2016年12月05日
明の対外政策について、歴代皇帝の対応‐文学部史学科通信教育部‐中国近世史リポート
明の対外政策について、歴代皇帝の対応‐文学部史学科通信教育部‐中国近世史リポート
明代の対外政策は朝貢貿易なきには語ることはできない。朝貢貿易とは明が他国から貢ぎ物を受け取り、そして、明が他国に恩賞を賜ることである。
明を建国した洪武帝(1328〜1398)の対外政策は、外交によって明の力を誇示しようと考えた。
アジアでは本来、日本も含めて中国を中心に置いて、中国を宗主国として崇める思想がある。
洪武帝はこの思想の完全なる確立を対外政策の柱にしていた。
そして、洪武帝は朝貢貿易を通じて他国を間接的、形的、形式的に周辺国を支配しようとした。
少し難しいが、支配と言うよりは、保護や親と子の関係のような、儒教的考えで、国の格式の位置付けと言ったほうがいいのかもしれない。
朝貢貿易を通じて周辺国は明を宗主国と崇めた。
明建国当時の情勢は、モンゴルを撃ち破って国を建国した明であったが、しかし、モンゴルの残存勢力は強大で強く、いつ明がやられても、おかしくない状況であった。
建国してすぐの時は、まだ、明国内も安定しているとは言えない。
そのため、明は周辺国との間は平和に友好関係を築く必要があった。
そして、モンゴルやモンゴルと結びつく勢力にだけ、武力を集中させてモンゴルに対抗する必要があった。
結果が平和的な朝貢貿易と北方にあるモンゴル国境の武力集中政策である。
洪武帝の政策で、朝貢貿易と表裏の関係にあるのが海禁政策である。
情勢として、海賊行為の倭寇の活発化や元末の残存勢力の盛り返しがあった。
洪武帝は新政権の秩序と安定を図るために海禁政策に踏み切った。
海禁政策とは朝貢貿易以外の貿易の禁止と朝貢貿易以外の外国船の来船の拒絶である。
国民に対しても下海の禁令を発して、いっさいの海外渡航を禁止した。
洪武帝の対外政策は基本的には明王朝の対外政策としてこれ以後長きに渡って継続されることになる。
次ぎに、3代目皇帝の永楽帝(1360〜1424)は基本的には洪武帝の政策を受け継ぎ、そして、更に朝貢貿易を促進していった。
しかし、洪武帝と違う点は、洪武帝は朝貢貿易に制限を設け、外国に武力ではなく平和外交を進めていた。
これに対して、永楽帝は積極的に朝貢貿易を推し進めて、外国には、5度にわたるモンゴル親征や鄭和の南海経路、ベトナム征服などの積極的な対外政策を行った。
特に、皇帝自らが万里の長城を越えてモンゴルに攻めこむなんて、中国の歴史上でもあまり例がなく、永楽帝の対外政策の心構えがよく分かる出来事だと思う。
永楽帝は帝位を奪って皇帝になった。中国は儒教の国である。
中国は物事の道理やしきたり、順序を大切にする国民性である。
そのため、永楽帝は靖難の変の汚名があるため、大義名分がほしかったのではないだろうか。
だから、洪武帝の精神を受け継ぎ自らの正当性を示し、対外遠征をすることで国民の目を外にむけ、また、皇帝自らが遠征を行うことで国民の信頼や団結間を作っているのではないだろうかと思う。
次に、明5代皇帝宣徳帝(1399〜1435)は基本的にはこれまで通りの朝貢貿易を行ったが、永楽帝との違いは、永楽帝は積極的に武力で他勢力を制圧したのに対し、宣徳帝は、ベトナム放棄や北方防衛線の後退、北方の長城線固守政策に代表される、消極的な外交政策を行った。
他民族を武力で制圧して統治するのは、非常に難しい。例えば、ベトナムでは断続的に民族抵抗運動が発生した。ベトナムを統治するために、戦費や人被害がたくさんでた。
これは中国北方でも同じと言える。宣徳帝は武力でなく朝貢貿易を通じて、平和的に外国と対外関係を築いて、間接的に支配することを考え、外国は明を宗主国として崇めることを目的としていた。
明代13代皇帝隆慶帝(1537〜1572)の時代になると、ヨーロッパの主にスペインやポルトガルがアジアにまで進出して貿易を行った。
また、倭寇が活発化した時代でもある。
明国内では流通経済の発展に伴い利益を求めて国民は、海禁政策を無視してでも、密貿易を行う者がたくさん現れた。
明は形式上、朝貢貿易しか行わないので、ポルトガルを中心とするヨーロッパの国と貿易を行わなかった。
しかし、現実は、明との間に密貿易が盛んになる。
もはや時代の流れで、明はこれまでの朝貢貿易と海禁政策の2つの対外政策を維持していくのはむずかしくなった。
現状では朝貢貿易と海禁政策は形だけのものとなり、旧秩序は崩れた。
明の前の王朝はモンゴル支配による元である。
長い間、他民族に支配された中国は、中華民族による国家を取り戻した。
アジアに流れていた中国を盟主と考える思想やモンゴルによって壊されていたこれまでの秩序を取り戻すための1つの形が朝貢貿易なのではないだろうか。
朝貢貿易によって、旧秩序を取り戻した明であったが、しかし、時代は急展開を迎えて、新しい秩序が生まれようとしていた。ヨーロッパを中心とて起こった新しい秩序は、旧体制を維持しようとしていた明をも巻きこみ時代は新しい時代を迎えようとしていた。
(中国史 尾形勇 岸本美緒 山川出版社 1998 参照)
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