一代聖教の中に、法華経は明鏡の中の神鏡なり。銅鏡等は、人の形をばうかぶれども、いまだ心をばうかべず。法華経は、人の形を浮かぶるのみならず、心をもうかべ、心を浮かぶるのみならず、先業をも未来をも鑑み給うことくもりなし。
『日蓮大聖人御書全集 新版』679頁(神国王御書)
日蓮は、法華経を第一として法門を立てていますが、その法華経をどう捉えているかがよく分かる御文です。「明鏡の中の神鏡なり」とは、最第一をよくあらわしていますね。
銅鏡は、人の形を浮かべるけれども、人の心を浮かべることはできないといいます。しかし、法華経は、人の形を浮かべるのは当然として、人の心をも浮かべることができるといいます。それだけでなく、先業という過去も見ることができ、未来も見ることができるといいます。それも曇りなしですから、明瞭に見えるというわけですね。
人の心を知るには、法華経を読めばよい。過去を知りたければ、法華経を読めばよい。未来を知りたければ、法華経を読めばよい。このようになります。法華経への絶対的な信頼感があります。また、絶対的な信仰が見て取れます。我々法華経信仰者は、ここまで法華経を信仰しているでしょうか。上っ面の信仰になっていないか、この御文を拝しながら我が身を省みたいですね。
法華経を読む際、人の心を浮かべる明鏡、神鏡であることを念頭に置きながら読み解いていくことです。また、過去、未来を見通すのが法華経であるとの観点から、深く読んでいくことが求められます。法華経の文字を読みながら、その行間をも読み解き、また、眼光紙背に徹すほどの読み込みが必要です。そうしませんと、心、過去、未来は見えてこないでしょう。とことんまで法華経を読んでいくという姿勢が我々の信仰において極めて重要ですね。