後藤 われわれ凡夫は、逆に、すべてが変わらない方向に考えていきますね。とくに、自分のことになると、いつまでも変わらないように考える傾向が強いようです。
野崎 そうですね。自分も他人も瞬間瞬間、五蘊が仮に和合して、いま存在しているのであると捉えれば、人間関係も、もっとスムーズにいくわけです。ところが、ある時のある瞬間にとった一人の人の行動なり振る舞いから、その人にたいするイメージをいだくと、そのイメージをまったく変えようとしない人によく出会いますが、お互いに不幸ですね。これなども、五蘊仮和合という認識に立てば、もう少し余裕をもって、長い目で人を見ることができるのではないでしょうか。
池田 そうですね。仏法で事物・存在をあらわす言葉が法≠ナすが、ある学者の話によると法≠フ字の成り立ち方が、サンズイ偏に去≠ゥらできているところから、水が流れ去るという意味を持つ言葉だそうですね。(中略)五蘊仮和合も、事物・存在が流動的に変化することを表現しようとした言葉ですね。
池田大作・後藤隆一・野崎至亮『仏教思想の源流』東洋哲学研究所 76−77頁
人を見るときに、その人がどこに所属しているかに注目する人がいます。
例えば、創価学会に所属しているのか、それとも、日蓮正宗に所属しているのかという見方ですね。
その人そのものを見ていないのですね。
見ているのは、どの教団かというところです。
その教団の傾向性から、その人を判断してしまうのですね。
しかし、創価学会にしても、日蓮正宗にしても、それなりの人数を抱えている教団であり、構成員の個性は千差万別です。
実のところ、バラバラと見るのが妥当でしょう。
あくまでも、その人自身を見ないことには、何も分かりません。
では、人の何を見れば、よいのでしょうか。
それは、その人の境涯を見ればよいですね。
その人の境涯が高いのか低いのか、そこを見ればよいのです。
創価学会に所属していようと、日蓮正宗に所属していようと、境涯が高い人は高い。境涯が低い人は低いというだけのことです。
この境涯というのは、ごまかしがききません。その人の状態を如実にあらわします。
いくら虚勢を張っても、境涯の低さは隠せません。いくら立場が上だと誇ってみたところで、低い境涯は上がりません。
我々としては、境涯が高い人がいれば、その人から学べばよいのですね。お近づきになれるならば、なればよいですね。
そして、境涯が低い人がいれば、相手にしないことですね。こちらの境涯まで低くなってしまいますから。
ただ、この境涯も一定ではありません。『仏教思想の源流』でも触れられているように、瞬間瞬間に変化します。五蘊仮和合なわけですね。
ですから、出会うたびに境涯が違うというわけです。
よって、この人はこのような人だと決めつけるのは、仏教的なものの見方ではないですね。
常に変化していますので、我々としても、常に新鮮な気持ちで、相手の境涯を観察する必要があります。
今日は上がっているな、今日は下がっているな、という具合です。
また、自分自身についても、常に境涯を上げるべく、精進を重ねることです。
御書、法華経を通じて境涯を上げていけばよいのですね。
油断していますと、境涯は下がるものですからね。
境涯には、限度というものがありません。上はどこまで行ってもきりがありません。青天井です。
また、下はどこまで行っても限りがありません。まさに、奈落の底ですね。
人間は、どもまでも尊くなれると共に、どもまでも卑しくなれます。
どちらの人間になるかは、その人次第です。
どの教団に所属していようと、また、所属していなくとも、境涯は自分で上げていくものです。実際、教団には大した力はありません。教団に期待する必要はありません。また、何でもかんでも教団のせいにすることはできません。
境涯は、あくまで自分自身の問題なのですね。