2016年12月07日
里甲制と明朝衰退とは‐通信教育課程文学部史学科‐中国近世史リポート
里甲制と明朝衰退とは‐通信教育課程文学部史学科‐中国近世史リポート
まず、里甲制を簡単に説明すると、1381年に洪武帝が制定した郷村組織である。
地主や自作農などの土地所有者を地理的に隣接した集まりを110戸集めて編成を行って、そして、この110戸の集まりを1里と呼んで地方行政の単位とした。
110戸の中で裕福なもの10戸を里長戸とした。
また、のこった100戸を10甲に分けて編成を行った。
そして、1里の中で、1里長戸と10甲が10甲首となって、賦役黄冊づくりや賦役の徴収、里内の治安の維持、中央への物資調達、地方公費の負担など、非常に重い負担と責任を課せられた。
しかし、毎年1年ごとに交代を行うために、実際は10年に1度の役回りであった。
以上の1里が地方行政末端の組織となって、徴税や正役、雑役を課すための機関として機能した。
このように明の行政は里甲制を通じで、全国のいたるところまで、その支配権を及ぼすことができたのである。
里甲制はあくまで、土地所有者にかかる税、言い替えるなら、土地に掛かってくる税を対象としているために、小作農や奴隷的な人達、雇われ人を対象にしたシステムではないのである。
明初期では、土地の所有権はほとんどが自作農や地主で占められていた。
そのため、明初期では、里甲制はうまく機能して、国家の財源や労働力の確保に役だっていた。
しかし、明中期に入ると少し事情が変わってくる。
明中期に入ると、国内生産量の増加から、商品流通が盛んになり商品貨幣経済が発達していく。
日本の江戸時代も明と同じなのだが、商品貨幣経済が発展してくると、土地(石高)を基礎にした税制度では時代の流についていけないのである。
また、明中期は皇室の所有地が増え、それに伴って、貴族や宦官、官僚など明王朝で地位が高い層の人たちが土地所有を増やして、自領の拡大に努めていった。
説明を付け加えると、明王朝の中央や地方行政の中枢を握っているのは、科挙試験に合格した科挙官僚である。
科挙官僚達は非常に強い権限と特権を有していた。
科挙官僚の給料自体は少ないのだが、科挙官僚としての特権を活かして、財産を増やして大土地所有を形成していった。
地位の高い人の大土地所有が増えると言うことは、言い返ると、土地を持たない人が増え農村の階層化が生まれることを意味している。
では、地位の高い人達の大土地所有がなぜ、明王朝にとってマイナスになるのかと言うと、特権階級の地位の高い人達は、法の隙間を見つけて税負担を逃れた。
そうなると、里甲制は土地所有者を対象にいた税制度なので、自作農層が減少した事が税の収入が減った1つのマイナス点となった。
その他、明中期の自作農や中小地主は税収減少のしわ寄せがきて、重い重税を課せられた。
そうなるとますます、土地を手放す地主や自作農が増えてくるのである。
まさに、悪循環である。
貧富の差が激しい時代を迎え、里甲制そのものを維持していくのが困難になってきたのである。
明末の16世紀という時代は、世界的に急変した激動の時代である。
ヨーロッパ人が多数アジアまで進出して、国際的になってきた。
国際商業には、新大陸からもたらされた銀が使われ明にも大量の銀が流入した。
このような時勢の中、税制度はこれまでの複雑な税制度から銀納による簡素な税制度の一条鞭法に変わった。
この一条鞭法により、税制度は簡素になったが、しかし、農民の負担自体は以前より多くなった。
明末は、ますます商品流通経済が促進された時代である。
16世紀の商品流通経済の活性化が里甲制に与えた影響として、財を求めて農民が商人として出稼ぎを行う者が増えたことで、農業が軽んじられて、農民の数か減ったことである。
農民の数が減ることは国家財政が減ることを意味している。
商人として能力がある者はたくさんの財を獲得してのし上がっていった。
しかし、大半の者は落ちぶれて、ますます、貧富の差が激しくなり、富を持ったのは貧民を押さえつけて、贅沢で優雅な暮らしをして、まさに、お金が全てという、少し混沌としたおかしな時代になった。
明末は、周辺国が力をつけた時代でもあり、明は対外的に守勢に立たされることになる。
明北方では依然としてモンゴルの侵入が続き、また、和寇の勢力は活発化していた。
いわゆる、北虜南倭の活動がピークに達した時代である。
北虜南倭以外にも、明北方の女真族の勢力拡大や日本の朝鮮出兵などがある。
対外的に守勢に立たされると軍隊の維持費などがたくさんいる。
お金がたくさんかかるために、そのしわ寄せが国内に求められて、農民はますます、重税をかけられたのである。
農民は反乱や土地を放置して逃亡や移民する人が増えて、里甲制による、税収入は、ますます減少した。
明代はちょうど時代の変革期で自然経済から商品貨幣経済に移行する時代であった。
明の対外的には朝貢貿易、内部には里甲制の2つの政策の柱はこの経済システムの移行についていけないために明は衰退の一途をたどる。
それに伴い権力者の腐敗が時間を刻むと同時に進んでいく。
これは中国歴代王朝でも見られる現象で宦官、外戚、官僚の腐敗により国力が低下する。
どんなに強力な王朝でも必ず滅びるのが歴史の宿命なのではないだろうか。
明が崩壊したのは歴史の必然なのかもしれない。
そして、最後に思うことは明末の農業が軽んじられて、お金の世の中っていうのは、今の日本を想像してしまった。
(中国史 尾形勇 岸本美緒 1998年 山川出版社 参照)
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まず、里甲制を簡単に説明すると、1381年に洪武帝が制定した郷村組織である。
地主や自作農などの土地所有者を地理的に隣接した集まりを110戸集めて編成を行って、そして、この110戸の集まりを1里と呼んで地方行政の単位とした。
110戸の中で裕福なもの10戸を里長戸とした。
また、のこった100戸を10甲に分けて編成を行った。
そして、1里の中で、1里長戸と10甲が10甲首となって、賦役黄冊づくりや賦役の徴収、里内の治安の維持、中央への物資調達、地方公費の負担など、非常に重い負担と責任を課せられた。
しかし、毎年1年ごとに交代を行うために、実際は10年に1度の役回りであった。
以上の1里が地方行政末端の組織となって、徴税や正役、雑役を課すための機関として機能した。
このように明の行政は里甲制を通じで、全国のいたるところまで、その支配権を及ぼすことができたのである。
里甲制はあくまで、土地所有者にかかる税、言い替えるなら、土地に掛かってくる税を対象としているために、小作農や奴隷的な人達、雇われ人を対象にしたシステムではないのである。
明初期では、土地の所有権はほとんどが自作農や地主で占められていた。
そのため、明初期では、里甲制はうまく機能して、国家の財源や労働力の確保に役だっていた。
しかし、明中期に入ると少し事情が変わってくる。
明中期に入ると、国内生産量の増加から、商品流通が盛んになり商品貨幣経済が発達していく。
日本の江戸時代も明と同じなのだが、商品貨幣経済が発展してくると、土地(石高)を基礎にした税制度では時代の流についていけないのである。
また、明中期は皇室の所有地が増え、それに伴って、貴族や宦官、官僚など明王朝で地位が高い層の人たちが土地所有を増やして、自領の拡大に努めていった。
説明を付け加えると、明王朝の中央や地方行政の中枢を握っているのは、科挙試験に合格した科挙官僚である。
科挙官僚達は非常に強い権限と特権を有していた。
科挙官僚の給料自体は少ないのだが、科挙官僚としての特権を活かして、財産を増やして大土地所有を形成していった。
地位の高い人の大土地所有が増えると言うことは、言い返ると、土地を持たない人が増え農村の階層化が生まれることを意味している。
では、地位の高い人達の大土地所有がなぜ、明王朝にとってマイナスになるのかと言うと、特権階級の地位の高い人達は、法の隙間を見つけて税負担を逃れた。
そうなると、里甲制は土地所有者を対象にいた税制度なので、自作農層が減少した事が税の収入が減った1つのマイナス点となった。
その他、明中期の自作農や中小地主は税収減少のしわ寄せがきて、重い重税を課せられた。
そうなるとますます、土地を手放す地主や自作農が増えてくるのである。
まさに、悪循環である。
貧富の差が激しい時代を迎え、里甲制そのものを維持していくのが困難になってきたのである。
明末の16世紀という時代は、世界的に急変した激動の時代である。
ヨーロッパ人が多数アジアまで進出して、国際的になってきた。
国際商業には、新大陸からもたらされた銀が使われ明にも大量の銀が流入した。
このような時勢の中、税制度はこれまでの複雑な税制度から銀納による簡素な税制度の一条鞭法に変わった。
この一条鞭法により、税制度は簡素になったが、しかし、農民の負担自体は以前より多くなった。
明末は、ますます商品流通経済が促進された時代である。
16世紀の商品流通経済の活性化が里甲制に与えた影響として、財を求めて農民が商人として出稼ぎを行う者が増えたことで、農業が軽んじられて、農民の数か減ったことである。
農民の数が減ることは国家財政が減ることを意味している。
商人として能力がある者はたくさんの財を獲得してのし上がっていった。
しかし、大半の者は落ちぶれて、ますます、貧富の差が激しくなり、富を持ったのは貧民を押さえつけて、贅沢で優雅な暮らしをして、まさに、お金が全てという、少し混沌としたおかしな時代になった。
明末は、周辺国が力をつけた時代でもあり、明は対外的に守勢に立たされることになる。
明北方では依然としてモンゴルの侵入が続き、また、和寇の勢力は活発化していた。
いわゆる、北虜南倭の活動がピークに達した時代である。
北虜南倭以外にも、明北方の女真族の勢力拡大や日本の朝鮮出兵などがある。
対外的に守勢に立たされると軍隊の維持費などがたくさんいる。
お金がたくさんかかるために、そのしわ寄せが国内に求められて、農民はますます、重税をかけられたのである。
農民は反乱や土地を放置して逃亡や移民する人が増えて、里甲制による、税収入は、ますます減少した。
明代はちょうど時代の変革期で自然経済から商品貨幣経済に移行する時代であった。
明の対外的には朝貢貿易、内部には里甲制の2つの政策の柱はこの経済システムの移行についていけないために明は衰退の一途をたどる。
それに伴い権力者の腐敗が時間を刻むと同時に進んでいく。
これは中国歴代王朝でも見られる現象で宦官、外戚、官僚の腐敗により国力が低下する。
どんなに強力な王朝でも必ず滅びるのが歴史の宿命なのではないだろうか。
明が崩壊したのは歴史の必然なのかもしれない。
そして、最後に思うことは明末の農業が軽んじられて、お金の世の中っていうのは、今の日本を想像してしまった。
(中国史 尾形勇 岸本美緒 1998年 山川出版社 参照)
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