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2019年11月18日
初投稿から、1年。
このブログの初投稿は去年の11月18日、
ちょうど1年前の今日だった。
→「お初に。」
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/1/0
この初記事を含め、初期の記事を読み返すと
本当に今以上に拙くて、読みながら
顔から火が出そうになった。
初期の記事のいくつかは、
あまりのまとまりのなさに愕然とし、
ほとんど1から書き直したものもある。
この頃は毎日更新していなかったので、
日付が飛び飛びなことが個人的には気になる。
2019年に入ってから
1日に複数記事を書いたこともあったけど、
今日この記事が通算361記事目、
365にはわずかに届かなかった。
自分の気持ちを書くことに
そこまで本気になっていなかったのか、
今から考えるとそこが悔しい。
自分の生き様の記録、そして
発達障害のことをメインに書こうと始めたけど、
自分の中の問題が明らかになるにつれ、
気づけば家族カテゴリの記事が一番多くなった。
初記事を書いた時点ではまったく予想しておらず、
まさかこういう趣旨の記事がたまっていくなんて
思ってもいなかった。
それは、自分と向き合う時間、
自分と深く対面する時間があったからこそ。
当時は定期的に通う場所がなく、
孤独感を今以上に強く感じていた中だったけど、
結果的にはよかったと思う。
1年間、毎日更新したと言えるのは
来年の年明け。
ひとまず今日は、このブログの歴史が始まった
建国記念日とでも呼んでおこうか。
1年前の今日は、就労移行支援に通い、
企業実習に行き、生活保護を受け、
何より祖父が亡くなるなんて思いもしなかった。
ちょうど今も、生活保護の件で急展開を見せ、
人生はまさに予想外の連続。
→「やっと手に入れた平穏な日々に、急展開。」
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/362/0
直近の、この急展開はちょっといらない…。
そんな騒がしい1周年、
数えきれない変化、事件、挑戦を刻み続けてきて、
節目の365記事まで、そして1年連続投稿まで、あと少し。
ちょうど1年前の今日だった。
→「お初に。」
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/1/0
この初記事を含め、初期の記事を読み返すと
本当に今以上に拙くて、読みながら
顔から火が出そうになった。
初期の記事のいくつかは、
あまりのまとまりのなさに愕然とし、
ほとんど1から書き直したものもある。
この頃は毎日更新していなかったので、
日付が飛び飛びなことが個人的には気になる。
2019年に入ってから
1日に複数記事を書いたこともあったけど、
今日この記事が通算361記事目、
365にはわずかに届かなかった。
自分の気持ちを書くことに
そこまで本気になっていなかったのか、
今から考えるとそこが悔しい。
自分の生き様の記録、そして
発達障害のことをメインに書こうと始めたけど、
自分の中の問題が明らかになるにつれ、
気づけば家族カテゴリの記事が一番多くなった。
初記事を書いた時点ではまったく予想しておらず、
まさかこういう趣旨の記事がたまっていくなんて
思ってもいなかった。
それは、自分と向き合う時間、
自分と深く対面する時間があったからこそ。
当時は定期的に通う場所がなく、
孤独感を今以上に強く感じていた中だったけど、
結果的にはよかったと思う。
1年間、毎日更新したと言えるのは
来年の年明け。
ひとまず今日は、このブログの歴史が始まった
建国記念日とでも呼んでおこうか。
1年前の今日は、就労移行支援に通い、
企業実習に行き、生活保護を受け、
何より祖父が亡くなるなんて思いもしなかった。
ちょうど今も、生活保護の件で急展開を見せ、
人生はまさに予想外の連続。
→「やっと手に入れた平穏な日々に、急展開。」
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/362/0
直近の、この急展開はちょっといらない…。
そんな騒がしい1周年、
数えきれない変化、事件、挑戦を刻み続けてきて、
節目の365記事まで、そして1年連続投稿まで、あと少し。
2019年11月17日
やっと手に入れた平穏な日々に、急展開。
つい先日、
無事に生活保護の支給開始となり、
生きる心配もなく心穏やかに過ごせる日々を
やっと手に入れたと報告した矢先。
なんでこんなことが起きるんだと、
あまりの急展開ぶりに
自分でも気持ちの整理がついていないけど、
予想外のことが起きるのが人生なので
まだ混乱している中で書きたいと思う。
※生活保護が受理された話。
「生活保護開始決定通知書。」
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/352/0
生活保護を申請する際には、
手元にあって生きている通帳をすべて出す。
そして区役所側で、提出された銀行を調べ、
同じ名義の別口座がないか、
申告された残高が正しいか、などを調べる。
僕はゆうちょ銀行の口座を自分名義で2つ持っていて、
手元にある通帳とキャッシュカードももちろんその2つ。
郵政民営化する前から持っているので、
通帳には「郵政公社」と刻まれている。
ゆうちょ銀行は今は使ってないけど、
解約しておらず手元にある口座情報なので、
申請時にこの2つを提出した。
無事に初回の保護費を受け取り、
ほっとしてから一週間と少し。
昨日、区役所から
「お尋ねしたいことがある」と電話があった。
ちょうど収入申告もあったので、
区役所の保護課へ直接訪れた。
そこで知らされた、衝撃の事実。
僕が知らず、
手元にある2つのどちらでもない、
しかし僕名義のゆうちょ銀行口座を
親が持っているらしい、とのこと。
しかもその口座には150万円以上の
残高があると。
両隣で普通に窓口対応をしている中で、
僕は驚きのあまり「えぇっ?!!」と
声を出してしまった。
ここ1年で一番驚いた。
一瞬うるさくしてしまって申し訳ない。
こういったケースで考えられるのは、
普通預金などとは別の、定期預金や積立などで
親が子ども名義で別口座を作っていることだそうだ。
担当職員さんも、
「銀行の調査結果を見た時、私も目を疑いました…」
と驚いたと仰っていた。
驚愕のすぐ後、
恥ずかしさのような罪悪感のような、
とても居たたまれない気持ちになった。
嘘の口座情報を申告していた、
不正受給をしようとしていたと
疑われていたらどうしよう、という心配。
次に、保護申請にあたり
サポートしてくれた相談室の担当さんに
申し訳ないという気持ち。
※疑い云々については、
区役所側がそういうニュアンスで接してこなかったのなら
心配しなくても大丈夫ですよ、知りようのなかったことですから
とのことだった。
そして3番目に、
もし親がお金を譲渡すると言ってきたら、
彼らと関わらないことでやっと手に入れた心の平穏が
崩れ去ってしまうという心配。
これだけの金額を受け取れるのなら、
まずはそれを使って生活するよう指示され、
生活保護は当然廃止になる。
親から受け取ることになると、
彼らがそう思うかは別として
僕は親に借りを作ることになる。
この衝撃の事実発覚で
僕が一番心配したのはこの点だった。
「お金があります」と聞いて
これほど嬉しくなかったことは初めて。
このけっこうな額を親が譲渡、仕送りという形で
渡すかどうかについては、区役所側で連絡し、
意思確認するそうだ。
変な話、僕は「譲渡しません」と
答えてほしいと思っている。
生活保護が廃止になった場合については、
相談室の担当さん曰く「また申請すればいい」。
だけど「譲渡しない」と言ってくれれば、
これも変な話だけど保護廃止にならず、
家族に借りを作ったり関わったりせずに済む。
極端に言えば、僕は生活がどうなるかよりも
家族と関わることで心がさらに傷つくのを
何よりも恐れているんだ。
つい昨日見た、
自分を針で刺すよう命じられた直後に
葬式が始まるという急展開すぎる夢。
→「自分を針で刺しなさいと命じられる夢。」
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/361/0
知らない人の葬式の夢は
思いがけない幸運という意味もあるらしい。
僕にとっては「幸運」と捉えることはできないけど、
予想外のことが起きると、予知していたのなら
人間の直感とは本当にすごい。
昼寝をして少し落ち着いた今は、
どうなるかわからない反応を心配してどうする、
区役所からの連絡と、成り行きに任せようと
無理やりセルフトークをしている。
無事に生活保護の支給開始となり、
生きる心配もなく心穏やかに過ごせる日々を
やっと手に入れたと報告した矢先。
なんでこんなことが起きるんだと、
あまりの急展開ぶりに
自分でも気持ちの整理がついていないけど、
予想外のことが起きるのが人生なので
まだ混乱している中で書きたいと思う。
※生活保護が受理された話。
「生活保護開始決定通知書。」
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/352/0
生活保護を申請する際には、
手元にあって生きている通帳をすべて出す。
そして区役所側で、提出された銀行を調べ、
同じ名義の別口座がないか、
申告された残高が正しいか、などを調べる。
僕はゆうちょ銀行の口座を自分名義で2つ持っていて、
手元にある通帳とキャッシュカードももちろんその2つ。
郵政民営化する前から持っているので、
通帳には「郵政公社」と刻まれている。
ゆうちょ銀行は今は使ってないけど、
解約しておらず手元にある口座情報なので、
申請時にこの2つを提出した。
無事に初回の保護費を受け取り、
ほっとしてから一週間と少し。
昨日、区役所から
「お尋ねしたいことがある」と電話があった。
ちょうど収入申告もあったので、
区役所の保護課へ直接訪れた。
そこで知らされた、衝撃の事実。
僕が知らず、
手元にある2つのどちらでもない、
しかし僕名義のゆうちょ銀行口座を
親が持っているらしい、とのこと。
しかもその口座には150万円以上の
残高があると。
両隣で普通に窓口対応をしている中で、
僕は驚きのあまり「えぇっ?!!」と
声を出してしまった。
ここ1年で一番驚いた。
一瞬うるさくしてしまって申し訳ない。
こういったケースで考えられるのは、
普通預金などとは別の、定期預金や積立などで
親が子ども名義で別口座を作っていることだそうだ。
担当職員さんも、
「銀行の調査結果を見た時、私も目を疑いました…」
と驚いたと仰っていた。
驚愕のすぐ後、
恥ずかしさのような罪悪感のような、
とても居たたまれない気持ちになった。
嘘の口座情報を申告していた、
不正受給をしようとしていたと
疑われていたらどうしよう、という心配。
次に、保護申請にあたり
サポートしてくれた相談室の担当さんに
申し訳ないという気持ち。
※疑い云々については、
区役所側がそういうニュアンスで接してこなかったのなら
心配しなくても大丈夫ですよ、知りようのなかったことですから
とのことだった。
そして3番目に、
もし親がお金を譲渡すると言ってきたら、
彼らと関わらないことでやっと手に入れた心の平穏が
崩れ去ってしまうという心配。
これだけの金額を受け取れるのなら、
まずはそれを使って生活するよう指示され、
生活保護は当然廃止になる。
親から受け取ることになると、
彼らがそう思うかは別として
僕は親に借りを作ることになる。
この衝撃の事実発覚で
僕が一番心配したのはこの点だった。
「お金があります」と聞いて
これほど嬉しくなかったことは初めて。
このけっこうな額を親が譲渡、仕送りという形で
渡すかどうかについては、区役所側で連絡し、
意思確認するそうだ。
変な話、僕は「譲渡しません」と
答えてほしいと思っている。
生活保護が廃止になった場合については、
相談室の担当さん曰く「また申請すればいい」。
だけど「譲渡しない」と言ってくれれば、
これも変な話だけど保護廃止にならず、
家族に借りを作ったり関わったりせずに済む。
極端に言えば、僕は生活がどうなるかよりも
家族と関わることで心がさらに傷つくのを
何よりも恐れているんだ。
つい昨日見た、
自分を針で刺すよう命じられた直後に
葬式が始まるという急展開すぎる夢。
→「自分を針で刺しなさいと命じられる夢。」
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/361/0
知らない人の葬式の夢は
思いがけない幸運という意味もあるらしい。
僕にとっては「幸運」と捉えることはできないけど、
予想外のことが起きると、予知していたのなら
人間の直感とは本当にすごい。
昼寝をして少し落ち着いた今は、
どうなるかわからない反応を心配してどうする、
区役所からの連絡と、成り行きに任せようと
無理やりセルフトークをしている。
2019年11月08日
聞かれたら告白するべきか、否か。
昨日、無事に生活保護の申請が
通ったという記事を書いたところ、
普段の約10倍、
なんと750を超えるアクセスがあり、
朝起きてびっくり。
→「生活保護開始決定通知書。」
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/352/0
ひとまずは、家を無くさなくてよくなり、
少し気持ちに余裕が出てきたので、
今日はあえて地下鉄で街中へ行き、
洗剤やシャンプーなど食糧以外の必需品を調達して来た。
この数ヶ月くらいは思いもつかなかったが、
中古PCショップへ寄り、
ウィンドウショッピングをしてみた。
食べて生き延びること以外に
やりたいことが思いつくのは、
マズローの五大欲求で言うところの
下から2番目「安全欲求」が満たされたからだろう。
生活は保証してもらえたものの、
1つ気になっていることがある。
それは、僕の知人がもし
生活保護のことを知ったら、
見る目が変わるのだろうか、ということ。
通っている就労移行支援では
すでに生活保護を受けている人は何人かいるが、
自分が当事者になったことで、
差別のようなものはあるのだろうか。
この先、僕が自分で充分に稼げるようになり、
保護廃止決定通知をもらうまでに、
一度でもそういう経験をするのだろうか。
触れ回ったり、発表したりするものではなくても、
もし聞かれて答えなければいけなくなった時に、
素直に「生活保護を受けている」と
告白してもいいのだろうか。
それとも、どうやって生計を立てているかは
できるなら言わない方がいいんだろうか。
そんな疑問。
人によっては、
自分は長時間働いているのにお前は、と
非難するかも知れないので、
今のところは、リアルで交流のある人には
聞かれない限り言わない方がいいと思っている。
そんな場面に出くわすかわからないのに、
僕は何を想像して不安になってるんだろう。
人にどう思われようと、
生き延びるため、自立の準備のために
自分で選んだ道なんだから、
お世話になれる内はお世話になればいい。
そして、充分に稼げるようになってから
ゆっくり返していけばいいじゃないか。
何だかまとまりに欠ける結論だけど、
ひとまずはそう言い聞かせて、
自分を納得させることにする。
通ったという記事を書いたところ、
普段の約10倍、
なんと750を超えるアクセスがあり、
朝起きてびっくり。
→「生活保護開始決定通知書。」
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/352/0
ひとまずは、家を無くさなくてよくなり、
少し気持ちに余裕が出てきたので、
今日はあえて地下鉄で街中へ行き、
洗剤やシャンプーなど食糧以外の必需品を調達して来た。
この数ヶ月くらいは思いもつかなかったが、
中古PCショップへ寄り、
ウィンドウショッピングをしてみた。
食べて生き延びること以外に
やりたいことが思いつくのは、
マズローの五大欲求で言うところの
下から2番目「安全欲求」が満たされたからだろう。
生活は保証してもらえたものの、
1つ気になっていることがある。
それは、僕の知人がもし
生活保護のことを知ったら、
見る目が変わるのだろうか、ということ。
通っている就労移行支援では
すでに生活保護を受けている人は何人かいるが、
自分が当事者になったことで、
差別のようなものはあるのだろうか。
この先、僕が自分で充分に稼げるようになり、
保護廃止決定通知をもらうまでに、
一度でもそういう経験をするのだろうか。
触れ回ったり、発表したりするものではなくても、
もし聞かれて答えなければいけなくなった時に、
素直に「生活保護を受けている」と
告白してもいいのだろうか。
それとも、どうやって生計を立てているかは
できるなら言わない方がいいんだろうか。
そんな疑問。
人によっては、
自分は長時間働いているのにお前は、と
非難するかも知れないので、
今のところは、リアルで交流のある人には
聞かれない限り言わない方がいいと思っている。
そんな場面に出くわすかわからないのに、
僕は何を想像して不安になってるんだろう。
人にどう思われようと、
生き延びるため、自立の準備のために
自分で選んだ道なんだから、
お世話になれる内はお世話になればいい。
そして、充分に稼げるようになってから
ゆっくり返していけばいいじゃないか。
何だかまとまりに欠ける結論だけど、
ひとまずはそう言い聞かせて、
自分を納得させることにする。
2019年11月07日
生活保護開始決定通知書 〜生活保護を受けることになって〜。
生活保護の申請を終えて2週間が経った。
僕は穏やかで、落ち着かない日々を過ごしていた。
”穏やかで落ち着かない”
そんな矛盾を作り出していたのは郵便受けだった。
なにしろ、
生活保護課からのお知らせが入っているかもしれないからだ。
そんな日々の末に、僕はついに生活保護の受給が認められた。
ー目次ー
平日の13時。
11月の曇り空は、今にも初雪をこぼしそうだった。
就労移行支援事業所では午後の作業が始まった。
書類を封筒に入れる音、荷造りをする音、
いつも通りの作業風景が流れていった。
僕もその風景の一部になりたかった。
何も考えなくていい単純作業に救われていた。
ふと、スタッフさんから声をかけられた。
「生活保護課からお電話ですよ」
僕は作業から抜け出し、電話に出た。
明瞭な男性の声が、こう言った。
「生活保護の支給が決定しました」
僕は作業を中抜けし、区役所へ向かった。
生活保護課へ着くと、
職員さんが諸注意や支給日、収入の届出方法などを説明してくれた。
そして最後に、生活保護費を受け取った。
手続きが終わり、事業所へ戻った。
僕は残りの作業を終えて帰路についた。
とたんに、涙があふれた。
肩へのしかかっていた重いものが、
どこかへ消えたようだった。
ふいに「よかった…。」とつぶやいた。
区役所で説明を受けたとき、
僕はずっと気になっていた質問をした。
「(関係が破綻している)親はなにか言っていましたか?」
代理の方はこう答えてくれた。
「正確にはわかりませんが、まだ親御さんには連絡していないそうです。」
生活保護を申請したとき、僕の両親も同席した。
その席で、自閉症スペクトラム(ASD)障害、
とりわけアスペルガー症候群の特徴が強い父親が暴れた経緯があった。
”暴れた”というのはもちろん暴力ではない。
「延々と持論を語る」「息子の心配をよそおった人格攻撃」だ。
母親はいつも、そんな父親を止めるフリをする。
が、本気でやめさせることは一度もない。
誰だって我が身がいちばん大事だし、
父親を怒らせて収入の基盤を失いたくはないだろう。
それは理解しても、子どもの立場ではつらかった。
「母親は助けてくれない」と思い知らされることが。
そんな経緯があったので、
僕はまだ、親が何をしでかすかを恐れていた。
父親には「空気を読む」能力も、
延々と話す自分を客観視する能力もない。
だから今回も、父親の暴走が怖かった。
「息子が生活保護を受けた」
この現実を、また僕への攻撃という形で否定してくるのではと恐れた。
そして、「助けない母親」を見るのが悲しかった。
また、あの”見捨てられたような孤独感”を味わうことを恐れた。
家に帰り、今日のできごとを振り返った。
就労移行支援事業所のスタッフさんから「痩せましたね」と言われた。
そういえばベルトの穴が1つ、縮んでいた。
身体と心は無意識に、ストレスに耐えていた。
僕はふたたび外へ出た。
そういえば、近所にトライアル(大型スーパー)ができたっけ。
寒空の下、自転車を走らせた。
真新しい店内を歩き回り、
いつもより少し高級な食材を買いこんだ。
帰り道、自転車をこぎながら、また泣いた。
僕は無事に生活保護を受けられた。
ほっとした気持ちと同時に、自分への疑問が生まれた。
「僕はどうして、ほっとしているのか?」
僕は「生」にそこまで執着がないつもりでいた。
「生き続けるなら生きるけど、死ぬならそれでいい」
心は冷めているのに、身体は生き延びるために必死で動いていた。
自分の体内で、こんな矛盾が渦巻いていることが釈然としなかった。
「自分は何をもって自分なのか」「自分の意志なんてあるのか」
そんなことを、繰り返し考えた。
なのに、僕は泣いた。
それはきっと、
心の底では、まだ生きたいと願っているのかも知れない
からだった。
そして、
僕の「生」への執着を冷めさせていたのは、
きっと僕自身の無意識だった。
「今の状況では、このまま生きたいと願うことに心が耐えられないだろう」
そう判断がくだり、生きる欲求を封印させた。
「生きていたくない」「まだ生きたい」
涙はきっと、そんな心のせめぎ合いからこぼれ落ちた。
※生活保護の申請・三部作
生活保護の申請。(1) -生活保護課への書類提出-
生活保護の申請。(2) -ケースワーカーによる家庭訪問-
生活保護の申請。(3) -民生委員による家庭訪問-
僕は穏やかで、落ち着かない日々を過ごしていた。
”穏やかで落ち着かない”
そんな矛盾を作り出していたのは郵便受けだった。
なにしろ、
生活保護課からのお知らせが入っているかもしれないからだ。
そんな日々の末に、僕はついに生活保護の受給が認められた。
ー目次ー
- ”生活保護課からお電話ですよ”
- 父親の暴走への恐れ、助けない母親への悲しみ
- まだ、生きたいと願っていたのかもしれない
1.”生活保護課からお電話ですよ”
平日の13時。
11月の曇り空は、今にも初雪をこぼしそうだった。
就労移行支援事業所では午後の作業が始まった。
書類を封筒に入れる音、荷造りをする音、
いつも通りの作業風景が流れていった。
僕もその風景の一部になりたかった。
何も考えなくていい単純作業に救われていた。
ふと、スタッフさんから声をかけられた。
「生活保護課からお電話ですよ」
僕は作業から抜け出し、電話に出た。
明瞭な男性の声が、こう言った。
「生活保護の支給が決定しました」
僕は作業を中抜けし、区役所へ向かった。
生活保護課へ着くと、
職員さんが諸注意や支給日、収入の届出方法などを説明してくれた。
そして最後に、生活保護費を受け取った。
手続きが終わり、事業所へ戻った。
僕は残りの作業を終えて帰路についた。
とたんに、涙があふれた。
肩へのしかかっていた重いものが、
どこかへ消えたようだった。
ふいに「よかった…。」とつぶやいた。
2.父親の暴走への恐れ、助けない母親への悲しみ
区役所で説明を受けたとき、
僕はずっと気になっていた質問をした。
「(関係が破綻している)親はなにか言っていましたか?」
代理の方はこう答えてくれた。
「正確にはわかりませんが、まだ親御さんには連絡していないそうです。」
生活保護を申請したとき、僕の両親も同席した。
その席で、自閉症スペクトラム(ASD)障害、
とりわけアスペルガー症候群の特徴が強い父親が暴れた経緯があった。
”暴れた”というのはもちろん暴力ではない。
「延々と持論を語る」「息子の心配をよそおった人格攻撃」だ。
母親はいつも、そんな父親を止めるフリをする。
が、本気でやめさせることは一度もない。
誰だって我が身がいちばん大事だし、
父親を怒らせて収入の基盤を失いたくはないだろう。
それは理解しても、子どもの立場ではつらかった。
「母親は助けてくれない」と思い知らされることが。
そんな経緯があったので、
僕はまだ、親が何をしでかすかを恐れていた。
父親には「空気を読む」能力も、
延々と話す自分を客観視する能力もない。
だから今回も、父親の暴走が怖かった。
「息子が生活保護を受けた」
この現実を、また僕への攻撃という形で否定してくるのではと恐れた。
そして、「助けない母親」を見るのが悲しかった。
また、あの”見捨てられたような孤独感”を味わうことを恐れた。
3.まだ、生きたいと願っていたのかもしれない
家に帰り、今日のできごとを振り返った。
就労移行支援事業所のスタッフさんから「痩せましたね」と言われた。
そういえばベルトの穴が1つ、縮んでいた。
身体と心は無意識に、ストレスに耐えていた。
僕はふたたび外へ出た。
そういえば、近所にトライアル(大型スーパー)ができたっけ。
寒空の下、自転車を走らせた。
真新しい店内を歩き回り、
いつもより少し高級な食材を買いこんだ。
帰り道、自転車をこぎながら、また泣いた。
僕は無事に生活保護を受けられた。
ほっとした気持ちと同時に、自分への疑問が生まれた。
「僕はどうして、ほっとしているのか?」
僕は「生」にそこまで執着がないつもりでいた。
「生き続けるなら生きるけど、死ぬならそれでいい」
心は冷めているのに、身体は生き延びるために必死で動いていた。
自分の体内で、こんな矛盾が渦巻いていることが釈然としなかった。
「自分は何をもって自分なのか」「自分の意志なんてあるのか」
そんなことを、繰り返し考えた。
なのに、僕は泣いた。
それはきっと、
心の底では、まだ生きたいと願っているのかも知れない
からだった。
そして、
僕の「生」への執着を冷めさせていたのは、
きっと僕自身の無意識だった。
「今の状況では、このまま生きたいと願うことに心が耐えられないだろう」
そう判断がくだり、生きる欲求を封印させた。
「生きていたくない」「まだ生きたい」
涙はきっと、そんな心のせめぎ合いからこぼれ落ちた。
リンク
リンク
※生活保護の申請・三部作
生活保護の申請。(1) -生活保護課への書類提出-
生活保護の申請。(2) -ケースワーカーによる家庭訪問-
生活保護の申請。(3) -民生委員による家庭訪問-
2019年11月05日
辛抱強く待つことの難しさ。
生活保護の申請をしてから
今日でちょうど2週間。
10日〜2週間で結果の通知がくると
知らされていて、
悪い結果ばかり妄想しても仕方ないと、
今までは考えないようにしていた。
→「生活保護の申請。(1) -生活保護課への書類提出-」
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/338/0
→「生活保護の申請。(2) -ケースワーカーによる家庭訪問-」
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/339/0
→「生活保護の申請。(3) -民生委員による家庭訪問-」
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/340/0
しかし、いざその期限を迎えても
ポストに何も投函されていないのを確認すると、
にわかに心がざわついてくる。
考えないように必死でしまいこんでいた
悪い結果が、頭の片隅から飛び出しそうになる。
もうひとつ、この期間中に
来月分の家賃の引き落とし日を過ぎてしまった。
つまり、来月分は残高不足で
まだ引き落とされておらず、
ここに住める保証を獲得できていない。
これも考えないようにしていたが、
頭の奥に閉じ込めておいたはずの
滞納の恐怖が少しずつこちらを覗きだす。
もう、自分にできることはやった。
辛抱強く待つだけ。
これが、ものすごく難しいことを
今、思い知っている。
何かしなければいけないような焦り、
家賃が払えず滞納する恐怖、
考えても仕方ないとわかっていても、
どうしても浮かんでくる悪い結果の未来。
これらをすべて受け入れた上で、
辛抱強く待つことが、
今の自分に求められていること。
申請の段取りから尽力してくれて、
当日は生活保護課に同行してくれた
相談室の担当さん。
去年の今頃、食べ物にも困り始めた僕を
フードバンクに繋げてくれた
市の生活支援センターの担当さん。
今、お世話になってる
就労移行支援のスタッフさん。
たくさんの人に支えられて、
ここまで来たんだから、
僕はもう少し、ジタバタせずに待つんだ。
支えてくれたみんなに悪いから。
今日でちょうど2週間。
10日〜2週間で結果の通知がくると
知らされていて、
悪い結果ばかり妄想しても仕方ないと、
今までは考えないようにしていた。
→「生活保護の申請。(1) -生活保護課への書類提出-」
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/338/0
→「生活保護の申請。(2) -ケースワーカーによる家庭訪問-」
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/339/0
→「生活保護の申請。(3) -民生委員による家庭訪問-」
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/340/0
しかし、いざその期限を迎えても
ポストに何も投函されていないのを確認すると、
にわかに心がざわついてくる。
考えないように必死でしまいこんでいた
悪い結果が、頭の片隅から飛び出しそうになる。
もうひとつ、この期間中に
来月分の家賃の引き落とし日を過ぎてしまった。
つまり、来月分は残高不足で
まだ引き落とされておらず、
ここに住める保証を獲得できていない。
これも考えないようにしていたが、
頭の奥に閉じ込めておいたはずの
滞納の恐怖が少しずつこちらを覗きだす。
もう、自分にできることはやった。
辛抱強く待つだけ。
これが、ものすごく難しいことを
今、思い知っている。
…もうどんな未来も受け入れる
差し伸べられた手は掴む…!!
おれを裁く白刃も受け入れる…
もうジタバタしねェ
みんなに悪い
ポートガス・D・エース
『ONE PIECE(巻57)』 559話より
何かしなければいけないような焦り、
家賃が払えず滞納する恐怖、
考えても仕方ないとわかっていても、
どうしても浮かんでくる悪い結果の未来。
これらをすべて受け入れた上で、
辛抱強く待つことが、
今の自分に求められていること。
申請の段取りから尽力してくれて、
当日は生活保護課に同行してくれた
相談室の担当さん。
去年の今頃、食べ物にも困り始めた僕を
フードバンクに繋げてくれた
市の生活支援センターの担当さん。
今、お世話になってる
就労移行支援のスタッフさん。
たくさんの人に支えられて、
ここまで来たんだから、
僕はもう少し、ジタバタせずに待つんだ。
支えてくれたみんなに悪いから。
2019年11月03日
自転車のパンク。
自転車の後輪がパンクした。
空気が抜けてふやふやになったタイヤを触り、
最初に出てきた言葉は「このタイミングかぁ…。」だった。
”このタイミング”というのは、
2週間前に申請した生活保護の結果待ち期間で、
修理費の捻出が難しい時期という意味。
残されたお金は食費に優先して遣い、
ひとまず生き延びることが先決な時期だから、
気軽に修理しましょうとは
なかなか踏み切れない。
とはいえ、よく働いてくれたから、
むしろよく今までパンクしなかったなとも思う。
自宅から就労移行支援事業所までは
Googleマップによると片道3.5キロあり、
僕の家は小高い丘の上の地区にある。
行きはほとんど下り坂、帰りはほとんど上り坂で、
毎日何キロも斜面を上り下りさせていたから、
相当な負担をかけていただろう。
でも、おかげで冬に備えて
地下鉄ICカードの残高をかなりセーブできた。
寒くなってきたとはいえ、
本格的に雪が積もるまでは使いたい。
なるべく早く修理したいけど、
いつ修理できるだろう。
自転車のパンク修理費すら
気軽に出せない現状と、
その現実を作り出した自分を
つい責めてしまいそうになる。
この自転車はもらいもので、
僕が毎日乗り始めてからはまだ1年くらい。
だけど、もともとの持ち主が
10年近く乗ってきたので、かなりの高齢。
2年くらい前にパンク修理した時、
「使い込まれてるから、次は修理より買った方が安い」
と言われていたっけ。
もはや大ベテランの自転車だけど、
数千円で直せる範囲なら、ぜひまた乗せてほしい。
だいぶ前、1月の話になるけど、
今回と同じくお金を出しにくい時期にちょうど、
愛用のノートPCが逝去してしまった。
→「たたみかける試練。」
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/24/0
この時といい、今回といい、
なくすと困るものをなくすタイミングなんて
そんなものなんだなぁ。
巷でよく言われる言葉を使えば、
人生ってそんなもの、なのかな。
なくすことと、手に入れることが、
人生でちゃんと辻褄が合うというなら、
僕にできることは、自転車を直すタイミングを
逃さないよう、虎視眈々と狙うことだろう。
空気が抜けてふやふやになったタイヤを触り、
最初に出てきた言葉は「このタイミングかぁ…。」だった。
”このタイミング”というのは、
2週間前に申請した生活保護の結果待ち期間で、
修理費の捻出が難しい時期という意味。
残されたお金は食費に優先して遣い、
ひとまず生き延びることが先決な時期だから、
気軽に修理しましょうとは
なかなか踏み切れない。
とはいえ、よく働いてくれたから、
むしろよく今までパンクしなかったなとも思う。
自宅から就労移行支援事業所までは
Googleマップによると片道3.5キロあり、
僕の家は小高い丘の上の地区にある。
行きはほとんど下り坂、帰りはほとんど上り坂で、
毎日何キロも斜面を上り下りさせていたから、
相当な負担をかけていただろう。
でも、おかげで冬に備えて
地下鉄ICカードの残高をかなりセーブできた。
寒くなってきたとはいえ、
本格的に雪が積もるまでは使いたい。
なるべく早く修理したいけど、
いつ修理できるだろう。
自転車のパンク修理費すら
気軽に出せない現状と、
その現実を作り出した自分を
つい責めてしまいそうになる。
この自転車はもらいもので、
僕が毎日乗り始めてからはまだ1年くらい。
だけど、もともとの持ち主が
10年近く乗ってきたので、かなりの高齢。
2年くらい前にパンク修理した時、
「使い込まれてるから、次は修理より買った方が安い」
と言われていたっけ。
もはや大ベテランの自転車だけど、
数千円で直せる範囲なら、ぜひまた乗せてほしい。
だいぶ前、1月の話になるけど、
今回と同じくお金を出しにくい時期にちょうど、
愛用のノートPCが逝去してしまった。
→「たたみかける試練。」
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/24/0
この時といい、今回といい、
なくすと困るものをなくすタイミングなんて
そんなものなんだなぁ。
巷でよく言われる言葉を使えば、
人生ってそんなもの、なのかな。
なくすことと、手に入れることが、
人生でちゃんと辻褄が合うというなら、
僕にできることは、自転車を直すタイミングを
逃さないよう、虎視眈々と狙うことだろう。
2019年10月29日
去年の今日も、きれいな紅葉だった。
ちょうど1年前の今日、
僕は母方の祖父母の家を訪れていた。
当時は会社勤めを辞めて2ヶ月、離婚して1ヶ月、
なんだかんだあって、
失業保険をもらい始めるのは、この翌月。
企業勤め以外の働き方を模索し、
文章を書いて仕事にできないかと考え、
クラウドワークスでWEBライターに取り組んでいた。
しかし収入面ではまだまだだったので、
会社勤めをしていた頃の
僅かな蓄えで生き延びていた。
今年は思いのほか、あたたかい日が続いている。
去年の今頃は昼間でも10度以下が多く、
曇りの日が続いて寒くなるのが早かった。
だけど、祖父母の待つ山村へ行く前日くらいに
急にあたたかく、天気も回復してくれた。
束の間の晴天、そして温暖で穏やかなひととき。
黄色と赤の葉でいっぱいの木、
その真下から撮った一枚。
山の向こうにほとんど沈んだけど、
まだ少し残るオレンジと暗がりが美しい一枚。
早いなぁ。
もう1年も経つのか。
この時も、この半年後に急死した時も、
祖父は元気だった。
耳はかなり遠くなっていたけど、
独りぼっちになった僕の事情も何も聞かず、
いつものようにニコニコしては
早寝早起きの健康的な毎日を送っていた。
※「母方祖父の逝去。」
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/199/0
自宅近くの、お気に入りの大きな公園では
今年もきれいな紅葉に彩られている。
幸運にもあたたかい日が続く最近は
毎週のように訪れては癒されている。
→「晩秋と紅葉と快晴と。」
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/341/0
祖父母のいる、いや、
今は祖母のいる山村もきっと、
見渡す限りきれいな紅葉なんだろう。
僕にとって、去年との違いは
祖父がもういないこと。
なのに、
まるでそんなことがなかったかのように、
変わらずに色づく木々。
無情なまでに止まらない、時の流れ。
誰がいなくなっても意に介さず、
ただ繰り返していく季節の移り変わり。
あまりに儚い、命の営み。
祖父母に会いに行く時はいつも、
これが最後かも知れないという思いでいるけど、
まさかこれが、祖父と生きて会う最後になるなんて。
ふと、携帯に保存しておいた写真を見返して、
ちょうど1年前の日付だった2枚を見つけ、
僕はそんな感傷に浸っていた。
僕は母方の祖父母の家を訪れていた。
当時は会社勤めを辞めて2ヶ月、離婚して1ヶ月、
なんだかんだあって、
失業保険をもらい始めるのは、この翌月。
企業勤め以外の働き方を模索し、
文章を書いて仕事にできないかと考え、
クラウドワークスでWEBライターに取り組んでいた。
しかし収入面ではまだまだだったので、
会社勤めをしていた頃の
僅かな蓄えで生き延びていた。
今年は思いのほか、あたたかい日が続いている。
去年の今頃は昼間でも10度以下が多く、
曇りの日が続いて寒くなるのが早かった。
だけど、祖父母の待つ山村へ行く前日くらいに
急にあたたかく、天気も回復してくれた。
束の間の晴天、そして温暖で穏やかなひととき。
黄色と赤の葉でいっぱいの木、
その真下から撮った一枚。
山の向こうにほとんど沈んだけど、
まだ少し残るオレンジと暗がりが美しい一枚。
早いなぁ。
もう1年も経つのか。
この時も、この半年後に急死した時も、
祖父は元気だった。
耳はかなり遠くなっていたけど、
独りぼっちになった僕の事情も何も聞かず、
いつものようにニコニコしては
早寝早起きの健康的な毎日を送っていた。
※「母方祖父の逝去。」
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/199/0
自宅近くの、お気に入りの大きな公園では
今年もきれいな紅葉に彩られている。
幸運にもあたたかい日が続く最近は
毎週のように訪れては癒されている。
→「晩秋と紅葉と快晴と。」
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/341/0
祖父母のいる、いや、
今は祖母のいる山村もきっと、
見渡す限りきれいな紅葉なんだろう。
僕にとって、去年との違いは
祖父がもういないこと。
なのに、
まるでそんなことがなかったかのように、
変わらずに色づく木々。
無情なまでに止まらない、時の流れ。
誰がいなくなっても意に介さず、
ただ繰り返していく季節の移り変わり。
あまりに儚い、命の営み。
祖父母に会いに行く時はいつも、
これが最後かも知れないという思いでいるけど、
まさかこれが、祖父と生きて会う最後になるなんて。
ふと、携帯に保存しておいた写真を見返して、
ちょうど1年前の日付だった2枚を見つけ、
僕はそんな感傷に浸っていた。
2019年10月26日
生活保護の申請。(3) -民生委員による家庭訪問-
生活保護の申請プロセスも大詰め。
区役所への申請とケースワーカーの家庭訪問が終わり、
今日は地区の民生委員が来訪しての面談を終えた。
1.役所の生活保護課への申請
2.ケースワーカーの家庭訪問
3.民生委員の家庭訪問
→「生活保護の申請。(1) -生活保護課への書類提出-」
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/338/0
→「生活保護の申請。(2) -ケースワーカーによる家庭訪問-」
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/339/0
ーーーーーーーーーー
民生委員は多くの場合、
現役を退いた元・役所職員や、
その地域に長く住んでいて
信頼ある人が務めていると聞いた。
区役所へ申請した日、民生委員宅へ電話すると
勢いのある口調の男性が出たので、
一体何を言われるんだろうと少し怖くなった。
ケースワーカーの家庭訪問を終えた時点で
緊張感からかなり解放され安堵感を得ていたことで、
何か厳しいことを言われても
これは乗り越えるべき壁と割り切り、
割と早くに覚悟を決めることができた。
約束の13時ちょうどにインターフォンが鳴った。
60代くらいで、はきはきとした感じの男性、
「民生委員」の名札を首から下げていた。
リビングへ通し、区役所から預かっていて
「民生委員に渡してください」と言われていた
封筒を手渡した。
封筒を開け、おそらく僕の経歴が書かれている書類に
無言でじっくりと目を通す。
何を聞かれるんだろう、何か責められるのかと
僕は少し身構えながらも、これまでより落ち着いて
待つことができた。
僕が先天的に持っている発達障害の傾向、
それから父には僕より強くその傾向が見られること、
書類に書かれた経歴の中で、この二点について質問を受けた。
(書類にはアスペルガー症候群と書かれていたらしく)
「アスペルガーの傾向ってどんなこと?」と聞かれ、
相手の気持ちを察したり、言外の意味の汲み取りが難しく
コミュニケーションに難が出やすいことを説明した。
発達障害については詳しく知らなかったようで、
「どれくらい治るの?」と聞かれた。
脳の先天的な障害なので治らない、
学習や訓練で適応していくことが必要と答えた。
「お父さんにそういう傾向があるってわかってるんだから、
そうならないように努力しなきゃダメだよ」と言われた時は、
発達障害への無理解に、心の中で泣きたくなった。
そんな悔しさは何とか表には出さず、
「ハイ、すみません」と頭を下げて必死で流した。
昔の僕だったら、この時点で「責められている」と認識し、
この場で涙を流していてもおかしくなかったが、
悔しさを胸の奥にしまい込み、
「よく知らないならば仕方がない」と考えて
対応できたことは大きな進歩だった。
30分くらいの面談の半分は発達障害の説明と、
「頑張らないとだめ」に耐える時間となった。
それを乗り切ってからは実際にかかる
生活費の内訳など、現実的な話になった。
家賃のこと、冬季の暖房費のこと、
早く引っ越ししなさいよ、ということ、
離婚した経緯、家族と疎遠になった経緯、
まだまだ人生長いんだから、という励まし。
全体的に「ハイ、すみません」と
頭を下げている回数が多かったが、
決して説教じみたわけではなく、
言葉は多少きついながらも
応援してくれている印象を受けた。
最後に部屋の間取りをざっと見た後、
まだ霧雨の降る曇り空の中へ見送った。
ケースワーカー来訪時と同じく、
どこに何があるかを確認するようなことはせず、
経歴を聞いてじっくり面談をする時間となった。
この日は朝に洗濯などの家事をすべて終わらせて、
のんびり読書をしながら待っていた。
インターフォンが鳴った時は
鼓動が一気に早まるのがわかったが、
早くに覚悟を決められていたことで、
多少きついことを言われても、
余裕を持って耐えられた。
申請、二度の家庭訪問と
大きなプロセスをすべて終え、
また床に倒れ込み、そのままリビングで昼寝をした。
細かいプロセスで言えば、
「家賃証明書」という、賃貸を証明する書類を
管理会社に記入してもらうために郵送している。
これを記入して返送してもらい、
届いたら区役所へ提出すればすべて完了と思われる。
あとは待つだけ。
こうやって三部作として書く日に至るまでに、
積み重ねてきた葛藤を思い出した。
2019年没になってもいいとさえ、何度も思った。
孤独に押し潰されそうになったことは数えきれない。
でも、申請に至るまでにどれだけの人に
助けられて生きてきたのかも、身に染みている。
申請や家庭訪問がどういう形になるかは
地域によって違うだろうけど、
僕が助けてもらって申請した生活保護の経験を、
こうやって書くことで誰かを助けられたら嬉しい。
一般社団法人ボイス|悩みの無料相談の申込み
区役所への申請とケースワーカーの家庭訪問が終わり、
今日は地区の民生委員が来訪しての面談を終えた。
1.役所の生活保護課への申請
2.ケースワーカーの家庭訪問
3.民生委員の家庭訪問
→「生活保護の申請。(1) -生活保護課への書類提出-」
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/338/0
→「生活保護の申請。(2) -ケースワーカーによる家庭訪問-」
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/339/0
ーーーーーーーーーー
民生委員は多くの場合、
現役を退いた元・役所職員や、
その地域に長く住んでいて
信頼ある人が務めていると聞いた。
区役所へ申請した日、民生委員宅へ電話すると
勢いのある口調の男性が出たので、
一体何を言われるんだろうと少し怖くなった。
ケースワーカーの家庭訪問を終えた時点で
緊張感からかなり解放され安堵感を得ていたことで、
何か厳しいことを言われても
これは乗り越えるべき壁と割り切り、
割と早くに覚悟を決めることができた。
約束の13時ちょうどにインターフォンが鳴った。
60代くらいで、はきはきとした感じの男性、
「民生委員」の名札を首から下げていた。
リビングへ通し、区役所から預かっていて
「民生委員に渡してください」と言われていた
封筒を手渡した。
封筒を開け、おそらく僕の経歴が書かれている書類に
無言でじっくりと目を通す。
何を聞かれるんだろう、何か責められるのかと
僕は少し身構えながらも、これまでより落ち着いて
待つことができた。
僕が先天的に持っている発達障害の傾向、
それから父には僕より強くその傾向が見られること、
書類に書かれた経歴の中で、この二点について質問を受けた。
(書類にはアスペルガー症候群と書かれていたらしく)
「アスペルガーの傾向ってどんなこと?」と聞かれ、
相手の気持ちを察したり、言外の意味の汲み取りが難しく
コミュニケーションに難が出やすいことを説明した。
発達障害については詳しく知らなかったようで、
「どれくらい治るの?」と聞かれた。
脳の先天的な障害なので治らない、
学習や訓練で適応していくことが必要と答えた。
「お父さんにそういう傾向があるってわかってるんだから、
そうならないように努力しなきゃダメだよ」と言われた時は、
発達障害への無理解に、心の中で泣きたくなった。
そんな悔しさは何とか表には出さず、
「ハイ、すみません」と頭を下げて必死で流した。
昔の僕だったら、この時点で「責められている」と認識し、
この場で涙を流していてもおかしくなかったが、
悔しさを胸の奥にしまい込み、
「よく知らないならば仕方がない」と考えて
対応できたことは大きな進歩だった。
30分くらいの面談の半分は発達障害の説明と、
「頑張らないとだめ」に耐える時間となった。
それを乗り切ってからは実際にかかる
生活費の内訳など、現実的な話になった。
家賃のこと、冬季の暖房費のこと、
早く引っ越ししなさいよ、ということ、
離婚した経緯、家族と疎遠になった経緯、
まだまだ人生長いんだから、という励まし。
全体的に「ハイ、すみません」と
頭を下げている回数が多かったが、
決して説教じみたわけではなく、
言葉は多少きついながらも
応援してくれている印象を受けた。
最後に部屋の間取りをざっと見た後、
まだ霧雨の降る曇り空の中へ見送った。
ケースワーカー来訪時と同じく、
どこに何があるかを確認するようなことはせず、
経歴を聞いてじっくり面談をする時間となった。
この日は朝に洗濯などの家事をすべて終わらせて、
のんびり読書をしながら待っていた。
インターフォンが鳴った時は
鼓動が一気に早まるのがわかったが、
早くに覚悟を決められていたことで、
多少きついことを言われても、
余裕を持って耐えられた。
申請、二度の家庭訪問と
大きなプロセスをすべて終え、
また床に倒れ込み、そのままリビングで昼寝をした。
細かいプロセスで言えば、
「家賃証明書」という、賃貸を証明する書類を
管理会社に記入してもらうために郵送している。
これを記入して返送してもらい、
届いたら区役所へ提出すればすべて完了と思われる。
あとは待つだけ。
こうやって三部作として書く日に至るまでに、
積み重ねてきた葛藤を思い出した。
2019年没になってもいいとさえ、何度も思った。
孤独に押し潰されそうになったことは数えきれない。
でも、申請に至るまでにどれだけの人に
助けられて生きてきたのかも、身に染みている。
申請や家庭訪問がどういう形になるかは
地域によって違うだろうけど、
僕が助けてもらって申請した生活保護の経験を、
こうやって書くことで誰かを助けられたら嬉しい。
一般社団法人ボイス|悩みの無料相談の申込み
2019年10月25日
生活保護の申請。(2) -ケースワーカーによる家庭訪問-
区役所への生活保護の申請から一夜、
今日は申請プロセスの2番目、
ケースワーカーが自宅へ来訪しての面談となった。
1.役所の生活保護課への申請
2.ケースワーカーの家庭訪問
3.民生委員の家庭訪問
→「生活保護の申請。(1) -生活保護課への書類提出-」
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/338/0
ーーーーーーーーーー
前日、区役所で家庭訪問の日程を決めた際には、
かなり忙しかったからか「明日の午後」とだけ告げられた。
僕はこの家庭訪問で、それこそ家の中をひっくり返すような
お金になるもの、持っているとまずいものの
大捜索が始まるのかと勝手に思っていた。
少しでもお金になりそうなものなんて
とっくにリサイクルショップ行きになっているし、
この家で一番高価なものといえば、
今この記事を書いている2万ちょっとの中古PC。
それでも不安に押し潰されそうな僕は
前日と当日に家の掃除をし、きれいにして待っていた。
ところが、
12時、13時を過ぎてもインターフォンは鳴らない。
まぁ、あれだけ忙しそうだったから、と思いながら、
何もしないでいるとそわそわするので、
唯一放置していた洗濯を始めることにした。
もしこの間に来たら仕方ない、
脱衣所のドアを閉めて何とかしよう。
1回、2回と洗濯が終わり、
ベランダへ干す作業が終わっても、
ドアの向こうは静かなままだった。
15時を過ぎ、インターフォンが鳴った。
前日に生活保護課で少しだけ話した
区役所の職員さんが立っていた。
朝、リビングに慌てて設置した
小さいテーブルへ書類を置いてもらい面談開始。
家の中をじっくり観察したり、
何かを探したりする素振りはなかった。
玄関から廊下を通ってリビングに出るまでに、
生活水準を把握したのかも知れない。
家庭訪問のイメージが先走っていたせいで
かなり意外に思いながらも、
ケースワーカーさんの質問に
しっかり答えることに集中した。
前日に区役所で受け取り、
この日までに書いておいてくださいと言われていた
履歴書の簡易版のような生活歴シートを手渡した。
卒業した学校、引っ越し歴、
家族との関係や婚姻歴、就職した会社名を
年表のように短く書いたシートを見ながらの
質疑応答の時間が過ぎていった。
僕にとっても、区役所側にとっても、
一番の議題は家族へ連絡をするかどうかだった。
連絡が行くのは必須と聞いていたので、
念のための意思確認かも知れない。
例えば、仕送りなどの援助が期待できる場合は
そちらをまずは頼ってください、という流れになるが、
それはあちらの都合もあるので、必ずというわけではない。
関係が破綻している場合、
連絡することでトラブルになる事例もあるので、
本人と家族との関係を詳しく聴取した上で、
家族への連絡をどうするか慎重に決めるということだった。
僕は正直に、思っていることを伝えた。
生活保護という制度の決まり上、
支援の期待はともかく家族へ連絡が行くのは
仕方ないし、覚悟していたこと。
少なくとも自分からは連絡する意思はないこと。
特に父の場合、結婚直前に乗り込んで来て
長々と演説や文句を言い続け、
僕の心を深く傷つけて顧みないような行為に
また及ぶ可能性が高いこと。
→「父の「学費返せ」発言の真相は。」
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/136/0
家族への連絡をどうするかはこの場では決めず、
持ち帰って改めて検討するということで話は終わった。
その他、
通帳に記帳されているお金の流れの中で
不明点がある箇所への質問、
不動産や貴金属などの資産を持っていないか
改めての確認、
今住んでいる家は家賃上限を超えているので、
引っ越しが必要になることの再説明と続いた。
「そんなに構えなくていいよ」と
相談室の担当さんに言われていたのに、
当日やはり構えていた僕は、
予想外に穏やかな面談に終始したことに
戸惑いながらも、
おいとまするケースワーカーさんを見送った。
17時を過ぎていた。
すっかり日が短くなった。
つい先月まで、17時はまだ夕日が明るくて、
まだ公園のベンチで本を読んでいられるくらい
あたたかいこともあったのに。
ドアを閉める時、マンションの通路の窓越しに
ほとんど日が落ちて暗くなりかけている空が見えた。
急に睡魔が襲ってきた。
申請前日、ほとんど眠れなかった分を取り返すように、
そのままリビングの床に倒れ込み、深い夕寝に落ちた。
2時間くらい寝ただろうか。
ぼーっとしながら、最後の方にされた
3つの質問を思い出した。
「布団は何組ありますか?」
「ストーブは備え付けですか?」
これはおそらく、冬を乗り切れるかどうかの確認。
気になったのはこちら。
「サイドボードとタンスは何台ありますか」
”タンス貯金”なんて言葉もあるようなので、
モノを隠せる場所としての確認だろうか。
あるいは、ただ単に間取りの確認か。
この質問は今でも引っ掛かる。
何はともあれ、残る大きなプロセスは
地域の民生委員さんによる家庭訪問のみとなった。
区役所から連絡を促され、電話したところ、
かなり勢いのある口調だったので、少し怖い。
声が大きかったり、勢いのある口調の人には
どうしても怒られているような錯覚に陥ってしまう。
無事に申請が通り、本当に自分の足で
人生を歩むための再出発をする未来は見れるのか。
もうひと踏ん張り。
一般社団法人ボイス|悩みの無料相談の申込み
今日は申請プロセスの2番目、
ケースワーカーが自宅へ来訪しての面談となった。
1.役所の生活保護課への申請
2.ケースワーカーの家庭訪問
3.民生委員の家庭訪問
→「生活保護の申請。(1) -生活保護課への書類提出-」
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/338/0
ーーーーーーーーーー
前日、区役所で家庭訪問の日程を決めた際には、
かなり忙しかったからか「明日の午後」とだけ告げられた。
僕はこの家庭訪問で、それこそ家の中をひっくり返すような
お金になるもの、持っているとまずいものの
大捜索が始まるのかと勝手に思っていた。
少しでもお金になりそうなものなんて
とっくにリサイクルショップ行きになっているし、
この家で一番高価なものといえば、
今この記事を書いている2万ちょっとの中古PC。
それでも不安に押し潰されそうな僕は
前日と当日に家の掃除をし、きれいにして待っていた。
ところが、
12時、13時を過ぎてもインターフォンは鳴らない。
まぁ、あれだけ忙しそうだったから、と思いながら、
何もしないでいるとそわそわするので、
唯一放置していた洗濯を始めることにした。
もしこの間に来たら仕方ない、
脱衣所のドアを閉めて何とかしよう。
1回、2回と洗濯が終わり、
ベランダへ干す作業が終わっても、
ドアの向こうは静かなままだった。
15時を過ぎ、インターフォンが鳴った。
前日に生活保護課で少しだけ話した
区役所の職員さんが立っていた。
朝、リビングに慌てて設置した
小さいテーブルへ書類を置いてもらい面談開始。
家の中をじっくり観察したり、
何かを探したりする素振りはなかった。
玄関から廊下を通ってリビングに出るまでに、
生活水準を把握したのかも知れない。
家庭訪問のイメージが先走っていたせいで
かなり意外に思いながらも、
ケースワーカーさんの質問に
しっかり答えることに集中した。
前日に区役所で受け取り、
この日までに書いておいてくださいと言われていた
履歴書の簡易版のような生活歴シートを手渡した。
卒業した学校、引っ越し歴、
家族との関係や婚姻歴、就職した会社名を
年表のように短く書いたシートを見ながらの
質疑応答の時間が過ぎていった。
僕にとっても、区役所側にとっても、
一番の議題は家族へ連絡をするかどうかだった。
連絡が行くのは必須と聞いていたので、
念のための意思確認かも知れない。
例えば、仕送りなどの援助が期待できる場合は
そちらをまずは頼ってください、という流れになるが、
それはあちらの都合もあるので、必ずというわけではない。
関係が破綻している場合、
連絡することでトラブルになる事例もあるので、
本人と家族との関係を詳しく聴取した上で、
家族への連絡をどうするか慎重に決めるということだった。
僕は正直に、思っていることを伝えた。
生活保護という制度の決まり上、
支援の期待はともかく家族へ連絡が行くのは
仕方ないし、覚悟していたこと。
少なくとも自分からは連絡する意思はないこと。
特に父の場合、結婚直前に乗り込んで来て
長々と演説や文句を言い続け、
僕の心を深く傷つけて顧みないような行為に
また及ぶ可能性が高いこと。
→「父の「学費返せ」発言の真相は。」
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/136/0
家族への連絡をどうするかはこの場では決めず、
持ち帰って改めて検討するということで話は終わった。
その他、
通帳に記帳されているお金の流れの中で
不明点がある箇所への質問、
不動産や貴金属などの資産を持っていないか
改めての確認、
今住んでいる家は家賃上限を超えているので、
引っ越しが必要になることの再説明と続いた。
「そんなに構えなくていいよ」と
相談室の担当さんに言われていたのに、
当日やはり構えていた僕は、
予想外に穏やかな面談に終始したことに
戸惑いながらも、
おいとまするケースワーカーさんを見送った。
17時を過ぎていた。
すっかり日が短くなった。
つい先月まで、17時はまだ夕日が明るくて、
まだ公園のベンチで本を読んでいられるくらい
あたたかいこともあったのに。
ドアを閉める時、マンションの通路の窓越しに
ほとんど日が落ちて暗くなりかけている空が見えた。
急に睡魔が襲ってきた。
申請前日、ほとんど眠れなかった分を取り返すように、
そのままリビングの床に倒れ込み、深い夕寝に落ちた。
2時間くらい寝ただろうか。
ぼーっとしながら、最後の方にされた
3つの質問を思い出した。
「布団は何組ありますか?」
「ストーブは備え付けですか?」
これはおそらく、冬を乗り切れるかどうかの確認。
気になったのはこちら。
「サイドボードとタンスは何台ありますか」
”タンス貯金”なんて言葉もあるようなので、
モノを隠せる場所としての確認だろうか。
あるいは、ただ単に間取りの確認か。
この質問は今でも引っ掛かる。
何はともあれ、残る大きなプロセスは
地域の民生委員さんによる家庭訪問のみとなった。
区役所から連絡を促され、電話したところ、
かなり勢いのある口調だったので、少し怖い。
声が大きかったり、勢いのある口調の人には
どうしても怒られているような錯覚に陥ってしまう。
無事に申請が通り、本当に自分の足で
人生を歩むための再出発をする未来は見れるのか。
もうひと踏ん張り。
一般社団法人ボイス|悩みの無料相談の申込み
2019年10月24日
生活保護の申請。(1) -生活保護課への書類提出-
できる限り避けたいと
いろいろ動いてきたものの、
ついに申請することが決まった生活保護。
→「生活保護の申請日が決定。」
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/314/0
実際の生活保護申請から、結果が出るまでには
ざっくり分けて以下のプロセスがある。
1.役所の生活保護課への申請
2.ケースワーカーの家庭訪問
3.民生委員の家庭訪問
おそらく誰もが経験するわけではないこと、
そして自分が生きた記録、生き様として、
僕が経験した申請の過程を
今のところ3部作として書きたいと思う。
今回は第一弾、
区役所の生活保護課へ行った時の話。
ーーーーーーーーーー
当日の朝、就労移行支援へつなげてくれた
相談室の担当さんと二人で生活保護課へ。
ここに来るのは半年以上も前、
ただ孤独と闘っていた中、一人で足を運んで以来。
→「生活保護の話。」
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/41/0
この日は年金が出て間もなくだったからか、
収入を申告する人たちで混雑していた。
朝10時より申請開始の予定だったが、
担当職員さんが忙しく、
緊張の中で40分ほど待つことになった。
「2時間くらいかかるけどトイレ大丈夫?」
相談員さんが声をかけてくれた。
トイレというよりも、
お腹の変なところがちくちくと痛かった。
申請日が決まってからは、
ここまで来たらもう仕方ないと腹をくくったつもりでも、
いざ前日になると不安でほとんど眠れず、
寝不足と緊張から、全身に変な力みが走っていた。
席へ通されるまでに、相談員さんと最終確認。
就労移行支援を利用し再起を図っていること、
処分可能な財産を持っていないこと、
後日ある家庭訪問では変に構えずに、
生活に困窮している現状をそのまま伝えること。
そしてもちろん、
ずっと頼るつもりはないという意思。
この間もずっと、
変な力みの混じった眠気と、
「考え過ぎなくていいよ」と言われても
どうしても構えてしまう緊張感と格闘した。
11時前、担当の職員さんが足早に駆けて来て、
相談スペースへ通された。
「生活保護の申請に来ました」と、
”相談”ではなく”申請”に来たことをはっきりと伝えた。
ここで少しでもブレてしまうと、生活相談へ誘導されたりして
いわゆる「水際作戦」発動の隙を与えてしまうという。
事前に相談員さんがコンタクトを取ってくれていたこと、
そして市委託の相談室の職員の前では
ごまかしが効かない抑止力のおかげか、
席へ着いてからは、ただ説明を受けて、
必要書類を提出し記入するだけのスムーズな時間となった。
現在、手元にあって生きている通帳すべて、
マイナンバーカード、年金手帳、障害者手帳、
住宅の賃貸契約書、自立支援医療、
保険証などの必須書類の他、
ここへきて意外と役立ったのは
障害年金の不支給決定通知書と、
その申請の際に書いた病歴の申告書。
障害年金など、他に利用できる支援制度があれば、
まずはそちらに頼るよう促される可能性があるが、
事前にその道を断たれていたことが
皮肉にもスムーズな手続きを手伝ってくれた。
→「障害年金、落ちた。」
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/99/0
5種類ほどの書類に記入、捺印をする中で、
家族構成や連絡先、住所、職業などを書く時に
僕の手は止まりがちだった。
実家の住所も、連絡先も知らないので空欄、
誕生日や職業は曖昧、
携帯番号については、
着信拒否しているが残してある父の番号だけ書いた。
これについては、家族関係が破綻している場合、
知らないということはままあるらしいので、
書けるところだけでよいとのことだった。
すべての書類の記入が終わってから、
後日の家庭訪問を担当するケースワーカーが登場し、
訪問の日程を決めて終了となった。
申請の説明をしてくれた方、担当のケースワーカーの方、
どちらも若い女性で、
忙しく動き回っては
やや早口で必要なことを説明するような
かなりバタバタしている状況だった。
申請を阻止したり、生活相談へ誘導するようなことは
なかったというより、そんな暇もないような印象を受けた。
この日はたまたま
本当に多忙だっただけかも知れないが、
当日にはっきりと”申請”をさせてくれた
担当の相談員さんの根回しに心から感謝した。
申請が完了し区役所を出た後、
相談員さんに「恩人です」と深くお礼を伝えた。
区役所を出たのは12時過ぎ、
相談員さんは「思ったより早く終わったね」と言っていた。
その足で就労移行支援事業所へ向かい、
いつも通り仕事する時間を過ごした。
すごく眠かったはずなのに、
帰宅してからすぐには横にならなかった。
まだ結果は出ていないながら、
大きな肩の荷が降りた安堵感と、
まだ少し残る緊張感を噛み締めた。
本格的に眠くなる前に、
明日に控えたケースワーカーの来訪に備え、
家の中を少し掃除してようやく寝ることができた。
一般社団法人ボイス|悩みの無料相談の申込み
いろいろ動いてきたものの、
ついに申請することが決まった生活保護。
→「生活保護の申請日が決定。」
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/314/0
実際の生活保護申請から、結果が出るまでには
ざっくり分けて以下のプロセスがある。
1.役所の生活保護課への申請
2.ケースワーカーの家庭訪問
3.民生委員の家庭訪問
おそらく誰もが経験するわけではないこと、
そして自分が生きた記録、生き様として、
僕が経験した申請の過程を
今のところ3部作として書きたいと思う。
今回は第一弾、
区役所の生活保護課へ行った時の話。
ーーーーーーーーーー
当日の朝、就労移行支援へつなげてくれた
相談室の担当さんと二人で生活保護課へ。
ここに来るのは半年以上も前、
ただ孤独と闘っていた中、一人で足を運んで以来。
→「生活保護の話。」
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/41/0
この日は年金が出て間もなくだったからか、
収入を申告する人たちで混雑していた。
朝10時より申請開始の予定だったが、
担当職員さんが忙しく、
緊張の中で40分ほど待つことになった。
「2時間くらいかかるけどトイレ大丈夫?」
相談員さんが声をかけてくれた。
トイレというよりも、
お腹の変なところがちくちくと痛かった。
申請日が決まってからは、
ここまで来たらもう仕方ないと腹をくくったつもりでも、
いざ前日になると不安でほとんど眠れず、
寝不足と緊張から、全身に変な力みが走っていた。
席へ通されるまでに、相談員さんと最終確認。
就労移行支援を利用し再起を図っていること、
処分可能な財産を持っていないこと、
後日ある家庭訪問では変に構えずに、
生活に困窮している現状をそのまま伝えること。
そしてもちろん、
ずっと頼るつもりはないという意思。
この間もずっと、
変な力みの混じった眠気と、
「考え過ぎなくていいよ」と言われても
どうしても構えてしまう緊張感と格闘した。
11時前、担当の職員さんが足早に駆けて来て、
相談スペースへ通された。
「生活保護の申請に来ました」と、
”相談”ではなく”申請”に来たことをはっきりと伝えた。
ここで少しでもブレてしまうと、生活相談へ誘導されたりして
いわゆる「水際作戦」発動の隙を与えてしまうという。
事前に相談員さんがコンタクトを取ってくれていたこと、
そして市委託の相談室の職員の前では
ごまかしが効かない抑止力のおかげか、
席へ着いてからは、ただ説明を受けて、
必要書類を提出し記入するだけのスムーズな時間となった。
現在、手元にあって生きている通帳すべて、
マイナンバーカード、年金手帳、障害者手帳、
住宅の賃貸契約書、自立支援医療、
保険証などの必須書類の他、
ここへきて意外と役立ったのは
障害年金の不支給決定通知書と、
その申請の際に書いた病歴の申告書。
障害年金など、他に利用できる支援制度があれば、
まずはそちらに頼るよう促される可能性があるが、
事前にその道を断たれていたことが
皮肉にもスムーズな手続きを手伝ってくれた。
→「障害年金、落ちた。」
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/99/0
5種類ほどの書類に記入、捺印をする中で、
家族構成や連絡先、住所、職業などを書く時に
僕の手は止まりがちだった。
実家の住所も、連絡先も知らないので空欄、
誕生日や職業は曖昧、
携帯番号については、
着信拒否しているが残してある父の番号だけ書いた。
これについては、家族関係が破綻している場合、
知らないということはままあるらしいので、
書けるところだけでよいとのことだった。
すべての書類の記入が終わってから、
後日の家庭訪問を担当するケースワーカーが登場し、
訪問の日程を決めて終了となった。
申請の説明をしてくれた方、担当のケースワーカーの方、
どちらも若い女性で、
忙しく動き回っては
やや早口で必要なことを説明するような
かなりバタバタしている状況だった。
申請を阻止したり、生活相談へ誘導するようなことは
なかったというより、そんな暇もないような印象を受けた。
この日はたまたま
本当に多忙だっただけかも知れないが、
当日にはっきりと”申請”をさせてくれた
担当の相談員さんの根回しに心から感謝した。
申請が完了し区役所を出た後、
相談員さんに「恩人です」と深くお礼を伝えた。
区役所を出たのは12時過ぎ、
相談員さんは「思ったより早く終わったね」と言っていた。
その足で就労移行支援事業所へ向かい、
いつも通り仕事する時間を過ごした。
すごく眠かったはずなのに、
帰宅してからすぐには横にならなかった。
まだ結果は出ていないながら、
大きな肩の荷が降りた安堵感と、
まだ少し残る緊張感を噛み締めた。
本格的に眠くなる前に、
明日に控えたケースワーカーの来訪に備え、
家の中を少し掃除してようやく寝ることができた。
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