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2015年10月07日

何を以て勤行、唱題を行うか

願わくば一切の道俗一時の世事を止めて永劫の善苗を種えよ
守護国家論 37頁

信仰をする上で、日常生活を大切にすることは当然のことですが、日常生活に流されないためにも、一時は、宗教的な時間を持つことが必要です。

日蓮は、「永劫の善苗を種えよ」と言います。

永遠に続く、善なる苗を植えるとは、具体的にどのようなことなのでしょうか。

端的に言うと、勤行、唱題というのがそれにあたるでしょう。

法華経の方便品、寿量品を読誦し、南無妙法蓮華経との題目を唱えるという基礎的な仏道修行を行うことです。

この勤行、唱題は、極めて宗教的な事柄であり、世事と対極にあるものといえます。

世事を一時止めて、勤行、唱題をすることにより、永遠に続く善なるものを自分の中に植えていくということです。

世事だけでなく、宗教的な行為を組み込むことにより、世事に潤いを与えるのですね。ここに勤行、唱題の意義が見出せます。

単なる習慣としての勤行、唱題には、さほど、意味があるとは思えませんが、日蓮が守護国家論で言う永劫の善苗を植えるための勤行、唱題であれば、大きな意味があります。
posted by lawful at 06:00| 御書

2015年10月06日

南無妙法蓮華経の位置付け

南無妙法蓮華経と申すは一代の肝心たるのみならず法華経の心なり体なり所詮なり
曾谷入道殿御返事 1058頁

日蓮仏法においては、南無妙法蓮華経との題目を唱えます。

根本の法が南無妙法蓮華経なのですが、どのような位置付けなのでしょうか。

日蓮によると、一代聖教という全経典の肝心というのですね。中心ということですね。

そして、法華経の心であり、体であり、所詮とまで言い切ります。

中心の中の中心、そして、その中心というふうに、とことんまで根本たる法であると強調します。

一代聖教は莫大な量があり、法華経にしても、さほど分量が多くないとはいえ、それなりの分量があります。

仏教信仰、法華経信仰をするといっても、そう簡単ではないのですね。

しかし、日蓮は、一代聖教、法華経の骨髄として、南無妙法蓮華経を立てました。

南無妙法蓮華経と唱えるのにかかる時間は、1.5秒から2秒です。

数秒にて仏教信仰ができるわけですから、相当、斬新ですね。

ただ、南無妙法蓮華経と唱えることができるかというと、ほとんどの人にとって、唱えることは困難でしょうね。

南無妙法蓮華経との題目だけを取り出されても、一代聖教、法華経を凝縮した法ということが分からない限り、単なる呪文と思ってしまいます。

やはり、御書と法華経との研鑽をしておきませんと、南無妙法蓮華経の位置付けが分からず、唱える気にはならないでしょう。

結局は、御書、法華経の研鑽が必要ということです。
posted by lawful at 06:00| 御書

2015年10月05日

日蓮は、なかなか口が悪いこと

日蓮は真言・禅宗・浄土等の元祖を三虫となづく
撰時抄 286頁

日蓮は、法華経を第一の経典と定め、南無妙法蓮華経の題目を唱える宗教を創出しました。

その点からすると、真言宗、禅宗、浄土宗は、法華経を第一としない宗派であり、問題があると厳しく指摘するのですね。

一代聖教及び天台、妙楽等々の解釈を通しながら、理詰めで、当初は、禅宗と浄土宗とを批判します。

その後、真言宗をも厳しく批判するに至ります。

日蓮は、この三宗に対して、「三虫」との評価を下します。虫けら扱いなのですね。

口が悪いですね。

まあ、佐渡流罪等々に遭った身からすると、「三虫」以下と言いたいぐらいだったのかもしれません。

いずれにしても、言いたい放題です。

道理で、日蓮には敵が多いわけです。

逆に言うと、はっきり立場を明確にしていますので、法華経信仰をする身からすると、真言宗、禅宗、浄土宗になびく気持ちは一切持ち得ないですね。

法華経一本で行こうとの気持ちが定まるというものです。

この言葉から分かるように日蓮は強烈な人ですね。
posted by lawful at 06:00| 御書

2015年10月04日

「大恩」を報じるために御書と法華経とを極めること

仏教をならはん者父母・師匠・国恩をわするべしや、此の大恩をほうぜんには必ず仏法をならひきはめ智者とならで叶うべきか
報恩抄 293頁

仏教信仰をする上で、父と母、そして、師匠ですから、さまざまな事柄を教えてくれた人々、また、国恩ですから、ありとあらゆる人々に対する恩を報じることが大切です。

ただ単に恩を報じればよいかというと、そう簡単でもないようです。

「父母・師匠・国恩」の恩は、「大恩」というぐらいですから、相当なものが要求されます。

日蓮の指摘によると、仏法を極めよ、と言うのですね。そして、智者であれ、と言います。

仏法を極める途中で寿命が来てしまうと思いますが、とにかく、極めよ、ということです。

通常であれば、間に合いませんね。八万法蔵をすべて読むことすら無理でしょう。

とすれば、絞りをかけるしかありません。

日蓮仏法を基軸にしているわけですから、御書と法華経とを極めるということになります。

御書と法華経とだけでも、なかなかの分量であり、法門の内容も非常に深い。

しかし、「大恩」を報ずるには、御書と法華経とを極め、智者となることが絶対条件ですから、やるしかないわけですね。

日々、御書を拝し、法華経を読む中で、自身の信仰を透徹させ、「大恩」を報じていきたいものです。
posted by lawful at 06:00| 御書

2015年10月03日

現代においては、在家で信仰することが本来的な姿であること

智者とは世間の法より外に仏法を行ず、世間の治世の法を能く能く心へて候を智者とは申すなり
減劫御書 1466頁

知性のある人、智慧のある人は、どのような人か。

世の中の道理、法律、慣習、伝統、文化等々に基づきながら、自身の仏法信仰を行える人ということですね。

世の中のことを知らずして、実の所、信仰は完遂できないでしょう。

信仰は、あくまで自身の生活基盤の上で展開されるべきものであり、山林に交わるのが信仰ではありません。

その点からすると、在家仏教というのが本来の信仰のあり様と思われますね。

確かに、出家仏教も結構なのですが、現代においては、在家仏教で十分でしょう。

昔であれば、本もなければ、ネットもなく、情報そのものがないわけで、比叡山などの特定の場所に行かない限り、仏教信仰ができなかったという事情があります。

しかし、現代は、本もあり、ネットもあり、情報もあり過ぎるぐらいであり、仏教信仰において困ることはないのですね。

あるとすれば、よく分からない新宗教団体が信仰の邪魔をするというぐらいでしょうか。

いずれにしても、仏教信仰をする上で、出家する必要性がないのですね。

在家で十分であるだけでなく、在家でなければならないとも思います。

日々の生活の中での困難に対して、それを乗り越えるべく、仏教が存在しているのですから、実生活の中で生きていくところでこそ、仏教は輝くというものです。

世の中のことを知悉し、その上で信仰することを日蓮は指摘してくれているわけです。

我々としては、ただただ、実践すればよいということですね。
posted by lawful at 06:00| 御書

2015年10月02日

職場での心得を学ぶ

公場にして理運の法門申し候へばとて雑言・強言・自讃気なる体・人目に見すべからず浅猨しき事なるべし
教行証御書 1283頁

公の場において、法門を申し述べる際、余計なこと、くだらないこと、大きな声を出したり、脅しをかけてみたり、また、ドヤ顔をしてみたり、という浅ましい姿を見せてはいけないということです。

我々にあてはめてみますと、職場などが公の場ですね。

職場においては、どうでもいいことを言わず、偉そうなことを言わず、調子に乗ったことを言わず、浅ましい姿を一切見せないことですね。

しかし、実際は、浅ましい姿をさらしているものです。

注意したいものですね。

職場においては、職場に必要なことのみを言い、為すべきことを為す、という態度が好ましいですね。

所詮、ビジネスなのですから、然るべき儲けがあればよく、余計なことは言わないに限ります。

「雑言・強言・自讃気なる体」をさらす時間があるならば、さっさと、するべき仕事をしておくことですね。
posted by lawful at 06:00| 御書

2015年10月01日

仏陀の金言の趣旨を把握することが大切です

人死して後・色の黒きは地獄の業と定むる事は仏陀の金言ぞかし
報恩抄 316頁

インド、中国、日本においては、人の肌の色は、肌色ですから、黒くなることはよくないことと言われても違和感はありません。

死に化粧においては、白く化粧をされているものです。このことから、黒ではなく白が成仏の相と考えられているわけですね。

ただ、疑問に思ったのは、黒人の場合どうなのか、という点です。

黒人は生きている時から黒いわけで、死後、白くなることもなく、黒いままでしょう。

さて、地獄の業とまで言っていいものなのか。

仏陀の金言の趣旨は、もともとの顔色よりも悪い顔色になった場合、それが地獄の業をあらわしているということでしょう。

ということは、黒色と限定せずに、顔色が悪くなることと考えればよいでしょう。

英語で言えば、black ではなく、pale と表現できましょうか。

英訳を確認してみましょう。

We have the Buddha’s own golden word for it that, if a person’s skin turns black after he dies, it is a sign that he has done something that destined him for hell.
The Writings of Nichiren Daishonin Volume I p.719

ん〜ん。turns black となっていますね。 turns pale とした方がよいと思いますね。

日蓮の原文では、「色の黒きは」となっていますから、black としたのでしょうが、世界に発信する英訳においては、仏陀の金言の趣旨を踏まえて pale と意訳するのが適切でしょう。

表面にあらわれた言葉のままであると、逆に誤解を招く場合があります。

特に翻訳の場合、その懸念がありますが、翻訳でなくとも、日常生活において、その通りの言葉を発して、気まずくなることも多いですね。

正しいということよりも、価値があるということの方が重要でしょう。

正しい正しいといきり立ちながら、無価値な振る舞いをしている人もいます。

我々としては、正しいことは、それはそれで結構だと認識しながらも、価値のあることを重視して生きていきたいものですね。
posted by lawful at 06:00| 御書

2015年09月23日

晩年の姿

有智の明匠とおぼしき人人の臨終の思うやうにならざるは是大謗法の故なり
題目弥陀名号勝劣事 112頁

智慧があり、第一級の人間と思われている人も、いざ、晩年の姿において、ままならない姿をさらすことがあり、それは大謗法のせいだということですね。

手厳しい指摘ですね。

人間、元気なうちは、ごまかしがきくというものです。

しかし、元気がなくなる晩年、ごまかしがきかなくなり、その人の本来の姿が出てきます。

言い換えると、その人が行ってきたことの集大成が晩年にあらわれるということですね。

大謗法があれば、その大謗法に見合った晩年が待ち受けているわけです。自分の思うようにならない晩年となるのですね。

晩年の姿をみれば、その人が分かるといえましょう。

ある意味、若い時(20代、30代)、勢力がある時(40代、50代)、判断能力が優れている時(60代、70代)はいいのですが、それ以降は、若くもなく、勢力も衰え、判断能力も落ちますから、80代以降は、ほとんど能力でどうにかなる年代ではありません。その人そのものが問われる年代なのですね。

その年代において、どうなるか。

思うようにならない晩年なのか、それとも、思うようになる晩年なのか、ここでその人が幸福であるかどうかが分かります。

厳しい現実でしょうが、考えてみれば、当たり前のことともいえます。

ごまかさずに生きていくということが大切ですね。

まともな信仰、価値のある信仰をすることによって、思うようになる晩年を迎えたいものです。

だいぶ先のことですが、今から考えておくことでしょうね。

死ぬ数年前に考えればよいことだ、などと言う人もありますが、それでは間に合わないでしょう。

そもそも、いつ死ぬか分からないのですから、常に考えておくべき事柄ですね。

思うようにならない晩年になってからでは遅いということです。
posted by lawful at 16:54| 御書

聖地巡礼

イスラム教には、メッカへの巡礼があります。

この聖殿への巡礼は、そこに旅する余裕のあるかぎり、人々にとって神への義務である。
『コーラン』世界の名著17 伴康哉訳 中央公論社 103頁(3:97)

巡礼は、神への義務なのですね。

イスラムの信仰をする上で、「余裕のあるかぎり」との留保はあるものの、サウジアラビアのメッカに行かなければならないようです。

所謂、聖地巡礼が必要ということですね。

では、日蓮仏法においてはどうか。

創価学会が日蓮正宗の信徒団体であったころは、静岡県にある総本山の大石寺への登山というものがありました。

その後、創価学会は日蓮正宗から団体ごと破門されましたので、総本山に行くことはなくなりました。

所謂、聖地巡礼ができなくなったのですね。

では、問題があるかというと、そうでもないようです。

法華経修行の者の所住の処を浄土と思う可し何ぞ煩しく他処を求めんや
守護国家論 72頁

そもそも日蓮仏法においては、これといった聖地がないのですね。

今いる場所が大切であり、そこが聖地と言っているわけです。ほかの所を求めるのは煩わしいこととさえ言っています。

確かに、日蓮の生涯を見ても、特定の土地に聖地を設定した形跡はありません。三大秘法禀承事において、

霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か
三大秘法禀承事 1022頁

とは言っていますが、特定の土地への言及はありません。

その代わり、日蓮は、伊豆、佐渡に流罪になっており、過酷な土地との縁があるようです。日蓮にとっては、どこであっても聖地ですから、困ることはなかったのでしょう。

特に佐渡での日々は苦しかったことと思われます。しかし、その佐渡において「開目抄」、「観心本尊抄」等々の重要な書を認めており、「法華経修行の者の所住の処を浄土と思う可し」を実践していたのですね。

晩年、身延に移りますが、ここも決して聖地といえるほどの土地ではありません。波木井実長が自らの領地に迎えたのであって、取り立てていい場所ということはありません。

日蓮にとって、聖地といえるほどの土地には縁がなかったといえますが、日蓮のいるところが聖地であったということでしょう。

我々も同様で、我々のいる場所が聖地なのですね。日蓮仏法の特色は、この点にあるといってよいでしょう。
posted by lawful at 16:09| 御書

大妄語をいくら集めても、所詮、大妄語であること

大妄語を集めて仏と・がうすとも但無間大城なり
報恩抄 311頁

嘘を100回言えば、本当になるとよく言われます。

確かに、愚人に対しては効果覿面でしょうが、賢人に対して効果はないでしょうね。

賢人からすれば、嘘はどこまで行っても嘘ですから、ごまかせないのですね。

それと同じように、大妄語をいくら集めても、大妄語であり、所詮、地獄界の境涯を出ることはありません。

この大妄語を集めて、仏であるぞ、と豪語しても、当然のことながら、仏にはなりません。

先程言ったように、愚人に対しては、ごまかしがきくでしょうが、賢人はごまかされません。

新宗教教団を観察しますと、ここでいう大妄語だらけであったりします。

いい加減なこと、間違ったこと、価値のないこと、意味不明なこと、本人もよく分かっていないこと、他者に害悪をもたらすこと等々、大妄語のてんこ盛りです。

その割には、「仏法です」と言うのですね。どう考えても、大妄語だらけですから「地獄法です」でしょう。

教団はごまかせると思っているのでしょう。実際、ごまかせているという現状があるので、調子に乗っているのでしょうね。

しかし、みんながみんな愚人ではなく、賢人たちは、その教団に愛想を尽かし、相手にしなくなります。

教団としては、こういっては何ですが、愚人が一定数いれば、教団運営ができ、教団の組織維持が図れるので、それでいいのですね。

日蓮の指摘は、当たり前のことを当たり前に言っているだけなのですが、愚人にはこの当たり前が通用しないのですね。洗脳とは、恐ろしいものです。
posted by lawful at 13:37| 御書

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