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2021年03月13日

夢の舞台高校教師へ



夢の舞台高校教師へ

2002年4月1日夢だった高校教師の舞台に立つことができた。夢のよう、夢なら冷めないでほしいと思った。
 よくわからないまま、どとうの時間が過ぎていった。事務仕事や力仕事、教材研究や同僚へのあいさつなど、何をやっても新鮮で楽しかった。
 入学式や始業式が終わり、新入生を対象とした部活動勧誘のオリエンテーションが行われ、チアリ―デング部がステージで元気に踊っている姿を見た。その時、胸に混みあげる熱い心が体中を駆け巡り、とても感動した。チアリーディングのステージを見て「やっと、戻ってきた、高校と言う舞台に自分がやっと立てた」と思った。体育館の一番後ろで1人感傷に浸っていた。そして、目には一粒の涙がこぼれた。
 ここから始まる、夢の舞台に立ち、人生の演技がこれから実演される。










2021年02月13日

夢の高校教師への準備




夢の高校教師への準備

三月も下旬にさしかかった頃、教師になる事が決まった。四月一日からの採用なので、それまでに、二週間を切っていた。
身体のメンテナンスと知識の習得、服、居住空間など様々な準備を行う必要があった。
これまでの人生で、スーツを着たのは教育実習の時ぐらいであった。この時は、デザインが古臭い、成人式の時に着たスーツで何とか過ごした事を覚えている。もちろん、貧乏学生にスーツを買うお金は無かったが、親が就職祝いに買ってくれた。服は買えば、問題解決だが、問題は身体のメンテナンスであった。
当時、身体の悪い所は口の中にあった。学費のため、歯医者に行くお金すらなく、口の中には虫歯菌が大量に発生していた。
残念な事に虫歯を放置し過ぎた結果、手遅れになっていた。仕事初めまでには到底間に合わず、とりあえずは仕事がはじめる前に親不知をいっぺんに二本も抜いた。親不知を抜く事に不安はあったが、何の問題もなく、あっさりと抜け、抜いた後の体調も何の問題もなかった。
それ以外の歯は、四月以降に治療し、神経を抜いた歯もあったが、完治した。
知識に関しては、予習として高等学校地歴の教科書を勉強して、準備を行った。
歯の治療は間に合わなかったが、服や部屋の準備、予習など、短期間で一気に教師として仕事をする準備を行なった。
 教師としての居住空間、道具、体、心、知識を短時間ではあったが、整えて、なんとか四月一日を迎えた事を覚えている。四月一日が来ることが楽しみで仕方なかった。この頃はもっとも、人生で楽しく、夢と希望に満ち溢れた日々だったと記憶している。










2021年01月14日

二九歳の就職活動、もうすぐ三〇歳ゆっくりとあせる




二九歳の就職活動、もうすぐ三〇歳ゆっくりとあせる

 就職活動とは縁の遠い生活をしていた。
 単位の修得、生活費を稼ぐ、卒業論文など、とても就職活動をする余裕はなかった。
公立の採用試験を受けようと思い、願書は書いて提出したが、試験対策はまったく出来ていなかった。また、卒業論文の指導日とも重なり、試験を受ける事すら出来なかった。かろうじて、数県の公立と私立の講師登録を行っただけであった。就職活動もろくにしていないので、新卒で教員になれるとは思っていなかった。
当初思っていた事は、アルバイト先で、雇用保険をかけていたので、職業訓練学校に通って、雇用保険で生活をしようと思っていた。実際願書も書き提出寸前であった。
三月も中旬が過ぎた頃、講師登録をしている県の私立高校から、面接を受けないかと連絡が入った。
 教師になれるかもしれない、夢のような出来事であった。
突然に面接が決まり、採用試験の日程がきまった。
面接は校長、両教頭、教務主任、教科主任の五人が面接監となって行われた。
その重々しい雰囲気に緊張はしたが、自分の思いは伝わったと思う。
面接で好印象を与えるポイントは自分のセールスポイントを一つに絞って伝える事である。
私の場所は、飲食業の経験者という事をアピールした。 最後に言われた事は、様々な生徒が在籍しているので、自分の様な人間が必要という事であった。
結果は合格で、常勤講師として、四月からの採用が決まった。
すんなりと教師になれた事が不思議で、信じられなかった。
 夢が現実になる瞬間であった。これまで、失敗続きの人生だったので、夢が現実になる事もあるのだと思った。











2020年12月15日

東京武道館が夢の舞台



東京武道館が夢の舞台

壮大で威厳のある建物、客席の急な構造、舞台との一体感、
私はこれまでの人生を振り返りながら、感動に胸を詰まらせていた。
私には東京で夢があった。それは東京武道館に行く事。
東京武道館はコンサートや各種イベントでもよく使われる。しかし、かたくなに行く事を拒んだ。
結局、大学生活が終わりかけた頃に一度だけ、その夢の地に行く事になった。
大学卒業の単位数は一二四単位これに、私の場合は教職課程も取っているので、それが約四〇単位以上は必要だった。かなりきついスケジュールではあったが、なんとか、四年で卒業でき、教員免許も取得することができた。
卒業単位と教職単位を全て取り、残すは卒業式のみとなった。卒業式に参加することを目標に四年間、頑張り続けたので、この日が来るのが夢の様であった。卒業式の日に東京武道館に行くというのが、いつしか自分の中の目標となった。
法政大学の卒業式は東京武道館で行われる。










2020年09月02日

教育実習で母校へ

教育実習で母校へ


なんとか、ぎりぎり、二〇代の二九歳の大学四年の春、教育実習を行った。教育実習は前年に直接実習高へ自身がお願いに行く。
私の場合、卒業した高校が私立高校だったので、母校へ直接お願いに行った。快く引き受けてくれ、実習が決定した。

私は一年生のクラスについた。また、教科は日本史、世界史、現代
社会で三週間の教育実習を行った。
まだ私もぎりぎり、二〇代だったので、今思えば生徒との距離も近く、楽しい思い出となった。授業の方は、もちろん、なかなかうまくいかずに何時も四苦八苦していた。久しぶりに帰ってきた母校で、教員と言う仕事の素晴らしさを体験できた。

教育実習の最後は研究授業で締めくくる。
研究授業とは、予め授業の資料や指導案を提示し、また、教員が実際の授業を見学して、授業後に批評会を行う授業の事を指している。

きちんとした、指導案を作るのは初めてで、また、たくさんの教員に見てもらうのは、とても緊張する事であった。
授業の内容としては、モンゴル帝国の領土拡大をテーマにした授業であった。最初こそ緊張したが、途中からは自分自身が授業にのめり込んでしまい緊張も無くなった。
普段はうまくいっていない授業であったが、この時は生徒も協力してくれて何とか授業を乗り切ったと感じている。
生徒の協力は裏で支えてくれた教師集団の口添えがあった事は言うまでも無い事である。

 授業後の批評会では、これからの教員なので、良い事を中心に言って褒めて伸ばそうと言う事で、たくさんのプラスの意見をもらった。私自身褒めて伸びるタイプなので、とても良い感じで教育実習を終えることができた。

 最終日の夜に指導教官から夕食をご馳走になった。この時思ったことは、もし自分が教師になる事ができたら、何時かは指導教官となって、若い教師の卵を育ててみたい。
そして、最終日に自分が指導した若い教師の卵に、ご飯をご馳走しようと思った。私が指導教官からご馳走になったそのお返しは、自分の教え子に返そうと思ったのである。

この私の思いが達成されるのはこれから、約一〇年の歳月が必要になる。教育実習から一〇年後、初めて教育実習生の指導教官に任命されて最終日教育実習生を飲みに連れて行き、自分の支払いを行おうとした実習生にこのエピソードを語った。

私が育てた実習生が教師になり、指導教官になった時は是非同じ様にして欲しいと思った。
世の中の繋がりに不思議な気持ちになった。

教育実習の全行程が終わり、よりいっそう教師になりたという気持ちが強くなった。自分は教師になるしかないと再確認ができた。










2020年08月03日

卒業論文の制作、初めての本格的な歴史研究



卒業論文の制作、初めての本格的な歴史研究

 卒業論文の制作は気の遠くなる作業であった。
第一文献にあたるのが卒論の基本である。

空襲がテーマの卒業論文で、第一文献と言えば、高松空襲経験者の生の声である。この高松空襲経験者の記録は高松空襲手記編という形で本になっている。空襲経験者の証言をまとめて、共通点を見つけていく、研究は根気と時間が必要であった。

どのような研究も同じで、一つの説を打ち立てるには、証拠が必要で、その証拠は多ければ多い方が良い。
証言者の意見が多ければ多いほど、その説には信憑性が生まれ、また、証言以外の別の資料を証拠として提出できれば定説になる可能性が出てくる。

例えば、一例を挙げると、高松空襲が始まった時間だが、高松空襲経験者の証言では、七月四日午前一時から二時の間に空襲が始まったとする証言が大半を占める。

この証言を裏付ける資料として、高松市史年表がある。この資料は議会や消防などの公的な機関の報告書をまとめた資料で、現地の人達が作った信憑性の高い資料である。この高松市史年表では高松空襲の始まった時間は一時四八分頃と記載されている。
当時の公的機関の正式発表と空襲経験者の証言がほとんど一致しているので、ほぼ確かな説と言える。

しかし、どのような歴史にも、様々な説が存在する。この高松空襲の開始時間に関してもそれは同じである。

実例として、高松市市民文化センター平和記念室の展示には、高松空襲の始まった時間は七月四日の午前二時五六分と記載されている。
実に、高松市史年表と一時間以上の誤差が生じている。
この二時五六分を裏づけする資料として、サイパンのマリアナ基地の出撃に関する米軍資料が挙げられる。この資料を見ると、二時五六分は第一目標上空時間と記載されている。

では、高松市年表の午前一時四八分とマリアナ基地の二時五六分のどちらが有力な説なのかを考察してみる。米軍の資料は、一番機の到着の目標時間なので、あくまでも予定と考える事ができ、実際に到着した時間とは違うのではないかと考察する事ができる。
そのように考えると、決め手になるのが第一資料である。
第一資料の空襲経験者の証言では、午前一〜午前二時の間という意見が多いので、一時四八分の方が空襲の経験者の証言に近い為、高松空襲が始まった時間は一時四八分ぐらいと考える事が妥当である。

だが、また、新たな視点や資料が登場すれば、私が研究した説は簡単に覆るだろう。それが歴史研究だと思っている。
過去の定説がいとも簡単に変わるところに、歴史の面白さと難しさを感じる事ができる。

これ以外にも、最初の爆撃地、終わりの時間、空襲中の行動、出撃数、空襲前、空襲後、全国的な比較、復興など様々な視点を高松空襲経験者の証言を中心に、数多くの資料を裏づけにして研究を進めていった。

研究を進めていくと高松空襲の真実と全体像が浮かび上がって来る。
高松空襲の全体像から他地域の空襲と比べることによって、次は、日本全体での本土空襲の様子が見えてくる。

高松空襲を研究する事によって、昔流行った、アメリカ軍は文化遺産を避けて空襲を行ったという、ふざけた俗説を一蹴する材料の一つにもなった。
京都は原子爆弾投下の候補地でしかなかったと言う事だ。

米軍の本土空襲はそんな甘いものではない。アメリカの攻撃は国際法を無視した、大量殺戮と徹底的な破壊があるのみである。










2020年07月04日

広島と高松の共通点とは?卒業論文のテーマが舞い降りた日



広島と高松の共通点とは?卒業論文のテーマが舞い降りた日

卒業論文のテーマを決定づける出来事がたまたま訪れた。
広島の街を歩いているとき、ふと、頭の中に突然、卒論のテーマが頭に入ってきた。
なにかアイデアが浮かぶ時は何かをしている時に浮かぶことが多い。

広島とくれば原子爆弾、おそらく、日本中の殆どの人たちが思いうかぶ事であろう。

卒業論文のテーマ設定では、今まで誰も研究していない事柄が好ましい。この点で行くと広島の原子爆弾はあまりにもメジャーで卒業論文のテーマとしては相応しくない。

私が広島の町を歩いてふと思ったことは、街並みがある町に似ていることであった。
実際に歩いてみて思った広島の町の特徴は、太くて大きな碁盤の目の様になった道路と大きな商店街であった。大きな道路を碁盤の目のように張り巡らせるためには、計画的な都市計画が必要である。

広島に似ている街並みは香川県の高松である。高松の町も碁盤の目のように張り巡らされた大きな道路と日本一大きな商店街が特徴である。
広島と高松が似ているのは、たまたまなのか、それは、偶然でなく必然であることを私は気付いてしまった。

広島は原子爆弾の投下によって町が焼け野原となり、戦後復興を果たした。
高松市も高松空襲によって焼け野原となり、戦後復興を果たした町という共通点が存在していた。

香川県民ですら広島の原爆は知っていても高松空襲の事は知らない人が多いようだ。

どの地域も同じだと思うが、日本の現在のカリキュラムでは地方史、すなわち、高松空襲の様な、地方の空襲を取り上げる授業は基本的には存在していない。という事は、東京大空襲や広島、長崎の原爆の事は知っていても、自分が住む地域の空襲の事は知らない人が多くいるという事である。実に嘆かわしい事だと思う。

私自身が高松空襲の事を知った理由は私の恩師からの話がきっかけである。その話の内容は、高松に住んでいた恩師の親が高松空襲の日に、たまたま用事があって、別の所に行っていたので命が助かった。
もし、親が高松にその日居たら、自分自身はこの世に生まれてくることはなかったであろうと言う話をたまたま覚えていた事である。何故かその話は私の記憶に鮮明に残った。

私の卒業論文のテーマは高松空襲に決定した。この高松空襲との出会いが、今後の私の人生を大きく変えていくことになろうとはこの時、知る由もなかった。












2020年06月05日

卒業論文のテーマを考える‐課題の選びかた



卒業論文のテーマを考える‐課題の選びかた

大学卒業の最大の関門は卒業論文であった。卒業論文を仕上げる事が大学に通う目標の一つでもあった。

卒業論文の制作では、資料は第一資料を使うこと。原則、まだだれも研究していないテーマで行うことが求められた。

卒論のテーマを考えると、古典、漢文、外国語が苦手な私にも唯一得意な言語がある事に気づいていた。

その言語を使うことでしか、四年で卒業する道は残されていなかった。その言語は小学生でも一般的には得意な言語で、現代日本で使われている日本語の事である。日本語ができれば、人生なんとかなる、この時そう思った。

なんとか、近代の文章からは読めるようになっていたので、第一文献を読むことができる、日本近現代史で卒業論文を書くしか方法が残されていなかった。
 
当時の私は日本近現代史にはそれほどの興味と関心は無かった。今思えば、愚かで無知、歴史のことなど薄い知識でしか知らない人間であった。

日本近現代史にそれほど関心がなかった理由は、第二次世界大戦のイメージが強く、日本は敗戦国家で、中国、朝鮮、東南アジアなどで極悪非道な悪いことばかりして、ナチスドイツと組んで世界を混乱させる悪の根源的な負のイメージしかなかった。その為に近代史にはあまり興味は持てなかった。

しかし、違う見方をすると、欧米列強のアジア支配に対して日本がアメリカやイギリスと戦った。この戦争はいわば、アジアの解放の為の戦いであるという視点が存在している。むしろ、世界を混乱へ導いていたのが、アメリカやイギリスを中心とした欧米列強の帝国主義にある事に気づかされた。

近現代史を深く研究して、勉強していく内に、これまで持っていたイメージが一方的なイメージにしか過ぎず、様々な視点が存在している事を知り、歴史の奥深さを痛感していく事になる。

どのような歴史であっても、様々な説が存在していて、絶対が無い。二次世界大戦でいえば、なぜ、日本が中国やアメリカ、イギリスなどを相手に戦争をしなければいけなかったのか、その理由を探っていくと、そこには今まで見えなかった新たな視点が隠されている事に気付いたのである。

資料が豊富に現存しているが為にロマンや空想では語れない近現代史、だからこそ、一言では語れない、多様な真実が近現代史には存在している。










2020年05月06日

3年目の大学生活!折り返しのターニングポイント



3年目の大学生活!折り返しのターニングポイント

2年目以降順調に単位を修得していった。それは、3年目でも継続され、3年目が一番多くの単位を修得することができた。

三年目になると、そろそろ、卒業論文のテーマを考えるだけでなく、予定している教育実習のことも考えていく学年になる。

とても、忙しいが、充実した一年となった。

生活のサイクルも確定してきた。

リポートのネタを探す。リポートを作成する。単位修得試験が近づくと、テスト勉強をする。夏と冬にスクーリングに行く。この年間のサイクルが出来上がった。

ルーティンが出来れば強いものである。

このままいけば、卒業と教員免許も取得できると、ある程度ゴールも見えるようになってきた。

しかし、それとは、同時に本当にこのまま上手く事が進むのかと不安もあった。

大学三年は、充実した大学生活の日々、順調な日々、忙しい日々、不安な日々、考える事が多い日々など、様々な感情が入り乱れた一年間となった。

この一年間が今後を左右するキーポイントになった。










タグ:大学生活

2020年04月07日

法政大学通信教育のスクーリング宿舎について



法政大学通信教育のスクーリング宿舎について

法政大学のスクーリングは、夏と冬におこなうのが一般的だ。午前中と午後に分けて、2科目を月曜日から金曜日まで授業をする。土曜日にテストがあり、日曜日は休みになる。この一週間のサイクルが、数回続く。
 スクーリング中に困るのが、宿舎だ。私のように地方出身者にとって、宿泊先を確保するのが、大仕事になる。出来るだけ安く宿泊したいのが本音だ。大学側から、発行される冊子で、宿泊先の紹介がされる。

〇主な宿泊パターン
・ルーテル市谷センター
自分自身このルーテル市谷センターに宿泊する場合が多かった。三人一部屋で、法政大学の通信生ばかりの部屋になる。通信生同士の交流には向いている。

・ユース
私自身は利用したことは無いが、ユースを利用する学生も多い。こちらは大部屋を共同で使用する。

・ホテル
ホテルで連泊する人もいた。お金はかかるが、プライベートは守れる。

・ウィークリーマンション
一度使用したことがある。集中して勉強をするには適している。プライベートが守れるが、交流が出来ないので、私には向かないと感じた。

・その他
少数だが、ファミリーレストランで過ごして、宿泊代を浮かす人もいた。私は流石にここまで出来ないと感じた。










タグ:大学生活
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