我が弟子等の中にも信心薄淡き者は、臨終の時、阿鼻獄の相を現ずべし。その時、我を恨むべからず等云々。
『日蓮大聖人御書全集 新版』640頁(顕立正意抄)
日蓮仏法を信仰するといっても、その信仰が薄いと成仏できないどころか、阿鼻地獄、無間地獄に陥ると日蓮は指摘します。そして、我を恨むなと付け加えます。
なかなか手厳しい言葉です。
「顕立正意抄」は、立正安国の意を顕わすとの題号のとおり、冒頭において、日蓮自ら、立正安国論の要約をしています。「他国侵逼の難」、「自界叛逆の難」が来ると預言していたではないかというのですね。
文永11年(1274年)10月、蒙古が襲来します(文永の役)。その直後ともいってよい同年12月15日、日蓮は、「顕立正意抄」を執筆します。日蓮の筆が厳しく、激しいのは、日本国が騒然となった時代の空気を感じてのことと思われます。日本にとって、有史以来、初めての他国侵逼ですから、尋常でない緊迫感があったでしょう。他国侵逼を預言し、それが的中したことに、日蓮自身、相当な興奮状態にあったのではと推察されます。そうでなかったら、上記の文章は出てこないですね。平時に上記の文章が出てくると、こちらとしてはびっくりしてしましますが、日本の歴史において、有事中の有事のさなかにおいての筆ですから、そのことを念頭に読むと、このような表現も納得できます。
日蓮仏法は、このような激動の時代に育まれた仏法であり、日蓮自身、苦難の連続の中で自らの仏法を紡ぎ上げてきていますから、厳しい側面が強いのは当然のことでしょう。仏教といえば、穏やかな感じを受ける場合もありますが、そのような側面もあれば、日蓮仏法のような厳しい側面もあることを認識しておく必要があるでしょう。
ある意味、現代の我々にとって、この世の中は穏やかな側面もありながら、厳しい側面もあります。厳しい世の中を処していくときに厳しき法門としての日蓮仏法を信仰する意味は大きいように思われます。