しかるに、日蓮、このことを疑いしゆえに、幼少の比より随分に顕密二道ならびに諸宗の一切経を、あるいは人にならい、あるいは我と開見し、勘え見て候えば、故の候いけるぞ。我が面を見ることは明鏡によるべし、国土の盛衰を計ることは仏鏡にはすぐべからず。
『日蓮大聖人御書全集 新版』678頁(神国王御書)
「このこと」とは、安徳天皇が「海中に崩じ給いき」、「海中のいろくずの食となり給う」たこと、つまり、不遇の死を遂げたこと。後鳥羽上皇が隠岐に、土御門上皇が土佐、阿波に、順徳上皇が佐渡に配流になったこと、つまり、承久の乱のことですね。なぜ、国の人王たる人々が、このような目に遭ってしまうのか。なぜ、天の加護がないのか。このことを日蓮は疑い、幼少の頃から仏教研鑽に励みます。
今では、日蓮は大きな名前であり、偉人であり、宗祖と仰ぐ宗門や教団からすると大聖人であり、ある意味、神、仏、スーパーマンのような扱いですから、生まれた時からスーパースターという感覚がありますが、当然、日蓮にしても幼少の頃があり、その時は、才能はあるにしても、一少年に過ぎません。顕教、密教、諸宗の一切経を人から習うのですね。
もちろん、才能のある人物であったでしょうから、自分自身で経典を読みながら、自ら仏法の法門を開き、明らかに見ることができたでしょうし、また、そうであったと上記の御文に記していますね。人から習うけれども、結局は、自分自身で経典を読み解いていくというところに、やはり、日蓮の天才的気質が窺われます。宗祖たるゆえんといえましょうか。
自分の顔をみるには、よく映る鏡が必要であるように、国土の盛衰を計るには仏教の経典という鏡が必要といいます。国土の盛衰を計るというわけですから、今で言うと、経済学といえましょうか。仏法が経済学の役割をも果たしているようですね。
法華経も、
諸の説く所の法は、其の義趣に随って、皆な実相と相違背せじ。若し、俗間の経書、治世の語言、資生の業等を説かんも、皆な正法に順ぜん。
法師功徳品第十九
と言っているぐらいであり、まさに、資生の業とは、経済学ともいえましょう。仏の説法には、経済学的側面も含まれており、それは正法に順じているというのですね。
実際、経済学を学ぼうとしますと、数学の素養も必要ですし、ミクロ経済学、マクロ経済学、計量経済学等々、幅広い分野があり、数学、基礎的な経済学の心得がない私のような人間が入り込む余地はありませんが、仏教の側面から経済学的視点を得ることは、それなりに面白いのではないかと思われます。
もちろん、仏教と経済学とは、全く違う分野ですが、国土の盛衰を計ることに経典がこの上なく重要という日蓮の言葉は、興味深く感じられます。
仁王経・金光明最勝王経・守護経・涅槃経・法華経等の諸大乗経を開き見奉り候に、仏法に付きて国も盛え人の寿も長く、また仏法に付いて国もほろび人の寿も短かるべしとみえて候。
『日蓮大聖人御書全集 新版』678頁(神国王御書)
法華経をはじめとする諸大乗経を見ると、仏法に基づくならば、国は栄え、人の寿命も伸び、また、国が滅び、人の寿命が短くなることもあるといいます。仏法の信仰をしておればそれでよいという単純なものではないようです。正しく、仏法を信仰しなければなりません。これは、経済学も同様でしょう。正しく、経済学を用いないと国は滅び、人の生活は疲弊し、寿命が短くなります。