日興が云く、聖人御立の法門に於ては全く絵像・木像の仏・菩薩を以て本尊と為さず、唯御書の意に任せて妙法蓮華経の五字を以て本尊と為す可しと即ち御自筆の本尊是なり
富士一跡門徒存知の事 1606頁
絵像、木像を本尊とせず、妙法蓮華経の五字を本尊としており、日蓮自筆の本尊がまさに本尊であると言っています。
「富士一跡門徒存知の事」は、日興の命によって、日澄が筆述した書のようです。
いずれにしても、興門派といいますか、日蓮正宗の考え方が示されている書とみてよいでしょう。
日蓮正宗では、絵像、木像を本尊にしません。妙法蓮華経の五字を本尊にしており、その妙法蓮華経の五字を大書し、その周りに釈迦牟尼仏、多宝如来、四菩薩、舎利弗、迦葉等々を書いた曼荼羅を本尊としています。
紙幅の本尊なのですね。寺院では、板に彫った本尊がありますね。
簡単に言うと、文字が本尊を構成しているわけですね。
「富士一跡門徒存知の事」が言うように、日蓮自筆の本尊を本尊として、授与すればよいのですが、日蓮正宗において、日蓮自筆の本尊を授与したとは寡聞にして知りません。
歴代の法主が書写した本尊を授与していますね。
破門以前の創価学会も、同様ですね。
破門後の創価学会は、江戸時代の大石寺の法主であった日寛の本尊を授与し始めましたね。日蓮の本尊ではないのですね。
もちろん、創価学会は、日蓮自筆の本尊がありませんから、授与のしようがありません。
せいぜい、日昇の本尊を所持しているぐらいでしょうか。では、その日昇の本尊を会員に授与するかというと、しないのですね。なぜか、日寛の本尊を授与する。よく分かりませんね。
日蓮正宗には、日蓮自筆の本尊が何幅かあるわけですから、日蓮本尊を授与すればよいと思うのですが、授与しないのですね。
もちろん、文字が本尊ですから、然るべき文字があれば、その本尊は本物ですが、やはり、日蓮の本尊があるならば、その本尊を授与すべきでしょう。
日蓮正宗にしても、創価学会にしても、本尊を出し惜しみする気がありますね。
日興の弟子分に於ては在家出家の中に或は身命を捨て或は疵を被り若は又在所を追放せられ一分信心の有る輩に忝くも書写し奉り之を授与する者なり
同書 同頁
これも「富士一跡門徒存知の事」の言葉ですが、死ぬほどのことがあったり、傷を負う程のことがあったり、追放される程のことがあったりした場合、信心があると認定され本尊を授与されるという。
出し惜しみにもほどがありますね。
元々、日蓮正宗には、本尊を出し惜しむという伝統があるようです。
信仰したい人は一定数いるわけですから、その人たちに本尊を授与すればよいと思うのですが、いろいろと条件を付けます。
さて、授与する段階になって、日蓮本尊が授与されるのかと思いきや、違う人が書いた本尊が授与される。
何かおかしいですね。
そういう教団なのでしょう。創価学会もその教団の流れを汲んでいますので、同じような傾向がありますね。
教団が所持している一番いい本尊は、授与しないのですね。
日蓮正宗や創価学会の場合、いつまでたっても、日蓮本尊の授与がありませんので、『日蓮聖人真蹟集成』第十巻の本尊集を手に入れるなどするのがよいですね。
やはり、信仰するにあたり、教団は役に立たないですね。邪魔ですらあります。
信仰は、自分自身で行っていくということですね。
本尊にしても、自分で探さなければなりません。
日蓮仏法を信仰するならば、日蓮本尊を拝むべきでしょう。