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2016年11月21日
カテゴリー案内・法政大学を4年で卒業して高校教師になる方法
カテゴリー案内・法政大学を4年で卒業して高校教師になる方法
法政大学通信教育部文学部史学科を4年で卒業、同時に教員免許を取得して、現在は高校教師として働いている。サイト管理者の自己紹介
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通信制大学卒業への最大の壁はリポートの提出。どうすればリポートを書く事が出来るのか、その方法を紹介します。
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何故か何度提出しても、不備で返ってくるリポート、そんな時の対処方法を紹介します。
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単位修得試験を攻略しよう。単位修得試験に関して、試験問題はある程度予測が可能、試験の予測方法や試験中のテクニックを公開します。
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何故か何度受験しても、合格できない単位修得試験、そんな場合の対処方法を公開しています。
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ほんと、通信制大学に通って良かった。魅力がたっぷりの通信制大学、そのメリットを公開します。
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法政大学通信部に通った4年間、とても充実した大学生活、手軽に大学生活を経験できた。大学生時代の日記集
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★通信制大学生の日記
卒業が困難な通信制大学、退学者が多い通信制大学の知られざる実態に迫ります。
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★退学者が多い通信制大学の実態とは
リポートを書くためには、リポートを見よう。日本史のリポート集
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2016年11月20日
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何度受験しても合格出来ない単位修得試験はどうすれば合格できるの?
テスト問題がある程度予測できるので、(単位修得試験のテスト対策はここから)難しい科目でも数回受ければ落ちることはほとんどありません。
しかし、中には何故か何度受験しても落ちる科目があります。
│ 不合格の理由
@文量が足りない。
A文章の書式や書き方に間違いがある。
B解答が出題者の求める内容でない。
@とAに関しては、事前学習で試験対策さえ出来ていれば、問題なくクリアーできる。
問題はBの場合、試験問題が分かっていても出題者の意図が分からない場合、不合格になり続ける可能性がある。
問題にそった解答を行って、3回不合格になったばあいはBの可能性が高いです。
│ Bの対応
・解答をコンパクトにまとめる。採点者の中には、長く書かれた解答を嫌う人がいる。出題に対して、的確な答えだけを解答用紙に記入する。余分な事は一切書かない。文量を気にしない。
・逆説の解答を書く。採点者によって、考え方や歴史認識が違うので、これまで書いていた内容とは違った視点で解答をしてみる。
・教科書に載っていないような専門的な知識を解答の内容に入れる。
・必修科目でない場合は、さっさとあきらめて、次の科目を履修する
今となっても思い出したくもありませんが、何度受けても合格出来ない単位修得試験がありました。
試験は何度でも受験できるので、あらゆる方法を試してみよう。
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しかし、中には何故か何度受験しても落ちる科目があります。
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@文量が足りない。
A文章の書式や書き方に間違いがある。
B解答が出題者の求める内容でない。
@とAに関しては、事前学習で試験対策さえ出来ていれば、問題なくクリアーできる。
問題はBの場合、試験問題が分かっていても出題者の意図が分からない場合、不合格になり続ける可能性がある。
問題にそった解答を行って、3回不合格になったばあいはBの可能性が高いです。
│ Bの対応
・解答をコンパクトにまとめる。採点者の中には、長く書かれた解答を嫌う人がいる。出題に対して、的確な答えだけを解答用紙に記入する。余分な事は一切書かない。文量を気にしない。
・逆説の解答を書く。採点者によって、考え方や歴史認識が違うので、これまで書いていた内容とは違った視点で解答をしてみる。
・教科書に載っていないような専門的な知識を解答の内容に入れる。
・必修科目でない場合は、さっさとあきらめて、次の科目を履修する
今となっても思い出したくもありませんが、何度受けても合格出来ない単位修得試験がありました。
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2016年11月19日
朱印船貿易について‐専門課程‐海外交渉史リポート
朱印船貿易について‐専門課程‐海外交渉史リポート
朱印船貿易が始められたのは豊臣政権の時と考えられている。
日本は戦国時代をへて外国との貿易が活発になった。
戦国期、戦国大名や織田政権は外国との貿易を通じて、外国の技術や文化、軍事兵器をとり入れ、また、その貿易利潤が重要な軍資金となっていく。
豊臣政権時に日本の国は平定されるが、外国との貿易は盛んになっていく。
当時は密貿易や海賊船も多くいたので、その区別のやり方として朱印状の交付が考えられた。
朱印状を持っている船が国から許可を与えられた正式な貿易船ということである。
外国との貿易が活発になる中、これまでの、無秩序であった外国との貿易に対して、ある程度の秩序を与えたと思われる。
東アジアや東南アジアで、国家によって貿易許可書を配布して、貿易を行うスタイルは、ポルトガルが始めた。
ポルトガルは大航海時代をへて、マカオを中心としてアジア貿易で利潤を上げていた。
ポルトガルは外国との貿易船にカルタスを発行して、カルタスの所持を貿易船に義務付けた。
もし、カルタスを所持しないで、貿易を行うことは犯罪行為とみなされて、積荷の没収や船員には罰が与えられた。
これは、貿易の統制とともに、カルタスの発行に対しての税金をアジア貿易での利潤の1つと考えた。
中国も海外渡航を行う時は、文引と呼ばれる国家から発行される、渡航許可書が必要とされる。
これらの許可書は現代風に言うとパスポートのようなものと考えられる。
アジアでは、貿易の際に、国から発行された証明書を元に貿易が行われる伝統や風習が存在していたことが、これまで説明したことで分かる。
朱印船貿易で日本の輸出品の大部分は銀であった。
現在の日本でも銀座という地名が残っているほど、当時の日本では大量の銀貨が作られていた。
貿易船一隻約500貫目の銀が積み出されていた。
あまり、実感の沸かない数字だが、輸出銀だけで、当時の世界産銀の3分の1を占めていた。
世界経済にとって、日本の重要性が分かる。
日本の外国からの輸入品で重要となるのは、生糸や絹織物である。
これらは、中国で主に生産されるものである。
本来なら中国と貿易をすることができれば手に入れることのできる製品である。
しかし、中国は日本を嫌っていた。
なぜなら、戦国期の大内氏、細川氏は中国貿易を巡って争いを続けていた。
その争そいの火種を中国本土まで持ちこんでしまって、中国から強烈な批判を受けた過去を持つ。
後、豊臣政権時の朝鮮出兵での国交の断絶。
などの理由から、中国は日本とは正式な貿易を行わなかった。
中国の明代には海禁政策が行われて、国民の海外渡航が禁止されていた。
しかし、密貿易は盛んで、東南アジアまで、密貿易が盛んに行われていた。
中国本土に上陸できない日本は、中国制の輸入品を求めて東南アジアに航海したと思われる。
東南アジアでは中国の密貿易者が集まるので、そこでの、出会い貿易を行ったと思われる。
朱印状を貰った人の記録から朱印船貿易を考えてみると、徳川家康時代には積極的な朱印船貿易が行われていたのに対して、徳川秀忠時代になると朱印船貿易は下火になり急激にその数を減らしていることが分かる。
これは、徳川秀忠時代になると朱印船貿易に規制をかけていき、だんだんと数を減らし、将来的に朱印船貿易を廃止して海禁政策へと繋げるものだと考えることができる。
幕府は朱印船貿易の利益よりも、キリスト教の脅威を幕府の最重要課題としたと思われる。
日本人が外国に行くことによって、幕府の勢力が及ばない外国の地で、外国の思想(キリスト教)の思想が日本人に広まることを危険視したと思われる。
その他、日本の最重要輸入品である、中国制の生糸や絹織物を幕府が購入できるルートが朱印船貿易以外で開拓されたことも考えられる。
それは、アジア貿易の主流だったポルトガルが衰退し、変わりに、オランダへと移っていることも原因として考えられる。
日本ではキリスト教の布教を行わないオランダによる、中国制の製品の輸入のルートがあったからこそ、朱印船貿易を廃しできたのである。
江戸時代を通じてオランダは、朱印船貿易の地盤を継ぎ、日本貿易の独占化をはたすことになる。
朱印船貿易を主に行っていたのは、豪商や大名などの資産家である。
それは、朱印状を取得する手続きの難しさや例え大名であっても、幕府の重臣のコネクションを必要としたことにある。
また、遠く離れた海外に貿易船を出すことは、それなりに大きな船を必要としたことや朱印船貿易で利益を得るためには、それなりの積荷などが必要で、それらを調達できる莫大な資金を必要としたことにある。
朱印船貿易が盛んになる中、航海の技術が未熟だった日本だが、世界の海航に進出して高度な航海術を有していた西洋式の航海術を取り入れていった。
また、それに伴い船を作る技術も西洋式の技術を取り入れて、中には、800トンの船も存在していた。日本は朱印船貿易を通じて海の技術が発展を遂げることになる。
朱印船貿易時は日本が西洋の国と深い交流を持ち発展した時代である。
しかし、マイナス要素であるキリスト教のために西洋との交流が途絶えた。
もし、江戸幕府が朱印船貿易を活発に続け、諸外国と積極的に交流を行っていたら違う歴史がそこにはあったであろう。
(鎖国 岩生 成一 昭和63年 中央公論社 参照)
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4年で卒業できるリポートの書き方
単位修得試験に合格できる方法
卒業論文を攻略しよう
朱印船貿易が始められたのは豊臣政権の時と考えられている。
日本は戦国時代をへて外国との貿易が活発になった。
戦国期、戦国大名や織田政権は外国との貿易を通じて、外国の技術や文化、軍事兵器をとり入れ、また、その貿易利潤が重要な軍資金となっていく。
豊臣政権時に日本の国は平定されるが、外国との貿易は盛んになっていく。
当時は密貿易や海賊船も多くいたので、その区別のやり方として朱印状の交付が考えられた。
朱印状を持っている船が国から許可を与えられた正式な貿易船ということである。
外国との貿易が活発になる中、これまでの、無秩序であった外国との貿易に対して、ある程度の秩序を与えたと思われる。
東アジアや東南アジアで、国家によって貿易許可書を配布して、貿易を行うスタイルは、ポルトガルが始めた。
ポルトガルは大航海時代をへて、マカオを中心としてアジア貿易で利潤を上げていた。
ポルトガルは外国との貿易船にカルタスを発行して、カルタスの所持を貿易船に義務付けた。
もし、カルタスを所持しないで、貿易を行うことは犯罪行為とみなされて、積荷の没収や船員には罰が与えられた。
これは、貿易の統制とともに、カルタスの発行に対しての税金をアジア貿易での利潤の1つと考えた。
中国も海外渡航を行う時は、文引と呼ばれる国家から発行される、渡航許可書が必要とされる。
これらの許可書は現代風に言うとパスポートのようなものと考えられる。
アジアでは、貿易の際に、国から発行された証明書を元に貿易が行われる伝統や風習が存在していたことが、これまで説明したことで分かる。
朱印船貿易で日本の輸出品の大部分は銀であった。
現在の日本でも銀座という地名が残っているほど、当時の日本では大量の銀貨が作られていた。
貿易船一隻約500貫目の銀が積み出されていた。
あまり、実感の沸かない数字だが、輸出銀だけで、当時の世界産銀の3分の1を占めていた。
世界経済にとって、日本の重要性が分かる。
日本の外国からの輸入品で重要となるのは、生糸や絹織物である。
これらは、中国で主に生産されるものである。
本来なら中国と貿易をすることができれば手に入れることのできる製品である。
しかし、中国は日本を嫌っていた。
なぜなら、戦国期の大内氏、細川氏は中国貿易を巡って争いを続けていた。
その争そいの火種を中国本土まで持ちこんでしまって、中国から強烈な批判を受けた過去を持つ。
後、豊臣政権時の朝鮮出兵での国交の断絶。
などの理由から、中国は日本とは正式な貿易を行わなかった。
中国の明代には海禁政策が行われて、国民の海外渡航が禁止されていた。
しかし、密貿易は盛んで、東南アジアまで、密貿易が盛んに行われていた。
中国本土に上陸できない日本は、中国制の輸入品を求めて東南アジアに航海したと思われる。
東南アジアでは中国の密貿易者が集まるので、そこでの、出会い貿易を行ったと思われる。
朱印状を貰った人の記録から朱印船貿易を考えてみると、徳川家康時代には積極的な朱印船貿易が行われていたのに対して、徳川秀忠時代になると朱印船貿易は下火になり急激にその数を減らしていることが分かる。
これは、徳川秀忠時代になると朱印船貿易に規制をかけていき、だんだんと数を減らし、将来的に朱印船貿易を廃止して海禁政策へと繋げるものだと考えることができる。
幕府は朱印船貿易の利益よりも、キリスト教の脅威を幕府の最重要課題としたと思われる。
日本人が外国に行くことによって、幕府の勢力が及ばない外国の地で、外国の思想(キリスト教)の思想が日本人に広まることを危険視したと思われる。
その他、日本の最重要輸入品である、中国制の生糸や絹織物を幕府が購入できるルートが朱印船貿易以外で開拓されたことも考えられる。
それは、アジア貿易の主流だったポルトガルが衰退し、変わりに、オランダへと移っていることも原因として考えられる。
日本ではキリスト教の布教を行わないオランダによる、中国制の製品の輸入のルートがあったからこそ、朱印船貿易を廃しできたのである。
江戸時代を通じてオランダは、朱印船貿易の地盤を継ぎ、日本貿易の独占化をはたすことになる。
朱印船貿易を主に行っていたのは、豪商や大名などの資産家である。
それは、朱印状を取得する手続きの難しさや例え大名であっても、幕府の重臣のコネクションを必要としたことにある。
また、遠く離れた海外に貿易船を出すことは、それなりに大きな船を必要としたことや朱印船貿易で利益を得るためには、それなりの積荷などが必要で、それらを調達できる莫大な資金を必要としたことにある。
朱印船貿易が盛んになる中、航海の技術が未熟だった日本だが、世界の海航に進出して高度な航海術を有していた西洋式の航海術を取り入れていった。
また、それに伴い船を作る技術も西洋式の技術を取り入れて、中には、800トンの船も存在していた。日本は朱印船貿易を通じて海の技術が発展を遂げることになる。
朱印船貿易時は日本が西洋の国と深い交流を持ち発展した時代である。
しかし、マイナス要素であるキリスト教のために西洋との交流が途絶えた。
もし、江戸幕府が朱印船貿易を活発に続け、諸外国と積極的に交流を行っていたら違う歴史がそこにはあったであろう。
(鎖国 岩生 成一 昭和63年 中央公論社 参照)
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通信制大学を卒業する方法、カテゴリー案内
4年で卒業できるリポートの書き方
単位修得試験に合格できる方法
卒業論文を攻略しよう
2016年11月18日
ロシア革命‐2つの革命から見えるものとは‐専門課程ロシア史リポート(通信教育部)
通信制大学を卒業する方法、カテゴリー案内
4年で卒業できるリポートの書き方
単位修得試験に合格できる方法
卒業論文を攻略しよう
ロシア革命‐2つの革命から見えるものとは‐専門課程ロシア史リポート
工業化と労働者の増加、それに伴う様々な労働問題、中途半端な農奴解放による問題、ロシアでは国民が国家に不満を持っていた。
これに加えて、1904年に始まる日露戦争が1905年革命に繋がったと思われる。
また、1917年革命の時も国内に不満を抱え、第1次世界大戦が革命の引き金となっている。
1905年革命では、労働者はストライキなどを起こし、また、農民は反乱を行った。しかし、最終的には1905年革命は失敗に終わる。
革命が失敗に終わる原因として、それは、一部の兵士の反乱でしかなかった。
兵士による反乱の数が少なかったというのが、革命の失敗の大きな原因の1つに挙げられるであろう。
1917年革命との違いは労働者のストライキなどの活動は同じだが、その活動に兵士が同調したかしていないかが、大きな違いである。
1905年革命を終結させるべく、ロシア内の自由主義者を懐柔するため、ウィッテは市民の自由権、人格の不可侵、信仰、集会、結社の自由を認めて、予定されていた国会の選挙をすべての階級が選挙に参加できる権利を持つ、立法機関としての国会開設を国民に約束し、十月宣言が行なわれた。十月宣言後、政府は労働組合や政党などの団体結成の合法化やストライキにたいする刑事罰の廃止などを行なった。
そして、1906年に国会の選挙が実施された。
しかし、国会制度は十月宣言で約束された自由主義にもとづく国会ではなかった。
あたらしい選挙法では、選挙民を財産や職業などで4つの階級で分けて選挙を行なう、制限された選挙であった。
また、1906年に憲法が公布された。
憲法の制定には憲法制定会議によって、つくられた民意による憲法制定が求められたのだが、しかし、政府は大臣会議で皇帝臨席のもとで憲法を審議して、皇帝の定める欽定憲法として発布した。
憲法の内容は例えば、『全ロシア皇帝に最高専制権力が属す。』と非常に皇帝の権力を認めた専制的な内容の憲法である。
また、『皇帝陛下は国家評議会と国家ドゥーマと協力して立法権を行使する』『いかなる新しい法律も国家評議会と国家ドゥーマの是認なくして生まれず、皇帝陛下の承認なくして発効しえない』などと、若干専制体制が否定された内容もある。
しかし、国会閉会中の立法権は皇帝にあるとの規定がある。
すなわち、国会の解散などの強引な手段を使えば、皇帝は強引に法律を作り、公布する事が可能なのである。
また、憲法によって、皇帝の最高権力を認め、また、立法の権利も皇帝が絶対的な権利を握っているという、皇帝権の再確認がなされている。
1905年革命後の諸改革の国会や憲法の制定では、必ずしも自由主義者を満足させる内容ではなかった。
1905年以前の皇帝の専制体制となんらかわっていないと思われる。
1905年革命後に専制体制が復活してしまったので、国民は不満に感じただろう。
この国民の不満は1917年革命につながると思われる。
しかし、法的に政党や各団体の活動が認められていなかったロシアで、十月宣言によって、思想の自由が法的に認められたと言う事は、1905年革命期に活動した各政党などの活動が認められた事であり、これによって、これまで、ツァーリ専制で思想が1本化されていたロシア社会の中に、様々な思想が生まれ、容認された事を意味している。
すなわち、兵士達は様々な政党の思想に触れたことによって、ツァーリに忠誠を誓うだけでなく、ツァーリ以外のものにも忠誠を誓うようになってしまったのだと思われる。
第1回目の国会では、ウィッテは辞任して、かわりに保守派のゴレムイキンが首相に就任した。
第1国会の中心的な課題は土地問題であった。
当時のロシア社会では農村の土地問題が重要な課題である事を示している。
しかし、反政府的な国会だったので解散となった。
そして、ストルイピンが首相となって、土地に関する改革に着手する。
ストルイピンの改革はロシア社会に残る農村の共同体を解体する事であった。
農村の共同体を解体するということは、すなわち、自営農民を創る事であった。
ストルイピンの改革は国会の解散などを使い、強引に推し進められる。
ストルイピンの目的は農村の近代化をはかり、富農を作り出して、専制政治を支持する層を作り出すことであった。
しかし、実際に1917年以前の社会で、共同体から出て、自営農になった農民は全体の数から考えれば僅かであった。
ストルイピンの改革はロシアの社会に新たな争いを持ち込む事になる。
改革によって、多くの農民の困窮をまねき、専制政治への反抗は激しくなる。
また、自営農の数が増えた事によって、農村の階級分化が促進されて、富農と貧農の対立が表面化された。
すなわち、共同体から脱して、自営農となった農民と共同体に残る農民との間で争いが起き、この事が新たなロシア社会の不安要素となるのである。
国民に不満が溜まれば、それは、暴動や革命などの反政府運動につながる。このストルイピンの改革が1917年革命勃発の原因の1つになっていると思われる。
1905年革命後、ウィッテの罷免、欽定憲法制定など、一時的にツァーリの専制体制は復活してしまった。
そして、ロシアでは革命は終息に向かい、社会も安定を取り戻してきた。
社会の安定と共にストライキなども影を潜めていった。
しかし、1905年革命で生まれた各政党や様々な考え方はロシア社会で残り、失う事はなかった。
(ロシア革命と東方辺境地域 西山克典 2002年 北海道大学図書刊行会 参照)
(地図で詠む世界の歴史ロシア ジョン・チャノン・ロバートハドソン 1999年 河出書房新社 参照)
(ロシア史を詠む マルク・ラエフ 2001年 名古屋大学出版会 参照)
(新版世界各国史ロシア史 和田春樹 2002年 山川出版社 参照)
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4年で卒業できるリポートの書き方
単位修得試験に合格できる方法
卒業論文を攻略しよう
ロシア革命‐2つの革命から見えるものとは‐専門課程ロシア史リポート
工業化と労働者の増加、それに伴う様々な労働問題、中途半端な農奴解放による問題、ロシアでは国民が国家に不満を持っていた。
これに加えて、1904年に始まる日露戦争が1905年革命に繋がったと思われる。
また、1917年革命の時も国内に不満を抱え、第1次世界大戦が革命の引き金となっている。
1905年革命では、労働者はストライキなどを起こし、また、農民は反乱を行った。しかし、最終的には1905年革命は失敗に終わる。
革命が失敗に終わる原因として、それは、一部の兵士の反乱でしかなかった。
兵士による反乱の数が少なかったというのが、革命の失敗の大きな原因の1つに挙げられるであろう。
1917年革命との違いは労働者のストライキなどの活動は同じだが、その活動に兵士が同調したかしていないかが、大きな違いである。
1905年革命を終結させるべく、ロシア内の自由主義者を懐柔するため、ウィッテは市民の自由権、人格の不可侵、信仰、集会、結社の自由を認めて、予定されていた国会の選挙をすべての階級が選挙に参加できる権利を持つ、立法機関としての国会開設を国民に約束し、十月宣言が行なわれた。十月宣言後、政府は労働組合や政党などの団体結成の合法化やストライキにたいする刑事罰の廃止などを行なった。
そして、1906年に国会の選挙が実施された。
しかし、国会制度は十月宣言で約束された自由主義にもとづく国会ではなかった。
あたらしい選挙法では、選挙民を財産や職業などで4つの階級で分けて選挙を行なう、制限された選挙であった。
また、1906年に憲法が公布された。
憲法の制定には憲法制定会議によって、つくられた民意による憲法制定が求められたのだが、しかし、政府は大臣会議で皇帝臨席のもとで憲法を審議して、皇帝の定める欽定憲法として発布した。
憲法の内容は例えば、『全ロシア皇帝に最高専制権力が属す。』と非常に皇帝の権力を認めた専制的な内容の憲法である。
また、『皇帝陛下は国家評議会と国家ドゥーマと協力して立法権を行使する』『いかなる新しい法律も国家評議会と国家ドゥーマの是認なくして生まれず、皇帝陛下の承認なくして発効しえない』などと、若干専制体制が否定された内容もある。
しかし、国会閉会中の立法権は皇帝にあるとの規定がある。
すなわち、国会の解散などの強引な手段を使えば、皇帝は強引に法律を作り、公布する事が可能なのである。
また、憲法によって、皇帝の最高権力を認め、また、立法の権利も皇帝が絶対的な権利を握っているという、皇帝権の再確認がなされている。
1905年革命後の諸改革の国会や憲法の制定では、必ずしも自由主義者を満足させる内容ではなかった。
1905年以前の皇帝の専制体制となんらかわっていないと思われる。
1905年革命後に専制体制が復活してしまったので、国民は不満に感じただろう。
この国民の不満は1917年革命につながると思われる。
しかし、法的に政党や各団体の活動が認められていなかったロシアで、十月宣言によって、思想の自由が法的に認められたと言う事は、1905年革命期に活動した各政党などの活動が認められた事であり、これによって、これまで、ツァーリ専制で思想が1本化されていたロシア社会の中に、様々な思想が生まれ、容認された事を意味している。
すなわち、兵士達は様々な政党の思想に触れたことによって、ツァーリに忠誠を誓うだけでなく、ツァーリ以外のものにも忠誠を誓うようになってしまったのだと思われる。
第1回目の国会では、ウィッテは辞任して、かわりに保守派のゴレムイキンが首相に就任した。
第1国会の中心的な課題は土地問題であった。
当時のロシア社会では農村の土地問題が重要な課題である事を示している。
しかし、反政府的な国会だったので解散となった。
そして、ストルイピンが首相となって、土地に関する改革に着手する。
ストルイピンの改革はロシア社会に残る農村の共同体を解体する事であった。
農村の共同体を解体するということは、すなわち、自営農民を創る事であった。
ストルイピンの改革は国会の解散などを使い、強引に推し進められる。
ストルイピンの目的は農村の近代化をはかり、富農を作り出して、専制政治を支持する層を作り出すことであった。
しかし、実際に1917年以前の社会で、共同体から出て、自営農になった農民は全体の数から考えれば僅かであった。
ストルイピンの改革はロシアの社会に新たな争いを持ち込む事になる。
改革によって、多くの農民の困窮をまねき、専制政治への反抗は激しくなる。
また、自営農の数が増えた事によって、農村の階級分化が促進されて、富農と貧農の対立が表面化された。
すなわち、共同体から脱して、自営農となった農民と共同体に残る農民との間で争いが起き、この事が新たなロシア社会の不安要素となるのである。
国民に不満が溜まれば、それは、暴動や革命などの反政府運動につながる。このストルイピンの改革が1917年革命勃発の原因の1つになっていると思われる。
1905年革命後、ウィッテの罷免、欽定憲法制定など、一時的にツァーリの専制体制は復活してしまった。
そして、ロシアでは革命は終息に向かい、社会も安定を取り戻してきた。
社会の安定と共にストライキなども影を潜めていった。
しかし、1905年革命で生まれた各政党や様々な考え方はロシア社会で残り、失う事はなかった。
(ロシア革命と東方辺境地域 西山克典 2002年 北海道大学図書刊行会 参照)
(地図で詠む世界の歴史ロシア ジョン・チャノン・ロバートハドソン 1999年 河出書房新社 参照)
(ロシア史を詠む マルク・ラエフ 2001年 名古屋大学出版会 参照)
(新版世界各国史ロシア史 和田春樹 2002年 山川出版社 参照)
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2016年11月16日
何度出しても不合格になるリポートの対処法‐具体例で解説‐通信生必見
何度出しても不合格になるリポートの対処法‐具体例で解説‐通信生必見
何故か、何度リポートを提出しても、再提出になってしまう事があります。
内容や書式が完璧に出来たリポートでも、採点者は1人。
採点者の考え1つで合格にも不合格にもなるってこと。
文学部史学科での事例ですが
出題者の歴史認識に合わないリポート
不合格の原因になる事があります。
(具体例) 設題
明治維新の意義について書け。
・解答例
@欧米列強に近づき近代化を成し遂げ、欧米列強からの植民地化を防ぎ、大陸に進出する事が出来た。また、近世国家の身分制度を否定して、民主的な国家を建設できた。
A日本の素晴らしい伝統が壊された。日本が欧米列強に近づいたことにより、日本は戦争ばかりする国になった。そのため、最後は戦争で負けて悲惨な目にあった。
@とAはどちらの側面もあるが、正反対のイメージを与える。
もし採点者がAの考え方が強い人だった場合、@の解答では、不快にしか感じないだろう。
これではいくら素晴らしいリポートを作成しても不合格になってしまう。
この場合、自分の考え方は無視して、Aの流れでリポートを製作しなければならない。
最低でも、Aの視点がリポートで肯定的に述べられてないと合格は困難になる。
出題者の意図を感じ取り、自身の考え方をいかに抑えるかがポイント
いつもクリックありがとうございます。
卒業単位+教職単位全てのリポート集
日本史のリポート集
教職課程のリポート集
一般教養のリポート集
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何故か、何度リポートを提出しても、再提出になってしまう事があります。
内容や書式が完璧に出来たリポートでも、採点者は1人。
採点者の考え1つで合格にも不合格にもなるってこと。
文学部史学科での事例ですが
出題者の歴史認識に合わないリポート
不合格の原因になる事があります。
(具体例) 設題
明治維新の意義について書け。
・解答例
@欧米列強に近づき近代化を成し遂げ、欧米列強からの植民地化を防ぎ、大陸に進出する事が出来た。また、近世国家の身分制度を否定して、民主的な国家を建設できた。
A日本の素晴らしい伝統が壊された。日本が欧米列強に近づいたことにより、日本は戦争ばかりする国になった。そのため、最後は戦争で負けて悲惨な目にあった。
@とAはどちらの側面もあるが、正反対のイメージを与える。
もし採点者がAの考え方が強い人だった場合、@の解答では、不快にしか感じないだろう。
これではいくら素晴らしいリポートを作成しても不合格になってしまう。
この場合、自分の考え方は無視して、Aの流れでリポートを製作しなければならない。
最低でも、Aの視点がリポートで肯定的に述べられてないと合格は困難になる。
出題者の意図を感じ取り、自身の考え方をいかに抑えるかがポイント
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2016年11月14日
二重革命・フランス革命と産業革命‐社会学のはじまりとは‐社会学リポート
通信制大学の魅力を伝える、今に満足していない人必見
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★通信制大学生の日記
★退学者が多い通信制大学の実態とは
★サイト管理者ってどんな人
二重革命・フランス革命と産業革命‐社会学のはじまりとは‐社会学リポート
フランス革命と産業革命は近現代に世界を大きく変えた要因で、社会学発生の始まりでもあった。
二重革命の時代は近代と呼ばれている。
古代、封建制時代の宗教の世界からの脱皮、それは宗教改革やルネサンスの影響が大きい。
原啓蒙思想に見られる、宗教によって抑圧された世界からの開放やなにものにも縛られない個人主義、合理主義または人間性の再発見など、自由な時代である。
しかし、この中世から近代への移行には大きな歪を生じることになる。
個人は何を心のよりどころにすれば良いのか、人間は欲深い生き物なので、なにか統制するものが必要になってくる。
自由という言葉の裏には厳しさがある。
そして、近代は、各団体、教会、家族、といった社会組織は個人を束縛するものとして、遠ざけられた。
その結果、国家と個人が直結してしまい中央集権国家が誕生してしまう。
いわゆる絶対王政国家がそのいい例である。
近代の歪はフランス革命という事件で爆発した。
フランス革命は自由、平等、博愛、のスローガンのもと旧体制の破壊と新体制樹立が大きな目標に掲げられた。
考えてみると実は古代、中世〜近代への移行とまったく同じ考えから生み出された事件である。
例えば自由、平等、博愛はそのまま古代、中世〜近代の考え方だし、旧体制の破壊は、宗教からの独立が国王からの独立に変わっただけの話である。
しかし、同じ意義で進められた、フランス革命であったが以後イギリスで起こった産業革命も影響し、世の中は、まったく別で正反対で複雑な混合された思想へと進んでいくことになる。
そして、その後現代へと繋がっていくのである。
産業革命によるヨーロッパ社会の変化は商品を大量生産することが可能となり、資本家は労働者を雇い入れ機会の一部のような作業、いわゆる、現代の工場で見られる流れ作業、単純作業である。
そして、資本家と労働者という階級が作られる原因となり、また、都市に集中する経済となり、地域経済の発展の基盤と自立を奪い都市と地域の格差を生む要因となった。
その他、個人の技術力が重視された時代から大量生産から商品を安い単価で売り出す事が可能となり、資本を持った企業が経済を制すようになり、現代にみられる経済の大企業化を生みだす原因となった。
産業革命により、それまでヨーロッパよりも優位にいたイスラム社会や中国は世界の主導権から転落して、変わりにヨーロッパが世界のなかで主導権をとるようになった。
そして、世界中に植民地を作り世界の中心となっていった。
そのため、ヨーロッパの思想が世界に広まる原因となった。
二重革命を簡単に述べると近代の矛盾から過去の中世の価値観の再発見である。
だからといって近代の考えがまったく否定されたわけでもない。
ゆうなれば、近代と中世の思想がミックスされた状態である。
そして、二重革命を経て、近代が成熟し、その後、新たな時代、現代を迎える。
現代は様々な観念、近代と伝統が絡みあっている。
たとえば、共同社会、権威、地位、聖、疎外、利益社会、権力、階級、俗、進歩、などでこれらを単体観念という。
このように現代を社会学思想で見ると単体観念の組み合わせによって、成り立っていることが分かる。
19世紀になると二重革命の影響は全面的に浸透し、様々な思想が生まれた。
そして、自由主義、急進主義、保守主義の3つの思想に分類できるようになった。
自由主義は個人の自由や人権を主張する思想である。
近代でもこの自由主義はあったが、現代との違いは近代の自由主義はいかなる個人を縛る社会団体や制度を受け付けなかったのに対して、現代の自由主義は福祉のような個への献身に働く限り承認するといったように、ある程度の社会団体や制度を認めるという思想である。
急進主義というのは、権力の獲得、保持、行使を目的としたもので自由主義からこの思想は生まれた。
自由を求めるには権力が必要で、この急進主義は、自由主義を社会的に守るため、権力を獲得するために暴力と結びつき危険な思想へと発展していった。
保守主義は二重革命が影響を与えた思想で簡単に述べると、中世的価値観の再認識である。
保守主義は単純に旧体制の維持が目的ではなくバラバラの個人主義、自由主義を中世的な価値観によってまとめるために生まれた思想である。
この保守主義が社会思想に与えた影響は非常に大きかった。
この思想はフランス革命での、国の中には個人を束縛するいかなる協同団体があってもだめであるという、きわめて、極端な個人主義を批判した所からはじまる。
フランス革命の個人主義と国家統制を批判し中間的な協同団体の必要性を説き、これにより個人に秩序を持たせた。
また、近代の啓蒙思想家が伝統的な社会を構成する家族や宗教などの協同団体を攻撃したのに対し、保守主義はこれらの団体の価値の再認識を行い、反啓蒙主義運動を進めていく結果ともなった。
結果、生成期社会学は二重革命によって生まれた中世的価値の再発見を考え、近代と中世が複雑に絡み合った思想だと言えるだろう。
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二重革命・フランス革命と産業革命‐社会学のはじまりとは‐社会学リポート
フランス革命と産業革命は近現代に世界を大きく変えた要因で、社会学発生の始まりでもあった。
二重革命の時代は近代と呼ばれている。
古代、封建制時代の宗教の世界からの脱皮、それは宗教改革やルネサンスの影響が大きい。
原啓蒙思想に見られる、宗教によって抑圧された世界からの開放やなにものにも縛られない個人主義、合理主義または人間性の再発見など、自由な時代である。
しかし、この中世から近代への移行には大きな歪を生じることになる。
個人は何を心のよりどころにすれば良いのか、人間は欲深い生き物なので、なにか統制するものが必要になってくる。
自由という言葉の裏には厳しさがある。
そして、近代は、各団体、教会、家族、といった社会組織は個人を束縛するものとして、遠ざけられた。
その結果、国家と個人が直結してしまい中央集権国家が誕生してしまう。
いわゆる絶対王政国家がそのいい例である。
近代の歪はフランス革命という事件で爆発した。
フランス革命は自由、平等、博愛、のスローガンのもと旧体制の破壊と新体制樹立が大きな目標に掲げられた。
考えてみると実は古代、中世〜近代への移行とまったく同じ考えから生み出された事件である。
例えば自由、平等、博愛はそのまま古代、中世〜近代の考え方だし、旧体制の破壊は、宗教からの独立が国王からの独立に変わっただけの話である。
しかし、同じ意義で進められた、フランス革命であったが以後イギリスで起こった産業革命も影響し、世の中は、まったく別で正反対で複雑な混合された思想へと進んでいくことになる。
そして、その後現代へと繋がっていくのである。
産業革命によるヨーロッパ社会の変化は商品を大量生産することが可能となり、資本家は労働者を雇い入れ機会の一部のような作業、いわゆる、現代の工場で見られる流れ作業、単純作業である。
そして、資本家と労働者という階級が作られる原因となり、また、都市に集中する経済となり、地域経済の発展の基盤と自立を奪い都市と地域の格差を生む要因となった。
その他、個人の技術力が重視された時代から大量生産から商品を安い単価で売り出す事が可能となり、資本を持った企業が経済を制すようになり、現代にみられる経済の大企業化を生みだす原因となった。
産業革命により、それまでヨーロッパよりも優位にいたイスラム社会や中国は世界の主導権から転落して、変わりにヨーロッパが世界のなかで主導権をとるようになった。
そして、世界中に植民地を作り世界の中心となっていった。
そのため、ヨーロッパの思想が世界に広まる原因となった。
二重革命を簡単に述べると近代の矛盾から過去の中世の価値観の再発見である。
だからといって近代の考えがまったく否定されたわけでもない。
ゆうなれば、近代と中世の思想がミックスされた状態である。
そして、二重革命を経て、近代が成熟し、その後、新たな時代、現代を迎える。
現代は様々な観念、近代と伝統が絡みあっている。
たとえば、共同社会、権威、地位、聖、疎外、利益社会、権力、階級、俗、進歩、などでこれらを単体観念という。
このように現代を社会学思想で見ると単体観念の組み合わせによって、成り立っていることが分かる。
19世紀になると二重革命の影響は全面的に浸透し、様々な思想が生まれた。
そして、自由主義、急進主義、保守主義の3つの思想に分類できるようになった。
自由主義は個人の自由や人権を主張する思想である。
近代でもこの自由主義はあったが、現代との違いは近代の自由主義はいかなる個人を縛る社会団体や制度を受け付けなかったのに対して、現代の自由主義は福祉のような個への献身に働く限り承認するといったように、ある程度の社会団体や制度を認めるという思想である。
急進主義というのは、権力の獲得、保持、行使を目的としたもので自由主義からこの思想は生まれた。
自由を求めるには権力が必要で、この急進主義は、自由主義を社会的に守るため、権力を獲得するために暴力と結びつき危険な思想へと発展していった。
保守主義は二重革命が影響を与えた思想で簡単に述べると、中世的価値観の再認識である。
保守主義は単純に旧体制の維持が目的ではなくバラバラの個人主義、自由主義を中世的な価値観によってまとめるために生まれた思想である。
この保守主義が社会思想に与えた影響は非常に大きかった。
この思想はフランス革命での、国の中には個人を束縛するいかなる協同団体があってもだめであるという、きわめて、極端な個人主義を批判した所からはじまる。
フランス革命の個人主義と国家統制を批判し中間的な協同団体の必要性を説き、これにより個人に秩序を持たせた。
また、近代の啓蒙思想家が伝統的な社会を構成する家族や宗教などの協同団体を攻撃したのに対し、保守主義はこれらの団体の価値の再認識を行い、反啓蒙主義運動を進めていく結果ともなった。
結果、生成期社会学は二重革命によって生まれた中世的価値の再発見を考え、近代と中世が複雑に絡み合った思想だと言えるだろう。
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タグ:革命 社会学 リポート
2016年11月13日
調査書を取りに8年ぶりに母校に行く‐26歳で大学に入学して得した事(回想録)
調査書を取りに8年ぶりに母校に行く‐26歳で大学に入学して得した事(回想録)
・大学出願時に必要な書類
大学の出願には、願書の提出と調査書が必要になる。
願書は、大学側から出される資料に必要事項を記入して郵送するだけで大丈夫。
近年はネット上で処理する大学もある。
問題は調査書、この調査書は高校が発行する書類で、言わば、成績表のようなもの。
8年ぶりに母校に行き、調査書を発行してもらった。(有料)
まさか自分が、卒業から8年後に母校に行き調査書をもらいに行くなんて、高校時代からは想像もできなかった。
・進路が決まった高校3年生に対して
現在私は高校教師をしているが、進路が決まった3年生は、緊張感が無くなり、成績の事をあまり気にしなくなる。
(3年の2学期で進路を決定する場合、1学期までの成績で調査書を作成する)
そんな3年生に対して、「卒業後に調査書が必要になった場合、3年生の3学期までの成績で調査書が作成される。
人生は何が起きるか分からないよ」「私は26歳の時に大学に入学したので、その時、調査書を高校に取りに行った」と言う。
卒業後に大学に進学する場合、3年生の3学期までの成績で調査書が作成される。
3年生の2学期と3学期で極端に成績を落とすと、卒業後に進学するときに不利になるという訳である。
「進路が決定されても、その後も成績を意識して勉強しよう」
人生回り道をしたおかげで、実体験に基づいた指導ができる。
教員として働いていると、このように、26歳で大学に入学したメリットが多々出てくる。(デメリットも多々あり、例・給料)
いつもクリックありがとうございます。
通信制大学を卒業する方法、カテゴリー案内
4年で卒業できるリポートの書き方
単位修得試験に合格できる方法
卒業論文を攻略しよう
合格できないリポートの対処方法
何度受験しても合格できない単位修得試験対策
単位の習得方法について
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近年はネット上で処理する大学もある。
問題は調査書、この調査書は高校が発行する書類で、言わば、成績表のようなもの。
8年ぶりに母校に行き、調査書を発行してもらった。(有料)
まさか自分が、卒業から8年後に母校に行き調査書をもらいに行くなんて、高校時代からは想像もできなかった。
・進路が決まった高校3年生に対して
現在私は高校教師をしているが、進路が決まった3年生は、緊張感が無くなり、成績の事をあまり気にしなくなる。
(3年の2学期で進路を決定する場合、1学期までの成績で調査書を作成する)
そんな3年生に対して、「卒業後に調査書が必要になった場合、3年生の3学期までの成績で調査書が作成される。
人生は何が起きるか分からないよ」「私は26歳の時に大学に入学したので、その時、調査書を高校に取りに行った」と言う。
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3年生の2学期と3学期で極端に成績を落とすと、卒業後に進学するときに不利になるという訳である。
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2016年11月12日
リポート対策‐事例から検討‐何度提出しても合格できないリポートはどうすればいいの?4年卒業をめざしている人必見。
卒業単位+教職単位全てのリポート集
日本史のリポート集
教職課程のリポート集
一般教養のリポート集
世界史のリポート集
思想宗教のリポート集
リポート対策‐事例から検討‐何度提出しても合格できないリポートはどうすればいいの?4年卒業をめざしている人必見。
・なんど提出しても合格できないリポート対策
通信制大学で卒業への最大の壁は、リポートを合格すること。
中にはなぜか、なんど再提出をしても合格できないリポートがある。
そのうち、何を訂正すればいいのか分からなくなってくる。
ここまでくるともうお手上げでどうしょうもない。
その様な場合はどうすればいいのか。
答えは
早めにあきらめて次のリポート制作に取り組む
ことをお勧めします。
あきらめが大事、貴重な時間を費やすことは得策ではありません。
私自身、自然科学史と日本科学史を何度か提出してみましたが、合格できませんでした。
単位習得試験は合格していたので、もったいないと思いましたが、貴重な時間をこれ以上費やすわけにはいきません。
目安としては、3回提出してダメならあきらめる。
合格できないリポートをさっさとあきらめた結果、私は4年で法政大学通信教育部を卒業(教員免許を同時取得)する事ができました。
・必須科目のリポートがなんど提出しても合格できない場合
必須科目の場合は、何度も書き続けるしかありません。
採点者によって独自の合格基準
があるので、それを見極める必要があります。
リポートの内容に問題がある場合は、テキストや参考文献を読み込んで理解を深めてから、リポートの再提出を行わなければいけません。
採点者の中には、内容よりも、文章の書き方を採点基準にしている人もいます。
この場合、国語的な文章の書式を守ってリポート制作を心がけないと合格できません。
合格のポイントは、自分自身の歴史認識や思想、考え方は封印し、採点者の思想や考え方に沿ったリポートを制作しないと合格は難しいでしょう。
学位の資格や教師になるためには多少の我慢は必要です。割り切ったリポート制作が重要です。
・あらゆることを実践したが、それでも合格できない場合
それでも、合格できない場合は、合格した学生に聞くか、合格済みのリポートを参考にする方法があります。
その道の専門家やリポート制作が得意な人から直接、指導を受ける方法も考えられます。
スクーリングで情報交換できる仲間を見つけるか、各支部が行っている勉強会などに参加して、合格した人や指導できる人を見つけて下さい。
私が制作したリポートは別記事に掲載していますので、それを参考にしてもらっても大丈夫です。
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リポート対策‐事例から検討‐何度提出しても合格できないリポートはどうすればいいの?4年卒業をめざしている人必見。
・なんど提出しても合格できないリポート対策
通信制大学で卒業への最大の壁は、リポートを合格すること。
中にはなぜか、なんど再提出をしても合格できないリポートがある。
そのうち、何を訂正すればいいのか分からなくなってくる。
ここまでくるともうお手上げでどうしょうもない。
その様な場合はどうすればいいのか。
答えは
早めにあきらめて次のリポート制作に取り組む
ことをお勧めします。
あきらめが大事、貴重な時間を費やすことは得策ではありません。
私自身、自然科学史と日本科学史を何度か提出してみましたが、合格できませんでした。
単位習得試験は合格していたので、もったいないと思いましたが、貴重な時間をこれ以上費やすわけにはいきません。
目安としては、3回提出してダメならあきらめる。
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・必須科目のリポートがなんど提出しても合格できない場合
必須科目の場合は、何度も書き続けるしかありません。
採点者によって独自の合格基準
があるので、それを見極める必要があります。
リポートの内容に問題がある場合は、テキストや参考文献を読み込んで理解を深めてから、リポートの再提出を行わなければいけません。
採点者の中には、内容よりも、文章の書き方を採点基準にしている人もいます。
この場合、国語的な文章の書式を守ってリポート制作を心がけないと合格できません。
合格のポイントは、自分自身の歴史認識や思想、考え方は封印し、採点者の思想や考え方に沿ったリポートを制作しないと合格は難しいでしょう。
学位の資格や教師になるためには多少の我慢は必要です。割り切ったリポート制作が重要です。
・あらゆることを実践したが、それでも合格できない場合
それでも、合格できない場合は、合格した学生に聞くか、合格済みのリポートを参考にする方法があります。
その道の専門家やリポート制作が得意な人から直接、指導を受ける方法も考えられます。
スクーリングで情報交換できる仲間を見つけるか、各支部が行っている勉強会などに参加して、合格した人や指導できる人を見つけて下さい。
私が制作したリポートは別記事に掲載していますので、それを参考にしてもらっても大丈夫です。
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2016年11月11日
ヴァント心理学とゲシュタルト心理学とは‐心理学リポート‐
通信制大学の魅力を伝える、今に満足していない人必見
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ヴァント心理学とゲシュタルト心理学とは‐一般教養心理学リポート‐
心理学を1つの学問として、哲学から独立させたのはヴァントである。
ヴァントによれば、心理学は、間接的経験を扱う物理学と同じ経験科学にあたる。
しかし、この物理学との違いは、心理学は直接的経験を扱う学問であると考えた。
つまり、意識を主体とした経験が心理学の担うべき学問分野とした。
詳しく説明すると、目の前で火が燃えていたとしよう。だが、例え火が現実に燃えていたとしても、火を見た人間自身が火を意識していなければ、火を見たことにはならない。
このため、実際に起きていることと、その人間に見えている事は違うのである。
ヴァント心理学は、自己観察によって捉えられる意識過程を分析し、発見して、感覚、心像、感情などの心理要素に分ける。
次にこれらの諸要素の結合の方式を見出し、決定する。
そして、さらに、この結合の方法を明らかにする。
このように、人間の意識は、要素(単純感情)が複合しあい、複合体となって、別の性質の感情へと変化する。
すなわち、複合体を構成している諸要素は一つ一つ意味があるが、それら一つ一つの諸要素が合体したとき新しい固有の意識が発生する。
意識とは、さまざまな要因・要素が組み合わさってできるということである。
ヴァントの心理研究は、まず、心の部分をおさえ、部分と部分を結合させながら意識の全体を捉えようとした。
このように、心理の構成を研究していった。
研究には実験を土台とした。
実験の例をあげると、メトロームを聞いていると一つ一つの拍子は感覚を与えるが、同時にいろんな快を経験する。
この実験で感情の三方向説を唱える。
ヴァントの功績は、人間の心の部分を理論で考えていた哲学から、実験という新しい方法を加えたことである。
ここから心理学は、哲学から独立をはたし、実験理学の物理学に近づき、新しい学問となった。
ヴァントの要素論の心理学と対象的なのがゲシュタルト心理学である。
ゲシュタルトとは、日本語訳で、姿、形、形態である。
簡単にこの心理学を言うと全体から人間の心理を考え、知覚研究を軸とした心理学である。
ゲシュタルト心理学では一つ一つでは意味がなく、その一つ一つが塊となった時に初めて意味をなすものになる。
例えば、映画のネオンサインの原理は、一つ一つではただの点滅を人間は体験するだけだが、それがあつまると動きになり画像として人間は感じる。
このように知覚とは単に刺激と感覚が一対一の感覚でないことが言えるだろう。
その他、ルビオンの盃のように、なにものか1つのものに意識を集中するとその他のものは背景に変わり、次に、背景に意識を集中すると、他のものが背景に変わることを証明した。
また、知覚は実験により、人間の生まれ持った記憶、民族、文化の記憶、生まれ育った地域の記憶などによって影響を受けることや全体の影響、これら大脳に刻まれた経験に、影響を受けることを証明した。
ゲシュタルト心理学で有名な人にケーラーがいる。
彼はチンパンジーの動物実験(例えば手に届かないぶどうをとる実験など)で、チンパンジーは問題が発生した時に解決方法として、全体の空間や場面構成を考えたうえで問題解決に取り組むことを実験で証明した。
これは、一つ一つの要素、ぶどう、棒、箱などが、全体として見たときに初めて、目的や手段を動物は見出すことを意味している。
また、ケーラーは、知覚対象がたとえ時間的にも距離的にも離れている状況であってもお互いに作用し反応しあうことを突き止めた。
これは一つの知覚対象が、その周囲に場をもっているという考えである。
次にゲシュタルト心理学派のレヴァンは、心理学の問題はある種の空間でおきる出来事であると考えた。
詳しく説明すると、人間は意識により、ある一つの空間を作り出す。
もし、問題が発生すると、空間内を感情が移動するのだが、問題が障害物となり、それ以上移動が不可能になる。
このため、想像で別の空間を作り、障害物を通り抜ける方法を考える。
このように人間はあくまで空間全体で認識していくのである。
その他レヴァンは子供を使った集団実験で、いくつかの、それぞれ異なる特性の集団に分けてから、ある作業を行わせた。結果各集団はそれぞれ違った作業結果を残した。
このことは、各集団を全体として考える事ができ、各集団が影響を与え、各集団を構成する一人一人の人間に影響を与えたと考える事ができる。
これは、集団力学という新しい分野の誕生である。
また、この実験は、集団の構成員一人では意味がないが構成員が互いに影響しあい相互に作用し、構成員が、ある種の場をつくるという考えも証明することになった。
今まで説明してきたように、ヴァント心理学とゲシュタルト心理学の違いは一つ一つから注目すか全体から注目するかにある。
ゲシュタルト派はこれらチンパンジー、集団人間の実験などで全体から、意識を考え、また、一つの要素は要素同士で相互に影響を持つことを証明して、一つ一つに意味があると注目するヴァントの要素論を批判した。
(自己発達の心理学 亀谷純雄 文化書房博文社 参照)
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ヴァント心理学とゲシュタルト心理学とは‐一般教養心理学リポート‐
心理学を1つの学問として、哲学から独立させたのはヴァントである。
ヴァントによれば、心理学は、間接的経験を扱う物理学と同じ経験科学にあたる。
しかし、この物理学との違いは、心理学は直接的経験を扱う学問であると考えた。
つまり、意識を主体とした経験が心理学の担うべき学問分野とした。
詳しく説明すると、目の前で火が燃えていたとしよう。だが、例え火が現実に燃えていたとしても、火を見た人間自身が火を意識していなければ、火を見たことにはならない。
このため、実際に起きていることと、その人間に見えている事は違うのである。
ヴァント心理学は、自己観察によって捉えられる意識過程を分析し、発見して、感覚、心像、感情などの心理要素に分ける。
次にこれらの諸要素の結合の方式を見出し、決定する。
そして、さらに、この結合の方法を明らかにする。
このように、人間の意識は、要素(単純感情)が複合しあい、複合体となって、別の性質の感情へと変化する。
すなわち、複合体を構成している諸要素は一つ一つ意味があるが、それら一つ一つの諸要素が合体したとき新しい固有の意識が発生する。
意識とは、さまざまな要因・要素が組み合わさってできるということである。
ヴァントの心理研究は、まず、心の部分をおさえ、部分と部分を結合させながら意識の全体を捉えようとした。
このように、心理の構成を研究していった。
研究には実験を土台とした。
実験の例をあげると、メトロームを聞いていると一つ一つの拍子は感覚を与えるが、同時にいろんな快を経験する。
この実験で感情の三方向説を唱える。
ヴァントの功績は、人間の心の部分を理論で考えていた哲学から、実験という新しい方法を加えたことである。
ここから心理学は、哲学から独立をはたし、実験理学の物理学に近づき、新しい学問となった。
ヴァントの要素論の心理学と対象的なのがゲシュタルト心理学である。
ゲシュタルトとは、日本語訳で、姿、形、形態である。
簡単にこの心理学を言うと全体から人間の心理を考え、知覚研究を軸とした心理学である。
ゲシュタルト心理学では一つ一つでは意味がなく、その一つ一つが塊となった時に初めて意味をなすものになる。
例えば、映画のネオンサインの原理は、一つ一つではただの点滅を人間は体験するだけだが、それがあつまると動きになり画像として人間は感じる。
このように知覚とは単に刺激と感覚が一対一の感覚でないことが言えるだろう。
その他、ルビオンの盃のように、なにものか1つのものに意識を集中するとその他のものは背景に変わり、次に、背景に意識を集中すると、他のものが背景に変わることを証明した。
また、知覚は実験により、人間の生まれ持った記憶、民族、文化の記憶、生まれ育った地域の記憶などによって影響を受けることや全体の影響、これら大脳に刻まれた経験に、影響を受けることを証明した。
ゲシュタルト心理学で有名な人にケーラーがいる。
彼はチンパンジーの動物実験(例えば手に届かないぶどうをとる実験など)で、チンパンジーは問題が発生した時に解決方法として、全体の空間や場面構成を考えたうえで問題解決に取り組むことを実験で証明した。
これは、一つ一つの要素、ぶどう、棒、箱などが、全体として見たときに初めて、目的や手段を動物は見出すことを意味している。
また、ケーラーは、知覚対象がたとえ時間的にも距離的にも離れている状況であってもお互いに作用し反応しあうことを突き止めた。
これは一つの知覚対象が、その周囲に場をもっているという考えである。
次にゲシュタルト心理学派のレヴァンは、心理学の問題はある種の空間でおきる出来事であると考えた。
詳しく説明すると、人間は意識により、ある一つの空間を作り出す。
もし、問題が発生すると、空間内を感情が移動するのだが、問題が障害物となり、それ以上移動が不可能になる。
このため、想像で別の空間を作り、障害物を通り抜ける方法を考える。
このように人間はあくまで空間全体で認識していくのである。
その他レヴァンは子供を使った集団実験で、いくつかの、それぞれ異なる特性の集団に分けてから、ある作業を行わせた。結果各集団はそれぞれ違った作業結果を残した。
このことは、各集団を全体として考える事ができ、各集団が影響を与え、各集団を構成する一人一人の人間に影響を与えたと考える事ができる。
これは、集団力学という新しい分野の誕生である。
また、この実験は、集団の構成員一人では意味がないが構成員が互いに影響しあい相互に作用し、構成員が、ある種の場をつくるという考えも証明することになった。
今まで説明してきたように、ヴァント心理学とゲシュタルト心理学の違いは一つ一つから注目すか全体から注目するかにある。
ゲシュタルト派はこれらチンパンジー、集団人間の実験などで全体から、意識を考え、また、一つの要素は要素同士で相互に影響を持つことを証明して、一つ一つに意味があると注目するヴァントの要素論を批判した。
(自己発達の心理学 亀谷純雄 文化書房博文社 参照)
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2016年11月10日
法政大学を選んだ理由‐通信教育は特に学校選択が大事(大学生日記)
法政大学を選んだ理由‐通信教育は特に学校選択が大事(大学生日記)
私が大学を選んだ基準は、社会科の教員免許が取れて、なおかつ、歴史の勉強が出来る事であった。
また、就職と自己満足の為に、ある程度ネームバリューのある大学が検討された。
せっかく大学に進学するなら、今まで住んだことがない関東地方の大学へ行きたいとも思った。
最終的に、選ばれた候補は、慶応大学と法政大学であった。
両校のパンフレットを請求し、検討を行った。
両校とも、全国的に有名な大学である。
慶応大学の方は、願書提出時に作文提出があった事と少し自分には重すぎると思い、願書を出さなかった。
法政大学の文学部史学科が、何故か自分に合っていると感じ、願書を提出した。
入学が許可され、中学社会科、高校地理歴史、公民の免許取得と、大学卒業の資格を目指す事になった。
ネームバリューもあり、昔から、東京六大学に対しては強い憧れがあったので、通信教育とはいえ、法政大学入学は夢の様な出来事であった。
記事を読まれた方はクリックをお願いします。
通信制大学の魅力を伝える、今に満足していない人必見
★通信制大学のメリットを紹介
★通信制大学生の日記
★退学者が多い通信制大学の実態とは
★サイト管理者ってどんな人
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また、就職と自己満足の為に、ある程度ネームバリューのある大学が検討された。
せっかく大学に進学するなら、今まで住んだことがない関東地方の大学へ行きたいとも思った。
最終的に、選ばれた候補は、慶応大学と法政大学であった。
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慶応大学の方は、願書提出時に作文提出があった事と少し自分には重すぎると思い、願書を出さなかった。
法政大学の文学部史学科が、何故か自分に合っていると感じ、願書を提出した。
入学が許可され、中学社会科、高校地理歴史、公民の免許取得と、大学卒業の資格を目指す事になった。
ネームバリューもあり、昔から、東京六大学に対しては強い憧れがあったので、通信教育とはいえ、法政大学入学は夢の様な出来事であった。
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