱いだったのです。

なぜなら、鎌倉幕府の御家人であったのに幕府を裏切って鎌倉幕府を滅亡に追い込んだこと、尊氏を引き立ててくれた恩人の後醍醐天皇をも裏切って天皇が始めた建武の新政を崩壊させたことなどがその理由と思われます。

果たして、尊氏は「英雄」と「逆賊」どちらだったのでしょうか?

というわけで、今回は足利尊氏について語りたいと思います。

清和源氏の名門

足利尊氏 嘉元三年(1305年)〜 延文三年(1358年)
(※1336年〜1392年の間は南北朝時代のため年号が二つ存在しますが、今回は北朝の年号を使用)

尊氏は清和源氏の流れをくむ下野(栃木県)の名門・足利貞氏の次男として生まれます。

15歳で元服した時、鎌倉幕府の執権・北条高時の偏諱を受けて高氏と名乗りました。

父貞氏の死後、兄も既に早世していたため足利家の家督を継ぎました。

元弘三年(1333年)高氏は幕府の命令により、西国で討幕運動を行なっていた後醍醐天皇の兵を討伐するため、大軍を率いて京都に向かいます。

しかし、上洛した高氏は突如幕府に反旗を翻し、幕府の西の拠点であった六波羅探題を攻め滅ぼしてしまったのです。

鎌倉幕府の北条氏はもともと源頼朝の家臣であり、源氏の足利氏より家柄は下なのに、その北条氏が将軍を形骸化して幕府の実権を握り、腐敗した政治を続けていたことに高氏は以前から大きな不満を持っていたためと考えられます。

東では上野(群馬県)の新田義貞が鎌倉に攻め込んで幕府を倒し、ここに鎌倉幕府は滅亡しました。

幕府が滅ぶと後醍醐天皇は京都へ帰り、年が明けた建武元年(1334年)念願であった天皇親政を開始しました。(建武の新政)

討幕の立役者となった高氏に後醍醐天皇は自らの諱である「尊治」の一字を与え、高氏は尊氏に改名しました。

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武士たちの期待に応えて武家政権を樹立

建武の新政は始まったものの、天皇親政はどうしても皇族や公家ばかりが厚遇されることが多く、すぐに多くの武士たちから不満を招くことになりました。

一方、尊氏は以前から自分を敵対視していた後醍醐天皇の皇子・護良(もりよし又はもりなが)親王と対立、やがて親王を鎌倉に幽閉してしまいます。

そんな中、思いもよらない事件が起こりました。

建武二年(1335年)7月、北条高時の遺児・時行が信濃(長野県)で挙兵し、鎌倉に攻め込んできたのです。(中先代の乱)

この時、鎌倉で防戦に失敗した尊氏の弟・直義(ただよし)は鎌倉脱出の際、護良親王を殺害してしまいます。

これは鎌倉に入った時行が護良親王を擁立して尊氏討伐の兵を挙げることを直義が恐れたためです。

この知らせを聞いた尊氏は、天皇の許可を得ないまま時行追討に向かい、見事鎌倉の奪還に成功しました。

しかし、その後尊氏は天皇の帰還命令に従わず鎌倉に留まり、ついに天皇に反旗を翻したのです。

これは尊氏自身の野望というより、建武の新政に不満を持つ多くの武士たちの期待に応えるための行動だったと考えられます。

挙兵した尊氏は天皇が差し向けた新田義貞軍を箱根で破り上洛するも、奥州からの北畠顕家の軍勢に苦戦し、一時九州へ敗走してしまいます。

九州で軍勢を立て直した尊氏は捲土重来し東上、建武三年(1336年)5月、湊川の戦い楠木正成を破り再び上洛を果たしました。

尊氏の上洛により後醍醐天皇は大和(奈良県)の吉野に逃れ、代わりに尊氏は光明天皇を擁立しました。

暦応元年(1338年)尊氏は光明天皇より征夷大将軍に任命され、室町幕府を開きます。

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後醍醐天皇に対し崇敬の念を貫いた尊氏

一方、吉野に逃れた後醍醐天皇も皇位の正統性を主張して譲らず、朝廷は吉野の南朝京都の北朝に分裂、以後約60年に及ぶ南北朝時代に突入しました。

南朝と北朝が争いを繰り広げる中、幕府内では尊氏と弟の直義の対立が表面化します。

やがて両者の対立は激化し、ついに尊氏は直義を毒殺することで決着をつけたのです。(観応の擾乱)


尊氏は後醍醐天皇に反旗を翻したことにより、“逆賊”の汚名を被ることになるのですが、本当に尊氏は“逆賊”と呼ばれるべき人物だったのでしょうか?

中先代の乱を鎮圧した後、後醍醐天皇が帰還命令に応じない尊氏に追討軍を派遣したのを知った尊氏は

「天皇に対して弓を引くことはできない」

と、自らの髷を切って出家しようとしていたのです。

実は、帰還しなかったのも、反旗を翻したのも、弟の直義による懸命の説得があったからです。

直義は「今、京都に帰還すれば、みすみす敵の懐に飛び込んでいくようなものだ」と、尊氏の帰還を阻止し、さらに建武の新政に不満を抱いている武士たちの気持ちを代弁して、尊氏に武士の代表として立ち上がるよう促したのです。

武門の棟梁としての立場は別として、尊氏の後醍醐天皇に対する崇敬の念は生涯変わりませんでした

その証拠に、後醍醐天皇の死後、尊氏は天皇の冥福を祈るため京都に天龍寺を創建し、自らが亡くなるまで天皇の法要を怠らなかったといわれています。

尊氏=“逆賊”のイメージは、戦時中、天皇への忠誠心を国民に植え付けるため、天皇に反旗を翻した尊氏を必要以上に悪人に仕立て上げてしまった結果なのです。

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まとめ

  • 清和源氏の名門・足利尊氏は後醍醐天皇に味方して鎌倉幕府討幕に貢献した

  • 尊氏は建武の新政に不満を抱く武士たちの期待に応えて反旗を翻し、将軍となり室町幕府を開いた

  • 反旗を翻したものの、尊氏は後醍醐天皇に対して崇敬の念を生涯忘れなかった


骨肉の争いとなった観応の擾乱については、別の機会で改めて語りたいと思います。

2020年04月27日

幕府の陰謀だった !? 宇都宮吊り天井事件

家康の元で権勢を振るっていた本多正純

慶長二十年(1615年)大坂夏の陣5月8日付ブログ参照)で豊臣家が滅ぼされたことにより、ようやく戦乱の世が終わりましたが、次に幕府は体制強化のため徳川家を脅かす可能性のある大名の取り潰しに力を注ぐようになります。

しかも、それは外様大名などに限らず、松平家など徳川一門の身内にも及ぶ厳しいものでした。

身内さえも容赦しないのであれば、幕府の中枢を担う者であっても例外ではありません。

このような流れの中で、そのターゲットにされたのが本多正純でした。

正純は父の正信と共に徳川家康4月17日付ブログ参照)の側近として権勢を振るっていた人物です。

正純は大坂冬の陣の後、豊臣方を巧妙な話術で言いくるめ、大坂城の外堀に加えて内堀まで埋めて城を丸裸にすることに成功した実績があります。

その他にも豊臣恩顧の福島正則を改易(お家取り潰し)させたり、幕府内のライバルであった大久保忠隣を家康暗殺の嫌疑を被せて失脚させるなど、かなりの策謀家として有名でした。

この正純が失脚するきっかけとなったのが宇都宮吊り天井事件です。

しかし、幕府権力の強化に尽力してきた正純が、なぜ失脚させられてしまったのでしょうか?

というわけで、今回は宇都宮吊り天井事件について語りたいと思います。

事件の経緯

元和八年(1622年)4月、二代将軍・徳川秀忠1月24日付ブログ参照)は亡き父家康の7回忌のため、日光東照宮へ参拝しました。

参拝の帰途、秀忠は日光街道の順路にある宇都宮城に宿泊する予定でした。
宇都宮城跡.jpg
 宇都宮城跡

そのため、宇都宮城城主の本多正純は将軍を迎えるにあたり事前に城の改修を行ない、秀忠のために特別な宿舎まで用意していました。

ところが、秀忠は突如予定を変更し、宇都宮城には寄らず急いで江戸に帰ってしまったのです。

正純は秀忠の行動を不審に思いましたが、その後も理由を聞かされることはありませんでした。

秀忠の日光参拝から4ヶ月後の同年8月、正純は南出羽(山形県)の最上氏の改易に際して居城の接収を命じられ山形城に赴いていました。

この山形において、正純は幕府から思いもよらぬ驚愕の命令を受けることになります。

なんと、正純自身も改易処分を命じられてしまったのです。

改易の理由は、宇都宮城石垣の無断修復や鉄砲の密造、そして秀忠の暗殺を画策した謀反の罪など11ヶ条にも及ぶ嫌疑がかけられていたことです。

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将軍を暗殺するための仕掛けを作っていた !?

正純にかけられた罪状の中で、最大の罪とされたのはもちろん将軍暗殺を画策したことですが、この暗殺のために仕掛けられたのが「吊り天井」だといわれています。

つまり、秀忠が宿泊する部屋にあらかじめ吊り天井を仕掛け、寝ている時にそれを落として秀忠を圧死させようとしたというのです。

秀忠は事前にこの情報を入手していたため、宇都宮城で宿泊する予定を変更して江戸に帰ったということになります。

一方、正純は宇都宮の所領は没収されたものの、長年にわたる幕府への忠勤に免じて、当初は北出羽(秋田県)の由利に移された上で5万5千石を与えられる予定でした。

しかし、正純はこの転封を拒否したのです。

正純にしてみれば、将軍暗殺など事実無根のでっちあげで全くの濡れ衣であり、もしこの転封を受け入れてしまったら罪を認めたことになると考えたのでしょう。

また、弁解の余地も与えず一方的にこんな不条理な処分を下した幕府に対する抗議の意味もあったと思われます。

ですが、幕府の決定を拒否した正純は秀忠の怒りを買ってしまい、ついに本多家は改易させられ、正純も北出羽の横手へ流罪にされてしまったのです。

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父の正信は予言していた!

正純の主張通り、実際には宇都宮城に吊り天井の仕掛けなどはなかったとされています。

ではなぜ、正純はありもしない嫌疑をかけられてしまったのでしょうか?

この事件の背景には少なからず幕府の陰謀が潜んでいたと思われます。

具体的に言うと、正純は他の家老に妬まれ、将軍の秀忠にも疎んじられていたと考えられるのです。

正純の父は家康の側近として辣腕を振るっていた本多正信です。

正信も策謀家としてあまり評判は良くなかったのですが、実は無欲な人であり、家康からの加増要請を何度も固辞していたのです。

なぜなら、正信は家康の側近として権力を握っている上に多大な石高まで得れば周囲から嫉妬され、やがて足を引っ張られるであろうことを理解していたからです。

息子の正純にも

「権力と石高の両方を手に入れれば、必ず災いが起こる」

と常々言い聞かせていました。

しかし、正純は父の言いつけを守らず、父の死後に下野(栃木県)小山3万3千石から宇都宮15万5千石もの大きな所領を受け取ってしまったのです。

この結果、老中の土井利勝など幕府内のライバルからより激しい嫉妬を生むことになります。

さらに、先代家康からの威光を笠に着た正純を疎ましく思っていた将軍秀忠の思惑が一致し、この両者が共謀して正純を陥れるために仕組んだ陰謀だったのではないかと考えられるのです。



まとめ

  • 宇都宮吊り天井事件とは、幕閣の本多正純が将軍秀忠を吊り天井の仕掛けで暗殺しようとしたとされる事件

  • 正純は身の潔白を主張したが認められず、北出羽の横手に流罪にされた

  • 実際には宇都宮城に吊り天井の仕掛けが施された形跡はなく、幕府が正純を陥れるための陰謀だった思われる


この事件は単なる将軍暗殺未遂ではなく、「吊り天井」という大掛かりな仕掛けが施されていたことが後世に語り継がれる理由でしょうね。

2020年04月24日

“戦国一の美女”といわれた悲劇の女性 お市

政略結婚する女性の役割とは?

今日4月24日は織田信長の妹・お市の方が亡くなった日です。(天正十一年 1583年)

このブログでも何度か書きましたが、戦国時代は「男尊女卑」の風潮が特に強かったので、父親や夫、又は男兄弟の動向によってその家の女性の運命は大きく左右される傾向にありました。

東国、いや戦国一の美女と謳われたお市は、その最たる例といってもいいでしょう。

兄の信長や織田家の男の親族の意向で結婚相手を決められ、その度に悲劇に見舞われてしまった薄幸の女性です。

この時代、武家の女性は“政略結婚の道具”として扱われてしまうことが多く、お市もその一人ではありましたが、お市はただの“道具”ではありませんでした。

父の織田信秀にはたくさんの娘がいましたが、その中で他国の大名に嫁いだのはお市ただ一人なのです。

信長は、美貌だけでなく聡明さも兼ね備えたお市の女性として抜群の器量を見込んでいたからこそ、兄弟の中で唯一お市だけを他国に嫁がせたと考えられます。

他国の大名と政略結婚する女性には両家を結ぶ親善大使であると同時にいざという時の人質であり、またスパイという側面も持つ重要な役割を担っていたのです。

つまり、信長はお市をこれだけの大任を任せられる女性だと考えていたということです。

というわけで、今回はお市の方について語りたいと思います。

長政との幸せな結婚生活

お市の方 天文十六年(1547年)?〜 天正十一年(1583年)
お市の方.jpg

お市は織田信秀の五女として生まれます。兄の信長より13歳下の妹でした。

永禄十一年(1568年)信長は足利義昭を奉じて上洛を試みていましたが、上洛するためには敵対する近江(滋賀県)の六角氏を排除する必要がありました。

そこで信長は、同じ近江の浅井氏と同盟を結んで六角氏を挟撃しようと考え、妹のお市を浅井長政に嫁がせたのです。(※もっと早くに結婚していたとする説もある)

政略結婚とはいえ、長政とお市は仲睦まじく、二人の間には茶々・初・江の三人の娘も生まれ、お市は長政の元で幸せな日々を過ごしました。(※万福丸などの男児は長政の先妻の子といわれている)

そんなお市に転機が訪れます。

元亀元年(1570年)信長は数度にわたる上洛命令に従わない越前(福井県)の朝倉氏に業を煮やし、朝倉氏討伐を開始したのです。

しかし、朝倉氏は古くから浅井氏と盟友関係にあったので、長政は織田と朝倉、どちらにつくかの選択に迫られることになりました。

苦悩の末、長政は信長を裏切って朝倉に味方することを決意したのです。

夫の決意を察したお市は、陣中見舞いと称して「小豆袋」を信長の陣営に送り、長政の裏切りを知らせたといわれています。

袋の両端を紐で縛った小豆袋、つまりお市は、信長が浅井と朝倉に挟まれた“袋のねずみ”状態であることを表現したのです。

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夫と兄が激しく争った姉川

信長はお市の機転によって危うく挟み撃ちにされる窮地を脱することができました。

何とか危機は逃れたものの、長政に裏切られた信長の怒りは尋常ではありませんでした

一旦京都に逃れて体勢を立て直した信長は、すぐに長政追討へ動き出します。

元亀元年(1570年)6月、近江の姉川において、信長は徳川家康4月17日付ブログ参照)と組んで浅井・朝倉の連合軍と戦い、浅井朝倉軍を撃破しました。

姉川での勝利後も信長は長政追討の手を緩めず、天正元年(1573年)ついに信長は義弟・長政を攻め滅ぼしたのです。

お市は長政の居城・小谷城の落城寸前に三人の娘と共に救出され、信長の元に送られました。

翌年の正月、信長は多くの客人や家臣が集まった新年会の席で、長政とその父・久政の頭蓋骨を金粉塗りにしたドクロを披露したといわれています。

この時のお市の心境はいかばかりなものだったか、察するに忍びありません。

未亡人となったお市は三人の娘たちと共にしばらくは信長の庇護の元、平穏に暮らしていました。

しかし、天正十年(1582年)本能寺の変による信長の死は、お市の運命も激変させてしまうのです。

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再婚するも再び悲劇が!

本能寺の変後、信長の後継者を決める清州会議において、お市は織田家筆頭家臣の柴田勝家に嫁ぐことが決められました。

勝家は後継者に信長の三男・信孝を推していたので、信孝は未亡人であった叔母のお市を勝家に嫁がせることで織田家の安泰を図ろうと考えたようです。

この決定に以前からお市の美貌に憧れていた羽柴(豊臣)秀吉はかなり悔しがったといわれています。

やがて、信長の跡目を継ごうと野望を顕わにし始めた秀吉が勝家と対立し、織田家を二分する争いに発展しました。

天正十一年(1583年)4月、賤ヶ岳の戦いで勝家は秀吉に敗れてしまいます。

その後、秀吉に追い詰められた勝家は、お市に三人の娘を連れて秀吉の元へ逃げるよう説得しますが、お市は頑なに拒否しました。

お市は娘たちを逃がした後、勝家と共に自害する道を選んだのです。

なぜ、お市は娘たちと共に逃げなかったのでしょうか?

生き延びて秀吉の妾になるなど、お市のプライドが許さなかったこともあるでしょう。

しかしはっきり言えるのは、一番頼りにしていた兄信長は既に亡く、二番目の夫まで失うことになり、もうお市には帰るべき場所がなかった、ということです。



まとめ

  • “戦国一の美女”として誉れ高いお市は、兄の信長にとって政略結婚の「切り札」だった

  • 夫の長政が信長を裏切った時、お市は「小豆袋」で信長に危機を知らせた

  • 二度の落城に遭ったお市だが、最後は自らの意志で死を選んだ


お市は享年37歳、これも“美人薄命”というべきでしょうか。

2020年04月22日

道三は信長をどう見たのか? 聖徳寺の会見

聖徳寺?正徳寺?

前回のブログでは斎藤道三の生涯について語りましたが、道三は娘婿となった織田信長をどう見ていたのでしょうか?

“美濃のマムシ”斎藤道三と“尾張の大うつけ”織田信長が初めて顔を合わせた出来事を聖徳寺の会見というのですが・・・これ、つい最近まではどの文献を見ても「正徳寺」の表記になっていたのです。

僕も「正徳寺」と記憶していたので(あれっ?)と思い確認してみたのですが、やはり現地でも「聖徳寺」となっています。

先日放送されたばかりの大河ドラマ『麒麟がくる』でも「聖徳寺の会見」のタイトルでした。

「聖徳寺」が正しい表記ならば、なぜ今までほとんどの文献には「正徳寺」と表記されていたのでしょうか?

僕なりにいろいろ調べてみましたが・・・どうもはっきりしたことはわかりません。

なので、最近「聖徳寺の会見」を知った方には、「正徳寺?漢字間違ってるよ!」と厳しく指摘しないで頂きたい。(笑)

さて、この聖徳寺の会見ですが、(舅と婿の関係とはいえ、こんな大物同士が直接会って話をすることなどあるだろうか?)と、会見の信憑性に疑問符が付けられています。

ですが、逆に考えると“マムシ”の異名を持つほど一癖も二癖もある道三が、会ってもいない“大うつけ”(大バカ)と呼ばれていた信長を気に入って信用したりするでしょうか?

やはり、道三は直接会って自分の目で信長という男を確認したからこそ、その後の信頼関係が生まれたと考えられます。

というわけで、今回は聖徳寺の会見について語りたいと思います。

家督を継いでも“うつけ”ぶりは相変わらず

天文十七年(1548年)織田信秀の嫡男・信長と、斎藤道三の娘・帰蝶が結婚しました。

この時、信長が15歳、帰蝶は14歳だったといわれています。

しかし、父の信秀が亡くなり織田家の家督を継いだ後も信長の“大うつけ”は治らず、傅役の平手政秀が責任を感じて諫死(かんし=悪行を諫めるための自殺)するほどでした。

信長の悪評を耳にした道三の家臣たちは事あるごとに信長のうつけぶりを道三に報告しましたが、道三は家臣たちの話を決して鵜呑みにせず、噂話など信用しませんでした。

しかし同時に、道三は

(これほど悪評高い信長とは、一体どのような男なのか?)

と、逆に興味が湧いてきたのです。

そこで、道三は信長と直接会ってみることにしました。

会見の場所は濃尾国境にある富田村の聖徳寺に決定しました。
聖徳寺跡.jpg
 現在の聖徳寺跡

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道三の度肝を抜いた信長の軍装備!

天文二十二年(1553年)4月下旬、道三は初めて娘婿の信長と会うことになりました。

それにしても、実の娘の結婚から5年も経って初めて娘婿と会う・・・戦国時代の政略結婚とはこんなものだったのです。

しかし、そこは“美濃のマムシ”と呼ばれた曲者の道三、ただ会うだけでは相手の本性はわからないと思い、一計を案じます。

会見の前に、信長がやってくる美濃街道沿いの民家に道三自ら隠れて、そこからこっそり信長の本性を暴いてやろうと考えたのです。

そして、ようやく現れた信長一行を見て、道三は思わず息を飲みました。

信長は700〜800の兵を引き連れ、その兵たちは鉄砲をおよそ500挺、そして三間半(約6b)もある長槍500本を携えていたのです。

鉄砲と長槍という先端兵器をこれだけ大量に所持することなど、当時はとても考えられず、道三がかなり驚かされたことは言うまでもありません。

しかし、肝心の信長は髪を雑に束ね、腰にはひょうたんをいくつもぶら下げて、虎皮の袴を着るという噂通りの大うつけスタイルだったので、道三は少々がっかりしながらも内心ではホッとしていました。

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大器の片鱗を見せた信長

信長の行列を見送った後、道三も聖徳寺に向かいました。

道三は、もし信長が先ほどのうつけスタイルのまま会見場に現れたら「無礼者!」と一喝してやろうと思っていました。

ところが、信長は瞬時に髪を結い直し、きちんと長袴を穿いた見事な正装で道三の前に現れたのです。

思いもよらない信長の変身ぶりに圧倒された道三に対し、信長は堂々と構え、道三にも一顧だにしません。

この状況に慌てた道三の家臣が「こちらが山城殿(道三)でござる」と信長に紹介すると、信長は

「・・・であるか」

と、一言だけ答えたといいます。

会見後の帰り道、道三は明らかにショックを受けている様子が見て取れました。

心配した家臣の猪子兵介が道三を慰めようと「何を見ても上総介殿(信長)はたわけでござりますな」と声を掛けると、道三は

「たわけ?ならば尚更残念だ。我が息子たちはそのたわけの門外に馬を繋ぐことになるだろう」

と、嘆いたそうです。

門外に馬を繋ぐとは、臣従、つまり信長の家臣になって従うという意味です。

道三は(息子たちが偉大な人物に従うなら納得するが、大バカ野郎と思われてる奴に服従させられるのでは何ともやりきれない)と皮肉ったのでしょう。

道三だけは“大うつけ”と呼ばれていた若き信長が大器であることを見抜いていたのですね。

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まとめ

  • 聖徳寺の会見とは、舅と婿の関係である斎藤道三と織田信長が初めて顔を合わせた出来事

  • 道三は会見前密かに信長の様子を観察したが、信長の最新鋭の軍備を見て圧倒された

  • この会見で道三は信長が本当は“大うつけ”などではなく、かなりの大器であることを見抜いた


長良川で息子に討たれた道三が「美濃を信長に譲る」と遺言した理由がわかるような気がしますね。

2020年04月20日

“美濃のマムシ”と恐れられた男 斎藤道三

謎多き戦国の梟雄

今日4月20日は“美濃のマムシ”の異名で恐れられた斎藤道三が亡くなった日です。(弘治二年 1556年)

道三といえば、今年の大河ドラマ『麒麟がくる』では、本木雅弘さんがカッコよくも癖のある道三役を演じて話題になっていますね。

道三は作家・司馬遼太郎の『国盗り物語』の主人公であり、これを原作として昭和四十八年(1973年)には大河ドラマ『国盗り物語』(主演:平幹二朗)も作られました。

道三が“マムシ”(蝮)に例えられる理由は、咬みつかれると命を落とす危険性のある毒を持ち、蛇のように残忍で陰険な性質だからといわれています。

また、道三は松永久秀10月9日付ブログ参照)と並び称される戦国の梟雄(きょうゆう)として知られています。

梟雄とは本来、(残忍で荒々しく強い人物)を意味しますが、戦国時代には(ずる賢く目的を達成するためには手段を選ばぬ悪人)を指して呼ばれることが多いですね。

梟雄と呼ばれる武将は他にも後北条氏の祖・北条早雲がいますが、久秀も含め彼らに共通するのは、その前半生がほとんど不明であることです。

これは、素性のわからない者が歴史の表舞台に上がってくるためには、なりふりなど構っていられないという戦国時代ならでは風潮といえるでしょう。

では、道三はどんな“なりふり構わぬ行為”をしてきたのでしょうか?

というわけで、今回は斎藤道三について語りたいと思います。

“国盗り”は親子二代で成し遂げたものだった!

斎藤道三 明応三年(1494年)〜 弘治二年(1556年)
斎藤道三.jpg

斎藤道三の前半生が不明な点が多いのは前述の通りですが、少年期に京都の妙覚寺で僧侶としての修業を積んだ後、大山崎の油問屋に婿入りして油売りの商人となったようです。

道三は油売りをしながら諸国を歩き回り各地の情勢を探っていましが、そこで目を付けたのが美濃(岐阜県)でした。

その頃、国内情勢が混沌としていた美濃に潜入した道三は、まず美濃の豪族・長井氏に仕官、やがて長井氏の推挙で美濃守護の弟・土岐頼芸(よりなり、又はよりのり)に仕えることになります。

守護の座を狙っていた頼芸は、道三の策謀によって兄の政頼を追放して守護となりました。

念願の守護となり喜んだ頼芸はますます道三を気に入り、寵愛していた深芳野を道三の妻として下げ渡すほどでした。

しかし、道三の専横が目立ち始めると、道三を推挙した長井氏などの反感を買うようになります。

すると、道三は主家だった長井氏を討ち、やがて頼芸をも追放してついに美濃を奪うことに成功したのです。

・・・と、ここまでが『国盗り物語』にも描かれている道三の“下剋上物語”としての定説でした。

ところが、近年の研究によると、これは道三一人のことではなく、道三が父と親子二代で成し遂げたという説が有力です。

つまり、僧侶の修業から土岐氏に仕えるまでは道三の父・西村新左衛門尉(しんさえもんのじょう)の業績であり、新左衛門尉の死後に跡を継いだ道三が“国盗り”を完結させたというのです。

これが事実ならば、道三の代名詞である「油売り」は道三自身ではなく、道三の父の職業だったことになります。(※道三はこの間に名字を西村→長井→斎藤と次々に変えている)

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織田家と同盟し信長の舅となる

頼芸を追放して美濃一国を手に入れた道三でしたが、頼芸は隣国尾張(愛知県西部)の織田信秀を頼り、道三は信秀と戦うことになりました。

信秀は越前(福井県)の朝倉氏と手を組んで何度も美濃に攻め入りました。

天文十六年(1547年)の加納口の戦いでは、道三は兵力差において圧倒的に不利でしたが、地の利を活かして見事に織田軍を撃退します。

道三との戦いに苦戦を強いられていた信秀には、東にも駿河(静岡県)の今川義元という大敵が控えていました。

やがて信秀はこのまま美濃を攻め続けるのは得策でないと考えるようになり、一転して道三に和睦を申し入れます。

斎藤家と織田家による同盟の証しとして、道三の娘・帰蝶10月16日付ブログ参照)を信秀の嫡男・信長に嫁がせることになりました。

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親子による骨肉の争い

天文二十三年(1554年)道三は嫡男の義龍に家督を譲り隠居します。

しかし、義龍は父の道三とは折り合いが悪く、以前から(自分の本当の父親は、道三が追放した土岐頼芸なのではないか?)という疑念を抱いていました。

つまり、義龍の母・深芳野は道三の妻になった時すでに頼芸の子(義龍)を身籠っていたと思っていたのです。

それがやがて疑心暗鬼を生み、義龍は(いつか自分は道三によって廃嫡され、代わりに弟が家督を継ぐことになる)と考えるようになります。

こうして精神的に追い詰められた義龍は、とうとう父を討つことを決意します。

義龍は病気と称して二人の弟を居城に呼び出した上で殺害し、ついに父の道三に宣戦布告したのです。

道三が義龍の謀反に気付いた時には既に遅く、斎藤家のほとんどの家臣たちが義龍側についていました。

弘治二年(1556年)4月、道三と義龍は長良川を挟んで対峙しましたが、義龍軍がおよそ17,500だったのに対し、道三に味方した兵はわずか2,700であり、とうてい道三に勝ち目はありませんでした。

道三は激戦の末に討ち取られますが、皮肉にも最後になって義龍の見事な采配ぶりを見直したといわれています。

一方、道三から援軍要請を受けていた信長は自ら軍勢を率いて道三救出に向かいましたが、到着する前に道三は討死してしまい間に合いませんでした。

道三は義龍との決戦前夜、「美濃を信長に譲り渡す」という旨の遺言状を書いていたそうです。



まとめ

  • “美濃のマムシ”の異名で恐れられた斎藤道三は親子二代にわたって美濃の国盗りを成し遂げた

  • 織田家と手を結んだ道三は娘の帰蝶を織田信長に嫁がせ信長の舅となった

  • 道三は隠居した後に息子・義龍の謀反に遭い討死した


道三は若き日の信長をどう見ていたのでしょうか?
それは、また次回にお送りします。
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カナケン
元高校教師。 以前に「日本史講座」のタイトルでツイッターをやってました。 ここでは(現代にも繫がる日本史)をテーマにエピソードを多数紹介し、肩肘張らず(ほー、なるほど)と思える話を語っていきたいと思います。
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