2016年12月09日
中国の近代化とは?‐伝統的封建国家から近現代的な国家への移行と孫文‐通信教育課部専門課程、中国現代史リポート
中国の近代化とは?‐伝統的封建国家から近現代的な国家への移行と孫文‐通信教育課部専門課程、中国現代史リポート
はじめに、清朝政府の軟弱な外交から辛亥革命が起きる。
革命の成果は摘み取られることになるが、しかし、辛亥革命の精神は国民の心にのこり、それが、学生運動となり、この運動が学生以外にも広がり、労働運動など市民運動に繋がっていく。
そして、またのちの国民革命へと繋がっていく。
また、辛亥革命の影響は、政治の分野にのみならず、中国の伝統的な社会を変えていった。
それは、服装の変化や辮髪の禁止や纏足の禁止など近代的な社会への変化に大きな影響を与えることになる。
また、対外的には2つの世界大戦や日本との戦争など国際情勢は波瀾に満ちていた。
清朝はヨーロッパ列強や日本などの外国との外交で消極的な売国外交を行うことになる。
それは、日清戦争時の外交にみられるように、広大な中国からみれば、東北部の局地戦での敗北によって、あっさりと負けを認め、簡単に領地の割譲や賠償金の要求に応じるような外交であった。
5.4運動時に出されたビラには(中国の土地は征服されても、譲り渡したりはしない。中国の人民は殺戮されても、屈服はしない)(中国の歴史859ページ引用)という文章が書かれている。
外国に屈することなく戦い続けることを望んでいると見ることができるだろう。
中国の国民は清朝の軟弱な外交のために外国の侵略を許し、半植民地状態にあまんじていると考えている。
清朝に対する不満から辛亥革命が勃発したと考えることができる。
辛亥革命の始まりは 1911年の武昌での蜂起である。
武昌蜂起をきっかけに次々に各省が独立を宣言することになった。
各省が個別に独立を宣言すると次ぎは、統一的な機関が必要になってくる。
そうした中、南京で各省の代表が集まり孫文を大総統に選出した。
1912年ここに中華民国が成立した。
清朝政府は中華民国に対抗する手段として軍事的な影響力をもつ袁世凱を登用した。
袁世凱が清朝政府の実験を握ることになった。
そして、袁世凱と孫文との間で妥協案が結ばれることになった。
孫文は清朝政府の崩壊と皇帝の退位をもとめ、その代わりに袁世凱の中華民国大総統の就任であった。
袁世凱が中華民国の大総統に就任してからは、彼による独裁政治がはじまり、辛亥革命の成果が摘み取られることになってしまった。
しかし、1度根付いた民主共和国の概念は深く人々の心にしみついて、革命の心は消えてはいなかった。
1919年初めての世界大戦が終了した激動の時代、戦勝国の1つとしてパリ講和条約に出席したが、しかし、何一つ情況は変わらずに半植民地状態から抜け出すことはできなかった。
こうした情勢の中、学生によって5.4運動が展開されていく。
これは、愛国心からくるもので、日本やヨーロッパを中心とした植民地主義国家に対する反発運動である。
学生たちの怒りは、軟弱な外交を行った3人の政治家に向けられた。
5.4運動の影響は国内では、学生達の愛国心ある行動に共感を覚えて、さまざまな、運動に影響を与えていく。
革命後の中国は対外的には、外国諸国に対して強い姿勢がでてくるのもたしかなことである。
日本やヨーロッパなどの植民地支配に対して徹底的に戦う姿勢がこのころからでてくるのではないだろうか。
例えば、日本と戦った(日中戦争)は8年近くも戦い続け決して屈することはなかった。
1894年の日清戦争と比べると国家外交の姿勢に大きな違いがあることが分かる。
東アジア最初の共和国として出発した中華民国だったが、国内は分裂状態でさまざまな問題を抱えて、半植民地状態から抜け出せずにいた。
袁世凱の独裁政治後、孫文は中国国民党を率いて新たな道を模索した。
孫文は中国の模範にソ連の存在を考えた。
ソ連は民衆運動からロシア革命となり、反帝国主義を実現させて、市民革命からなる国家を作った成功例である。
そして、1921年に中国共産党が創立されて、国民党と共産党は国民革命の遂行のために共同闘争体制を作り上げた。
そして、最初の運動が国民会議運動であった。
孫文死後も国民革命の火は消えずに中国各地に国民革命は広がっていくことになる。
孫文がソ連に国家の模範を見たことは、のちに、中国がソ連のような共産国となるきっかけとなっただろう。
孫文の中国における影響力を考えれば自然な流れと言えるだろう。
第2次大戦後おこなわれる、共産主義と資本主義との戦いのなかで、朝鮮戦争において、共産国側として、北朝鮮を軍事的に支援することに繋がったと言えるだろう。
最後に、ヨーロッパ列強の猛威がアジアにまで拡大され、皇帝が支配する伝統的な国家システムでは列強国に太刀打ちすることはでず、中国は半植民地化になった。
そんな中、新しい国家システムを作り真の独立を目指した。
辛亥革命から続く一連の市民革命は1つの時代の大きな転換期と言えるだろう。
伝統的な国家から近代国家への転換期である。
最終的には中国は、国家のモデルを列強国ソ連に求めることになった。
(中国の歴史 小島晋治 並木頼寿 明石書店 2001年 参照)
(中国史 尾形 勇 岸本美緒 山川出版社 1998年 参照)
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はじめに、清朝政府の軟弱な外交から辛亥革命が起きる。
革命の成果は摘み取られることになるが、しかし、辛亥革命の精神は国民の心にのこり、それが、学生運動となり、この運動が学生以外にも広がり、労働運動など市民運動に繋がっていく。
そして、またのちの国民革命へと繋がっていく。
また、辛亥革命の影響は、政治の分野にのみならず、中国の伝統的な社会を変えていった。
それは、服装の変化や辮髪の禁止や纏足の禁止など近代的な社会への変化に大きな影響を与えることになる。
また、対外的には2つの世界大戦や日本との戦争など国際情勢は波瀾に満ちていた。
清朝はヨーロッパ列強や日本などの外国との外交で消極的な売国外交を行うことになる。
それは、日清戦争時の外交にみられるように、広大な中国からみれば、東北部の局地戦での敗北によって、あっさりと負けを認め、簡単に領地の割譲や賠償金の要求に応じるような外交であった。
5.4運動時に出されたビラには(中国の土地は征服されても、譲り渡したりはしない。中国の人民は殺戮されても、屈服はしない)(中国の歴史859ページ引用)という文章が書かれている。
外国に屈することなく戦い続けることを望んでいると見ることができるだろう。
中国の国民は清朝の軟弱な外交のために外国の侵略を許し、半植民地状態にあまんじていると考えている。
清朝に対する不満から辛亥革命が勃発したと考えることができる。
辛亥革命の始まりは 1911年の武昌での蜂起である。
武昌蜂起をきっかけに次々に各省が独立を宣言することになった。
各省が個別に独立を宣言すると次ぎは、統一的な機関が必要になってくる。
そうした中、南京で各省の代表が集まり孫文を大総統に選出した。
1912年ここに中華民国が成立した。
清朝政府は中華民国に対抗する手段として軍事的な影響力をもつ袁世凱を登用した。
袁世凱が清朝政府の実験を握ることになった。
そして、袁世凱と孫文との間で妥協案が結ばれることになった。
孫文は清朝政府の崩壊と皇帝の退位をもとめ、その代わりに袁世凱の中華民国大総統の就任であった。
袁世凱が中華民国の大総統に就任してからは、彼による独裁政治がはじまり、辛亥革命の成果が摘み取られることになってしまった。
しかし、1度根付いた民主共和国の概念は深く人々の心にしみついて、革命の心は消えてはいなかった。
1919年初めての世界大戦が終了した激動の時代、戦勝国の1つとしてパリ講和条約に出席したが、しかし、何一つ情況は変わらずに半植民地状態から抜け出すことはできなかった。
こうした情勢の中、学生によって5.4運動が展開されていく。
これは、愛国心からくるもので、日本やヨーロッパを中心とした植民地主義国家に対する反発運動である。
学生たちの怒りは、軟弱な外交を行った3人の政治家に向けられた。
5.4運動の影響は国内では、学生達の愛国心ある行動に共感を覚えて、さまざまな、運動に影響を与えていく。
革命後の中国は対外的には、外国諸国に対して強い姿勢がでてくるのもたしかなことである。
日本やヨーロッパなどの植民地支配に対して徹底的に戦う姿勢がこのころからでてくるのではないだろうか。
例えば、日本と戦った(日中戦争)は8年近くも戦い続け決して屈することはなかった。
1894年の日清戦争と比べると国家外交の姿勢に大きな違いがあることが分かる。
東アジア最初の共和国として出発した中華民国だったが、国内は分裂状態でさまざまな問題を抱えて、半植民地状態から抜け出せずにいた。
袁世凱の独裁政治後、孫文は中国国民党を率いて新たな道を模索した。
孫文は中国の模範にソ連の存在を考えた。
ソ連は民衆運動からロシア革命となり、反帝国主義を実現させて、市民革命からなる国家を作った成功例である。
そして、1921年に中国共産党が創立されて、国民党と共産党は国民革命の遂行のために共同闘争体制を作り上げた。
そして、最初の運動が国民会議運動であった。
孫文死後も国民革命の火は消えずに中国各地に国民革命は広がっていくことになる。
孫文がソ連に国家の模範を見たことは、のちに、中国がソ連のような共産国となるきっかけとなっただろう。
孫文の中国における影響力を考えれば自然な流れと言えるだろう。
第2次大戦後おこなわれる、共産主義と資本主義との戦いのなかで、朝鮮戦争において、共産国側として、北朝鮮を軍事的に支援することに繋がったと言えるだろう。
最後に、ヨーロッパ列強の猛威がアジアにまで拡大され、皇帝が支配する伝統的な国家システムでは列強国に太刀打ちすることはでず、中国は半植民地化になった。
そんな中、新しい国家システムを作り真の独立を目指した。
辛亥革命から続く一連の市民革命は1つの時代の大きな転換期と言えるだろう。
伝統的な国家から近代国家への転換期である。
最終的には中国は、国家のモデルを列強国ソ連に求めることになった。
(中国の歴史 小島晋治 並木頼寿 明石書店 2001年 参照)
(中国史 尾形 勇 岸本美緒 山川出版社 1998年 参照)
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