処世のおきて
気もちよい生活を作ろうと思ったら、
済んだことをくよくよせぬこと、
めったに腹を立てぬこと、
いつも現在を楽しむこと、
とりわけ、人を憎まぬこと、
未来を神にまかせること。
(『ゲーテ詩集』高橋健二訳 新潮文庫)
ゲーテは、「済んだことをくよくよせぬこと」と言います。しかし、凡夫は、過去のことをくよくよ悩みます。ああすればよかった、こうすればよかった等々、後悔の連続です。くよくよ、後悔を重ねているうちに人生が終わってしまうといっていいほどです。
しかし、同じ人生を歩むにしても、くよくよ、後悔では芸がなさ過ぎます。やはり、ゲーテが言うように、済んだことをくよくよせず、気にしないことですね。もちろん、反省すべき点は反省するにしても、いつまでも反省では前に進みません。ある程度のところでけりを付け、次の段階、次のステージに進むことですね。
済んだことをくよくよしないことが困難であろうと、とにかく、くよくよしないと決めることですね。ゲーテの言うとおりにすればよいのです。御託を並べている場合ではありません。とにかく、くよくよしない。これに尽きます。
次に、ゲーテは、「めったに腹を立てぬこと」と言います。腹を立てることは、怒っている状態ですね。「瞋るは地獄」というように、地獄界の境涯、最低の状態ですね。つまらないことでいちいち怒っていては、身が持ちませんし、第一、そのような人は馬鹿にされるだけで終わってしまいます。自分の感情をコントロールできない幼稚な者と看做されます。
ここで注意したいのは、「めったに」と付け加えているところです。絶対に腹を立てるなとは言っていないのですね。然るべきときは瞋るべきであると言っているように思えます。所謂、公憤という公のために瞋るということは重要であり、このような瞋りは必要といえましょう。ただ、このような瞋りを為すべき時は、人生の中で数回程度でしょう。よって、腹を立てないで生きていけばよいのですね。
そして、ゲーテは、「いつも現在を楽しむこと」と言います。将来楽しむのではなく、今、楽しめばよいのですね。先々いいことがあるだろうではなく、今、現在がいいことなのであり、それを楽しむというのが人生を処す要諦といえましょう。これもなかなか困難に思えますが、とにかく、強制的にでも常に現在を楽しむことですね。
さらに、ゲーテは、「とりわけ、人を憎まぬこと」と言います。つい、ひとは、他人を憎んでしまいます。あの人が悪い、この人が悪いとうるさいのですね。確かに、他人が悪いということはあり得ますが、だから何なのかということなのでしょうね。人を憎んでいいことがあるか。ないようですね。いいことがないならば、取り立てて人を憎む必要はないでしょう。別に人を許す必要はありませんが、憎む必要もないですね。
最後に、ゲーテは、「未来を神にまかせること」と言います。我々は、将来のことを心配しすぎているのかもしれません。苦労性、心配性で生きているようです。自分の人生は自分で決めて、その通りに生きたいという願望が肥大化しているともいえましょう。ある意味、病理であり、傲慢ですね。未来はどうなるか分からず、自分でコントロールできるようなものではありません。ここは潔く、神に任せる、仏教的、東洋的に言えば、仏に任せる、天に任せるという感じでしょうか。自分を越えたものに身を委ねるという謙虚さが求められます。どっちにしても、なるようにしかならないわけで、自分の人生だ、といきり立ったところで人間の力などたかがしれています。
ゲーテの「処世のおきて」を見てきましたが、この通りに生きていくと、心地よくなるでしょうね。腹を立てず、人を憎まぬという点は、非常に高い倫理性が見て取れます。倫理的に優れているというのは、やはり、心地よいものです。
過去にくよくよせず、現在を楽しみ、未来を神にまかせるという点は、ストレスフリーであり、まさに、現代に必要とされる処世術といえましょう。
現代人は、この逆の人が多いかもしれません。
済んだことをいつまでもくよくよして、
いつも誰かに腹を立て、
現在を楽しむことができず、
常に人を憎んで、あの人が悪い、この人が悪いと言い、
未来は自分がどうにかできると思いつつ、しかし、どうにもできず、苛立っている。
といった感じでしょうか。気持ちのよい生活ではなく、気持ち悪い生活になっていますね。
やはり、ゲーテの言う通りに生きた方がいいですね。四の五の言わず、「処世のおきて」の通り、自らの人生を処することですね。