日蓮幼少の時、習いそこないの天台宗・真言宗に教えられて、この義を存して数十年の間ありしなり。これ存外の僻案なり。
『日蓮大聖人御書全集 新版』804頁(題目弥陀名号勝劣事)
「この義」とは、南無妙法蓮華経も南無阿弥陀仏も同じであるという考え方のことです。同じ南無であっても、妙法蓮華経と阿弥陀仏とでは違いがあるわけですが、仏法であれば何でもよいという考え方があったようです。
日蓮ほどの人であっても、幼少の頃は何も分かりませんから、習いそこないの天台宗・真言宗の人々の言っていることを、そのまま正しいのだと思っていたようであり、その期間も数十年であったようです。
しかし、日蓮は、比叡山で仏法研鑽に励むうちに法華経最第一との確信を得るようになります。南無妙法蓮華経も南無阿弥陀仏も同じという考え方が間違っていることに気付くのですね。
このようなことは、現代にもあり得ますね。以前、新宗教団体は、法華経、御書の団体であると思っており、ある意味、新宗教団体イコール法華経であり、御書であると思っておりました。
しかし、新宗教団体での活動を続けていきますと、肝心なところや最終的なところで新宗教団体の言っていることが法華経、御書とかけ離れていることに気付くのですね。
新宗教団体は、表面的には、法華経が大事、御書が大事とは言うのですが、何か嘘っぽいのですね。実のところ、法華経、御書などどうでもよく、新宗教団体が利益になることに熱心であり、会員のことなど、どうでもいいという面が見えてくるのですね。
そうしますと、新宗教団体と法華経、御書とは、全く違うということに気付きます。法華経研鑽、御書研鑽をしたい場合、新宗教団体が発行する法華経と御書とは購入しますが、それ以外の新宗教団体の活動なるものは、研鑽の邪魔になることはあっても、役立つことはないのですね。
結局、新宗教団体とは距離を置くようになり、法華経、御書との距離が近くなったというわけです。新宗教団体は、正しく活用すべきであり、利用されてはなりません。正しい活用法とは、出版物としての法華経、御書を購入するに留めることであり、活動なるものは一切しないということですね。
研鑽は、自分ですればよいですね。その際、『御書辞典』や『日蓮辞典』などを参照すればよいでしょう。