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2022年01月16日

血肉化、骨髄化

妙覚の釈尊は我等が血肉なり。因果の功徳は骨髄に非ずや。
『観心本尊抄 訳注』小松邦彰訳 山喜房佛書林 39頁

最高の悟りを得た釈尊は、我々の血肉であり、因果の功徳も我々の骨髄であるという御文です。

仏の境涯の釈尊が我々の中にあるとは、通常、想像しがたいですね。仏なるものは、我々の外にあり、崇める対象と考えてしまいがちです。

しかし、日蓮によると、我々の血肉の中にあるという。また、釈尊の因果の功徳も我々の骨髄に貫いているというのですね。仏は、我々の中にあるということです。

そもそも、仏教は、成仏するためにあるといえるわけですが、成仏とは、その字のとおり、仏に成ることですから、自分自身が仏になるということです。自分の中に仏がないならば、仏に成ることなどできないわけで、この観点からすると、日蓮の指摘は、至極当然ともいえます。

そうはいっても、一信仰者として、仏教に接する際、なかなか、自分の中に仏があるとは、それも釈尊クラスの五十二位最高の妙覚が自分自身の中にあるとは思えないものです。

日蓮は、「観心本尊抄」において、このような自分の中に仏などあるわけがないという人物を登場させ、それに対し、自分の中に仏があることを説明していき、その上で、上記の御文が出てきます。

自分の中にという点が重要ですね。自分の外では、意味がないわけです。これは、読書についても同様です。読書の本質は、読んだ本を血肉化、骨髄化することです。たくさんの本を本棚に飾ることではありません。

知識に対するコンプレックスが強い場合、本が異常に増えていきます。また、本棚の増強も行い、また、本が増えていきます。その割には、読書をしないという特徴があります。本は増えるが、読書量は増えないという珍妙な結果が生じます。

根本が知識コンプレックスであり、純粋に本を読みたいという志がないからなのですね。単なるコンプレックスでは、あれもこれもと欲張るばかりで焦点が定まらないのですね。よって、本だけ増えて、読書しないものですから肝心の知識が増えないという悪循環になります。

この場合、知識コンプレックスがあると認め、その上で、そのようなコンプレックスなど必要ないことを認識し、自分に必要な本を選択し、その本を血肉化、骨髄化するまで読むことです。

しかし、読んだ本を血肉化、骨髄化するまで読むことは、なかなかありません。1回読んでおしまいということが多いでしょう。もちろん、1回読むだけでよい本がほとんどですから、別に問題ないように思いますが、中には何度も読むべき本もあり、そのような本については、血肉化、骨髄化するまで読み込む必要があります。聖典類、古典類、名作類などが血肉化、骨髄化の対象となる本といえましょう。

血肉化、骨髄化した本があればあるほど、自分自身の境涯は上がっていきます。自分の中に存在するわけですから、なくならないのですね。誰にも奪われることのない貴重な財産といえるでしょう。このような読書を心掛けることが大切です。

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2022年01月13日

「諫暁八幡抄」の真蹟がなくなっている

昨年発刊された『日蓮大聖人御書全集 新版』を読み進め、「諫暁八幡抄」に至りました。「諫暁八幡抄」の最後の部分は、
天竺国をば月氏国と申す、仏の出現し給うべき名なり。扶桑国をば日本国と申す、あに聖人出で給わざらん。月は西より東に向かえり。月氏の仏法の東へ流るべき相なり。日は東より出ず。日本の仏法の月氏へかえるべき瑞相なり。月は光あきらかならず。在世はただ八年なり。日は光明、月に勝れり。五の五百歳の長き闇を照らすべき瑞相なり。
仏は法華経謗法の者を治し給わず。在世には無きゆえに。末法には一乗の強敵充満すべし。不軽菩薩の利益これなり。各々我が弟子等、はげませ給え、はげませ給え。
『日蓮大聖人御書全集 新版』747頁(諫暁八幡抄)

となっています。この箇所は、御書の最初の部分に真蹟があったので、読んでみようかと思ったところ、「新版」には、真蹟が載っていないのですね。旧版の「御書全集」では、御書の最初の部分に「諫暁八幡抄」の最後の部分の真蹟がありました。結局、旧版の「御書全集」を取り出し、真蹟の部分を読んだというわけです。

旧版の「御書全集」の編者は、日蓮正宗59世法主の堀日亨さんでしたから、富士大石寺所蔵の「諫暁八幡抄」の真蹟を載せることができますが、「新版」は、日蓮正宗とは関係なく出版されていますので、創価学会としては、真蹟を載せていいですかとも言えるわけもなく、真蹟がない御書となっています。この点、寂しい感じがしますね。

昭和定本で「諫暁八幡抄」の箇所を確認してみますと、「第16紙〜第47紙 富士大石寺蔵」と記載されており、また、「身延曾存」とも記載されており、バラバラに保管されていたようです。

いずれにしても、「新版」の御書を拝しているわけですが、十大部にはじまり、その次が教理書と位置付けられており、「諫暁八幡抄」までが教理書の部分となっています。頁数でいうと747頁までであり、全体が2232頁ですから、十大部と教理書で約33.4パーセントです。「新版」の御書の3分の1を占めます。十大部と教理書の部分は、日蓮仏法の根幹といえます。もちろん、消息文も重要ですが、日蓮仏法の骨格を形作ろうと思うならば、やはり、三大部であり、五大部であり、十大部となりましょう。また、「守護国家論」を含む教理書の36編が必要でしょう。「新版」の御書の3分の1を読むことにより、自らの中に日蓮仏法の根幹、骨格が出来上がるといえます。

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2022年01月12日

法華経への絶対的な信仰に基づく読み込み

一代聖教の中に、法華経は明鏡の中の神鏡なり。銅鏡等は、人の形をばうかぶれども、いまだ心をばうかべず。法華経は、人の形を浮かぶるのみならず、心をもうかべ、心を浮かぶるのみならず、先業をも未来をも鑑み給うことくもりなし。
『日蓮大聖人御書全集 新版』679頁(神国王御書)

日蓮は、法華経を第一として法門を立てていますが、その法華経をどう捉えているかがよく分かる御文です。「明鏡の中の神鏡なり」とは、最第一をよくあらわしていますね。

銅鏡は、人の形を浮かべるけれども、人の心を浮かべることはできないといいます。しかし、法華経は、人の形を浮かべるのは当然として、人の心をも浮かべることができるといいます。それだけでなく、先業という過去も見ることができ、未来も見ることができるといいます。それも曇りなしですから、明瞭に見えるというわけですね。

人の心を知るには、法華経を読めばよい。過去を知りたければ、法華経を読めばよい。未来を知りたければ、法華経を読めばよい。このようになります。法華経への絶対的な信頼感があります。また、絶対的な信仰が見て取れます。我々法華経信仰者は、ここまで法華経を信仰しているでしょうか。上っ面の信仰になっていないか、この御文を拝しながら我が身を省みたいですね。

法華経を読む際、人の心を浮かべる明鏡、神鏡であることを念頭に置きながら読み解いていくことです。また、過去、未来を見通すのが法華経であるとの観点から、深く読んでいくことが求められます。法華経の文字を読みながら、その行間をも読み解き、また、眼光紙背に徹すほどの読み込みが必要です。そうしませんと、心、過去、未来は見えてこないでしょう。とことんまで法華経を読んでいくという姿勢が我々の信仰において極めて重要ですね。

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2022年01月11日

仏法は、経済学の役割をも果たしていたのか

しかるに、日蓮、このことを疑いしゆえに、幼少の比より随分に顕密二道ならびに諸宗の一切経を、あるいは人にならい、あるいは我と開見し、勘え見て候えば、故の候いけるぞ。我が面を見ることは明鏡によるべし、国土の盛衰を計ることは仏鏡にはすぐべからず。
『日蓮大聖人御書全集 新版』678頁(神国王御書)

「このこと」とは、安徳天皇が「海中に崩じ給いき」、「海中のいろくずの食となり給う」たこと、つまり、不遇の死を遂げたこと。後鳥羽上皇が隠岐に、土御門上皇が土佐、阿波に、順徳上皇が佐渡に配流になったこと、つまり、承久の乱のことですね。なぜ、国の人王たる人々が、このような目に遭ってしまうのか。なぜ、天の加護がないのか。このことを日蓮は疑い、幼少の頃から仏教研鑽に励みます。

今では、日蓮は大きな名前であり、偉人であり、宗祖と仰ぐ宗門や教団からすると大聖人であり、ある意味、神、仏、スーパーマンのような扱いですから、生まれた時からスーパースターという感覚がありますが、当然、日蓮にしても幼少の頃があり、その時は、才能はあるにしても、一少年に過ぎません。顕教、密教、諸宗の一切経を人から習うのですね。

もちろん、才能のある人物であったでしょうから、自分自身で経典を読みながら、自ら仏法の法門を開き、明らかに見ることができたでしょうし、また、そうであったと上記の御文に記していますね。人から習うけれども、結局は、自分自身で経典を読み解いていくというところに、やはり、日蓮の天才的気質が窺われます。宗祖たるゆえんといえましょうか。

自分の顔をみるには、よく映る鏡が必要であるように、国土の盛衰を計るには仏教の経典という鏡が必要といいます。国土の盛衰を計るというわけですから、今で言うと、経済学といえましょうか。仏法が経済学の役割をも果たしているようですね。
法華経も、
諸の説く所の法は、其の義趣に随って、皆な実相と相違背せじ。若し、俗間の経書、治世の語言、資生の業等を説かんも、皆な正法に順ぜん。
法師功徳品第十九

と言っているぐらいであり、まさに、資生の業とは、経済学ともいえましょう。仏の説法には、経済学的側面も含まれており、それは正法に順じているというのですね。

実際、経済学を学ぼうとしますと、数学の素養も必要ですし、ミクロ経済学、マクロ経済学、計量経済学等々、幅広い分野があり、数学、基礎的な経済学の心得がない私のような人間が入り込む余地はありませんが、仏教の側面から経済学的視点を得ることは、それなりに面白いのではないかと思われます。

もちろん、仏教と経済学とは、全く違う分野ですが、国土の盛衰を計ることに経典がこの上なく重要という日蓮の言葉は、興味深く感じられます。
仁王経・金光明最勝王経・守護経・涅槃経・法華経等の諸大乗経を開き見奉り候に、仏法に付きて国も盛え人の寿も長く、また仏法に付いて国もほろび人の寿も短かるべしとみえて候。
『日蓮大聖人御書全集 新版』678頁(神国王御書)

法華経をはじめとする諸大乗経を見ると、仏法に基づくならば、国は栄え、人の寿命も伸び、また、国が滅び、人の寿命が短くなることもあるといいます。仏法の信仰をしておればそれでよいという単純なものではないようです。正しく、仏法を信仰しなければなりません。これは、経済学も同様でしょう。正しく、経済学を用いないと国は滅び、人の生活は疲弊し、寿命が短くなります。

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2022年01月06日

『摩訶止観』に『論語』の引用あり

『摩訶止観』は、智(天台大師)が講説したものを弟子の灌頂(章安大師)が筆録した書物です。全部で十巻となっており、それぞれの巻に、上、下があります。摩訶止観巻第一(の上)には、『摩訶止観』の成立意義についての説明があります。
玄奥なことわりを示す本書のような書物は、そのよって来たる根源がどこにあるのか、よく知らなければいけない。『大智度論』には、「釈尊の修行は他の人から教わったというようなものではない」とあり、『太子瑞応本起経』には、「釈尊は定光仏から受記を与えられた」とある。『論語』には、「生まれながらにして知る者は最もすぐれ、学んで知る者はそれに次ぐ」とある。実に本書の仏法の世界は広大で不可思議である。生まれながらのめぐまれた資質のままにさとった者の説というべきであろうか。師に従って学び師の境涯を超えた者の説というべきであろうか。
池田魯参『詳解 摩訶止観 人巻 現代語訳篇』大蔵出版 14頁

玄奥なことわりを示す本書と言っているぐらいですから、仏法の奥義が展開されるわけですが、『大智度論』や『太子瑞応本起経』の引用の後に、『論語』が引用されます。仏教の中にいきなり儒教が入ってきており、ちょっと驚きですね。この辺が中国仏教を感じさせます。

『論語』の引用文のとおり、智は、元々、優秀で才能のある人であったでしょうし、また、師の慧思(南岳大師)に学び、その上で師を超えていった人でもあったのでしょう。

仏教史上、名を残している僧侶は、元々、天才気質であり、その上で、努力家であり、師から、経典から、律から、論から十二分に仏教を学び取っています。凡人の手の届かない人々といってよいでしょう。しかし、これらの名僧は、我々凡夫に対し、成仏への道を指し示してくれています。単に優秀というに留まらず、非常に慈悲深い、心温まる人なのですね。

もちろん、その法門は、簡単に理解できるものではありませんが、現代は、書籍も揃っており、段階を踏んでいけば少しずつではあっても理解できます。あとは、我々が努力、精進して名僧の著作を読み進めていくだけですね。

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2022年01月05日

奪命者、奪功徳者に気を付けましょう

今、真言をもって日本の仏を供養すれば、鬼入って人の命をうばう。鬼をば奪命者という。魔入って功徳をうばう。魔をば奪功徳者という。鬼をあがむるゆえに、今生には国をほろぼす。魔をたっとむゆえに、後生には無間獄に堕つ。
『日蓮大聖人御書全集 新版』664頁(木絵二像開眼之事)

鬼とはどのような存在であるのか。日蓮によると、命を奪う者、つまり、「奪命者」です。

また、魔とはどのような存在であるのか。日蓮によると、功徳を奪う者、つまり、「奪功徳者」です。

命とは、すなわち、時間と考えますと、人の時間を食い尽くす人間は奪命者ですね。身の回りにたくさんいるのではないでしょうか。現在はそうでもありませんが、以前は奪命者に囲まれ自分の時間がなくなっていたものです。結局、何らの精進もできず、大したことのない人間のまま時間を過ごしただけとなりました。このことを反省した後は、奪命者を寄せ付けず、自分の時間を確保し、然るべき精進を行いますと、それなりではありますが、以前より境涯が高くなります。

人には、それぞれ功徳があるものですが、その功徳を奪い取る盗人がいるのですね。奪功徳者のことです。人の功徳を奪うとは、とんでもない人間ですが、これもまた、うようよしているのですね。以前の私は、無防備でありましたから、功徳を持って行かれっぱなしでありました。これも反省した後、鉄壁の防御とまではいかなくとも、それなりに防御を施しますと、奪功徳者は近寄れなくなります。

人にとって、一番重要なのは、命(生命、時間)といえましょう。まだ、その次に重要なのは、功徳(良質な人間関係、良質な智慧・知識、良質な富など)といえましょう。命、功徳は、守り抜くべきものです。奪命者、奪功徳者どもなど蹴散らしながら、人生を歩むことですね。

油断していますと、奪命者、奪功徳者が近付いてきます。常に心して生活することにより、未然に奪命者、奪功徳者からの被害を食い止めることですね。被害を受けると、日蓮によるならば、国を滅ぼされ、死後、無間地獄に堕ちるというのですから、尋常ではないことになります。単なる盗人を超え、根本的な盗人が奪命者、奪功徳者です。我々としては、法華経の信仰、日蓮仏法の信仰により、この奪命者、奪功徳者を排除し、時間を確保し、良質な人間関係、智慧、知識、富を築いていきたいですね。

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2022年01月04日

日蓮仏法の厳しさ

我が弟子等の中にも信心薄淡き者は、臨終の時、阿鼻獄の相を現ずべし。その時、我を恨むべからず等云々。
『日蓮大聖人御書全集 新版』640頁(顕立正意抄)

日蓮仏法を信仰するといっても、その信仰が薄いと成仏できないどころか、阿鼻地獄、無間地獄に陥ると日蓮は指摘します。そして、我を恨むなと付け加えます。

なかなか手厳しい言葉です。

「顕立正意抄」は、立正安国の意を顕わすとの題号のとおり、冒頭において、日蓮自ら、立正安国論の要約をしています。「他国侵逼の難」、「自界叛逆の難」が来ると預言していたではないかというのですね。

文永11年(1274年)10月、蒙古が襲来します(文永の役)。その直後ともいってよい同年12月15日、日蓮は、「顕立正意抄」を執筆します。日蓮の筆が厳しく、激しいのは、日本国が騒然となった時代の空気を感じてのことと思われます。日本にとって、有史以来、初めての他国侵逼ですから、尋常でない緊迫感があったでしょう。他国侵逼を預言し、それが的中したことに、日蓮自身、相当な興奮状態にあったのではと推察されます。そうでなかったら、上記の文章は出てこないですね。平時に上記の文章が出てくると、こちらとしてはびっくりしてしましますが、日本の歴史において、有事中の有事のさなかにおいての筆ですから、そのことを念頭に読むと、このような表現も納得できます。

日蓮仏法は、このような激動の時代に育まれた仏法であり、日蓮自身、苦難の連続の中で自らの仏法を紡ぎ上げてきていますから、厳しい側面が強いのは当然のことでしょう。仏教といえば、穏やかな感じを受ける場合もありますが、そのような側面もあれば、日蓮仏法のような厳しい側面もあることを認識しておく必要があるでしょう。

ある意味、現代の我々にとって、この世の中は穏やかな側面もありながら、厳しい側面もあります。厳しい世の中を処していくときに厳しき法門としての日蓮仏法を信仰する意味は大きいように思われます。

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2022年01月03日

二乗作仏の本当の意味

前四味の諸経にては、「菩薩・凡夫は仏になるべし、二乗は永く仏になるべからず」等云々。しかるを、かしこげなる菩薩も、はかなげなる六凡も、共に思えり。「我ら仏になるべし。二乗は仏にならざれば、かしこくして彼の道には入らざりける」と思う。二乗はなげきをいだき、「この道には入るまじかりしものを」と恐れかなしみしが、今、法華経にして二乗を仏になし給える時、二乗仏になるのみならず、かの九界の成仏をもときあらわし給えり。諸の菩薩、この法門を聞いて思わく「我らが思いははかなかりけり。爾前の経々にして二乗仏にならずば、我らもなるまじかりける者なり。二乗を永不成仏と説き給うは、二乗一人ばかりなげくべきにあらざりけり。我らも同じなげきにてありけり」と心うるなり。
『日蓮大聖人御書全集 新版』632頁(小乗大乗分別抄)

爾前経においては、二乗は仏になれないとされています。よって、二乗でない菩薩や凡夫は仏になれると考えられます。このことから、賢明な菩薩、大したことがない凡夫は、「我々は仏になれる。二乗は仏になれない。二乗の道に行かなくてよかった」と思い、二乗は、嘆きながら「二乗の道に入るべきではなかった」と悲しみます。

しかし、法華経においては、二乗作仏ですから、二乗は成仏できます。二乗が成仏できて良かったね、で終わらず、二乗を含めた九界の衆生が成仏できることを説きあらわすのですね。これはどういうことでしょうか。二乗が成仏できないというのは、二乗だけが成仏できないのではなく、菩薩、凡夫も成仏できないことをあらわしているのですね。それ故、二乗作仏が説かれると同時に、菩薩、凡夫の成仏も可能となるわけです。

そのため、菩薩は、二乗作仏という法華経の法門を聞いて「我々の思いははかないものであった。爾前経で二乗が成仏できないのならば、我々も成仏できない者ということである。二乗が永く成仏できないと説かれるのは、二乗だけが嘆くのではなく、我々も同じ嘆きにあるということである」と心得るのですね。

つまり、二乗作仏は、二乗が成仏できるということだけをあらわしているのではなく、菩薩、凡夫を含めた九界の衆生すべての成仏をあらわした法門ということです。仏教は、信仰ある衆生を成仏させるためにあるわけですから、一部分の衆生は成仏できないというのはおかしな話です。一部分の衆生が成仏できないというのは、すべての衆生が成仏できないことをあらわしているのですね。

二乗作仏とは、我々が成仏できることをあらわしている法門ですから、私は二乗でないから関係ないという態度では、二乗作仏が分かっていないことになります。二乗すなわち我々であると捉え、その上で、作仏すると信仰していくのが法華経信仰者のあり方ですね。

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2022年01月02日

ゲーテに学ぶ人生の処し方

処世のおきて

気もちよい生活を作ろうと思ったら、
済んだことをくよくよせぬこと、
めったに腹を立てぬこと、
いつも現在を楽しむこと、
とりわけ、人を憎まぬこと、
未来を神にまかせること。

(『ゲーテ詩集』高橋健二訳 新潮文庫)

ゲーテは、「済んだことをくよくよせぬこと」と言います。しかし、凡夫は、過去のことをくよくよ悩みます。ああすればよかった、こうすればよかった等々、後悔の連続です。くよくよ、後悔を重ねているうちに人生が終わってしまうといっていいほどです。

しかし、同じ人生を歩むにしても、くよくよ、後悔では芸がなさ過ぎます。やはり、ゲーテが言うように、済んだことをくよくよせず、気にしないことですね。もちろん、反省すべき点は反省するにしても、いつまでも反省では前に進みません。ある程度のところでけりを付け、次の段階、次のステージに進むことですね。

済んだことをくよくよしないことが困難であろうと、とにかく、くよくよしないと決めることですね。ゲーテの言うとおりにすればよいのです。御託を並べている場合ではありません。とにかく、くよくよしない。これに尽きます。

次に、ゲーテは、「めったに腹を立てぬこと」と言います。腹を立てることは、怒っている状態ですね。「瞋るは地獄」というように、地獄界の境涯、最低の状態ですね。つまらないことでいちいち怒っていては、身が持ちませんし、第一、そのような人は馬鹿にされるだけで終わってしまいます。自分の感情をコントロールできない幼稚な者と看做されます。

ここで注意したいのは、「めったに」と付け加えているところです。絶対に腹を立てるなとは言っていないのですね。然るべきときは瞋るべきであると言っているように思えます。所謂、公憤という公のために瞋るということは重要であり、このような瞋りは必要といえましょう。ただ、このような瞋りを為すべき時は、人生の中で数回程度でしょう。よって、腹を立てないで生きていけばよいのですね。

そして、ゲーテは、「いつも現在を楽しむこと」と言います。将来楽しむのではなく、今、楽しめばよいのですね。先々いいことがあるだろうではなく、今、現在がいいことなのであり、それを楽しむというのが人生を処す要諦といえましょう。これもなかなか困難に思えますが、とにかく、強制的にでも常に現在を楽しむことですね。

さらに、ゲーテは、「とりわけ、人を憎まぬこと」と言います。つい、ひとは、他人を憎んでしまいます。あの人が悪い、この人が悪いとうるさいのですね。確かに、他人が悪いということはあり得ますが、だから何なのかということなのでしょうね。人を憎んでいいことがあるか。ないようですね。いいことがないならば、取り立てて人を憎む必要はないでしょう。別に人を許す必要はありませんが、憎む必要もないですね。

最後に、ゲーテは、「未来を神にまかせること」と言います。我々は、将来のことを心配しすぎているのかもしれません。苦労性、心配性で生きているようです。自分の人生は自分で決めて、その通りに生きたいという願望が肥大化しているともいえましょう。ある意味、病理であり、傲慢ですね。未来はどうなるか分からず、自分でコントロールできるようなものではありません。ここは潔く、神に任せる、仏教的、東洋的に言えば、仏に任せる、天に任せるという感じでしょうか。自分を越えたものに身を委ねるという謙虚さが求められます。どっちにしても、なるようにしかならないわけで、自分の人生だ、といきり立ったところで人間の力などたかがしれています。

ゲーテの「処世のおきて」を見てきましたが、この通りに生きていくと、心地よくなるでしょうね。腹を立てず、人を憎まぬという点は、非常に高い倫理性が見て取れます。倫理的に優れているというのは、やはり、心地よいものです。

過去にくよくよせず、現在を楽しみ、未来を神にまかせるという点は、ストレスフリーであり、まさに、現代に必要とされる処世術といえましょう。

現代人は、この逆の人が多いかもしれません。
済んだことをいつまでもくよくよして、
いつも誰かに腹を立て、
現在を楽しむことができず、
常に人を憎んで、あの人が悪い、この人が悪いと言い、
未来は自分がどうにかできると思いつつ、しかし、どうにもできず、苛立っている。
といった感じでしょうか。気持ちのよい生活ではなく、気持ち悪い生活になっていますね。

やはり、ゲーテの言う通りに生きた方がいいですね。四の五の言わず、「処世のおきて」の通り、自らの人生を処することですね。

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posted by lawful at 06:00| 生き方

2022年01月01日

四聖によって三悪道を活用する

今の世は闘諍堅固・白法隠没なる上、悪国・悪王・悪臣・悪民のみ有って、正法を背いて邪法・邪師を崇重すれば、国土に悪鬼乱れ入って、三災七難盛んに起これり。
『日蓮大聖人御書全集 新版』 600頁(如説修行抄)

鎌倉時代と同様、実際のところ、現在もこのような状態でしょうね。確かに、科学技術の発展により、利便性のある生活とはなっていますが、人間の精神性においては、悪なるものが蠢いています。表面は行儀良くしていますが、一皮むけば、ドロドロしたものが流れ出るのですね。戦争や大量虐殺や非情な差別等々を垣間見ることがありますが、やはり、これらは人間の三悪道(地獄、餓鬼、畜生)の境涯が生み出しているものといってよいでしょう。

我々にもこの三悪道の生命がありますが、これを法華経の信仰によって、四聖(仏、菩薩、縁覚、声聞)という高次の境涯によってコントロールしながら、三悪道そのものが暴走しないようにすることです。また、三悪道を活用するほどの境涯に至るべきですね。

例えば、我々の中にある餓鬼界の境涯、つまり、人のものを盗んでやろうという気持ちを使って、盗みを働く人間の精神状態を見抜き、防犯に役立てるということなどが活用の一事例といえましょう。もちろん、自分は人のものを盗まないのは当然のことですが、そのような気持ち、餓鬼界の境涯が自分の中にあることを利用、活用するほどの境涯、つまり、四聖の境涯を軸に生きていくように信仰することですね。

畜生界でいえば、自らの愚痴の状態を観察し、そこから愚か者の行動様式を見抜き、その愚か者と接しないよう前もって行動することなど、また、自分の地獄界の境涯、所謂、瞋りの状態を分析し、他人を怒らせないよう細心の注意を払うなどということも畜生界、地獄界の境涯を活かしている事例といえましょう。

四聖によって三悪道を転換し、三悪道を単なる三悪道に留めておくのではなく、その三悪道を活用し、善用するという姿勢が法華経信仰者のあり方といってよいでしょう。

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