アフィリエイト広告を利用しています

2015年10月27日

人間は環境によって変わりますが、変わらないものを持つべきです

代の末になり候へば・かんばちえきれい大雨大風ふきかさなり候へば広き心も・せばくなり道心ある人も邪見になるとこそ見へて候へ
兵衛志殿御書 1095頁

心が広く、道を求める人間であったにしても、経済的に困窮すると、心も狭くなり、ものの見方も曲がってくるということです。

人間は、環境によって、たやすく変わってしまうものです。

よって、どのような状態になっても、変わらない軸が必要でしょうね。

古来、その軸となってきたのが宗教といえるでしょうね。

どの宗教であれ、困難を乗り越えるために出てきたものであり、宗教それ自身も困難を乗り越えてきたという歴史があります。

経済的なことも大切ですが、その経済的なことを超えたところに宗教の意義があります。

仏教、キリスト教、イスラム教等々、経済的な救済よりは、魂の救済を目指しています。

経済的に困窮したからといって変わってしまうものではないのですね。

それどころか、経済的に裕福であるほうが宗教を保持し得ないようです。

キリスト教の知見を見てみましょう。

イエスは弟子たちに言われた。「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」
『聖書』 日本聖書協会 マタイによる福音書 19.23−24

お金持ちであるばっかりに、信仰できないということがあるようです。

こう考えますと、お金持ちになるのも考えものですね。

経済的に裕福になることは大切なのですが、それよりも大切なのは自らの命を仏にすることであり、そのための信仰がもっと大切なのですね。
posted by lawful at 06:00| 御書

2015年10月26日

たった一言で命を落とす危険があります

一生が間・賢なりし人も一言に身をほろぼすにや
兄弟抄 1085頁

口は災いの元といいますが、その通りですね。

長年、言葉に気を付けて、賢人の名をとるほどの人間になったにしても、たった一言、口を滑らしたばかりに、命を落とすことがあると日蓮は指摘します。

そう、たった一言なのですね。多言は必要ないということです。

口を滑らすことは恐ろしいということですね。

賢人ではない凡人は、常に口を滑らしていますが、これでは、いつ命を落としてもおかしくないでしょう。

たまたま、天が忙しいので助かっているだけかもしれませんね。

いざとなると、すぐに天からの援助がなくなり、飢え死にすることになるでしょうね。

常に、美しい言葉、価値のある言葉、面白い言葉、麗しい言葉、楽しい言葉等々を口にする人間になっておきたいですね。

そのためにも読書は欠かせません。

御書、法華経をはじめとして、さまざまな文学、思想等々の本を読んでいくことが大切ですね。

人間は言葉によって生きている側面があります。

その言葉が充実することによって、人生の充実もあるのですね。

どうでもいい言葉は脇に置き、豊潤な言葉をひとつひとつ積み上げていくことですね。
posted by lawful at 06:00| 御書

2015年10月25日

臨終の時、どのような相になるか

我弟子等の中にも信心薄淡き者は臨終の時阿鼻獄の相を現ず可し其の時我を恨む可からず
顕立正意抄 537頁

信心しているから大丈夫と安易に考えていると、臨終の時、阿鼻獄の相になってしまうようです。

そして、日蓮を恨もうとすると、日蓮は、私を恨んではいけません、と言います。

所詮、信仰とは、自分自身が行い、その結果はすべて自分自身が受け取ることに尽きます。

あの人が悪い、この人が悪いと言ったところで、何にもならないのですね。

あくまでも、自分自身の信仰の厚薄によるということです。

信仰が厚ければよいのですが、ほとんどの人は薄い。

よって、臨終の時、阿鼻獄の相になる。

何のために信仰しているか分かりませんね。

中途半端な信仰は、意味がありませんね。

信仰するならば、臨終の時、成仏の相になるように信仰しなければなりません。厚い信仰心が求められます。

そのためにも、御書、法華経の研鑽は外せませんね。
posted by lawful at 06:00| 御書

2015年10月24日

先祖供養の効力はどこまでか

目連尊者が法華経を信じまいらせし大善は我が身仏になるのみならず父母仏になり給う、上七代・下七代・上無量生下無量生の父母等存外に仏となり給う
盂蘭盆御書 1430頁

先祖を供養するにあたって、法華経を以て供養しますが、どこまで効力があるのか、少し気になるところです。

よく、上七代と言われますが、日蓮からすると、その上七代を踏まえながらも、上無量生まで効果があると言います。

何代目までという区切りがないのですね。

どこまでも先祖は供養されるということです。どこまでも遡れるわけですね。

圧倒的な功徳であり、圧倒的な供養です。

もちろん、上だけでなく、子孫も、下無量生ということで、法華経は永遠に効果があるようです。

ここで注意しなければならないのは、目連尊者が法華経を信じ、その大善によって仏になったことが前提である点です。

まずは、自分が仏にならなければ、先祖供養は成り立たないのですね。

万一、自分が魔性に取りつかれているならば、先祖も魔性に取りつかれるというわけです。

先程、確認したように、何代目までという区切りがありませんので、すべての先祖が魔性に取りつかれるわけですから、とんでもないことになりますね。

自分自身の信仰が研ぎ澄まされておりませんと、自分だけでなく、先祖にも悪い影響がありますので、気を付けなければなりませんね。

もちろん、自身が法華経の行者であり、仏たり得るならば、先祖にいい影響が与えられますので、申し分ないということです。
posted by lawful at 06:00| 御書

2015年10月23日

追善供養の際、念じる御文

此の功徳は故道善房の聖霊の御身にあつまるべし
報恩抄 329頁

追善供養を行う際、どのように念じるのが価値的なのか、いろいろ考えたところ、上記の御文の「故道善房」のところに、追善する人の名前を入れて追善するのがよいでしょう。

「此の功徳」とは、南無妙法蓮華経の功徳のことであり、自身が南無妙法蓮華経と唱えて得た功徳をそのまま追善すべき人に集中させるわけですね。

まずは、自分自身に功徳がなければ、追善は不可能です。

南無妙法蓮華経という根本たる法をもってして、追善が可能というわけです。

先祖を供養する宗教的振る舞いをしていく中で、我が身の源流に思いを馳せ、命そのものの価値を深く感じながら、雑多なものを取り払うことが肝要です。

生きていきますと、どうでもいいものがまとわりついてくるものです。

命そのものの価値を忘れがちになります。

しかし、先祖と自分自身との繋がり、つまり、その繋がりは命そのものの繋がりということですが、この繋がりから、命から物事を見た時に、ほとんどのことは副次的であり、雑多なものであることが分かります。

なぜ、先祖供養が大切なのか。それは、根本たる命を軸に生きていくためであり、どうでもいいことを灌ぎ落すためといえるでしょう。
posted by lawful at 06:00| 御書

2015年10月22日

あれこれするよりも、一番問題のあることをやらないことが効率的であること

如かず彼の万祈を修せんよりは此の一凶を禁ぜんには
立正安国論 24頁

人生においても、仕事においても、さまざまな問題が起こり、その対処のため、何かをしなければならないと考えることが多いですね。

しかし、あれこれといろいろなことをするよりは、一番問題のあることをやめてみるのがよいかもしれません。

あれもしよう、これもしようという態度ではなく、とにかく、しないという態度が大切と思うのですね。

実のところ、バタバタしたところで大したことができるわけでもなく、根本的な問題解決にならないことの方が多く、むしろ、問題がこじれる懸念さえあります。

とにかく、問題を分析していく中で、しなくてもよい事柄が見つかりますので、その中で、一番問題となっている事柄を見つけ、それをしないということが重要です。

やるのではなく、しないというのが重要なのですね。

作為ではなく、不作為で対処する方法です。

いつもこの方法が有効ということはないでしょうが、あれこれしてしまい、混乱状態が続く場合、視点を変えて、やらなくてよいこと、もっと言えば、やってはいけないことを見つけ、それを排除することの方がいい場合があります。

日蓮を読む場合、法然の念仏がどうのこうのという点だけでなく、日蓮の思考フレームを取り出し、それを現代の我々の事柄に応用すると価値的です。
posted by lawful at 06:00| 御書

2015年10月21日

人生はこれからであること

大事には小瑞なし、大悪をこれば大善きたる、すでに大謗法・国にあり大正法必ずひろまるべし、各各なにをかなげかせ給うべき
大悪大善御書 1300頁

自分の人生を思い返した時、今までの人生は、ある意味、大悪であり謗法であったと考えることができます。

今までの人生の全てが悪いというわけではありませんが、さほどいい人生ともいえない。

中途半端に今までの人生がよかったと考えることは好ましくないのではないかと思うのです。

今までの人生を否定するほどの強烈な感覚が必要と思うのですね。

これからの人生は、確かに今までの人生の続きではあるのですが、今までの人生をただなぞる人生にしたいとは思わないのです。

全く別の人生になるわけではありませんが、質的に異なった人生となるような気がしますし、また、そうあろうと考えているのですね。

その際、上記の御文が参考になります。

そう、今までの人生は大悪であった、謗法であったと考えるのですね。

しかし、これからの人生は、大正法が広がるような人生となり、嘆くことがあろうか、と考えるのですね。

まさに、自分の人生はこれからであるというわけです。

過去は過去として認識はしつつも、終わったことであり、実のところ、どうしようもないのです。

何かを為すといっても、未来のことしか為せません。

これからの人生といっても、過去からの継続という側面があり、その側面による制約はありますが、全くがんじがらめというわけでもなく、質的に変化を起こす余地が残っています。

その余地を利用しながら、変化の人生としていきたいのですね。

どこか遠くに行くわけでもなく、表面的な変化でお茶を濁すのではなく、内面から質を変化させるのです。

傍目には、変化が分からないぐらいの変化がよいでしょうね。

しかし、毎日、毎日、変化するということが大切です。

何気ない日々のように見えて、一日一日は極めて貴重です。

毎日が記念日といっても差し支えないでしょう。

いずれにしても、これからの人生が本当の人生であるとの気概で生きていきたいものです。
posted by lawful at 06:00| 御書

2015年10月20日

新宗教団体の構成員のほとんどは、悪知識であること

後世を願はん人は一切の悪縁を恐るべし一切の悪縁よりは悪知識を・をそるべし
顕謗法抄 452−453頁

「知識」とは、中国古典では、知人、知り合いのことですから、悪知識といえば、悪い知人、知り合いということになります。

もっと言うと、人の幸せを妨害する悪い奴となりましょう。

先々のことを考える人にとっては、悪縁に気を付けることは当然のこととしながらも、もっと気を付けなければならないのが悪知識であるという。

今から思い返せば、新宗教団体の構成員の人々の多くは、悪知識でしたね。

御書は読まない、法華経といってもポカンとしている人々ですから、そもそも、宗教団体の構成員たる資格がないのですね。

その割には、教団において大きな顔をしています。所詮、その程度の教団であったということでしょう。

実は、教団とはいいつつ、宗教団体ではなかったのかもしれません。

では、何だったのでしょうか。寄合?

今となっては、教団そのものは、どうでもいいことですので、よいのですが、悪知識の巣窟であるということは、しっかりと認識しておかなければなりません。

信仰は、教団で行うのではなく、自分が行うものです。

その点を勘違いしていますと、教団に一杯食わされます。

貴重な時間、お金、エネルギーを吸い取られます。

教団と距離を置けば、時間、お金、エネルギーを確保することができます。

本来、自分がしなければならないことをすればよいのですね。

信仰を行うならば、御書、法華経の研鑽に勤しむべきでしょう。

あえて求めるならば、善知識を求めるべきでしょう。

しかし、この善知識と出会うことは稀です。

よって、まずは、自分自身が善知識になるべく、信仰、研鑽に励むことです。

信仰する意味とは、自らが善知識になることといえるでしょうね。
posted by lawful at 06:00| 御書

2015年10月19日

村上春樹さんから自分の気持ちを正確に伝えることを学ぶ

僕の経験から言うなら、外国人に外国語で自分の気持ちを正確に伝えるコツというのはこういうことである。
(1)自分が何を言いたいのかということをまず自分がはっきりと把握すること。そしてそのポイントを、なるべく早い機会にまず短い言葉で明確にすること。
(2)自分がきちんと理解しているシンプルな言葉で語ること。難しい言葉、カッコいい言葉、思わせぶりな言葉は不必要である。
(3)大事な部分はできるだけパラフレーズする(言い換える)こと。ゆっくりと喋ること。できれば簡単な比喩を入れる。
以上の三点に留意すれば、それほど言葉が流暢じゃなくても、あなたの気持ちは相手に比較的きちんと伝えられるのではないかと思う。しかしこれはそのまま〈文章の書き方〉にもなっているな。
村上春樹『やがて哀しき外国語』講談社 174−175頁

今の私に外国人に英語で何かを伝える場面はありませんが、英語を「読む」「聞く」に焦点を定めて勉強しているとはいえ、基礎的な、中学程度の英会話ぐらいは、さすがにマスターしたいと考えていることから、どのような態度で英会話に取り組むべきか、村上春樹さんの指摘が明快に示してくれています。

まずは、自分が伝えたいことを英語でどう言えばいいかを考えて勉強することですね。

暗記用英文を自分が言いたいことに言い換えて覚えるというのも一つの方法でしょう。

自分が日本語で言うことを英語にすればよいですね。

つい、難しい言葉を使うのがよいのではと勘違いしてしまいがちですが、英語のネイティブでもない私が難しい言葉を発しても仕方がないでしょう。

「読む」「聞く」においては、難しい言葉をも理解するにしても、「話す」際には、基礎的な英単語を使うよう心掛け、そのための勉強に特化することですね。

また、大事なことこそ、分かりやすい言葉で表現することが大切なのですね。

まとめますと、英会話に関しては、シンプル、ベーシック、スタンダードな言葉を使うようにすることですね。

ただ、一応、簡単な英会話ができるようになったところで、使う機会はないでしょうね。

そうはいっても、英語を「聞く」際に、英会話を練習した成果は生きてくるでしょうから、無駄にはなりませんね。
posted by lawful at 06:00| 英語学習

2015年10月18日

村上春樹さんから英語習得法を学ぶ

語学の習得にとってもっとも必要なのは、何を目的とするかをまず明確にすることです。日常会話ができるようになることが大事なのか、あるいは原語で本を読めるようになることが大事なのか、それとも職業的に英語を使えるようになりたいのか。そのへんの目的の見極めが大事になります。その目的にあわせて、とるべき方法が決定されます。「**語がなんとなくできるようになるといいなあ」というようなぼんやりした意識では、まず語学の習得はできない。
村上春樹『「ひとつ、村上さんでやってみるか」と世間の人々が村上春樹にとりあえずぶっつける490の質問に果たして村上さんはちゃんと答えられるのか?』朝日新聞社 318頁

外国語を習得する方法は(ほぼ)ひとつしかありません。それは外国語を習得しなければ生き残っていけないという環境に身を置くことです。そうでない限り、普通の能力しか持っていない人には、外国語の習得はまず無理みたいです。でもそういう環境に身を置くのは、実際にはけっこうきついですよ。
同書 250頁

よく言われることですが、外国語会話の基本は聞き取りです。聞き取りさえできれば、あとは相手が勝手にしゃべってくれます。そして聞き取りができるようになると、こちらも自然にしゃべれるようになるものなんです。ですから、とにかく聞き取りの練習をなさることがとりあえずはいちばんだと、僕は思います。コツは同じものを何度も何度も、飽きるくらい繰り返して聞くことです。そうしないと身に付きません。
同書 112頁

英語習得のためには、まずは、目的を明確にすることですね。

私の場合、なんとなく英語ができればよいという感じですね。なかなか身に付かないわけです。

取り立てて英会話をしたいわけでもなく、英書の本を読まなければならないわけでもなく、職業的に英語が必要というわけでもありません。

このように書くと英語を習得する目的がないようですが、全くないとも思えません。

ネットにおいて、英語の記事がありますから、それを読みたいとは思います。また、動画にて英語のニュースを理解したいとも思います。

直接、英語で話をしたいという気持ちは特別ないのですが、ネットにある英語には親しみたいと考えています。

情報が日本語だけというのが気に入らないのですね。英語でも情報を取りたい、その情報を知りたいという欲求があるのですね。

全く別の視点を得たいという目的もあるのですね。

英語を「読みたい」「聞きたい」という欲求が強く、「話したい」「書きたい」という欲求はさほどありません。

「読みたい」「聞きたい」に特化するのがよいかもしれません。

ただ、英語習得の過程において、「読みたい」を確実にするために、英文を書くという作業は必要でしょう。

また、「聞きたい」を確実にするために、英語の音読は必須でしょう。

結局、「読む」「聞く」「話す」「書く」をすることになりますが、「読む」「聞く」に焦点を定め、英語習得に勤しむのがよいですね。

日本にいる限り、英語を使わなければならない環境に身を置くことは、まず、ありません。

日本語で十分であり、英語ができなくとも、実際、何も困らないですね。

英語を習得したいという欲求は、ぜいたくな欲求といえるでしょう。

学生時代でしたが、二週間程、インドに旅行に行ったことがあります。

デリーでは、友人がいましたので、友人まかせでしたが、デリーを後にしてからは、一人ですから、自分でどうにかするしかないのですね。

そうしますと、英語が話せるのですね。

不思議な感覚でした。まず、中学1年生及び2年生の英語の教科書が思い出されるのですね。頭の中に電子書籍がある感覚です。

中学1年、2年ですから、現在形、過去形、未来形の表現が可能です。

実際、これらの表現だけで、旅行するに困ることはありません。

ただ、中学3年生の英語の教科書は出てきませんでした。旅行中も思っていたことですが、現在完了の表現ができれば、それはそれでよいのですが、別に使わなくとも意思疎通は図れますし、困らないのですね。ましてや、関係代名詞の表現など全く必要なかったというところでしたね。

よって、中学3年生の英語の教科書は、私の頭の中の電子書籍に組み込まれなかったのですね。

不思議なもので、旅行する上で、必要なことは思い出すが、さほど必要でないことは思い出さないものなのですね。

生きていく上で必要なものだけが思い出されたというわけです。

一人で旅行していたので、確かに、必死でしたね。よって、思い出したのでしょう。

旅行を続けているうちに、段々と英語での意思疎通がスムーズになりました。

それは、インド人が好奇心旺盛で私に話しかけてくるからなのですね。

私は、彼らの英語を聞きます。そうしますと、「このような表現があったな」ということで、私は、その表現を身に付けるのですね。

そして、別の人と話す時、その表現を使うのですね。そうすると、また、彼らから別の表現が出てきますので、それを聞いた私は、また、その表現を身に付けるのですね。

このようなことを繰り返すと、表現が増えていき、ストレスなく英語を話すことができるようになります。

ヴァラナシだったでしょうか、もしかすると、ガヤにいる時だったかもしれませんが、英語で夢を見るに至るのですね。このようなことは初めてであり、びっくりしたものです。

その後、英語で夢を見たいと意識し始めると、見なくなるのですね。それ以来、英語で夢を見たことはないですね。

そして、カルカッタに到着した時には、旅行する分に必要な英語がマスターできているという感じでしたね。言いたいことが英語で言えるという感覚でした。

その時になると日本語でものを考えていませんでしたね。そもそも、日本語が必要ないのですから。

所謂、英語脳だったのでしょう。

一人で旅行ですから、英語ができなければ生きていけず、そのような環境にいたからこそ、英語が使えるようになったということですね。

いい思い出ですが、正直なところ、その時は、きつかったですね。苦しかったともいえますね。

そして、帰国となり、成田空港に降り立って、ほどなくすると、英語でものを考えようとしても考えられなくなったのですね。そして、なにか英語で言ってみようと試みたところ、全く英語が出てきませんでした。

これも不思議な感覚でした。さっきまで、無理なく英語を話せていたのに、日本語の環境に戻った途端、脳が英語を不必要と判断したのか、英語が話せなくなったのですね。

インドに行く前の状態に戻ったという感じです。全く英会話のできない日本人という感覚ですね。

それ以来、日本にいるときに英語を話す機会に巡り合ったことは、ほとんどないですね。

そう、日本にいると、実際に会う人々との間で英語は必要ないのですね。

ただ、ネットが出て来てから、英語に接する機会が増えました。

日本でネットが出始めたころ、ちょっと西洋思想のことを調べてみますと、日本のサイトは貧弱であり、ネットサーフィンするうちに、英語のサイトに行き着くのですね。

しかし、英語が読めませんので、せっかくそのサイトに行き着いても内容を知ることができないのですね。

このようなことから、英語のサイトを読みたいと思いつつ、英語の勉強を始めても、その都度、挫折するということの繰り返しでした。

そうこうしているうちに、日本のサイトも充実しはじめ、日本語で情報を取るのに問題がなくなってきました。

そうすると英語を学ぶモチベーションが下がるのですね。脳が必要ないと判断するのでしょう。

しかし、英語のサイトもそれ以上に充実し、やはり、英語にてネットを楽しみたいと考えるようになり、再び、英語習得に取り組み始めたというわけです。

村上春樹さんの指摘を参考にし、英語を「読める」「聞ける」状態にしたいですね。

マスターすべき英語の範囲を限定し、繰り返し学ぶことですね。そして、マスターした英語でネットを楽しむことですね。
posted by lawful at 06:00| 英語学習

観心本尊抄―訳注

新品価格
¥1,980から
(2023/1/1 22:16時点)

日蓮 「闘う仏教者」の実像 (中公新書)

新品価格
¥906から
(2024/1/6 19:41時点)

岩波 仏教辞典 第三版

新品価格
¥9,900から
(2024/1/6 19:42時点)

図説 ここが知りたかった!日蓮と法華経

新品価格
¥1,925から
(2024/2/10 15:31時点)

カテゴリアーカイブ
<< 2024年11月 >>
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

観心本尊抄―訳注

新品価格
¥1,980から
(2023/1/1 22:22時点)

日蓮 「闘う仏教者」の実像 (中公新書)

新品価格
¥906から
(2024/1/6 19:41時点)

岩波 仏教辞典 第三版

新品価格
¥9,900から
(2024/1/6 19:42時点)

図説 ここが知りたかった!日蓮と法華経

新品価格
¥1,925から
(2024/2/10 15:31時点)

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ
にほんブログ村
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へ
にほんブログ村
PVアクセスランキング にほんブログ村