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2016年12月09日
中国の近代化とは?‐伝統的封建国家から近現代的な国家への移行と孫文‐通信教育課部専門課程、中国現代史リポート
中国の近代化とは?‐伝統的封建国家から近現代的な国家への移行と孫文‐通信教育課部専門課程、中国現代史リポート
はじめに、清朝政府の軟弱な外交から辛亥革命が起きる。
革命の成果は摘み取られることになるが、しかし、辛亥革命の精神は国民の心にのこり、それが、学生運動となり、この運動が学生以外にも広がり、労働運動など市民運動に繋がっていく。
そして、またのちの国民革命へと繋がっていく。
また、辛亥革命の影響は、政治の分野にのみならず、中国の伝統的な社会を変えていった。
それは、服装の変化や辮髪の禁止や纏足の禁止など近代的な社会への変化に大きな影響を与えることになる。
また、対外的には2つの世界大戦や日本との戦争など国際情勢は波瀾に満ちていた。
清朝はヨーロッパ列強や日本などの外国との外交で消極的な売国外交を行うことになる。
それは、日清戦争時の外交にみられるように、広大な中国からみれば、東北部の局地戦での敗北によって、あっさりと負けを認め、簡単に領地の割譲や賠償金の要求に応じるような外交であった。
5.4運動時に出されたビラには(中国の土地は征服されても、譲り渡したりはしない。中国の人民は殺戮されても、屈服はしない)(中国の歴史859ページ引用)という文章が書かれている。
外国に屈することなく戦い続けることを望んでいると見ることができるだろう。
中国の国民は清朝の軟弱な外交のために外国の侵略を許し、半植民地状態にあまんじていると考えている。
清朝に対する不満から辛亥革命が勃発したと考えることができる。
辛亥革命の始まりは 1911年の武昌での蜂起である。
武昌蜂起をきっかけに次々に各省が独立を宣言することになった。
各省が個別に独立を宣言すると次ぎは、統一的な機関が必要になってくる。
そうした中、南京で各省の代表が集まり孫文を大総統に選出した。
1912年ここに中華民国が成立した。
清朝政府は中華民国に対抗する手段として軍事的な影響力をもつ袁世凱を登用した。
袁世凱が清朝政府の実験を握ることになった。
そして、袁世凱と孫文との間で妥協案が結ばれることになった。
孫文は清朝政府の崩壊と皇帝の退位をもとめ、その代わりに袁世凱の中華民国大総統の就任であった。
袁世凱が中華民国の大総統に就任してからは、彼による独裁政治がはじまり、辛亥革命の成果が摘み取られることになってしまった。
しかし、1度根付いた民主共和国の概念は深く人々の心にしみついて、革命の心は消えてはいなかった。
1919年初めての世界大戦が終了した激動の時代、戦勝国の1つとしてパリ講和条約に出席したが、しかし、何一つ情況は変わらずに半植民地状態から抜け出すことはできなかった。
こうした情勢の中、学生によって5.4運動が展開されていく。
これは、愛国心からくるもので、日本やヨーロッパを中心とした植民地主義国家に対する反発運動である。
学生たちの怒りは、軟弱な外交を行った3人の政治家に向けられた。
5.4運動の影響は国内では、学生達の愛国心ある行動に共感を覚えて、さまざまな、運動に影響を与えていく。
革命後の中国は対外的には、外国諸国に対して強い姿勢がでてくるのもたしかなことである。
日本やヨーロッパなどの植民地支配に対して徹底的に戦う姿勢がこのころからでてくるのではないだろうか。
例えば、日本と戦った(日中戦争)は8年近くも戦い続け決して屈することはなかった。
1894年の日清戦争と比べると国家外交の姿勢に大きな違いがあることが分かる。
東アジア最初の共和国として出発した中華民国だったが、国内は分裂状態でさまざまな問題を抱えて、半植民地状態から抜け出せずにいた。
袁世凱の独裁政治後、孫文は中国国民党を率いて新たな道を模索した。
孫文は中国の模範にソ連の存在を考えた。
ソ連は民衆運動からロシア革命となり、反帝国主義を実現させて、市民革命からなる国家を作った成功例である。
そして、1921年に中国共産党が創立されて、国民党と共産党は国民革命の遂行のために共同闘争体制を作り上げた。
そして、最初の運動が国民会議運動であった。
孫文死後も国民革命の火は消えずに中国各地に国民革命は広がっていくことになる。
孫文がソ連に国家の模範を見たことは、のちに、中国がソ連のような共産国となるきっかけとなっただろう。
孫文の中国における影響力を考えれば自然な流れと言えるだろう。
第2次大戦後おこなわれる、共産主義と資本主義との戦いのなかで、朝鮮戦争において、共産国側として、北朝鮮を軍事的に支援することに繋がったと言えるだろう。
最後に、ヨーロッパ列強の猛威がアジアにまで拡大され、皇帝が支配する伝統的な国家システムでは列強国に太刀打ちすることはでず、中国は半植民地化になった。
そんな中、新しい国家システムを作り真の独立を目指した。
辛亥革命から続く一連の市民革命は1つの時代の大きな転換期と言えるだろう。
伝統的な国家から近代国家への転換期である。
最終的には中国は、国家のモデルを列強国ソ連に求めることになった。
(中国の歴史 小島晋治 並木頼寿 明石書店 2001年 参照)
(中国史 尾形 勇 岸本美緒 山川出版社 1998年 参照)
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はじめに、清朝政府の軟弱な外交から辛亥革命が起きる。
革命の成果は摘み取られることになるが、しかし、辛亥革命の精神は国民の心にのこり、それが、学生運動となり、この運動が学生以外にも広がり、労働運動など市民運動に繋がっていく。
そして、またのちの国民革命へと繋がっていく。
また、辛亥革命の影響は、政治の分野にのみならず、中国の伝統的な社会を変えていった。
それは、服装の変化や辮髪の禁止や纏足の禁止など近代的な社会への変化に大きな影響を与えることになる。
また、対外的には2つの世界大戦や日本との戦争など国際情勢は波瀾に満ちていた。
清朝はヨーロッパ列強や日本などの外国との外交で消極的な売国外交を行うことになる。
それは、日清戦争時の外交にみられるように、広大な中国からみれば、東北部の局地戦での敗北によって、あっさりと負けを認め、簡単に領地の割譲や賠償金の要求に応じるような外交であった。
5.4運動時に出されたビラには(中国の土地は征服されても、譲り渡したりはしない。中国の人民は殺戮されても、屈服はしない)(中国の歴史859ページ引用)という文章が書かれている。
外国に屈することなく戦い続けることを望んでいると見ることができるだろう。
中国の国民は清朝の軟弱な外交のために外国の侵略を許し、半植民地状態にあまんじていると考えている。
清朝に対する不満から辛亥革命が勃発したと考えることができる。
辛亥革命の始まりは 1911年の武昌での蜂起である。
武昌蜂起をきっかけに次々に各省が独立を宣言することになった。
各省が個別に独立を宣言すると次ぎは、統一的な機関が必要になってくる。
そうした中、南京で各省の代表が集まり孫文を大総統に選出した。
1912年ここに中華民国が成立した。
清朝政府は中華民国に対抗する手段として軍事的な影響力をもつ袁世凱を登用した。
袁世凱が清朝政府の実験を握ることになった。
そして、袁世凱と孫文との間で妥協案が結ばれることになった。
孫文は清朝政府の崩壊と皇帝の退位をもとめ、その代わりに袁世凱の中華民国大総統の就任であった。
袁世凱が中華民国の大総統に就任してからは、彼による独裁政治がはじまり、辛亥革命の成果が摘み取られることになってしまった。
しかし、1度根付いた民主共和国の概念は深く人々の心にしみついて、革命の心は消えてはいなかった。
1919年初めての世界大戦が終了した激動の時代、戦勝国の1つとしてパリ講和条約に出席したが、しかし、何一つ情況は変わらずに半植民地状態から抜け出すことはできなかった。
こうした情勢の中、学生によって5.4運動が展開されていく。
これは、愛国心からくるもので、日本やヨーロッパを中心とした植民地主義国家に対する反発運動である。
学生たちの怒りは、軟弱な外交を行った3人の政治家に向けられた。
5.4運動の影響は国内では、学生達の愛国心ある行動に共感を覚えて、さまざまな、運動に影響を与えていく。
革命後の中国は対外的には、外国諸国に対して強い姿勢がでてくるのもたしかなことである。
日本やヨーロッパなどの植民地支配に対して徹底的に戦う姿勢がこのころからでてくるのではないだろうか。
例えば、日本と戦った(日中戦争)は8年近くも戦い続け決して屈することはなかった。
1894年の日清戦争と比べると国家外交の姿勢に大きな違いがあることが分かる。
東アジア最初の共和国として出発した中華民国だったが、国内は分裂状態でさまざまな問題を抱えて、半植民地状態から抜け出せずにいた。
袁世凱の独裁政治後、孫文は中国国民党を率いて新たな道を模索した。
孫文は中国の模範にソ連の存在を考えた。
ソ連は民衆運動からロシア革命となり、反帝国主義を実現させて、市民革命からなる国家を作った成功例である。
そして、1921年に中国共産党が創立されて、国民党と共産党は国民革命の遂行のために共同闘争体制を作り上げた。
そして、最初の運動が国民会議運動であった。
孫文死後も国民革命の火は消えずに中国各地に国民革命は広がっていくことになる。
孫文がソ連に国家の模範を見たことは、のちに、中国がソ連のような共産国となるきっかけとなっただろう。
孫文の中国における影響力を考えれば自然な流れと言えるだろう。
第2次大戦後おこなわれる、共産主義と資本主義との戦いのなかで、朝鮮戦争において、共産国側として、北朝鮮を軍事的に支援することに繋がったと言えるだろう。
最後に、ヨーロッパ列強の猛威がアジアにまで拡大され、皇帝が支配する伝統的な国家システムでは列強国に太刀打ちすることはでず、中国は半植民地化になった。
そんな中、新しい国家システムを作り真の独立を目指した。
辛亥革命から続く一連の市民革命は1つの時代の大きな転換期と言えるだろう。
伝統的な国家から近代国家への転換期である。
最終的には中国は、国家のモデルを列強国ソ連に求めることになった。
(中国の歴史 小島晋治 並木頼寿 明石書店 2001年 参照)
(中国史 尾形 勇 岸本美緒 山川出版社 1998年 参照)
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2016年12月07日
里甲制と明朝衰退とは‐通信教育課程文学部史学科‐中国近世史リポート
里甲制と明朝衰退とは‐通信教育課程文学部史学科‐中国近世史リポート
まず、里甲制を簡単に説明すると、1381年に洪武帝が制定した郷村組織である。
地主や自作農などの土地所有者を地理的に隣接した集まりを110戸集めて編成を行って、そして、この110戸の集まりを1里と呼んで地方行政の単位とした。
110戸の中で裕福なもの10戸を里長戸とした。
また、のこった100戸を10甲に分けて編成を行った。
そして、1里の中で、1里長戸と10甲が10甲首となって、賦役黄冊づくりや賦役の徴収、里内の治安の維持、中央への物資調達、地方公費の負担など、非常に重い負担と責任を課せられた。
しかし、毎年1年ごとに交代を行うために、実際は10年に1度の役回りであった。
以上の1里が地方行政末端の組織となって、徴税や正役、雑役を課すための機関として機能した。
このように明の行政は里甲制を通じで、全国のいたるところまで、その支配権を及ぼすことができたのである。
里甲制はあくまで、土地所有者にかかる税、言い替えるなら、土地に掛かってくる税を対象としているために、小作農や奴隷的な人達、雇われ人を対象にしたシステムではないのである。
明初期では、土地の所有権はほとんどが自作農や地主で占められていた。
そのため、明初期では、里甲制はうまく機能して、国家の財源や労働力の確保に役だっていた。
しかし、明中期に入ると少し事情が変わってくる。
明中期に入ると、国内生産量の増加から、商品流通が盛んになり商品貨幣経済が発達していく。
日本の江戸時代も明と同じなのだが、商品貨幣経済が発展してくると、土地(石高)を基礎にした税制度では時代の流についていけないのである。
また、明中期は皇室の所有地が増え、それに伴って、貴族や宦官、官僚など明王朝で地位が高い層の人たちが土地所有を増やして、自領の拡大に努めていった。
説明を付け加えると、明王朝の中央や地方行政の中枢を握っているのは、科挙試験に合格した科挙官僚である。
科挙官僚達は非常に強い権限と特権を有していた。
科挙官僚の給料自体は少ないのだが、科挙官僚としての特権を活かして、財産を増やして大土地所有を形成していった。
地位の高い人の大土地所有が増えると言うことは、言い返ると、土地を持たない人が増え農村の階層化が生まれることを意味している。
では、地位の高い人達の大土地所有がなぜ、明王朝にとってマイナスになるのかと言うと、特権階級の地位の高い人達は、法の隙間を見つけて税負担を逃れた。
そうなると、里甲制は土地所有者を対象にいた税制度なので、自作農層が減少した事が税の収入が減った1つのマイナス点となった。
その他、明中期の自作農や中小地主は税収減少のしわ寄せがきて、重い重税を課せられた。
そうなるとますます、土地を手放す地主や自作農が増えてくるのである。
まさに、悪循環である。
貧富の差が激しい時代を迎え、里甲制そのものを維持していくのが困難になってきたのである。
明末の16世紀という時代は、世界的に急変した激動の時代である。
ヨーロッパ人が多数アジアまで進出して、国際的になってきた。
国際商業には、新大陸からもたらされた銀が使われ明にも大量の銀が流入した。
このような時勢の中、税制度はこれまでの複雑な税制度から銀納による簡素な税制度の一条鞭法に変わった。
この一条鞭法により、税制度は簡素になったが、しかし、農民の負担自体は以前より多くなった。
明末は、ますます商品流通経済が促進された時代である。
16世紀の商品流通経済の活性化が里甲制に与えた影響として、財を求めて農民が商人として出稼ぎを行う者が増えたことで、農業が軽んじられて、農民の数か減ったことである。
農民の数が減ることは国家財政が減ることを意味している。
商人として能力がある者はたくさんの財を獲得してのし上がっていった。
しかし、大半の者は落ちぶれて、ますます、貧富の差が激しくなり、富を持ったのは貧民を押さえつけて、贅沢で優雅な暮らしをして、まさに、お金が全てという、少し混沌としたおかしな時代になった。
明末は、周辺国が力をつけた時代でもあり、明は対外的に守勢に立たされることになる。
明北方では依然としてモンゴルの侵入が続き、また、和寇の勢力は活発化していた。
いわゆる、北虜南倭の活動がピークに達した時代である。
北虜南倭以外にも、明北方の女真族の勢力拡大や日本の朝鮮出兵などがある。
対外的に守勢に立たされると軍隊の維持費などがたくさんいる。
お金がたくさんかかるために、そのしわ寄せが国内に求められて、農民はますます、重税をかけられたのである。
農民は反乱や土地を放置して逃亡や移民する人が増えて、里甲制による、税収入は、ますます減少した。
明代はちょうど時代の変革期で自然経済から商品貨幣経済に移行する時代であった。
明の対外的には朝貢貿易、内部には里甲制の2つの政策の柱はこの経済システムの移行についていけないために明は衰退の一途をたどる。
それに伴い権力者の腐敗が時間を刻むと同時に進んでいく。
これは中国歴代王朝でも見られる現象で宦官、外戚、官僚の腐敗により国力が低下する。
どんなに強力な王朝でも必ず滅びるのが歴史の宿命なのではないだろうか。
明が崩壊したのは歴史の必然なのかもしれない。
そして、最後に思うことは明末の農業が軽んじられて、お金の世の中っていうのは、今の日本を想像してしまった。
(中国史 尾形勇 岸本美緒 1998年 山川出版社 参照)
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まず、里甲制を簡単に説明すると、1381年に洪武帝が制定した郷村組織である。
地主や自作農などの土地所有者を地理的に隣接した集まりを110戸集めて編成を行って、そして、この110戸の集まりを1里と呼んで地方行政の単位とした。
110戸の中で裕福なもの10戸を里長戸とした。
また、のこった100戸を10甲に分けて編成を行った。
そして、1里の中で、1里長戸と10甲が10甲首となって、賦役黄冊づくりや賦役の徴収、里内の治安の維持、中央への物資調達、地方公費の負担など、非常に重い負担と責任を課せられた。
しかし、毎年1年ごとに交代を行うために、実際は10年に1度の役回りであった。
以上の1里が地方行政末端の組織となって、徴税や正役、雑役を課すための機関として機能した。
このように明の行政は里甲制を通じで、全国のいたるところまで、その支配権を及ぼすことができたのである。
里甲制はあくまで、土地所有者にかかる税、言い替えるなら、土地に掛かってくる税を対象としているために、小作農や奴隷的な人達、雇われ人を対象にしたシステムではないのである。
明初期では、土地の所有権はほとんどが自作農や地主で占められていた。
そのため、明初期では、里甲制はうまく機能して、国家の財源や労働力の確保に役だっていた。
しかし、明中期に入ると少し事情が変わってくる。
明中期に入ると、国内生産量の増加から、商品流通が盛んになり商品貨幣経済が発達していく。
日本の江戸時代も明と同じなのだが、商品貨幣経済が発展してくると、土地(石高)を基礎にした税制度では時代の流についていけないのである。
また、明中期は皇室の所有地が増え、それに伴って、貴族や宦官、官僚など明王朝で地位が高い層の人たちが土地所有を増やして、自領の拡大に努めていった。
説明を付け加えると、明王朝の中央や地方行政の中枢を握っているのは、科挙試験に合格した科挙官僚である。
科挙官僚達は非常に強い権限と特権を有していた。
科挙官僚の給料自体は少ないのだが、科挙官僚としての特権を活かして、財産を増やして大土地所有を形成していった。
地位の高い人の大土地所有が増えると言うことは、言い返ると、土地を持たない人が増え農村の階層化が生まれることを意味している。
では、地位の高い人達の大土地所有がなぜ、明王朝にとってマイナスになるのかと言うと、特権階級の地位の高い人達は、法の隙間を見つけて税負担を逃れた。
そうなると、里甲制は土地所有者を対象にいた税制度なので、自作農層が減少した事が税の収入が減った1つのマイナス点となった。
その他、明中期の自作農や中小地主は税収減少のしわ寄せがきて、重い重税を課せられた。
そうなるとますます、土地を手放す地主や自作農が増えてくるのである。
まさに、悪循環である。
貧富の差が激しい時代を迎え、里甲制そのものを維持していくのが困難になってきたのである。
明末の16世紀という時代は、世界的に急変した激動の時代である。
ヨーロッパ人が多数アジアまで進出して、国際的になってきた。
国際商業には、新大陸からもたらされた銀が使われ明にも大量の銀が流入した。
このような時勢の中、税制度はこれまでの複雑な税制度から銀納による簡素な税制度の一条鞭法に変わった。
この一条鞭法により、税制度は簡素になったが、しかし、農民の負担自体は以前より多くなった。
明末は、ますます商品流通経済が促進された時代である。
16世紀の商品流通経済の活性化が里甲制に与えた影響として、財を求めて農民が商人として出稼ぎを行う者が増えたことで、農業が軽んじられて、農民の数か減ったことである。
農民の数が減ることは国家財政が減ることを意味している。
商人として能力がある者はたくさんの財を獲得してのし上がっていった。
しかし、大半の者は落ちぶれて、ますます、貧富の差が激しくなり、富を持ったのは貧民を押さえつけて、贅沢で優雅な暮らしをして、まさに、お金が全てという、少し混沌としたおかしな時代になった。
明末は、周辺国が力をつけた時代でもあり、明は対外的に守勢に立たされることになる。
明北方では依然としてモンゴルの侵入が続き、また、和寇の勢力は活発化していた。
いわゆる、北虜南倭の活動がピークに達した時代である。
北虜南倭以外にも、明北方の女真族の勢力拡大や日本の朝鮮出兵などがある。
対外的に守勢に立たされると軍隊の維持費などがたくさんいる。
お金がたくさんかかるために、そのしわ寄せが国内に求められて、農民はますます、重税をかけられたのである。
農民は反乱や土地を放置して逃亡や移民する人が増えて、里甲制による、税収入は、ますます減少した。
明代はちょうど時代の変革期で自然経済から商品貨幣経済に移行する時代であった。
明の対外的には朝貢貿易、内部には里甲制の2つの政策の柱はこの経済システムの移行についていけないために明は衰退の一途をたどる。
それに伴い権力者の腐敗が時間を刻むと同時に進んでいく。
これは中国歴代王朝でも見られる現象で宦官、外戚、官僚の腐敗により国力が低下する。
どんなに強力な王朝でも必ず滅びるのが歴史の宿命なのではないだろうか。
明が崩壊したのは歴史の必然なのかもしれない。
そして、最後に思うことは明末の農業が軽んじられて、お金の世の中っていうのは、今の日本を想像してしまった。
(中国史 尾形勇 岸本美緒 1998年 山川出版社 参照)
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2016年12月05日
明の対外政策について、歴代皇帝の対応‐文学部史学科通信教育部‐中国近世史リポート
明の対外政策について、歴代皇帝の対応‐文学部史学科通信教育部‐中国近世史リポート
明代の対外政策は朝貢貿易なきには語ることはできない。朝貢貿易とは明が他国から貢ぎ物を受け取り、そして、明が他国に恩賞を賜ることである。
明を建国した洪武帝(1328〜1398)の対外政策は、外交によって明の力を誇示しようと考えた。
アジアでは本来、日本も含めて中国を中心に置いて、中国を宗主国として崇める思想がある。
洪武帝はこの思想の完全なる確立を対外政策の柱にしていた。
そして、洪武帝は朝貢貿易を通じて他国を間接的、形的、形式的に周辺国を支配しようとした。
少し難しいが、支配と言うよりは、保護や親と子の関係のような、儒教的考えで、国の格式の位置付けと言ったほうがいいのかもしれない。
朝貢貿易を通じて周辺国は明を宗主国と崇めた。
明建国当時の情勢は、モンゴルを撃ち破って国を建国した明であったが、しかし、モンゴルの残存勢力は強大で強く、いつ明がやられても、おかしくない状況であった。
建国してすぐの時は、まだ、明国内も安定しているとは言えない。
そのため、明は周辺国との間は平和に友好関係を築く必要があった。
そして、モンゴルやモンゴルと結びつく勢力にだけ、武力を集中させてモンゴルに対抗する必要があった。
結果が平和的な朝貢貿易と北方にあるモンゴル国境の武力集中政策である。
洪武帝の政策で、朝貢貿易と表裏の関係にあるのが海禁政策である。
情勢として、海賊行為の倭寇の活発化や元末の残存勢力の盛り返しがあった。
洪武帝は新政権の秩序と安定を図るために海禁政策に踏み切った。
海禁政策とは朝貢貿易以外の貿易の禁止と朝貢貿易以外の外国船の来船の拒絶である。
国民に対しても下海の禁令を発して、いっさいの海外渡航を禁止した。
洪武帝の対外政策は基本的には明王朝の対外政策としてこれ以後長きに渡って継続されることになる。
次ぎに、3代目皇帝の永楽帝(1360〜1424)は基本的には洪武帝の政策を受け継ぎ、そして、更に朝貢貿易を促進していった。
しかし、洪武帝と違う点は、洪武帝は朝貢貿易に制限を設け、外国に武力ではなく平和外交を進めていた。
これに対して、永楽帝は積極的に朝貢貿易を推し進めて、外国には、5度にわたるモンゴル親征や鄭和の南海経路、ベトナム征服などの積極的な対外政策を行った。
特に、皇帝自らが万里の長城を越えてモンゴルに攻めこむなんて、中国の歴史上でもあまり例がなく、永楽帝の対外政策の心構えがよく分かる出来事だと思う。
永楽帝は帝位を奪って皇帝になった。中国は儒教の国である。
中国は物事の道理やしきたり、順序を大切にする国民性である。
そのため、永楽帝は靖難の変の汚名があるため、大義名分がほしかったのではないだろうか。
だから、洪武帝の精神を受け継ぎ自らの正当性を示し、対外遠征をすることで国民の目を外にむけ、また、皇帝自らが遠征を行うことで国民の信頼や団結間を作っているのではないだろうかと思う。
次に、明5代皇帝宣徳帝(1399〜1435)は基本的にはこれまで通りの朝貢貿易を行ったが、永楽帝との違いは、永楽帝は積極的に武力で他勢力を制圧したのに対し、宣徳帝は、ベトナム放棄や北方防衛線の後退、北方の長城線固守政策に代表される、消極的な外交政策を行った。
他民族を武力で制圧して統治するのは、非常に難しい。例えば、ベトナムでは断続的に民族抵抗運動が発生した。ベトナムを統治するために、戦費や人被害がたくさんでた。
これは中国北方でも同じと言える。宣徳帝は武力でなく朝貢貿易を通じて、平和的に外国と対外関係を築いて、間接的に支配することを考え、外国は明を宗主国として崇めることを目的としていた。
明代13代皇帝隆慶帝(1537〜1572)の時代になると、ヨーロッパの主にスペインやポルトガルがアジアにまで進出して貿易を行った。
また、倭寇が活発化した時代でもある。
明国内では流通経済の発展に伴い利益を求めて国民は、海禁政策を無視してでも、密貿易を行う者がたくさん現れた。
明は形式上、朝貢貿易しか行わないので、ポルトガルを中心とするヨーロッパの国と貿易を行わなかった。
しかし、現実は、明との間に密貿易が盛んになる。
もはや時代の流れで、明はこれまでの朝貢貿易と海禁政策の2つの対外政策を維持していくのはむずかしくなった。
現状では朝貢貿易と海禁政策は形だけのものとなり、旧秩序は崩れた。
明の前の王朝はモンゴル支配による元である。
長い間、他民族に支配された中国は、中華民族による国家を取り戻した。
アジアに流れていた中国を盟主と考える思想やモンゴルによって壊されていたこれまでの秩序を取り戻すための1つの形が朝貢貿易なのではないだろうか。
朝貢貿易によって、旧秩序を取り戻した明であったが、しかし、時代は急展開を迎えて、新しい秩序が生まれようとしていた。ヨーロッパを中心とて起こった新しい秩序は、旧体制を維持しようとしていた明をも巻きこみ時代は新しい時代を迎えようとしていた。
(中国史 尾形勇 岸本美緒 山川出版社 1998 参照)
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2016年11月30日
通信制大学の卒業の仕方‐リポートを書く
書く
通信制大学の卒業の仕方‐リポートを書く
書いて、書いて、書きまくって、ただ書き続ける。
通信制大学の卒業の仕方は、リポートを書き続ける。
それしかありません。
深く考えていても仕方がありません。
考えるよりも書くことが大事です。
これはリポートだけの事ではなく、科目履修試験についても同じことが言えます。
リポートを書けと言っても、知識がなければ書けません。
リポートを書くときは必ず
参考資料を集めよう。
図書館やインターネットを活用して、できるだけ、多くのリポートを書くためのネタを集める事が大切です。
(例)「廃藩置県について書け」このような設題だったら
図書館に行き、廃藩置県、幕末、明治維新に関連する図書を何冊も借り、また、インターネットでも廃藩置県について検索をかける。
これら集めた全ての情報を把握するのは難しいので、設題に関係する部分だけを抜き出しておく。
各資料の抜き出した項目をまとめて整理する。
関連する部分をまとめた資料を参考にリポートを作成する。
ネタが多いほどリポートをスムーズに書くことが出来ます。
クリックお願いします。
「教科書に載らない歴史」はここをクリック 高校で普段行っている授業の実践記録や日記集、研究など、教科書に載っている事だけを授業するなら教員なんていらない。誰も知らないことを授業で取り上げる事に意味がある。教科書では語れないことや取り扱って欲しい内容を取り揃える。教科書で語れない内容に真実や日本文化の素晴らしさが詰まっている。日本人としての心を取り戻す教育、その一部を紹介します。 |
2016年11月29日
リポートの書き方‐合格リポートを参考に
必見合格済みリポート
リポートの書き方‐合格リポートを参考に
リポートをいきなり書けと言われても、慣れるまでは大変です。
一番手っ取り早くリポートを作成する方法とは?
合格済みリポートを実際に見て参考にする事です。
そこで、私がこれまで書いた合格リポートを全て紹介します。
あくまでも参考にしてください。
「注意点」
・写してそのまま提出してはいけない。写すだけでは力になりません。そんな事では科目履修試験や卒業論文が書けなくなります。
・著作権があるので、転売は違法です。
・私自身が学生の時に書いたリポートである。
・このリポートよりはレベルの高いリポートをめざして書いてください。
リポートの書き方‐合格リポートを参考に
リポートをいきなり書けと言われても、慣れるまでは大変です。
一番手っ取り早くリポートを作成する方法とは?
合格済みリポートを実際に見て参考にする事です。
そこで、私がこれまで書いた合格リポートを全て紹介します。
あくまでも参考にしてください。
「注意点」
・写してそのまま提出してはいけない。写すだけでは力になりません。そんな事では科目履修試験や卒業論文が書けなくなります。
・著作権があるので、転売は違法です。
・私自身が学生の時に書いたリポートである。
・このリポートよりはレベルの高いリポートをめざして書いてください。
2016年11月28日
地方史学を学ぶ意味について‐単一民族国家説の否定‐通信教育課程(専門教養地方史学リポート)
地方史学を学ぶ意味について‐通信教育課程(専門教養地方史学リポート)
私が中高生時代に学んだ歴史像は単一民族国家説を基本にした日本史像である。
それは、日本の歴史は、縄文、弥生、大和、奈良、平安、鎌倉、室町、安土、江戸、明治、大正、昭和とつづく、一本の太い流れにそって進んでいく統一的な歴史像であった。
しかし、けっして、日本の歴史は統一的な1つのものではない。
例えば、沖縄が完全に日本の領土になるのは明治以降、東北が日本の支配を受けるのは奥州藤原氏以降で完全に日本の統治体制に入るのは豊臣政権、北海道が完全に日本領になるのは明治以降のことである。
地方に行けば、琉球王国があり、エミシ、アイヌの世界があり、日本とは全く違った文化や歴史を歩んできた地域もある。
そして、日本は近年アイヌ新法により、単一民族思想を捨てた。
このように、日本には複線的な日本史像存在しているので地方の歴史から日本史を見ていかないといけない。
それが地方史学である。
歴史と言うものは、見る角度が違えば全く違うものになっていく。
例えば、江戸時代日本は鎖国政策をして、長崎の出島という限られた空間でのみオランダと中国と交流を持っていた。
これが従来の私が学生時代に学んだ鎖国像である。
しかし、この鎖国像は地方の歴史をまったく無視している。
江戸時代当時は、北海道のアイヌと沖縄の琉球王国は外国である。
江戸時代を通じて外国であるアイヌと琉球は日本と交流を持った国である。
オランダ、中国以外の国と長崎の出島以外の空間でも日本は交流を持っていたと言うのが本当の鎖国像と言える。
このように、地方の歴史を見ることによって、中央の歴史像がまったく違ったものになることもある。
これは1つの地方史学を学ぶことによって得られる成果の1つではないであろうか。
戦後主に近世農村史研究が活発化することになる。
近世江戸時代の人口を考えると、約80パーセントの人達が農業を営んでいたとされている。
日本は農耕民族の国といっても過言ではない。
従来の歴史像は支配者階級である武士の歴史である。しかし、人口の大部分を占める農民の歴史を考えなければ近世の歴史を把握したことにはならないと思う。
特に近世時代は職業によって住む場所も違えば、法や文化や風習も違う。
また、たくさんの藩が存在し現在のような統一的な国家ではない。
そして、移動手段が現在のように発達していなかったので移動は困難であったことが予想される。
特に近世時代は地方独特の文化や歴史が存在いていることになる。
地方独特な民衆の歴史を見ることによって、もう1つの日本の姿を見る事ができる。
これが地方史学を学ぶ1つの意義なのではないだろうか。
地方史学とは、地方の歴史学のことであり、歴史学の1部門として学問的な位置付けを行うために、歴史研究の方法や目的、内容を整備し学問体系の中に位置付けられたものである。
学問として体系するためには、歴史に関する記述は真実の事を記述する必要がある。
そのためには、歴史記述の裏づけとなる証拠が必要となる。
証拠には資料が必要で、証拠となった資料が本当に事実を記述しているかどうかの資料批判も必要となってくる。
できるだけ、事実に基づいた学問的な歴史学として地方史学ができた。
地方史学は郷土史が発展したものである。
郷土史とは地域独特の伝記や伝説の類を含めた学問である。
郷土史には、閉鎖的な地域自慢や英雄史観、物語史観などが折りこまれている。
簡単に言うなら、歴史的な事件があったとして、その歴史的事件を大げさに誇張して、また、英雄などの登場で、歴史的事件を面白く、お国自慢などを加え、物語風に作り上げた要素を含んでいる。
戦前日本では天皇の神格性を維持するために、平気で伝説の類を国家に都合よく歴史として教えていた。
日本国民として、日本の神話や地域の神話を知る事は、とても大事なこと、だが、それと歴史事実を混合させると、それ以上の発展は望めない。
神話は何かしらの歴史事実に基づいて描かれた話、その何かしらの歴史事実を探求する事が大事になる。
戦後新しい時代を迎え、神や精霊などに縛られない、真実の歴史を知ろうとする時代の流れや、行政に都合のよい政府の歴史ではなく、地域で実際に住んでいる人々の生の歴史を知ろうとする時代の流れから地方史学が生まれたのではないであろうか。
地方史学は中央政府によって作られた法などで、実際に地域で住む民衆がどのような影響を与え生きたかなどの、民衆生活史を知ることができる。
そのため、地方史学は、日本史を構成するとても重要な位置にある学問であるのではないだろうか。
郷土史が狭い地域を限定で研究するのに対して、地方史は、もちろん狭い地域を限定して研究するのだが、それだけではなくて、他の地域の研究をも行い比較対比も必要としている。
地方ごとに比較研究を行っていくと必ずたくさんの地域によって、いろんな差がでてくる。例えば言葉や習慣、苗字、農業、人格、など上げればきりがないほどの地域差がある。
地方史学の重要な目的の1つに限定された地域を研究して、そこに住む人々がどのような社会を形成して生活を営み、そして、文化を生み出して歴史を作っていったのかを解明する目的がある。
また、研究方法として、古文書や文書、遺跡、遺物、などの形として残って位いる研究材料だけでなく、民衆に語り継がれた話など、あらゆるものを使って材料にして研究を学問である。
これは、郷土史に近い存在で、地方史学とは、郷土史も含めて、総合的に対比や全体のつながりをも研究する総合的な学問と言えるだろう。
最後に過去天皇制のよる単一国家説が日本史の主流を占めた時代の反省や欧米主観から見た日本史像への疑問、そして、総合学習に見られるような地域密着型の歴史教育が見直されている現在において、地方の歴史に対する関心は高まる時勢である。
地方史学の持つ意味は今後ますます重要性を占めてくるだろう。
いつもクリックありがとうございます。
私が中高生時代に学んだ歴史像は単一民族国家説を基本にした日本史像である。
それは、日本の歴史は、縄文、弥生、大和、奈良、平安、鎌倉、室町、安土、江戸、明治、大正、昭和とつづく、一本の太い流れにそって進んでいく統一的な歴史像であった。
しかし、けっして、日本の歴史は統一的な1つのものではない。
例えば、沖縄が完全に日本の領土になるのは明治以降、東北が日本の支配を受けるのは奥州藤原氏以降で完全に日本の統治体制に入るのは豊臣政権、北海道が完全に日本領になるのは明治以降のことである。
地方に行けば、琉球王国があり、エミシ、アイヌの世界があり、日本とは全く違った文化や歴史を歩んできた地域もある。
そして、日本は近年アイヌ新法により、単一民族思想を捨てた。
このように、日本には複線的な日本史像存在しているので地方の歴史から日本史を見ていかないといけない。
それが地方史学である。
歴史と言うものは、見る角度が違えば全く違うものになっていく。
例えば、江戸時代日本は鎖国政策をして、長崎の出島という限られた空間でのみオランダと中国と交流を持っていた。
これが従来の私が学生時代に学んだ鎖国像である。
しかし、この鎖国像は地方の歴史をまったく無視している。
江戸時代当時は、北海道のアイヌと沖縄の琉球王国は外国である。
江戸時代を通じて外国であるアイヌと琉球は日本と交流を持った国である。
オランダ、中国以外の国と長崎の出島以外の空間でも日本は交流を持っていたと言うのが本当の鎖国像と言える。
このように、地方の歴史を見ることによって、中央の歴史像がまったく違ったものになることもある。
これは1つの地方史学を学ぶことによって得られる成果の1つではないであろうか。
戦後主に近世農村史研究が活発化することになる。
近世江戸時代の人口を考えると、約80パーセントの人達が農業を営んでいたとされている。
日本は農耕民族の国といっても過言ではない。
従来の歴史像は支配者階級である武士の歴史である。しかし、人口の大部分を占める農民の歴史を考えなければ近世の歴史を把握したことにはならないと思う。
特に近世時代は職業によって住む場所も違えば、法や文化や風習も違う。
また、たくさんの藩が存在し現在のような統一的な国家ではない。
そして、移動手段が現在のように発達していなかったので移動は困難であったことが予想される。
特に近世時代は地方独特の文化や歴史が存在いていることになる。
地方独特な民衆の歴史を見ることによって、もう1つの日本の姿を見る事ができる。
これが地方史学を学ぶ1つの意義なのではないだろうか。
地方史学とは、地方の歴史学のことであり、歴史学の1部門として学問的な位置付けを行うために、歴史研究の方法や目的、内容を整備し学問体系の中に位置付けられたものである。
学問として体系するためには、歴史に関する記述は真実の事を記述する必要がある。
そのためには、歴史記述の裏づけとなる証拠が必要となる。
証拠には資料が必要で、証拠となった資料が本当に事実を記述しているかどうかの資料批判も必要となってくる。
できるだけ、事実に基づいた学問的な歴史学として地方史学ができた。
地方史学は郷土史が発展したものである。
郷土史とは地域独特の伝記や伝説の類を含めた学問である。
郷土史には、閉鎖的な地域自慢や英雄史観、物語史観などが折りこまれている。
簡単に言うなら、歴史的な事件があったとして、その歴史的事件を大げさに誇張して、また、英雄などの登場で、歴史的事件を面白く、お国自慢などを加え、物語風に作り上げた要素を含んでいる。
戦前日本では天皇の神格性を維持するために、平気で伝説の類を国家に都合よく歴史として教えていた。
日本国民として、日本の神話や地域の神話を知る事は、とても大事なこと、だが、それと歴史事実を混合させると、それ以上の発展は望めない。
神話は何かしらの歴史事実に基づいて描かれた話、その何かしらの歴史事実を探求する事が大事になる。
戦後新しい時代を迎え、神や精霊などに縛られない、真実の歴史を知ろうとする時代の流れや、行政に都合のよい政府の歴史ではなく、地域で実際に住んでいる人々の生の歴史を知ろうとする時代の流れから地方史学が生まれたのではないであろうか。
地方史学は中央政府によって作られた法などで、実際に地域で住む民衆がどのような影響を与え生きたかなどの、民衆生活史を知ることができる。
そのため、地方史学は、日本史を構成するとても重要な位置にある学問であるのではないだろうか。
郷土史が狭い地域を限定で研究するのに対して、地方史は、もちろん狭い地域を限定して研究するのだが、それだけではなくて、他の地域の研究をも行い比較対比も必要としている。
地方ごとに比較研究を行っていくと必ずたくさんの地域によって、いろんな差がでてくる。例えば言葉や習慣、苗字、農業、人格、など上げればきりがないほどの地域差がある。
地方史学の重要な目的の1つに限定された地域を研究して、そこに住む人々がどのような社会を形成して生活を営み、そして、文化を生み出して歴史を作っていったのかを解明する目的がある。
また、研究方法として、古文書や文書、遺跡、遺物、などの形として残って位いる研究材料だけでなく、民衆に語り継がれた話など、あらゆるものを使って材料にして研究を学問である。
これは、郷土史に近い存在で、地方史学とは、郷土史も含めて、総合的に対比や全体のつながりをも研究する総合的な学問と言えるだろう。
最後に過去天皇制のよる単一国家説が日本史の主流を占めた時代の反省や欧米主観から見た日本史像への疑問、そして、総合学習に見られるような地域密着型の歴史教育が見直されている現在において、地方の歴史に対する関心は高まる時勢である。
地方史学の持つ意味は今後ますます重要性を占めてくるだろう。
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2016年11月27日
徳川政権時代、江戸周辺の農村に発生する税の数々‐通信教育課程専門教養(地方史学リポート)
徳川政権時代、江戸周辺の農村に発生する税の数々‐通信教育課程専門教養(地方史学リポート)
江戸時代の特徴は、身分制の社会編成である。農民が暮らす場所と武士が暮らす場所は隔離されていた。農民は農村で暮らし、武士や商人といった人達は城下町に暮らしていた。
江戸時代の支配体制は治める領主により、かなりの違いを見せており、江戸周辺では江戸幕府が存在するために、幕府の直轄領(天領)となっていた。
江戸幕府から近いこともあり、幕府にとって、江戸周辺の農村は幕府財政を支える重要な場所であった。幕府権威を保つために、鷹狩が行われるなど、非常に重要な地域であった。そのため、江戸周辺の農村では特徴ある生活が営まれた。
江戸周辺農村は幕府領なので、統治には幕府から代官が任命されて、江戸周辺農村を治めた。代官は武士身分だが、武士の中でも比較的身分が低く、俸禄も少なかった。
しかし、代官が治める支配石高は多く、非常に大変な職であった。また、江戸周辺では特に、代官以外にもいろんな支配体制が組みこまれているために、実際に代官が行使できる権限は少なかった。
代官が支配した領土は5万石から10万石であるから、結構な大きさである。大名で考えると中クラスの規模であり、私の町である、丸亀藩は6万石である。
住んでいて思うことは、6万石でも結構な広さである。このように、代官は広い土地を支配していたのだが、そのわりには、俸禄も幕僚の数も30人ぐらいと少なく代官の力だけでは統治は難しかった。
少ない人数で広い領地を治めるので、どうしても、統治が手薄になってしまう。そのために、行われた政策が、有力な農民などを天領支配の統治機構に組みこむことである。
そして、有力な農民などを使った、大庄屋や郡中惣代などの中間支配機構が作られる。
中間支配機構の主な役割として、代官所から伝達された情報を農民達に伝える、年貢米の江戸への輸送の監督、また、村で争そい事が起きると、できるだけ、代官所の手をわずらわせる事を避けて、中間支配機構が争そい事の仲裁を行った。中間支配機構は代官支配体制の中でとても重要な役割を果たしていた。
次ぎに農民達にはたくさんの現代風で言う税金がかけられた。
税金の圧迫で、農民としての身分を捨て、土地を逃げ出す人々も多数存在した。全国的に共通する税が米の生産量、石高によって割り当てられた税の年貢である。
そして、江戸周辺の農村では、この年貢の他に、鷹場に指定されている村が多く、その村では、鷹狩のために発生する、さまざまな負担が農民に課せられる。
また、絶えず洪水の危険をはらんでいる地域が多いので水に関して発生する、治水や用水維持などの水利負担が加えて課せられる。
鷹狩は将軍の権威を守るために行われる大変重要な行事である。
もし、将軍が鷹狩で鳥が取れないと言う事態になれば、将軍の権威はまる潰れとなる。
鷹場に指定された村ではさまざまな税が農民たちを苦しめたと予想される。
鷹場に課せられた負担は多種多様であった。
例えば、鳥の餌の確保やその外の用途のため、虫、蜘蛛、イナゴ、けら、蛍、松虫、葉、枝など、上ケ物と言われる物を収める負担がある。
また、鷹狩の時、鷹が捕まえる鳥の数が減ったら困るので、鳥の数の確保のために、鳥を殺すことは禁止されていた。これは、鳥と言う大事な食糧原が無くなる事を意味している。
江戸は本来、洪水の多い地域である。
本来なら、耕地として適さないのだが、さまざまな努力、例えば、河川の治水、灌漑用水、水流の堰止め、耕地開発などの水利政策をおこなって、石高が増大した。
江戸の農村では、水利政策の時、発生するいろいろな負担を課せられた。
例えば、治水や灌漑用水を建設、維持、復旧に必要となる、人手、馬、船、お金、縄、油、薪、竹、木、いろんな道具などの負担。また、洪水対策のための人と俵などの負担。特徴として、水利負担は、その時代に必要とされる事柄や世の中の流れによって、変化していた。
例えば、初期の建設時期なら、多種多様に、お金や道具などの現物や人足を中心に負担、建設後なら、維持のために、人足と俵を中心に負担して、洪水対策などを行う。
幕末のような、災害の多い時期では、負担が軽くなる。このように、たくさんの負担が農民に課せられた。農民の負担は大きかったが、江戸周辺は飛躍的に石高が増加した。だが、水害や日照などの天災にたびたび襲われ苦しめられている。
農民の生活で、特徴的なのが、5人組み制度である。5人が1組となり、例えば、5人の中の一人でも年貢なの税が治められなければ、連帯責任となって、5人とも罰がくだる。
また、村にはそれぞれ、村法があり、村法を破ると、村八分などの罰が降る。江戸時代の村は、連帯責任のために、犯罪が発生する確率が低い環境にある。
しかし、反面、領主が違えば、逮捕権がないため、犯罪者が逃げやすい世界でもある。
このような、5人組みのシステムによって、これまで、説明してきた厳しい税であっても、治めなければならない、環境に農民は負い込まれていたのではないだろうか。
(将軍の鷹狩 根崎光男 同成社 参照)
クリックお願いします。
2016年11月26日
古代日本と古代朝鮮の深い結びつきとは‐通信教育部専門課程‐考古学リポート
古代日本と古代朝鮮の深い結びつきとは‐通信教育部専門課程‐考古学リポート
古代日本と古代朝鮮は特に結びつきが強いと言える。
なぜなら歴史的に見ても古代日本の統一王朝である大和朝廷は朝鮮から来た民族という説も存在している。
また、実際に古代日本は朝鮮半島の一部を所有していたという説もあり、朝鮮半島の内乱に介入していたという歴史的事実がある。
考古学的に古代日本と古代朝鮮の結びつきを見ると古くは旧石器時代の日本の遺跡で発掘されるハンドアックスなどは、朝鮮半島南部で発掘される細石器と非常に似ている。
この時代のある説では日本と朝鮮は陸続きであったと言われている。
この二つのことを考えるとこの時代は、日本と朝鮮は一つの文化圏として区別無く存在していた可能性が高い。
その後、陸続きで無くなると、日本と朝鮮は別々の文化を歩んだが、少しは交流はあった。
例えば朝鮮の櫛目文土器が九州対馬の縄文時代遺跡の出土品にごくわずかに含まれていたり、また、逆に朝鮮半島南部の遺跡に縄文土器が出土したりしている。
このことから日本と朝鮮は交流があったことがうかがえる。
つぎに人間の生活にとても大きな影響を与えた稲作とそれに伴う金属その他の文化は朝鮮半島から伝えられた。
東アジアの稲作は最初中国の長江中流地域といわれ、それが朝鮮半島に伝わりそして日本には、縄文時代終末期に伝わったという説が今のところ強い。
弥生時代のころ中国ではすでに統一的な王朝ができ社会秩序もととのい、周辺の国家に大きな影響を与えた。
朝鮮半島は中国の属国的な立場になり、文化的影響を大きく受けた。
それが海を越え日本にも伝達した。
日本では大陸文化の影響で貧富の差、支配階級の誕生、統一的国家の誕生、など大規模な変化があった。
これは、稲作により、食料や耕作地を持つものと持たないものの差が貧富の差、それが支配階級へと成長していった。
また、金属文化は日本人の生活を大きく変え、より便利なものになった。
そして、金属文化と乗馬文化は戦争の規模、戦術、スピード、を変え巨大国家ができやすい環境になった。
朝鮮からの大陸文化の伝達は遺跡によりある程度、証明する事ができる。
有名なものに縄文時代時代末期の佐賀県唐津市の稲畑遺跡、弥生時代の遺跡である、静岡県静岡市の登呂遺跡がある。
これらの遺跡には水田跡が見られ、この時代稲作が始まっていたという証明になる。
また、木製農具の制作に使われた磨製石器や稲の収穫具の石包丁が出土された。
これはらは、朝鮮の遺跡から出土されたものと同じ形式を持っていた。
このことから稲作と共に石包丁、磨製石器の技法が朝鮮から日本に伝わったことが推測される。
日本で出土された、銅剣、銅鐸、銅鏡、などに関しても朝鮮半島で同じ形式のものが出土されている。
このことは、朝鮮製の物が、日本に流入、もしくはモデルとされた可能性を示し、両国の繋がりを表すものである。
また、朝鮮の青銅器は中国東北地方の遼寧式の青銅器が源流とされ、中国―朝鮮―日本という流れで文化が入ってくるという事を示すものである。
そして、形質人類学から考えるとこの時代、九州北部や本州西橋から出土された人骨の中に、高顔で高身長という特徴を持つ人骨が出土される。
これは大陸から来た渡来人の骨であると推測され、日本における新しい文化である稲作、金属文化の伝来に、大陸から来た渡来人が大きく関係していると言えるだろう。
古墳についても大陸の影響を受けた。
古くは弥生時代の遺跡で見られる支石墓や箱式石棺は大陸でも同じ形式が見られ、影響を受けたと考えられる。
そして、古墳時代の古墳の構造上における変化である。早くから大陸で見られ、その変化は横穴式石室で見られる。
この技法が日本に影響を及ぼし、古墳製造の技術上昇に貢献した。
横穴式石室の源流は4世紀中頃楽浪群にあり、それが、5世紀に百済に伝わり、百済と交流が盛んだった日本に伝わった。
古墳時代は工芸技術が著しく発達し、文字の使用も見られた。
これは大陸との交流はもちろんのこと大陸から日本に移り住んだ帰化人の影響も強く受けた。
文字はだいたい5世紀頃から一般的に使用された。
文字の使用により新しい知識が容易に得られるようになり、文化の伝達のスピードも早くなり、仏教などの新しい思想も容易に入り、日本人に大きな影響を与えるようになった。
文字の伝達は日本を大きく変え、文化のレベルは上がり、歴史を文字で書き留める事ができるようになった。
すごくすばらしいことである。日本語の文字の源流が中国にあることは中国語を見れば誰にでも想像がつくはずである。
そして、初期日本製の文字を含んだ作品を見ると、大陸の渡来人の名が見られる。このことは、渡来人から文字が伝わった可能性を示すものである。
最後に、もし、大陸からの文化伝来がなければ縄文時代のような狩猟採集の生活が続いていたかもしれない。
大陸からの文化伝来は現在の文明社会の始まりだったのかもしれない。
そして、日本は海に囲まれ独自の文化を歩んで来たように見えるが実は古代は非常に大陸との関係が強く、盛んな交流があった。
日本文化の源流は大陸にあり、日本は大陸文化を基本として独自に文化を築き発達させ、現在の日本文化を創ったと言えるだろう。
例えば文字に関しては日本独自の文体やカナの発明などがそうであるように。
参考(古代朝鮮と日本 西谷正 名著出版)
いつもクリックありがとうございました。
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古代日本と古代朝鮮は特に結びつきが強いと言える。
なぜなら歴史的に見ても古代日本の統一王朝である大和朝廷は朝鮮から来た民族という説も存在している。
また、実際に古代日本は朝鮮半島の一部を所有していたという説もあり、朝鮮半島の内乱に介入していたという歴史的事実がある。
考古学的に古代日本と古代朝鮮の結びつきを見ると古くは旧石器時代の日本の遺跡で発掘されるハンドアックスなどは、朝鮮半島南部で発掘される細石器と非常に似ている。
この時代のある説では日本と朝鮮は陸続きであったと言われている。
この二つのことを考えるとこの時代は、日本と朝鮮は一つの文化圏として区別無く存在していた可能性が高い。
その後、陸続きで無くなると、日本と朝鮮は別々の文化を歩んだが、少しは交流はあった。
例えば朝鮮の櫛目文土器が九州対馬の縄文時代遺跡の出土品にごくわずかに含まれていたり、また、逆に朝鮮半島南部の遺跡に縄文土器が出土したりしている。
このことから日本と朝鮮は交流があったことがうかがえる。
つぎに人間の生活にとても大きな影響を与えた稲作とそれに伴う金属その他の文化は朝鮮半島から伝えられた。
東アジアの稲作は最初中国の長江中流地域といわれ、それが朝鮮半島に伝わりそして日本には、縄文時代終末期に伝わったという説が今のところ強い。
弥生時代のころ中国ではすでに統一的な王朝ができ社会秩序もととのい、周辺の国家に大きな影響を与えた。
朝鮮半島は中国の属国的な立場になり、文化的影響を大きく受けた。
それが海を越え日本にも伝達した。
日本では大陸文化の影響で貧富の差、支配階級の誕生、統一的国家の誕生、など大規模な変化があった。
これは、稲作により、食料や耕作地を持つものと持たないものの差が貧富の差、それが支配階級へと成長していった。
また、金属文化は日本人の生活を大きく変え、より便利なものになった。
そして、金属文化と乗馬文化は戦争の規模、戦術、スピード、を変え巨大国家ができやすい環境になった。
朝鮮からの大陸文化の伝達は遺跡によりある程度、証明する事ができる。
有名なものに縄文時代時代末期の佐賀県唐津市の稲畑遺跡、弥生時代の遺跡である、静岡県静岡市の登呂遺跡がある。
これらの遺跡には水田跡が見られ、この時代稲作が始まっていたという証明になる。
また、木製農具の制作に使われた磨製石器や稲の収穫具の石包丁が出土された。
これはらは、朝鮮の遺跡から出土されたものと同じ形式を持っていた。
このことから稲作と共に石包丁、磨製石器の技法が朝鮮から日本に伝わったことが推測される。
日本で出土された、銅剣、銅鐸、銅鏡、などに関しても朝鮮半島で同じ形式のものが出土されている。
このことは、朝鮮製の物が、日本に流入、もしくはモデルとされた可能性を示し、両国の繋がりを表すものである。
また、朝鮮の青銅器は中国東北地方の遼寧式の青銅器が源流とされ、中国―朝鮮―日本という流れで文化が入ってくるという事を示すものである。
そして、形質人類学から考えるとこの時代、九州北部や本州西橋から出土された人骨の中に、高顔で高身長という特徴を持つ人骨が出土される。
これは大陸から来た渡来人の骨であると推測され、日本における新しい文化である稲作、金属文化の伝来に、大陸から来た渡来人が大きく関係していると言えるだろう。
古墳についても大陸の影響を受けた。
古くは弥生時代の遺跡で見られる支石墓や箱式石棺は大陸でも同じ形式が見られ、影響を受けたと考えられる。
そして、古墳時代の古墳の構造上における変化である。早くから大陸で見られ、その変化は横穴式石室で見られる。
この技法が日本に影響を及ぼし、古墳製造の技術上昇に貢献した。
横穴式石室の源流は4世紀中頃楽浪群にあり、それが、5世紀に百済に伝わり、百済と交流が盛んだった日本に伝わった。
古墳時代は工芸技術が著しく発達し、文字の使用も見られた。
これは大陸との交流はもちろんのこと大陸から日本に移り住んだ帰化人の影響も強く受けた。
文字はだいたい5世紀頃から一般的に使用された。
文字の使用により新しい知識が容易に得られるようになり、文化の伝達のスピードも早くなり、仏教などの新しい思想も容易に入り、日本人に大きな影響を与えるようになった。
文字の伝達は日本を大きく変え、文化のレベルは上がり、歴史を文字で書き留める事ができるようになった。
すごくすばらしいことである。日本語の文字の源流が中国にあることは中国語を見れば誰にでも想像がつくはずである。
そして、初期日本製の文字を含んだ作品を見ると、大陸の渡来人の名が見られる。このことは、渡来人から文字が伝わった可能性を示すものである。
最後に、もし、大陸からの文化伝来がなければ縄文時代のような狩猟採集の生活が続いていたかもしれない。
大陸からの文化伝来は現在の文明社会の始まりだったのかもしれない。
そして、日本は海に囲まれ独自の文化を歩んで来たように見えるが実は古代は非常に大陸との関係が強く、盛んな交流があった。
日本文化の源流は大陸にあり、日本は大陸文化を基本として独自に文化を築き発達させ、現在の日本文化を創ったと言えるだろう。
例えば文字に関しては日本独自の文体やカナの発明などがそうであるように。
参考(古代朝鮮と日本 西谷正 名著出版)
いつもクリックありがとうございました。
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2016年11月25日
日本国大君号‐世界一の国と渡り合う武士の魂とは‐通信教育部専門課程海外交渉史リポート
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日本国大君号‐世界一の国と渡り合う武士の魂とは‐通信教育部専門課程海外交渉史リポート
東アジアは、儒教的な文化なので伝統や格式を重んじる傾向にある。
国書の中の形式や署名など、僅かなことであっても、大変重要な問題となり、僅かな食い違いから、国際的な問題にまで発展する傾向にある。
差出人である日本の徳川将軍の署名に関しても、その書き方にはさまざまな問題点が含まれている。
日本国大君号は対外的な徳川将軍の称号の1つである。最初は朝鮮との国書のやりとりのなかで、初めて使われることになる。
大君の意味は、朝鮮では、国王の嫡男、すなわち王子を指していう言葉である。
また、中国では大君は、天子の意味、すなわち、皇帝を指す意味である。
このように、中国と朝鮮ではその意味がちがうのである。
これは非常に重要な問題で、もし、中国と国交が正式になったと仮定すれば、それは、対等な立場での国交の樹立を意味している。
しかし、日本が朝鮮と日本国大君号で国書を交換する場合は、朝鮮側から見れば日本は子にあたるのである。
子は親よりも格式が下なので、国家間の間に例えると、朝鮮が親ということになり、すなわち、朝鮮の方が格式の高い国と言うことになる。
これは、日本にとって大変重要な問題である。
この問題に対して、新井白石は朝鮮との通信に際して、日本国大君号から対等な号である日本国王へと改めさせた。
しかし、享保時代以降は、元の日本国大君号へと戻った。
中国では、古くから抱いていた思想がある。
それは、中華思想で、これは中国を中心として考える思想で、地理的にも文化的にも中国を中心とする思想である。
中華思想は言語などにも影響が見られ、周辺国を差別用語で呼び名を付けている。
また、周辺国を軽視して差別する文化的に優越思想の華夷思想である。
そのため、中国は外交を行うとき、周辺国とは対等な立場での外交を行わずに、中国の属国的な立場での外交を行った。
儒教的に表現すると、中国が親で周辺国が子と言うことになる。
日本でも、この中華思想を日本風にアレンジした日本的な華夷思想が作られてきた。
中華思想と同じように、日本を中心として、周辺国を見る考えの思想である。
この中では、日本の周辺国である、北のアイヌや南の琉球、そして、東の朝鮮、これらの国々が日本から見て、華夷の国になる。
徳川政権時代の日本は、中国の中華思想の枠組みに入らない、対等な立場での外交政策が基本的な方針であった。
中華思想の枠組みに入らず、日本的な華夷思想の両方から見て、考えられたのが、日本国大君号である。
大君は、中国では天子の意味をさすので、大君を使うことによって、中国と対等な立場の国であることを周辺国にアピールができ、また、国王よりも立場が上である大君を使うことによって、日本的な華夷思想の実現にもなっているのである。
日本国大君号は、江戸時代を通じて、中華思想の枠組みから外れた日本独自の思想として、広く使われ、アジアの国々にも受け入れられてくるのである。
日本国大君号以外でも、さまざまな将軍の名称が存在した。
例えば、征夷将軍、日本御主大御所様、日本国王、日本皇帝、日本将軍様、などで、返書としては、日本国源家康、日本国などである。
これらの名称に関して、これといった厳密な形式や国によっての使い分けなどは存在していなかったようである。
ヨーロッパ諸国との国書のやり取りの中ではそれほど、形式や号に関する問題が出てくることはなかったが、しかし、お隣の朝鮮との国交を正常化するために行われた国書のやり取りの中では問題が出てきた。
豊臣秀吉の朝鮮出兵いらい朝鮮との国交は断絶していたのだが、徳川政権になって、朝鮮との国交正常化を果たすことになる。
日本と朝鮮との国書のやり取りの中で問題となったのは、将軍の呼び名で、朝鮮側は、日本に対して将軍の呼称を日本国王と書くように願った。
この日本国王号は元々、足利義満の時に、明から日本国王として任ぜられて、贈られた称号である。足利義満は明との貿易のために、この日本国王で朝貢貿易を行うことになる。
この時は、足利義満は日本人としての面子よりも貿易での利潤を優先したと言う事になる。
これに対して、賛成する人もいたが、反対に国内では批判する人もいた。明から貰った日本国王を使うことは、明の属国であることを意味し、また、中華思想である華夷思想の枠組みの中に日本が入ることを意味している。
そのために、徳川政権では日本的な華夷思想や武士としての面子のために、この日本国王を使うことを拒絶していた。
しかし、朝鮮は明の華夷思想の枠組みに入り明を宗主国と認めていた。
日本に対しても同じ、明の属国として日本国王号での国書のやり取りを希望していた。
朝鮮との国書のやり取りの中で、日本と朝鮮の窓口となっていた宗氏は将軍の呼称を日本国から日本国王へと変え、朝鮮との国交正常を行った。
そして、満州族が明に侵略を始めると、日本と朝鮮との間での国交の関係は中国を抜きにしたものへと変わっていくことになった。
日本国大君号からは、当時世界1の大国である中国と対等に渡り合う国としての強い意思と、大国にも屈することのない武士的な思想が感じとられる。
(天下泰平 横田冬彦 講談社 2002年 参照)
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日本国大君号‐世界一の国と渡り合う武士の魂とは‐通信教育部専門課程海外交渉史リポート
東アジアは、儒教的な文化なので伝統や格式を重んじる傾向にある。
国書の中の形式や署名など、僅かなことであっても、大変重要な問題となり、僅かな食い違いから、国際的な問題にまで発展する傾向にある。
差出人である日本の徳川将軍の署名に関しても、その書き方にはさまざまな問題点が含まれている。
日本国大君号は対外的な徳川将軍の称号の1つである。最初は朝鮮との国書のやりとりのなかで、初めて使われることになる。
大君の意味は、朝鮮では、国王の嫡男、すなわち王子を指していう言葉である。
また、中国では大君は、天子の意味、すなわち、皇帝を指す意味である。
このように、中国と朝鮮ではその意味がちがうのである。
これは非常に重要な問題で、もし、中国と国交が正式になったと仮定すれば、それは、対等な立場での国交の樹立を意味している。
しかし、日本が朝鮮と日本国大君号で国書を交換する場合は、朝鮮側から見れば日本は子にあたるのである。
子は親よりも格式が下なので、国家間の間に例えると、朝鮮が親ということになり、すなわち、朝鮮の方が格式の高い国と言うことになる。
これは、日本にとって大変重要な問題である。
この問題に対して、新井白石は朝鮮との通信に際して、日本国大君号から対等な号である日本国王へと改めさせた。
しかし、享保時代以降は、元の日本国大君号へと戻った。
中国では、古くから抱いていた思想がある。
それは、中華思想で、これは中国を中心として考える思想で、地理的にも文化的にも中国を中心とする思想である。
中華思想は言語などにも影響が見られ、周辺国を差別用語で呼び名を付けている。
また、周辺国を軽視して差別する文化的に優越思想の華夷思想である。
そのため、中国は外交を行うとき、周辺国とは対等な立場での外交を行わずに、中国の属国的な立場での外交を行った。
儒教的に表現すると、中国が親で周辺国が子と言うことになる。
日本でも、この中華思想を日本風にアレンジした日本的な華夷思想が作られてきた。
中華思想と同じように、日本を中心として、周辺国を見る考えの思想である。
この中では、日本の周辺国である、北のアイヌや南の琉球、そして、東の朝鮮、これらの国々が日本から見て、華夷の国になる。
徳川政権時代の日本は、中国の中華思想の枠組みに入らない、対等な立場での外交政策が基本的な方針であった。
中華思想の枠組みに入らず、日本的な華夷思想の両方から見て、考えられたのが、日本国大君号である。
大君は、中国では天子の意味をさすので、大君を使うことによって、中国と対等な立場の国であることを周辺国にアピールができ、また、国王よりも立場が上である大君を使うことによって、日本的な華夷思想の実現にもなっているのである。
日本国大君号は、江戸時代を通じて、中華思想の枠組みから外れた日本独自の思想として、広く使われ、アジアの国々にも受け入れられてくるのである。
日本国大君号以外でも、さまざまな将軍の名称が存在した。
例えば、征夷将軍、日本御主大御所様、日本国王、日本皇帝、日本将軍様、などで、返書としては、日本国源家康、日本国などである。
これらの名称に関して、これといった厳密な形式や国によっての使い分けなどは存在していなかったようである。
ヨーロッパ諸国との国書のやり取りの中ではそれほど、形式や号に関する問題が出てくることはなかったが、しかし、お隣の朝鮮との国交を正常化するために行われた国書のやり取りの中では問題が出てきた。
豊臣秀吉の朝鮮出兵いらい朝鮮との国交は断絶していたのだが、徳川政権になって、朝鮮との国交正常化を果たすことになる。
日本と朝鮮との国書のやり取りの中で問題となったのは、将軍の呼び名で、朝鮮側は、日本に対して将軍の呼称を日本国王と書くように願った。
この日本国王号は元々、足利義満の時に、明から日本国王として任ぜられて、贈られた称号である。足利義満は明との貿易のために、この日本国王で朝貢貿易を行うことになる。
この時は、足利義満は日本人としての面子よりも貿易での利潤を優先したと言う事になる。
これに対して、賛成する人もいたが、反対に国内では批判する人もいた。明から貰った日本国王を使うことは、明の属国であることを意味し、また、中華思想である華夷思想の枠組みの中に日本が入ることを意味している。
そのために、徳川政権では日本的な華夷思想や武士としての面子のために、この日本国王を使うことを拒絶していた。
しかし、朝鮮は明の華夷思想の枠組みに入り明を宗主国と認めていた。
日本に対しても同じ、明の属国として日本国王号での国書のやり取りを希望していた。
朝鮮との国書のやり取りの中で、日本と朝鮮の窓口となっていた宗氏は将軍の呼称を日本国から日本国王へと変え、朝鮮との国交正常を行った。
そして、満州族が明に侵略を始めると、日本と朝鮮との間での国交の関係は中国を抜きにしたものへと変わっていくことになった。
日本国大君号からは、当時世界1の大国である中国と対等に渡り合う国としての強い意思と、大国にも屈することのない武士的な思想が感じとられる。
(天下泰平 横田冬彦 講談社 2002年 参照)
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2016年11月23日
古代ギリシア、戦争による光と影とは‐文学部史学科通信教育部専門過程(西洋史リポート)
古代ギリシア、戦争による光と影とは‐文学部史学科通信教育部専門過程(西洋史リポート)
古代ギリシアでポリスと呼ばれる小国家が多数建国された背景として、地形的に山脈が多様に枝分かれし起伏が多く居住空間が分断され統一的な国家ができにくい地理的要因が考えられる。
国家間の紛争は絶えずあり、戦争は頻繁におこなわれ戦争の影響を多くうけた。
戦争による影響を考えると、密集隊戦術が原因の社会変化、軍事優先のスパルタ、ペルシアとの戦いによるアテネの変化、ギリシアの覇権をかけたペロポネソス戦争、コリントス戦争などの慢性化された戦争による社会の変化がある。これらのことを説明していきたい。
古代ギリシアの民主政治成立には、戦争の影響があった。
ポリス創世記では戦争をするのは支配階級である貴族がするものであった。
しかし、ギリシア人は積極的に海外に進出し、数多くの植民都市を築き上げ、交易によって経済力を高めていった。
一般農民の中にも貿易に挑戦し、成功を治める者も現れ、貴族以上の財を有する者も現れた。
そして、交易ルートの拡大によりいままで入手しにくかった武器が手に入るようになると、貿易により成功を治めた経済的に裕福な平民のなかには、高価な武器を入手し、戦争に参加する者も現れた。
次に戦争を行う際の戦い方として、密集隊戦術が成立した。
これは体を密着させ、相互の命を盾で守りあうという戦術である。
これにより、兵士の間では貴族、平民関係なく強力な結束と連帯感が生まれた。
これら、平民の戦争参加、密集隊戦術などの要因が影響し、平民と貴族の力の差は縮まり、平民は政治に参加しようようとして貴族と同等の発言力を求めるようになった。
また、それが可能となる社会ができてきた。そして、最終的に民主政治につながっていく。
つぎにスパルタの軍事優先の社会について説明すると、スパルタ人はポリス形成の過程で周辺のラコニア地方を征服し、そして、全8世紀末、二度の侵略戦争で隣接するメッセニア地方を征服した。
この長い戦争中市民の結束を強化するために、市民間の平等化を推進した。また、占領した地域を統治する方法として武力による統治を選んだ。
そのためスパルタ人は7歳から集団生活に入り優秀な戦士になるための訓練をうけ、厳しい規律のもとでの軍事優先の生活を続けた。
生活は簡素で、食生活や衣類は質素なものだった。
これにより最強の軍隊をスパルタは有し、ペロポネソス同盟を結成し、ギリシアで位1,2を争う強力なポリスとなった。
スパルタとならんで強力なポリスへと成長したアテネに関しても戦争が大きな影響を与えた。
前490年と前480年にギリシア本土に進行してきたペルシアとの戦いである。この戦いに際し、アテネは諸ポリスの中心となり大国ペルシア撃退の勝利に大きく貢献する。
この戦いの勝利によりアテネの軍事力を諸ポリスにしらしめ、前478年アテネを盟主とするデロス同盟が結成された。
ドロス同盟結成以降エーゲ海の制海権を握ったアテネでは海上貿易が活発となり、市民に経済論理にも変化の兆しが現れ、未発達であるが市場が成立し、貨幣経済が限定的だが進展した。
また、アテネは同盟諸都市の支払う税を自国の繁栄に流用し、アテネは繁栄を極め国内では、政治改革がおこなわれ、民主政治が実現する。
ギリシア世界はアテネとスパルタによる覇権争いが行われ、これがペロポネソス戦争で、スパルタの勝利に終わり、アテネの権威は地に落ちた。
その後コリントス戦争やテーバイとスパルタのレウクトラの戦いがあった。これらの慢性的な長期の戦争は諸ポリスの力を弱めさせ国力は疲弊していった。
また、コリントス戦争時に再復興をとげたアテネでも侵略的なやり方のため、諸ポリスの反抗にあい同盟市戦争が勃発し国力は疲弊した。
とくにレウクトラの戦いで負けたスパルタは国力の疲弊はひどかった。
ギリシア国内のポリス市民は、経済的没落のため、生計を立てるのもままならず傭兵となることで生計を立てていった。
アテネでさえ将軍が個人的な利益のため外国に渡る者もあらわれ、スパルタでは国家政策として傭兵による収入で国家財政を補った。
ギリシア傭兵は当時では最強の傭兵であり非常に強かった。そのため各国はギリシア傭兵を必要とした。
アレクサンダー大王の東方大遠征でも多数のギリシア人傭兵が雇われ、ペルシア側でも多数のギリシア人傭兵が雇われた。
アレクサンダー大王の入植政策もあり、ギリシア文化が東方に伝わるきっかけとなった。
疲弊したギリシアは前338年カイロネイアの戦いでマケドニアに完敗し、ギリシアはマケドニアの支配下に置かれ、その後もローマなどの支配を受け他国に支配される歴史がつづき、ここに古代ギリシアは終演をむかえた。
最後に古代ギリシアは戦争の影響で、貴族と平民が平等となり、古代では世界的に見ても珍しい民主政治が実現する。
そして、市民が団結し最強の軍隊を作り上げ戦争によりギリシアは繁栄を極める。だがその後皮肉なことに戦争によりギリシアは衰退した。
このことを考えると、短期の戦争は国を繁栄させる時もあるが長期の戦争は勝利しても国を疲弊させる時もある。
戦争というものは歴史を学ぶ上で非常に重要なことといえるだろう。
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