妙覚の釈尊は我等が血肉なり。因果の功徳は骨髄に非ずや。
『観心本尊抄 訳注』小松邦彰訳 山喜房佛書林 39頁
最高の悟りを得た釈尊は、我々の血肉であり、因果の功徳も我々の骨髄であるという御文です。
仏の境涯の釈尊が我々の中にあるとは、通常、想像しがたいですね。仏なるものは、我々の外にあり、崇める対象と考えてしまいがちです。
しかし、日蓮によると、我々の血肉の中にあるという。また、釈尊の因果の功徳も我々の骨髄に貫いているというのですね。仏は、我々の中にあるということです。
そもそも、仏教は、成仏するためにあるといえるわけですが、成仏とは、その字のとおり、仏に成ることですから、自分自身が仏になるということです。自分の中に仏がないならば、仏に成ることなどできないわけで、この観点からすると、日蓮の指摘は、至極当然ともいえます。
そうはいっても、一信仰者として、仏教に接する際、なかなか、自分の中に仏があるとは、それも釈尊クラスの五十二位最高の妙覚が自分自身の中にあるとは思えないものです。
日蓮は、「観心本尊抄」において、このような自分の中に仏などあるわけがないという人物を登場させ、それに対し、自分の中に仏があることを説明していき、その上で、上記の御文が出てきます。
自分の中にという点が重要ですね。自分の外では、意味がないわけです。これは、読書についても同様です。読書の本質は、読んだ本を血肉化、骨髄化することです。たくさんの本を本棚に飾ることではありません。
知識に対するコンプレックスが強い場合、本が異常に増えていきます。また、本棚の増強も行い、また、本が増えていきます。その割には、読書をしないという特徴があります。本は増えるが、読書量は増えないという珍妙な結果が生じます。
根本が知識コンプレックスであり、純粋に本を読みたいという志がないからなのですね。単なるコンプレックスでは、あれもこれもと欲張るばかりで焦点が定まらないのですね。よって、本だけ増えて、読書しないものですから肝心の知識が増えないという悪循環になります。
この場合、知識コンプレックスがあると認め、その上で、そのようなコンプレックスなど必要ないことを認識し、自分に必要な本を選択し、その本を血肉化、骨髄化するまで読むことです。
しかし、読んだ本を血肉化、骨髄化するまで読むことは、なかなかありません。1回読んでおしまいということが多いでしょう。もちろん、1回読むだけでよい本がほとんどですから、別に問題ないように思いますが、中には何度も読むべき本もあり、そのような本については、血肉化、骨髄化するまで読み込む必要があります。聖典類、古典類、名作類などが血肉化、骨髄化の対象となる本といえましょう。
血肉化、骨髄化した本があればあるほど、自分自身の境涯は上がっていきます。自分の中に存在するわけですから、なくならないのですね。誰にも奪われることのない貴重な財産といえるでしょう。このような読書を心掛けることが大切です。