2016年11月18日
ロシア革命‐2つの革命から見えるものとは‐専門課程ロシア史リポート(通信教育部)
通信制大学を卒業する方法、カテゴリー案内
4年で卒業できるリポートの書き方
単位修得試験に合格できる方法
卒業論文を攻略しよう
ロシア革命‐2つの革命から見えるものとは‐専門課程ロシア史リポート
工業化と労働者の増加、それに伴う様々な労働問題、中途半端な農奴解放による問題、ロシアでは国民が国家に不満を持っていた。
これに加えて、1904年に始まる日露戦争が1905年革命に繋がったと思われる。
また、1917年革命の時も国内に不満を抱え、第1次世界大戦が革命の引き金となっている。
1905年革命では、労働者はストライキなどを起こし、また、農民は反乱を行った。しかし、最終的には1905年革命は失敗に終わる。
革命が失敗に終わる原因として、それは、一部の兵士の反乱でしかなかった。
兵士による反乱の数が少なかったというのが、革命の失敗の大きな原因の1つに挙げられるであろう。
1917年革命との違いは労働者のストライキなどの活動は同じだが、その活動に兵士が同調したかしていないかが、大きな違いである。
1905年革命を終結させるべく、ロシア内の自由主義者を懐柔するため、ウィッテは市民の自由権、人格の不可侵、信仰、集会、結社の自由を認めて、予定されていた国会の選挙をすべての階級が選挙に参加できる権利を持つ、立法機関としての国会開設を国民に約束し、十月宣言が行なわれた。十月宣言後、政府は労働組合や政党などの団体結成の合法化やストライキにたいする刑事罰の廃止などを行なった。
そして、1906年に国会の選挙が実施された。
しかし、国会制度は十月宣言で約束された自由主義にもとづく国会ではなかった。
あたらしい選挙法では、選挙民を財産や職業などで4つの階級で分けて選挙を行なう、制限された選挙であった。
また、1906年に憲法が公布された。
憲法の制定には憲法制定会議によって、つくられた民意による憲法制定が求められたのだが、しかし、政府は大臣会議で皇帝臨席のもとで憲法を審議して、皇帝の定める欽定憲法として発布した。
憲法の内容は例えば、『全ロシア皇帝に最高専制権力が属す。』と非常に皇帝の権力を認めた専制的な内容の憲法である。
また、『皇帝陛下は国家評議会と国家ドゥーマと協力して立法権を行使する』『いかなる新しい法律も国家評議会と国家ドゥーマの是認なくして生まれず、皇帝陛下の承認なくして発効しえない』などと、若干専制体制が否定された内容もある。
しかし、国会閉会中の立法権は皇帝にあるとの規定がある。
すなわち、国会の解散などの強引な手段を使えば、皇帝は強引に法律を作り、公布する事が可能なのである。
また、憲法によって、皇帝の最高権力を認め、また、立法の権利も皇帝が絶対的な権利を握っているという、皇帝権の再確認がなされている。
1905年革命後の諸改革の国会や憲法の制定では、必ずしも自由主義者を満足させる内容ではなかった。
1905年以前の皇帝の専制体制となんらかわっていないと思われる。
1905年革命後に専制体制が復活してしまったので、国民は不満に感じただろう。
この国民の不満は1917年革命につながると思われる。
しかし、法的に政党や各団体の活動が認められていなかったロシアで、十月宣言によって、思想の自由が法的に認められたと言う事は、1905年革命期に活動した各政党などの活動が認められた事であり、これによって、これまで、ツァーリ専制で思想が1本化されていたロシア社会の中に、様々な思想が生まれ、容認された事を意味している。
すなわち、兵士達は様々な政党の思想に触れたことによって、ツァーリに忠誠を誓うだけでなく、ツァーリ以外のものにも忠誠を誓うようになってしまったのだと思われる。
第1回目の国会では、ウィッテは辞任して、かわりに保守派のゴレムイキンが首相に就任した。
第1国会の中心的な課題は土地問題であった。
当時のロシア社会では農村の土地問題が重要な課題である事を示している。
しかし、反政府的な国会だったので解散となった。
そして、ストルイピンが首相となって、土地に関する改革に着手する。
ストルイピンの改革はロシア社会に残る農村の共同体を解体する事であった。
農村の共同体を解体するということは、すなわち、自営農民を創る事であった。
ストルイピンの改革は国会の解散などを使い、強引に推し進められる。
ストルイピンの目的は農村の近代化をはかり、富農を作り出して、専制政治を支持する層を作り出すことであった。
しかし、実際に1917年以前の社会で、共同体から出て、自営農になった農民は全体の数から考えれば僅かであった。
ストルイピンの改革はロシアの社会に新たな争いを持ち込む事になる。
改革によって、多くの農民の困窮をまねき、専制政治への反抗は激しくなる。
また、自営農の数が増えた事によって、農村の階級分化が促進されて、富農と貧農の対立が表面化された。
すなわち、共同体から脱して、自営農となった農民と共同体に残る農民との間で争いが起き、この事が新たなロシア社会の不安要素となるのである。
国民に不満が溜まれば、それは、暴動や革命などの反政府運動につながる。このストルイピンの改革が1917年革命勃発の原因の1つになっていると思われる。
1905年革命後、ウィッテの罷免、欽定憲法制定など、一時的にツァーリの専制体制は復活してしまった。
そして、ロシアでは革命は終息に向かい、社会も安定を取り戻してきた。
社会の安定と共にストライキなども影を潜めていった。
しかし、1905年革命で生まれた各政党や様々な考え方はロシア社会で残り、失う事はなかった。
(ロシア革命と東方辺境地域 西山克典 2002年 北海道大学図書刊行会 参照)
(地図で詠む世界の歴史ロシア ジョン・チャノン・ロバートハドソン 1999年 河出書房新社 参照)
(ロシア史を詠む マルク・ラエフ 2001年 名古屋大学出版会 参照)
(新版世界各国史ロシア史 和田春樹 2002年 山川出版社 参照)
記事を読まれた方はクリックをお願いします。
4年で卒業できるリポートの書き方
単位修得試験に合格できる方法
卒業論文を攻略しよう
ロシア革命‐2つの革命から見えるものとは‐専門課程ロシア史リポート
工業化と労働者の増加、それに伴う様々な労働問題、中途半端な農奴解放による問題、ロシアでは国民が国家に不満を持っていた。
これに加えて、1904年に始まる日露戦争が1905年革命に繋がったと思われる。
また、1917年革命の時も国内に不満を抱え、第1次世界大戦が革命の引き金となっている。
1905年革命では、労働者はストライキなどを起こし、また、農民は反乱を行った。しかし、最終的には1905年革命は失敗に終わる。
革命が失敗に終わる原因として、それは、一部の兵士の反乱でしかなかった。
兵士による反乱の数が少なかったというのが、革命の失敗の大きな原因の1つに挙げられるであろう。
1917年革命との違いは労働者のストライキなどの活動は同じだが、その活動に兵士が同調したかしていないかが、大きな違いである。
1905年革命を終結させるべく、ロシア内の自由主義者を懐柔するため、ウィッテは市民の自由権、人格の不可侵、信仰、集会、結社の自由を認めて、予定されていた国会の選挙をすべての階級が選挙に参加できる権利を持つ、立法機関としての国会開設を国民に約束し、十月宣言が行なわれた。十月宣言後、政府は労働組合や政党などの団体結成の合法化やストライキにたいする刑事罰の廃止などを行なった。
そして、1906年に国会の選挙が実施された。
しかし、国会制度は十月宣言で約束された自由主義にもとづく国会ではなかった。
あたらしい選挙法では、選挙民を財産や職業などで4つの階級で分けて選挙を行なう、制限された選挙であった。
また、1906年に憲法が公布された。
憲法の制定には憲法制定会議によって、つくられた民意による憲法制定が求められたのだが、しかし、政府は大臣会議で皇帝臨席のもとで憲法を審議して、皇帝の定める欽定憲法として発布した。
憲法の内容は例えば、『全ロシア皇帝に最高専制権力が属す。』と非常に皇帝の権力を認めた専制的な内容の憲法である。
また、『皇帝陛下は国家評議会と国家ドゥーマと協力して立法権を行使する』『いかなる新しい法律も国家評議会と国家ドゥーマの是認なくして生まれず、皇帝陛下の承認なくして発効しえない』などと、若干専制体制が否定された内容もある。
しかし、国会閉会中の立法権は皇帝にあるとの規定がある。
すなわち、国会の解散などの強引な手段を使えば、皇帝は強引に法律を作り、公布する事が可能なのである。
また、憲法によって、皇帝の最高権力を認め、また、立法の権利も皇帝が絶対的な権利を握っているという、皇帝権の再確認がなされている。
1905年革命後の諸改革の国会や憲法の制定では、必ずしも自由主義者を満足させる内容ではなかった。
1905年以前の皇帝の専制体制となんらかわっていないと思われる。
1905年革命後に専制体制が復活してしまったので、国民は不満に感じただろう。
この国民の不満は1917年革命につながると思われる。
しかし、法的に政党や各団体の活動が認められていなかったロシアで、十月宣言によって、思想の自由が法的に認められたと言う事は、1905年革命期に活動した各政党などの活動が認められた事であり、これによって、これまで、ツァーリ専制で思想が1本化されていたロシア社会の中に、様々な思想が生まれ、容認された事を意味している。
すなわち、兵士達は様々な政党の思想に触れたことによって、ツァーリに忠誠を誓うだけでなく、ツァーリ以外のものにも忠誠を誓うようになってしまったのだと思われる。
第1回目の国会では、ウィッテは辞任して、かわりに保守派のゴレムイキンが首相に就任した。
第1国会の中心的な課題は土地問題であった。
当時のロシア社会では農村の土地問題が重要な課題である事を示している。
しかし、反政府的な国会だったので解散となった。
そして、ストルイピンが首相となって、土地に関する改革に着手する。
ストルイピンの改革はロシア社会に残る農村の共同体を解体する事であった。
農村の共同体を解体するということは、すなわち、自営農民を創る事であった。
ストルイピンの改革は国会の解散などを使い、強引に推し進められる。
ストルイピンの目的は農村の近代化をはかり、富農を作り出して、専制政治を支持する層を作り出すことであった。
しかし、実際に1917年以前の社会で、共同体から出て、自営農になった農民は全体の数から考えれば僅かであった。
ストルイピンの改革はロシアの社会に新たな争いを持ち込む事になる。
改革によって、多くの農民の困窮をまねき、専制政治への反抗は激しくなる。
また、自営農の数が増えた事によって、農村の階級分化が促進されて、富農と貧農の対立が表面化された。
すなわち、共同体から脱して、自営農となった農民と共同体に残る農民との間で争いが起き、この事が新たなロシア社会の不安要素となるのである。
国民に不満が溜まれば、それは、暴動や革命などの反政府運動につながる。このストルイピンの改革が1917年革命勃発の原因の1つになっていると思われる。
1905年革命後、ウィッテの罷免、欽定憲法制定など、一時的にツァーリの専制体制は復活してしまった。
そして、ロシアでは革命は終息に向かい、社会も安定を取り戻してきた。
社会の安定と共にストライキなども影を潜めていった。
しかし、1905年革命で生まれた各政党や様々な考え方はロシア社会で残り、失う事はなかった。
(ロシア革命と東方辺境地域 西山克典 2002年 北海道大学図書刊行会 参照)
(地図で詠む世界の歴史ロシア ジョン・チャノン・ロバートハドソン 1999年 河出書房新社 参照)
(ロシア史を詠む マルク・ラエフ 2001年 名古屋大学出版会 参照)
(新版世界各国史ロシア史 和田春樹 2002年 山川出版社 参照)
記事を読まれた方はクリックをお願いします。
【このカテゴリーの最新記事】
-
no image
-
no image
-
no image
-
no image
-
no image
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバックURL
https://fanblogs.jp/tb/5625981
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。
この記事へのトラックバック