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2015年11月06日

油断禁物

月月・日日につより給へ・すこしもたゆむ心あらば魔たよりをうべし
聖人御難事 1190頁

生活をしていく中で、徐々に慣れてくるものです。

仕事においてもそうですね。慣れてきます。

そうするとどうなるか。

しょうもないミスをしたりします。

それが重なると大きなミスになります。

油断をするとろくなことがないのですね。

日蓮は、この油断からくる心には、魔が寄ってくると言います。

よって、日々、強くあるよう精進せよと言うのですね。

やはり、強くなければ、魔にもやられるでしょうし、そもそも、何事においても、負けてしまうでしょう。

信仰心によって、自身の弱い心を強靱にすることですね。

信仰の意味は、その点にあるといってよいでしょう。

信仰しているから大丈夫だ、特定の教団に所属しているから大丈夫だという安易な考えはすべて間違いです。

弱い信仰のままでは、すぐ魔にやられるでしょう。

また、特定の教団に所属しようと、教団には魔を防ぐほどの力はありません。役に立たないのですね。

もちろん、教団は、「この組織は、安全地帯だ」などと子供じみたことを言いますが、相手にしないことですね。

相手にする必要すらないともいえるでしょう。また、相手にしてはいけないともいえるでしょうね。

あくまでも自身の信仰心通りの結果が出てきます。自分自身を強くする信仰でなければなりません。
posted by lawful at 06:00| 御書

2015年11月05日

法華経の兵法

なにの兵法よりも法華経の兵法をもちひ給うべし、「諸余怨敵・皆悉摧滅」の金言むなしかるべからず
四条金吾殿御返事 1192−1193頁

一信仰者として、頼りになるのは法華経でしょう。

財力、地位、権力等々があれば、それはそれで結構ですが、そもそも、そのようなものに縁がないわけですから、自らの信仰の依って立つものを土台にするほかありません。

日蓮も同じであったと思われます。これといった財があるわけでもなく、地位などはもちろんなく、権力側から睨まれる存在であったことから、日蓮の兵法としては、法華経しかなかったのですね。

四条金吾に対して、なによりも法華経の兵法で生きていくよう指摘されています。

我々も同じですね。法華経でもって自分の人生を切り開くことですね。

その中で、我々の人生行路に立ちはだかる物怪が出てきた場合、「諸余怨敵・皆悉摧滅」(妙法蓮華経 薬王菩薩本事品第二十三)の言葉を現実にすべきですね。

この金言は嘘ではないと日蓮が強調しているわけですから、我々としても、この金言「諸余怨敵・皆悉摧滅」通りに物怪を粉砕するほどの信仰心を身に付けるべきですね。

実際、法華経を読んでいきますと、生きていく上で参考になることばかりです。

まさに兵法として申し分のない書ですね。

あとは、我々が読めばよいわけで、何度も何度も読んでいきたいものです。
posted by lawful at 06:00| 御書

2015年11月04日

用いられないことの悲しみ

所詮三大師の邪法の興る所は所謂東寺と叡山の総持院と園城寺との三所なり禁止せずんば国土の滅亡と衆生の悪道と疑い無き者か予粗此の旨を勘え国主に示すと雖も敢て叙用無し悲む可し悲む可し
四信五品抄 343頁

今でこそ日蓮の名前は大きな名前であり、歴史上の人物ですが、鎌倉時代においては、ただの一僧侶でありました。

日蓮は、比叡山での研鑽を終え、法華経が第一である確信を持ち、当初は、法然の法門を批判し、後に、弘法・慈覚・智証の三大師の法門を批判しました。

法華経通りでないというわけですね。

日蓮は、東寺と叡山の総持院と園城寺とを禁止せよと訴えるのですが、もちろん、この訴えが用いられることはありません。

鎌倉時代において、すでに確固とした地位を築いている東寺と叡山の総持院と園城寺を禁止すること、つまり、取り潰すことは不可能ですね。

逆に、日蓮が伊豆、佐渡に流されており、日蓮が取り潰されそうになっていました。

しかし、それで潰される日蓮でなかったため、現代まで日蓮の法門が残っているのですね。

やはり、日蓮は、ただ者ではないのですが、日蓮が考えていた仏教世界の創出は、日蓮が生きている間には実現しませんでした。

現代においても実現しておりません。

一定数の日蓮信仰、法華経信仰は、確固として存在していますので、それなりには、日蓮の目指した仏教世界があらわれているといえるでしょうが、まだまだでしょうね。

日蓮仏法を研鑽の中で練り上げながら、ブラッシュアップしていく中で、新たな展開がみえてくるでしょう。

我々自身が、まだまだ、御書、法華経を自身のものとしていないので、大した広がりがないのだといえるでしょう。

日蓮没後733年となりますが、大きな歴史の観点からすると、まだ733年といえます。

宗教の歴史は、1000年単位で変わると考えると、日蓮仏法は、いまだ途上にあるといえるでしょうね。

用いられない悲しみはありますが、長い目でみていくことですね。
posted by lawful at 06:00| 御書

2015年11月03日

初心の行者の初心の功徳が大きいこと

妙法蓮華経の五字は経文に非ず其の義に非ず唯一部の意なるのみ、初心の行者其の心を知らざれども而も之を行ずるに自然に意に当るなり
四信五品抄 342頁

妙法蓮華経の五字とは、何か。

日蓮によりますと、経文でないようです。義でもないということですから、何がしらの意味内容を示すものでもないようです。

妙法蓮華経二十八品の意、つまり、心であるという。

言葉にできないほどのものともいえましょうか。

信仰をはじめたばかりの人は、妙法蓮華経の心といっても、ぴんと来ないでしょうし、法華経の法門についての研鑽を深めているわけでもありませんので、何にもない状態での信仰となります。

そうであっても、妙法蓮華経の五字を唱える行を行うならば、自然と妙法蓮華経二十八品の意、心に到達するという。

法華経通りの人生が歩めるということですね。平たく言うと功徳があるということです。

記の十に云く「恐くは人謬り解せん者初心の功徳の大なることを識らずして功を上位に推り此の初心を蔑にせん故に今彼の行浅く功深きことを示して以て経力を顕す」
開目抄 226頁

信仰をはじめたばかりの人の功徳が少ないかというと、そうではないのですね。

初心の功徳は大きいらしい。

それが法華経の功力ということなのですね。

信仰者のレベルが浅くとも、功徳が深いことをもって、法華経の力が絶大であることが示されるのですね。

我々凡夫は、実のところ、いつまで経っても初心の行者でしょう。

初心の行者だからといって、功徳が少なければ、正直なところ、信仰を続けるのは困難です。欲がありますからね。

しかし、法華経の力は絶大であるから、初心の行者であっても、功徳は莫大というのであれば、信仰が続けやすいというものです。
posted by lawful at 06:00| 御書

2015年11月02日

無理に説法する必要がないこと

舎利弗よ。是の如き増上慢人は、退くも亦た佳し。
妙法蓮華経 方便品第二 119頁

仏の説法を聞こうとしない慢心の人々が、仏の説法の座から立ち去った後、仏が発した言葉です。

仏は、それら慢心の人々に対し、「退くも亦た佳し」と言います。

無理に説法したところで何にもならないということを仏は分かっているわけですね。

聞きたい人だけが聞けばよいのです。当たり前のことですね。

しかし、無理に聞かせようと考える人がいます。

その人は、邪心があるのでしょうね。

すぐに功徳が欲しいという欲深さが滲み出ています。

みっともない姿ですが、本人は必死です。

間違った信仰をする人は、このようになりますから、気を付けることですね。

このような人は、法華経を読んでいませんので、そうなるのでしょう。

勤行で方便品を読んでいる、と言うかもしれませんが、今回ご紹介した法華経の文は、勤行で読誦するところでは出てこない箇所です。

勤行で読誦される方便品は、最初の部分だけです。

その後の部分については、『妙法蓮華経並開結』を読むなどして、確認することですね。

法華経を全部読めば、バランスの良い信仰ができます。

まずは、全部読むことですね。功徳はそれからでもよいと思いますよ。
posted by lawful at 06:00| 法華経並開結

2015年11月01日

人を見る時には、境涯を見ること

後藤 われわれ凡夫は、逆に、すべてが変わらない方向に考えていきますね。とくに、自分のことになると、いつまでも変わらないように考える傾向が強いようです。
野崎 そうですね。自分も他人も瞬間瞬間、五蘊が仮に和合して、いま存在しているのであると捉えれば、人間関係も、もっとスムーズにいくわけです。ところが、ある時のある瞬間にとった一人の人の行動なり振る舞いから、その人にたいするイメージをいだくと、そのイメージをまったく変えようとしない人によく出会いますが、お互いに不幸ですね。これなども、五蘊仮和合という認識に立てば、もう少し余裕をもって、長い目で人を見ることができるのではないでしょうか。
池田 そうですね。仏法で事物・存在をあらわす言葉が法≠ナすが、ある学者の話によると法≠フ字の成り立ち方が、サンズイ偏に去≠ゥらできているところから、水が流れ去るという意味を持つ言葉だそうですね。(中略)五蘊仮和合も、事物・存在が流動的に変化することを表現しようとした言葉ですね。
池田大作・後藤隆一・野崎至亮『仏教思想の源流』東洋哲学研究所 76−77頁

人を見るときに、その人がどこに所属しているかに注目する人がいます。

例えば、創価学会に所属しているのか、それとも、日蓮正宗に所属しているのかという見方ですね。

その人そのものを見ていないのですね。

見ているのは、どの教団かというところです。

その教団の傾向性から、その人を判断してしまうのですね。

しかし、創価学会にしても、日蓮正宗にしても、それなりの人数を抱えている教団であり、構成員の個性は千差万別です。

実のところ、バラバラと見るのが妥当でしょう。

あくまでも、その人自身を見ないことには、何も分かりません。

では、人の何を見れば、よいのでしょうか。

それは、その人の境涯を見ればよいですね。

その人の境涯が高いのか低いのか、そこを見ればよいのです。

創価学会に所属していようと、日蓮正宗に所属していようと、境涯が高い人は高い。境涯が低い人は低いというだけのことです。

この境涯というのは、ごまかしがききません。その人の状態を如実にあらわします。

いくら虚勢を張っても、境涯の低さは隠せません。いくら立場が上だと誇ってみたところで、低い境涯は上がりません。

我々としては、境涯が高い人がいれば、その人から学べばよいのですね。お近づきになれるならば、なればよいですね。

そして、境涯が低い人がいれば、相手にしないことですね。こちらの境涯まで低くなってしまいますから。

ただ、この境涯も一定ではありません。『仏教思想の源流』でも触れられているように、瞬間瞬間に変化します。五蘊仮和合なわけですね。

ですから、出会うたびに境涯が違うというわけです。

よって、この人はこのような人だと決めつけるのは、仏教的なものの見方ではないですね。

常に変化していますので、我々としても、常に新鮮な気持ちで、相手の境涯を観察する必要があります。

今日は上がっているな、今日は下がっているな、という具合です。

また、自分自身についても、常に境涯を上げるべく、精進を重ねることです。

御書、法華経を通じて境涯を上げていけばよいのですね。

油断していますと、境涯は下がるものですからね。

境涯には、限度というものがありません。上はどこまで行ってもきりがありません。青天井です。

また、下はどこまで行っても限りがありません。まさに、奈落の底ですね。

人間は、どもまでも尊くなれると共に、どもまでも卑しくなれます。

どちらの人間になるかは、その人次第です。

どの教団に所属していようと、また、所属していなくとも、境涯は自分で上げていくものです。実際、教団には大した力はありません。教団に期待する必要はありません。また、何でもかんでも教団のせいにすることはできません。

境涯は、あくまで自分自身の問題なのですね。
posted by lawful at 06:00| 仏教

2015年10月31日

細部ではなく、まずは根本をつかむこと

支道林が経を講ずるには細科を捨てて元意を取る
法華取要抄 336頁

仏教研鑽において、細部が気になることがありますが、まずは、仏教の根本をつかむのが大切ですね。

仏教の根本は、凡夫の成仏といえます。

よって、我々が仏の境涯に至るという点は、仏教研鑽において、外してはいけません。

その上で、細部をひとつひとつ押さえていくのが正しい行き方ですね。

仏教の法門は、さまざまな宗派があることから分かるように、膨大な量があります。

細部にこだわっていますと、迷子になるでしょう。

あくまで根本を押さえた上で、細部に至ることですね。

日蓮は、その根本の法を妙法蓮華経の五字に集約しました。

我々としては、妙法蓮華経という点から仏教研鑽を行うことになります。

当然のことながら、法華経の研鑽、御書の研鑽に繋がるのですが、法華経と御書とにおいても、細部にこだわりますと、きりがないですね。

法華経、御書においても、元意を取るよう心掛けながら研鑽する必要があります。

その上で、細部に取り組んでいけば、根本を押さえた上での細部ですから、細部そのものも活きてきます。

細部だけでは意味を為しませんし、細部と細部とを合わせても、所詮、細部の集合にしか過ぎません。

細部ではなく、まずは根本を押さえるという姿勢は、仏教研鑽だけでなく、日常生活においても、職場においても、人生においても応用できることであり、応用すべきですね。
posted by lawful at 06:00| 御書

2015年10月30日

英語の習得範囲を絞ること

英語を母語とする純粋な英語話者が存在するかぎり、英語はけっして平等な国際対話を可能ならしめる「国際語」や「世界共通語」にはなり得ないのである。
斎藤兆史『日本人に一番合った英語学習法』祥伝社 77頁

我々日本人が一生懸命英語を習得したところで、ネイティブにはかないません。

所詮、不平等な中での対話しか為せないのですね。

逆を考えれば分かりやすいですが、純粋な英語話者であるアメリカ人やイギリス人がいくら日本語を習得したといっても、純粋な日本語話者にはかないません。

お互い様と言いたいところですが、そう言えないのですね。

英語の方が世界的に影響力が大きく、日本語は実際のところ、日本でしか通じないという現実があるからです。

純粋な英語話者が日本語を習得しようというモチベーションはないでしょうし、必要性もないといえます。

しかし、純粋な日本語話者である我々にとって、特別に英語を習得しなければならないことはないといえるかもしれませんが、インターネットで使用されている言語のほぼ半数は英語であることを考えると、何もしなくてよいとも言い切れません。

やはり、それなりに英語を習得する必要があると考えるのが妥当でしょう。

では、英語で日常会話するのが大事なのかというとそうでもありません。

日常的な用を足すのに大した英語力は要らない。日常的な英語を流暢に操ることをもって高度な英語力の証だと勘違いしている人がいるが、英語の習得段階からすれば、その辺はまだ初歩の初歩である。
同書 89頁

我々が英語で日常会話をする機会は、まずありません。日本にいるのですから。

我々が英語に接するのは、主にインターネットですね。英語での様々な記事、動画等々があります。ここにおいて、日常英会話は必要ないですね。

それよりも、英語読解力が必要ですし、英語聴取力が必要となります。

まともな英語力といいますか、正統な英語といいますか、お茶を濁す程度の英語でない英語が必要なのですね。

確かに、ネイティブレベルになれないとしても、それなりの英語読解力と英語聴取力は身に付けておきたいですね。

あくまでも情報収集のための英語力を身に付けるという一定の基準を設け、その基準に達するよう、適切な勉強をするのがよいですね。

純粋な英語話者と平等に対話ができるなどという夢想をしないことですね。

英語習得に際し、習得する範囲を絞るのが効率のよい方法といえます。
posted by lawful at 06:00| 英語学習

2015年10月29日

英語で情報収集することが目的であること

本書の読者、そして英語を生業としない日本人にお勧めしたいのは、もう一方の道である。すなわち、基礎的な英語だけは身につけておいて、あとは自分の得意分野に専心するという生き方である。
斎藤兆史『日本人に一番合った英語学習法』祥伝社 177頁

私は、英語を生業としていませんので、上記のような道になりますね。

まずは、基礎的な英語を身に付けることですね。

では、基礎的な英語とは何か。

英文法でいえば、高等学校までの英文法は基礎的といえるでしょう。英語を読むため、聞くためには、中学英語程度の英文法では不足ですね。やはり、高等学校までの英文法が必要です。

ただし、英会話については、中学英語程度で十分と思われます。そもそも、英会話をする機会もほとんどありませんので、難しいこととまで準備する必要もなく、また、その時間も捻出できませんね。

基礎的な英語というところまでは身に付けて、それでよいとする潔さが必要ですね。

英語をマスターするといっても、ネイティブレベルになれるわけでもなく、そのレベルを目指す必要性すらないわけですから、一定の基準を設定し、その地点に到達することによって、よしとすべきでしょう。

変にネイティブを目指すというのも不自然ですしね。

英語以外では、自分自身がしなければならないことをすればよいでしょう。時間は有限ですからね。

日本人に一番合った英語学習法は、何と言っても素読、暗唱、文法学習、そして多読。これが日本人が高度な英語力を身につけようとする場合、欠かすことのできない基礎訓練となる。
同書 156頁

極めてオーソドックスな学習法です。あまり、英語を話すことに注目しておらず、英語を読みたい、聞きたいと考えておりますので、この学習法がよいでしょうね。

英語を発信するというよりは、英語の情報を取得する方に重点をおいていますので、多読という点は、しっかりと行っていきたいですね。あまり、学習、学習とならず、情報収集と考えておく方がよいでしょうね。

外国語「を」勉強するのではなく、外国語「で」情報を入手するレベルまで、なるべく早く到達するように努力することが大事です。
白井恭弘『外国語学習の科学』岩波新書 166頁

基礎的な英語とは、上記のようなレベルと考えられるでしょう。

お勉強というレベルを超えて、一応、情報収集のレベルに至るということです。
posted by lawful at 06:00| 英語学習

2015年10月28日

財とは必要性を満たすもの

莚三枚・生和布一籠・給い了んぬ。
抑三月一日より四日にいたるまでの御あそびに心なぐさみて・やせやまいもなをり・虎とるばかりをぼへ候上・此の御わかめ給びて師子にのりぬべくをぼへ候。
莚三枚御書 1587頁

莚三枚御書は、真筆を富士大石寺が所蔵していますので、莚とわかめとを供養したのは、南条家、南条時光でしょう。

3月1日から4日まで、南条時光は、日蓮のもとを訪れたようです。

日蓮は、相当、喜んでいるようで、やせ病も治り、虎を捕えられるほど元気になり、わかめを食べ師子に乗るほどの勢いになったようです。

心の細やかな変化を文章にする日蓮は、他の仏教者とは明らかに異なります。

情感豊かな人であったことが窺われます。

さては財はところにより人によつてかわりて候、此の身延の山には石は多けれども餅なし、こけは多けれどもうちしく物候はず、木の皮をはいでしき物とす・むしろいかでか財とならざるべき
同書 同頁

続いて日蓮は、財というものは、ところにより、また、人によって変わるものであると言います。

必要なところに必要なものがあれば、それは財といえます。また、ものを必要とする人にそのものがあれば、それは財ですね。

必要性があってこそ、ものは財となり得ます。

ただ単に、あればよいというものではありません。

身延山にいる日蓮にとって、莚は必要なものだったのですね。

どの程度の莚であったかは分かりませんが、通常、財というほどのものではないでしょう。

しかし、日蓮は、南条時光から供養された筵を財であると言います。

ちょっとしたことですから、あえて文章にすることもないだろうと思うところ、日蓮は、文章にするのですね。

感謝の念を表現するのに躊躇がありません。

極めて実践的な人であることが分かります。

南条時光の訪問といい、必要としていたものを供養してくれたことといい、日蓮にとっては、うれしくて仕方がなかったのでしょうね。

なお、堀日亨編 『日蓮大聖人御書全集』 創価学会 1952 には、莚三枚御書の冒頭の真筆が付されています。参照いただくと分かる通り、「莚三枚」と大書されており、感謝の気持ちが文字にあらわれています。

なぜ、日蓮仏法が広まったのか。日蓮のこのような人間性が大きく影響しているでしょう。

全知全能の神の宗教でもなく、無機質な宗教でもなく、一人の人間として情感豊かであり、その人の宗教だからこそ、人を引き付けたのでしょうね。
posted by lawful at 06:00| 御書

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