前四味の諸経にては、「菩薩・凡夫は仏になるべし、二乗は永く仏になるべからず」等云々。しかるを、かしこげなる菩薩も、はかなげなる六凡も、共に思えり。「我ら仏になるべし。二乗は仏にならざれば、かしこくして彼の道には入らざりける」と思う。二乗はなげきをいだき、「この道には入るまじかりしものを」と恐れかなしみしが、今、法華経にして二乗を仏になし給える時、二乗仏になるのみならず、かの九界の成仏をもときあらわし給えり。諸の菩薩、この法門を聞いて思わく「我らが思いははかなかりけり。爾前の経々にして二乗仏にならずば、我らもなるまじかりける者なり。二乗を永不成仏と説き給うは、二乗一人ばかりなげくべきにあらざりけり。我らも同じなげきにてありけり」と心うるなり。
『日蓮大聖人御書全集 新版』632頁(小乗大乗分別抄)
爾前経においては、二乗は仏になれないとされています。よって、二乗でない菩薩や凡夫は仏になれると考えられます。このことから、賢明な菩薩、大したことがない凡夫は、「我々は仏になれる。二乗は仏になれない。二乗の道に行かなくてよかった」と思い、二乗は、嘆きながら「二乗の道に入るべきではなかった」と悲しみます。
しかし、法華経においては、二乗作仏ですから、二乗は成仏できます。二乗が成仏できて良かったね、で終わらず、二乗を含めた九界の衆生が成仏できることを説きあらわすのですね。これはどういうことでしょうか。二乗が成仏できないというのは、二乗だけが成仏できないのではなく、菩薩、凡夫も成仏できないことをあらわしているのですね。それ故、二乗作仏が説かれると同時に、菩薩、凡夫の成仏も可能となるわけです。
そのため、菩薩は、二乗作仏という法華経の法門を聞いて「我々の思いははかないものであった。爾前経で二乗が成仏できないのならば、我々も成仏できない者ということである。二乗が永く成仏できないと説かれるのは、二乗だけが嘆くのではなく、我々も同じ嘆きにあるということである」と心得るのですね。
つまり、二乗作仏は、二乗が成仏できるということだけをあらわしているのではなく、菩薩、凡夫を含めた九界の衆生すべての成仏をあらわした法門ということです。仏教は、信仰ある衆生を成仏させるためにあるわけですから、一部分の衆生は成仏できないというのはおかしな話です。一部分の衆生が成仏できないというのは、すべての衆生が成仏できないことをあらわしているのですね。
二乗作仏とは、我々が成仏できることをあらわしている法門ですから、私は二乗でないから関係ないという態度では、二乗作仏が分かっていないことになります。二乗すなわち我々であると捉え、その上で、作仏すると信仰していくのが法華経信仰者のあり方ですね。