2016年11月25日
日本国大君号‐世界一の国と渡り合う武士の魂とは‐通信教育部専門課程海外交渉史リポート
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日本国大君号‐世界一の国と渡り合う武士の魂とは‐通信教育部専門課程海外交渉史リポート
東アジアは、儒教的な文化なので伝統や格式を重んじる傾向にある。
国書の中の形式や署名など、僅かなことであっても、大変重要な問題となり、僅かな食い違いから、国際的な問題にまで発展する傾向にある。
差出人である日本の徳川将軍の署名に関しても、その書き方にはさまざまな問題点が含まれている。
日本国大君号は対外的な徳川将軍の称号の1つである。最初は朝鮮との国書のやりとりのなかで、初めて使われることになる。
大君の意味は、朝鮮では、国王の嫡男、すなわち王子を指していう言葉である。
また、中国では大君は、天子の意味、すなわち、皇帝を指す意味である。
このように、中国と朝鮮ではその意味がちがうのである。
これは非常に重要な問題で、もし、中国と国交が正式になったと仮定すれば、それは、対等な立場での国交の樹立を意味している。
しかし、日本が朝鮮と日本国大君号で国書を交換する場合は、朝鮮側から見れば日本は子にあたるのである。
子は親よりも格式が下なので、国家間の間に例えると、朝鮮が親ということになり、すなわち、朝鮮の方が格式の高い国と言うことになる。
これは、日本にとって大変重要な問題である。
この問題に対して、新井白石は朝鮮との通信に際して、日本国大君号から対等な号である日本国王へと改めさせた。
しかし、享保時代以降は、元の日本国大君号へと戻った。
中国では、古くから抱いていた思想がある。
それは、中華思想で、これは中国を中心として考える思想で、地理的にも文化的にも中国を中心とする思想である。
中華思想は言語などにも影響が見られ、周辺国を差別用語で呼び名を付けている。
また、周辺国を軽視して差別する文化的に優越思想の華夷思想である。
そのため、中国は外交を行うとき、周辺国とは対等な立場での外交を行わずに、中国の属国的な立場での外交を行った。
儒教的に表現すると、中国が親で周辺国が子と言うことになる。
日本でも、この中華思想を日本風にアレンジした日本的な華夷思想が作られてきた。
中華思想と同じように、日本を中心として、周辺国を見る考えの思想である。
この中では、日本の周辺国である、北のアイヌや南の琉球、そして、東の朝鮮、これらの国々が日本から見て、華夷の国になる。
徳川政権時代の日本は、中国の中華思想の枠組みに入らない、対等な立場での外交政策が基本的な方針であった。
中華思想の枠組みに入らず、日本的な華夷思想の両方から見て、考えられたのが、日本国大君号である。
大君は、中国では天子の意味をさすので、大君を使うことによって、中国と対等な立場の国であることを周辺国にアピールができ、また、国王よりも立場が上である大君を使うことによって、日本的な華夷思想の実現にもなっているのである。
日本国大君号は、江戸時代を通じて、中華思想の枠組みから外れた日本独自の思想として、広く使われ、アジアの国々にも受け入れられてくるのである。
日本国大君号以外でも、さまざまな将軍の名称が存在した。
例えば、征夷将軍、日本御主大御所様、日本国王、日本皇帝、日本将軍様、などで、返書としては、日本国源家康、日本国などである。
これらの名称に関して、これといった厳密な形式や国によっての使い分けなどは存在していなかったようである。
ヨーロッパ諸国との国書のやり取りの中ではそれほど、形式や号に関する問題が出てくることはなかったが、しかし、お隣の朝鮮との国交を正常化するために行われた国書のやり取りの中では問題が出てきた。
豊臣秀吉の朝鮮出兵いらい朝鮮との国交は断絶していたのだが、徳川政権になって、朝鮮との国交正常化を果たすことになる。
日本と朝鮮との国書のやり取りの中で問題となったのは、将軍の呼び名で、朝鮮側は、日本に対して将軍の呼称を日本国王と書くように願った。
この日本国王号は元々、足利義満の時に、明から日本国王として任ぜられて、贈られた称号である。足利義満は明との貿易のために、この日本国王で朝貢貿易を行うことになる。
この時は、足利義満は日本人としての面子よりも貿易での利潤を優先したと言う事になる。
これに対して、賛成する人もいたが、反対に国内では批判する人もいた。明から貰った日本国王を使うことは、明の属国であることを意味し、また、中華思想である華夷思想の枠組みの中に日本が入ることを意味している。
そのために、徳川政権では日本的な華夷思想や武士としての面子のために、この日本国王を使うことを拒絶していた。
しかし、朝鮮は明の華夷思想の枠組みに入り明を宗主国と認めていた。
日本に対しても同じ、明の属国として日本国王号での国書のやり取りを希望していた。
朝鮮との国書のやり取りの中で、日本と朝鮮の窓口となっていた宗氏は将軍の呼称を日本国から日本国王へと変え、朝鮮との国交正常を行った。
そして、満州族が明に侵略を始めると、日本と朝鮮との間での国交の関係は中国を抜きにしたものへと変わっていくことになった。
日本国大君号からは、当時世界1の大国である中国と対等に渡り合う国としての強い意思と、大国にも屈することのない武士的な思想が感じとられる。
(天下泰平 横田冬彦 講談社 2002年 参照)
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日本国大君号‐世界一の国と渡り合う武士の魂とは‐通信教育部専門課程海外交渉史リポート
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国書の中の形式や署名など、僅かなことであっても、大変重要な問題となり、僅かな食い違いから、国際的な問題にまで発展する傾向にある。
差出人である日本の徳川将軍の署名に関しても、その書き方にはさまざまな問題点が含まれている。
日本国大君号は対外的な徳川将軍の称号の1つである。最初は朝鮮との国書のやりとりのなかで、初めて使われることになる。
大君の意味は、朝鮮では、国王の嫡男、すなわち王子を指していう言葉である。
また、中国では大君は、天子の意味、すなわち、皇帝を指す意味である。
このように、中国と朝鮮ではその意味がちがうのである。
これは非常に重要な問題で、もし、中国と国交が正式になったと仮定すれば、それは、対等な立場での国交の樹立を意味している。
しかし、日本が朝鮮と日本国大君号で国書を交換する場合は、朝鮮側から見れば日本は子にあたるのである。
子は親よりも格式が下なので、国家間の間に例えると、朝鮮が親ということになり、すなわち、朝鮮の方が格式の高い国と言うことになる。
これは、日本にとって大変重要な問題である。
この問題に対して、新井白石は朝鮮との通信に際して、日本国大君号から対等な号である日本国王へと改めさせた。
しかし、享保時代以降は、元の日本国大君号へと戻った。
中国では、古くから抱いていた思想がある。
それは、中華思想で、これは中国を中心として考える思想で、地理的にも文化的にも中国を中心とする思想である。
中華思想は言語などにも影響が見られ、周辺国を差別用語で呼び名を付けている。
また、周辺国を軽視して差別する文化的に優越思想の華夷思想である。
そのため、中国は外交を行うとき、周辺国とは対等な立場での外交を行わずに、中国の属国的な立場での外交を行った。
儒教的に表現すると、中国が親で周辺国が子と言うことになる。
日本でも、この中華思想を日本風にアレンジした日本的な華夷思想が作られてきた。
中華思想と同じように、日本を中心として、周辺国を見る考えの思想である。
この中では、日本の周辺国である、北のアイヌや南の琉球、そして、東の朝鮮、これらの国々が日本から見て、華夷の国になる。
徳川政権時代の日本は、中国の中華思想の枠組みに入らない、対等な立場での外交政策が基本的な方針であった。
中華思想の枠組みに入らず、日本的な華夷思想の両方から見て、考えられたのが、日本国大君号である。
大君は、中国では天子の意味をさすので、大君を使うことによって、中国と対等な立場の国であることを周辺国にアピールができ、また、国王よりも立場が上である大君を使うことによって、日本的な華夷思想の実現にもなっているのである。
日本国大君号は、江戸時代を通じて、中華思想の枠組みから外れた日本独自の思想として、広く使われ、アジアの国々にも受け入れられてくるのである。
日本国大君号以外でも、さまざまな将軍の名称が存在した。
例えば、征夷将軍、日本御主大御所様、日本国王、日本皇帝、日本将軍様、などで、返書としては、日本国源家康、日本国などである。
これらの名称に関して、これといった厳密な形式や国によっての使い分けなどは存在していなかったようである。
ヨーロッパ諸国との国書のやり取りの中ではそれほど、形式や号に関する問題が出てくることはなかったが、しかし、お隣の朝鮮との国交を正常化するために行われた国書のやり取りの中では問題が出てきた。
豊臣秀吉の朝鮮出兵いらい朝鮮との国交は断絶していたのだが、徳川政権になって、朝鮮との国交正常化を果たすことになる。
日本と朝鮮との国書のやり取りの中で問題となったのは、将軍の呼び名で、朝鮮側は、日本に対して将軍の呼称を日本国王と書くように願った。
この日本国王号は元々、足利義満の時に、明から日本国王として任ぜられて、贈られた称号である。足利義満は明との貿易のために、この日本国王で朝貢貿易を行うことになる。
この時は、足利義満は日本人としての面子よりも貿易での利潤を優先したと言う事になる。
これに対して、賛成する人もいたが、反対に国内では批判する人もいた。明から貰った日本国王を使うことは、明の属国であることを意味し、また、中華思想である華夷思想の枠組みの中に日本が入ることを意味している。
そのために、徳川政権では日本的な華夷思想や武士としての面子のために、この日本国王を使うことを拒絶していた。
しかし、朝鮮は明の華夷思想の枠組みに入り明を宗主国と認めていた。
日本に対しても同じ、明の属国として日本国王号での国書のやり取りを希望していた。
朝鮮との国書のやり取りの中で、日本と朝鮮の窓口となっていた宗氏は将軍の呼称を日本国から日本国王へと変え、朝鮮との国交正常を行った。
そして、満州族が明に侵略を始めると、日本と朝鮮との間での国交の関係は中国を抜きにしたものへと変わっていくことになった。
日本国大君号からは、当時世界1の大国である中国と対等に渡り合う国としての強い意思と、大国にも屈することのない武士的な思想が感じとられる。
(天下泰平 横田冬彦 講談社 2002年 参照)
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