2019年04月08日
科挙について東洋史概説-法政大学通信教育リポート・学生必見
科挙について東洋史概説-法政大学通信教育リポート・学生必見
科挙以前の官僚登用は、漢(前202〜220)で行われた察挙である。これは中央政府から地方に派遣された地方官が優秀な人材を見つけ推挙するというシステムである。だが、実際は地方で権力を持っていた豪族の意向に左右されることが多いシステムであった。
次は、三国時代の魏で3世紀ごろ作られた九品官人法である。これは地方に中正という官職を配置し、才能有る者などを、九段階の等級に分けて中央政府に推薦するというものである。しかし、初めはうまくいっていた制度だが、中正官はその地方出身者が原則であり、また、中正の官を地方の有力者が占有したため、自然に上品には地方の有力者の子弟が選ばれるようになった。そして、家柄などによって、官職が代々固定され、貴族層が形成され、能力に関係なく官僚が選ばれ結果となった。
九品官人法の問題点を解決するために、隋の文帝(581〜601)は中央の地方に対する統制を強化し、九品官人法を廃止し、始めて科目試験の方法で官職を選抜した。2代目の煬帝(605〜616)は科挙制度を正式に形成した。しかし、隋や唐(618〜907)代の科挙はまだまだ貴族中心の制度であった。だが、少しずつではあるが徐々に科挙の持つ実力主義の特徴が貴族による官僚独占構造を崩していった。
そして、科挙制度の、受験資格は国籍、貧富、身分に関わらず男性なら誰でも受験できた。例えば日本人の阿倍仲麻呂(698〜770)も採用され、節度使として活躍した。科挙制度は優秀な人材を採ると言うことには非常に合理的で、全ての男性に平等な制度と言えるだろう。しかし、科挙試験は非常に難しく、大変な勉強時間を必要としたため、実際に勉強できる環境にあるのは、収入的にゆとりのある貴族などの裕福な層の人間が大半を占めるといった矛盾点もあった。
そして、科挙が形式上、だれでも公平に受験できるようになり、もっとも科挙制度が花開いたのが宋(960〜1279)代である。
科挙は、中国の政治、文化、社会、国民性などを作り出すシステムとして大きな役割を果たした。例をあげるなら、科挙試験による画一された倫理観の養成、科挙制度によってもたらされる文化の普及、その他人と人を結ぶ役割。例えば、教育費、受験費用を援助するシステム、郷試や解試合格者などを地域あげて応援したこと、試験管と受験生のつながり、教育機関でのつながり、官界に入ってからの薦挙制度などによる人脈である。
科挙の試験科目は、経義(経書の解釈)、試賦(作詩)、論、策(論文)である。科挙合格の条件として古典に精通して、詩文を立派に作り、論文作成のための歴史知識をもつことが必要とされ、これらの教養を身につける事が合格の条件であった。
科挙官僚が多数いた宋代において経義に代表される儒教的価値観を身につけた科挙官僚が、宋代の権力者層を形成していった。この権力者層は士大夫と呼ばれた。また、科挙の学習は政治事情と深く関係した。例えば、宋代の王安石(1021〜1086)の率いた新法党が政権を担当したときには、科挙の試験科目から詩賦が除外され、経義が重視されることとなり、王安石を中心に作られた三経新義が教科書となり、受験生達は、王安石の学問一色に染められた。ところが、旧法党が政権を担当すると王安石の書物の使用が抑制され、詩賦が復活した。
そして、再度新法党が政権を握ると経義中心の王安石体制に戻った。
このように、科挙試験を通して国家や時の権力者が求める画一的価値観にそう自分に都合の良い官僚を育成することができた。また、科挙制度は受験科目である経義を通して、儒教的価値観を国に広める原因となり、広大な中国で1つの統一的な文化が生まれる原因になった。しかし、科挙試験とは関係ない学問は発達しにくいことや科挙試験だけの勉強にかたよることや科挙試験が国や権力者の国家統制に利用されるという弊害も同時に生まれた。
つぎに宋代の科挙試験には殿試と呼ばれる皇帝自らが試験管となる試験が設けられた。宋代では、科挙の合否の決定権は最終的には皇帝1人が握り、官僚の任命をするのも皇帝の役割だった。さらに宋代では「対」と呼ばれる直接皇帝に面会して意見を申す制度が発達した。これらのことは皇帝と科挙官僚の個人的なつながりや関係を深めていった。このことは、皇帝に権力が集中する宋代の政治体制に大きく関わった。また、官僚と皇帝の個人的なつながりは、官僚の発言力が皇帝の政治決断に大きな影響を及ぼした。
この宗代のシステムは大変すばらしいが、たいへん大きな危険性を含んでいた。たとえば、皇帝である徽宗(1082〜1135)は政治よりも文化に興味を持ち、政治はもっぱら科挙官僚に任してしまった。これは、皇帝徽宗の後ろ盾で専権をふるう宰相の出現をもたらした。科挙試験に若くして合格した、蔡京(1047〜1126)は皇帝に重用され、ついには宰相にまで登りつめ、専制をふるい、自分に都合の良い政治をして国を混乱させた。これは、宋王朝滅亡の1つの原因ともなった。
(中国史 尾形勇 岸本美緒 山川出版社 1998 参照)
(科挙と官僚制 平田茂樹 山川出版社 1997 参照)
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科挙以前の官僚登用は、漢(前202〜220)で行われた察挙である。これは中央政府から地方に派遣された地方官が優秀な人材を見つけ推挙するというシステムである。だが、実際は地方で権力を持っていた豪族の意向に左右されることが多いシステムであった。
次は、三国時代の魏で3世紀ごろ作られた九品官人法である。これは地方に中正という官職を配置し、才能有る者などを、九段階の等級に分けて中央政府に推薦するというものである。しかし、初めはうまくいっていた制度だが、中正官はその地方出身者が原則であり、また、中正の官を地方の有力者が占有したため、自然に上品には地方の有力者の子弟が選ばれるようになった。そして、家柄などによって、官職が代々固定され、貴族層が形成され、能力に関係なく官僚が選ばれ結果となった。
九品官人法の問題点を解決するために、隋の文帝(581〜601)は中央の地方に対する統制を強化し、九品官人法を廃止し、始めて科目試験の方法で官職を選抜した。2代目の煬帝(605〜616)は科挙制度を正式に形成した。しかし、隋や唐(618〜907)代の科挙はまだまだ貴族中心の制度であった。だが、少しずつではあるが徐々に科挙の持つ実力主義の特徴が貴族による官僚独占構造を崩していった。
そして、科挙制度の、受験資格は国籍、貧富、身分に関わらず男性なら誰でも受験できた。例えば日本人の阿倍仲麻呂(698〜770)も採用され、節度使として活躍した。科挙制度は優秀な人材を採ると言うことには非常に合理的で、全ての男性に平等な制度と言えるだろう。しかし、科挙試験は非常に難しく、大変な勉強時間を必要としたため、実際に勉強できる環境にあるのは、収入的にゆとりのある貴族などの裕福な層の人間が大半を占めるといった矛盾点もあった。
そして、科挙が形式上、だれでも公平に受験できるようになり、もっとも科挙制度が花開いたのが宋(960〜1279)代である。
科挙は、中国の政治、文化、社会、国民性などを作り出すシステムとして大きな役割を果たした。例をあげるなら、科挙試験による画一された倫理観の養成、科挙制度によってもたらされる文化の普及、その他人と人を結ぶ役割。例えば、教育費、受験費用を援助するシステム、郷試や解試合格者などを地域あげて応援したこと、試験管と受験生のつながり、教育機関でのつながり、官界に入ってからの薦挙制度などによる人脈である。
科挙の試験科目は、経義(経書の解釈)、試賦(作詩)、論、策(論文)である。科挙合格の条件として古典に精通して、詩文を立派に作り、論文作成のための歴史知識をもつことが必要とされ、これらの教養を身につける事が合格の条件であった。
科挙官僚が多数いた宋代において経義に代表される儒教的価値観を身につけた科挙官僚が、宋代の権力者層を形成していった。この権力者層は士大夫と呼ばれた。また、科挙の学習は政治事情と深く関係した。例えば、宋代の王安石(1021〜1086)の率いた新法党が政権を担当したときには、科挙の試験科目から詩賦が除外され、経義が重視されることとなり、王安石を中心に作られた三経新義が教科書となり、受験生達は、王安石の学問一色に染められた。ところが、旧法党が政権を担当すると王安石の書物の使用が抑制され、詩賦が復活した。
そして、再度新法党が政権を握ると経義中心の王安石体制に戻った。
このように、科挙試験を通して国家や時の権力者が求める画一的価値観にそう自分に都合の良い官僚を育成することができた。また、科挙制度は受験科目である経義を通して、儒教的価値観を国に広める原因となり、広大な中国で1つの統一的な文化が生まれる原因になった。しかし、科挙試験とは関係ない学問は発達しにくいことや科挙試験だけの勉強にかたよることや科挙試験が国や権力者の国家統制に利用されるという弊害も同時に生まれた。
つぎに宋代の科挙試験には殿試と呼ばれる皇帝自らが試験管となる試験が設けられた。宋代では、科挙の合否の決定権は最終的には皇帝1人が握り、官僚の任命をするのも皇帝の役割だった。さらに宋代では「対」と呼ばれる直接皇帝に面会して意見を申す制度が発達した。これらのことは皇帝と科挙官僚の個人的なつながりや関係を深めていった。このことは、皇帝に権力が集中する宋代の政治体制に大きく関わった。また、官僚と皇帝の個人的なつながりは、官僚の発言力が皇帝の政治決断に大きな影響を及ぼした。
この宗代のシステムは大変すばらしいが、たいへん大きな危険性を含んでいた。たとえば、皇帝である徽宗(1082〜1135)は政治よりも文化に興味を持ち、政治はもっぱら科挙官僚に任してしまった。これは、皇帝徽宗の後ろ盾で専権をふるう宰相の出現をもたらした。科挙試験に若くして合格した、蔡京(1047〜1126)は皇帝に重用され、ついには宰相にまで登りつめ、専制をふるい、自分に都合の良い政治をして国を混乱させた。これは、宋王朝滅亡の1つの原因ともなった。
(中国史 尾形勇 岸本美緒 山川出版社 1998 参照)
(科挙と官僚制 平田茂樹 山川出版社 1997 参照)
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