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2015年11月16日

境涯の高い人の特徴

仏子の心浄く 柔軟に亦た利根にして
無量の諸仏の所にて 深妙の道を行ずる有り
妙法蓮華経 方便品第二 128頁

境涯の高い人は、そもそも仏の子ということですね。

そして、心は清らかであるという。

柔軟性があり、凝り固まっていないのですね。

聡明であり、諸仏のもとで仏道修行に励むという。

清々しいという特徴がありますね。

いやらしさが全くありません。

然るべき道を確実に歩む姿は、我々も学ばなければなりません。

境涯の高い人は、立場や権力や財力ということではなく、まずは、清々しくあり、そして、為すべきことを為す人のことをいうのですね。

その結果として、立場や権力や財力があるということです。

順番を間違えてはいけませんね。
posted by lawful at 06:00| 法華経並開結

2015年11月15日

境涯の低い人の特徴

鈍根にして小法を楽い 生死に貪著し
諸の無量の仏に於いて 深妙の道を行ぜずして
衆苦に悩乱せらる
妙法蓮華経 方便品第二 128頁

境涯の低い人は、方便品で指摘されているような特徴がありますね。

まず、鈍根ですから、鈍い人ということです。

小法を願うところを見ると、ちっぽけなこと、浅いことで満足してしまう傾向があるようです。

生死に貪著しですから、欲望は強く、欲深いことが読み取れます。

仏と出会っても仏道修行をするわけでもなく、さまざまな苦しみに喘いでいるという。

みっともない姿ですが、あまり他人事とも思えませんね。

気を付けておきましょう。
posted by lawful at 06:00| 法華経並開結

2015年11月14日

悪い考え方が悪い集団を生み出します

彼等が大悪法を尊まるる故に理不尽の政道出来す
下山御消息 351頁

人々のものの考え方が悪くなると、政治も悪くなります。

特に宗教的な事柄に関し、間違った考え、悪い考えが広まると、その世の中は乱れます。当然、政治も悪くなり、経済も社会も、また文化も悪くなります。

所詮は、ひとりひとりの心のあり様ということでしょう。

また、人間は成熟していくにしたがって正しくなっていくものです。

よって、子供の頃は、未完成も未完成であり、小さな獣といってもよい存在です。

小学校、中学校の頃を思い出しますと、当然のことながら、小学生、中学生は、子供じみた考え方で生きています。

それはそれで結構なのですが、小学校高学年から中学にかけて、私は、子供じみた考え方に馴染めず、イライラしていたものです。

また、小学生、中学生相手の教員も子供の相手をしている内に子供じみた考え方、つまり、大人の社会では通用しない考え方をしていくのですね。

私は、この教員の非常識な感覚にも馴染めなかったですね。

やはり、学校という制度は、特殊な制度でしょう。一括教育には便利ですが、今後は、根本的な改善が要求されるでしょう。

その集団の構成員の境涯が悪ければ、その集団は悪くなるということですね。

まずは、ひとりひとりということでしょうか。

そうはいっても、学校という制度がすぐに根本的に改善されるとは思えず、我々としては、学校と関わらなくてもよいところで豊かに生きていけばよいということですね。

いちいち相手にしているだけ疲れるというものです。

実際、小学生、中学生は疲れているようです。かわいそうとは思いますが、「彼等が大悪法を尊まるる故に」という状態では、如何ともしがたいですね。

当面、卒業まで我慢していただき、その後は、晴れやかに生きていっていただきたいものです。
posted by lawful at 06:00| 御書

2015年11月13日

要らないものは発生源に返却しましょう

呪詛諸の毒薬に 身を害せんと欲せられん者は 
彼の観音の力を念ぜば 還って本人に著きなん
妙法蓮華経 観世音菩薩普門品第二十五 635頁

呪いと多くの毒薬に、身を害われようとしているものは、
かの観音の力を念ずれば、それらは却ってもとのひとに呪い・毒薬がつくことになるだろう。
三枝充悳 『法華経現代語訳(全)』第三文明社 491頁

呪詛や諸の毒薬で身が害せられようとした者でも、かの観音の力を念ずるならば、その結果はかえって害そうとした本人に及ぶ。
須田晴夫『新法華経論 現代語訳と各品解説』ラピュータ 367頁

我々としては、人に対して呪いをかける必要はありません。

ただ、人から受けた呪いは、そのまま、その人にお返しする必要があります。

なぜなら、そのような呪いは、我々にとって必要ないからです。

我々は、お返しするだけであって、我々が呪いを発生させる必要はありません。

日々、生きていきますと、呪いや諸々の毒薬に相当するものを受けてしまう場合があります。

その時、非常に不愉快になりますが、いつまでも不愉快なままではつまらないので、さっさと、その不愉快の原因である呪いや諸々の毒薬を、それを発した本人に返却することです。

どうやって返却するか。

観音の力を念じて返却すればよいのですが、観世音菩薩普門品は妙法蓮華経の中に位置づけられていますので、根本的に考えますと、南無妙法蓮華経との唱題行で返却することになります。

観世品菩薩が妙法の働きの表現であるならば、観世音菩薩の名を称えることはそのまま妙法を称えることに他ならない。すなわち、観音品が説く「南無観世音菩薩」の称名は、実は「南無妙法蓮華経」の唱題を意味していると解せられる。
須田晴夫『新法華経論 現代語訳と各品解説』ラピュータ 374頁

私も須田氏の指摘の通りと思いますね。

確かに「南無観世音菩薩」でよいのですが、観音品だけでなく、妙法蓮華経二十八品全部の功力をもって、呪詛や諸々の毒薬を返却したいと考えますと、やはり、「南無妙法蓮華経」と唱えて返却する方が、より一層、強く、確実に、根本的に返却できます。

観音品だけでなく、観音品を含めた妙法蓮華経二十八品という観点からすると、「南無観世音菩薩」では弱いのですね。簡単に言うと28分の1の功力となってしまいます。

28分の1では、もの足りない。

やはり、全二十八品の功力でもって、対応したいところです。

よって、「南無妙法蓮華経」と唱えて、呪詛や諸々の毒薬を発した人に、そのまま、その呪詛と諸々の毒薬をお返しするわけです。

特別にその人に対して悪態をつく必要もありません。

我々としては、要らないものをお返しするだけのことなのですね。

特別に我々が呪いや諸々の毒薬を準備する必要すらないのですね。返却するだけなのですから。簡単なものです。
posted by lawful at 06:00| 法華経並開結

2015年11月12日

諸仏世尊が世に出現した目的

諸仏世尊は、衆生をして仏知見を開かしめ、清浄なることを得しめんと欲するが故に、世に出現したまう。衆生に仏知見を示さんと欲するが故に、世に出現したまう。衆生をして仏知見を悟らしめんと欲するが故に、世に出現したまう。衆生をして仏知見の道に入らしめんと欲するが故に、世に出現したまう。
妙法蓮華経 方便品第二 121頁

諸仏世尊が世に出現した目的は、衆生の成仏です。

これを外して仏法はありません。

この開示悟入の「一大事因縁」を説いたからこそ、方便品は重要な品と位置付けられているのですね。

教団を見る時に、その教団の目的を見るのがよいですね。

衆生の成仏が目的であるならば、その教団は本物です。

そうでなければ偽物です。

簡単そうに思えますが、偽善教団は、ごまかしてきますので、注意が必要です。

偽善教団でも、衆生の成仏が目的ですよとは言います。言うのは簡単ですから言わしておけばよいのですが、我々としては、その教団の行っていることを見ればよいのですね。

大体、偽善教団は、衆生の成仏ではなく、お金が目的です。それ以外の目的は皆無といってよいでしょう。

つまり、お金の流れを見ればよいのですね。

教団運営には、多少の資金が要りますから、その分は控除して、それ以外の余分な金員を集め始めた場合、その教団から距離を置くことですね。お金の援助をしないという形で距離を置くのですね。

そうしますと被害がなくなります。

我々は、ただただ、方便品通り、成仏していけばよいのです。

まずは、我々の中から仏知見を開くことです。開いたのち、その仏知見が示されますので、我々はその仏知見を確認します。その確認した仏知見には力があることを悟り、仏知見の道に入っていくのですね。

開き、示され、悟って、その後、仏知見の道に入る。道に入った後は、道ですから前に進めばよいですね。自らの仏道を進んでいくのですね。

途上、偽善教団があらわれたら、避けて通ればよいでしょう。

我が道を行くのであって、偽善教団の道を行く必要はありません。

方便品を読みますと、どのように行動すればよいか分かります。今後も法華経研鑽に励むことですね。
posted by lawful at 06:00| 法華経並開結

2015年11月11日

初心の行者の心得

正直の初心の行者の法華経を修行する法は上に挙ぐるところの経経・宗宗を抛つて一向に法華経を行ずるが真の正直の行者にては候なり、而るを初心の行者・深位の菩薩の様に彼彼の経経と法華経とを並べて行ずれば不正直の者となる
下山御消息 345−346頁

仏道修行には、順番があります。

初心の行者の心得としては、「華厳・大日経・般若経・阿弥陀経等の四十余年の経経」を行ずるのではなく、あくまでも法華経を行ずることに専念することです。

法華経以外の経典には目もくれないことが肝要ということです。

法華経信仰の軸がフラフラでは、あっちに行き、こっちに行きとなってしまい、信仰における迷子になってしまいます。

自分の依って立つべきところは、しっかりと固めておくべきでしょう。

その法華経にしても深い法門ですから、実のところ、法華経信仰、法華経研鑽だけで一生が終わるといっても過言ではありません。

他の経典を参照する暇が取れないのですね。

「若し間有らば」参照も可能でしょうが、なかなかそうならないでしょう。

凡夫ですから、深位の菩薩のように何でもできるわけでもなく、法華経に専修するのが妥当なところでしょう。

もちろん、御書を研鑽する中で、例えば、「守護国家論」や「立正安国論」を研鑽する場合、法然の『選択本願念仏集』の確認は外せません。よって、選択集を読みますが、浄土三部経までは手が回りません。深位の菩薩ではないですからね。

我々は、ある意味、いつまで経っても初心の行者です。常に初心を忘れない行者と言い換えるといいかも知れません。

ただ、御書、法華経を軸に信仰、研鑽を続けていきますと、多少は、余裕が出てきます。その時に、他宗の経典を読むことも考えてよいと思います。

では、何を読むかということですが、やはり、『聖書』ではないかと思いますね。大雑把に言うと、世界の半分は西洋であり、西洋は『聖書』で形作られているともいえます。

世界の半分、西洋を理解するためにも『聖書』は欠かせないわけです。

御書、法華経の信仰世界との対比として読むにも、『聖書』は適切でしょう。全く違う宗教ですから。浄土、真言、禅等であれば、同じ仏教ですから対比としては、あまり適切ではないですね。

『聖書』を読むにしても、より一層、御書、法華経の理解を深めるためという側面があります。

やはり、どこまで行っても、御書、法華経の信仰、研鑽が中心ということですね。
posted by lawful at 06:00| 御書

2015年11月10日

バランスを取ることが大切

破すべきをば・これをはし取るべきをば此れを用う
撰時抄 270頁

世の中に、全き善もなければ、全き悪もありません。

善悪混交しています。

そこで、善を取り、悪を破す必要が生じますが、これが困難ですね。

面倒なのですね。

しかし、悪をそのままにしてはいけませんから、「破すべきをば・これをはし」を実践しなければなりません。

そして、善を「取るべきをば此れを用う」としなければなりません。

例えば、創価学会という教団について、悪い点があると指摘した時に、「創価学会にはいいところもある」と言う人がいます。

では、その人が創価学会について、「破すべきをば・これをはし取るべきをば此れを用う」との通りにしているかというと、そうではないのですね。

「いいところもある」と言いながら、実は、悪いところをそのまま容認しているだけなのですね。

悪いところを破していないのですね。

その割には、創価学会のいいところと評価できるところ、つまり、『御書』『妙法蓮華経並開結』『御書辞典』『仏教哲学大辞典』を発行したことですが、これらの書籍を活用しないのですね。と言うよりも無視しています。

「いいところもある」と言うならば、そのいいところを用いるべきでしょう。

その用いるべきところを用いず、「いいところもある」ですから、言っていることと行っていることが分裂しています。その人自身が分裂しているからでしょう。

破すべきをば・これをはさず取るべきをば此れを用いないになってしまっているのですね。逆になっています。

我々としては、御書通りの振る舞いで生きていきましょう。
posted by lawful at 06:00| 御書

2015年11月09日

正しい仏法修行を行うべきであること

仏法には賢なる様なる人なれども時に依り機に依り国に依り先後の弘通に依る事を弁へざれば身心を苦めて修行すれども験なき事なり
下山御消息 344頁

仏法の法門について知識があったところで、修行の方法を間違うと、なんらの功徳もないということですね。

仏法においては、「時」を知ることが大切です。タイミングを外しているようでは、仏法修行はおぼつかないでしょう。

「機」を知ることも大切ですね。人の能力、根性、性質を見極めませんと、トンチンカンな説法になります。その人に応じた話をするのが適切です。

「国」を知ることも重要ですね。どのような環境かを把握しませんと、場違いな人、痛い人になってしまいます。

「先後の弘通」は、先に広まった教えを把握したのち、その次に来るべき教えを説けということですが、物事の順番を間違えるな、と考えると分かりやすいでしょう。

何事も順番がありますので、順序よく物事を進めるべきということですね。

これら、「時」「機」「国」「先後の弘通」を踏まえないで、仏法修行をしても、何にもなりません。

いくら「身心を苦めて」もダメです。

苦行をしていると功徳があるのではと思いがちですが、その苦行が「時」「機」「国」「先後の弘通」を踏まえないものであれば、功徳などありません。

まずは、正しく仏法修行を行うことですね。

「仏法には賢なる様なる人」であっても、間違った修行を行う場合があるというぐらいですから、凡夫であれば、より一層、気を付けなければなりません。
posted by lawful at 06:00| 御書

2015年11月08日

小善が一番悪いこと

小善を持て大善を打ち奉り権経を以て実経を失ふとがは小善還つて大悪となる薬変じて毒となる親族還つて怨敵と成るが如し難治の次第なり
下山御消息 344頁

善は善でも小善では意味がないですね。

善であるならば、大善であるべきです。

しかし、世の中を見ますと大善はほとんど見当たりません。

その割には、小善はよく見かけます。

小善が集まって大善となるかというと、そうはならないのですね。

大悪になっています。

所詮、いくら集まっても小善は小善のままであり、「小善還つて大悪となる」との通り、世の中が乱れます。

中途半端な善は、大悪に通じますね。

遠慮せず、大善をすればよいところ、大善をするのは大変だから、小善でお茶を濁そうとするのですね。その態度が大悪を助長するというわけです。

悪だけであるならば、悪いことがはっきりしていますので、悪いところを取り除こうとする動きに繋がります。

しかし、小善が混じっていると、悪だけでなくなりますから、いいところもあるではないかということで、悪いところを取り除こうとする動きが鈍くなるのですね。

つまり、悪を悪のまま放置する作用を小善が果たすのですね。

よって、小善は大悪となるわけです。

この傾向を直すのは困難ですね。

人は、つい、小善を為してしまいますから。悪気はないのですが、そこに深刻さがあります。

「小善還つて大悪となる」。この言葉は、非常に重い言葉ですね。

心したいところです。
posted by lawful at 06:00| 御書

2015年11月07日

日蓮本尊は、自分で探しませんと手に入りません

日興が云く、聖人御立の法門に於ては全く絵像・木像の仏・菩薩を以て本尊と為さず、唯御書の意に任せて妙法蓮華経の五字を以て本尊と為す可しと即ち御自筆の本尊是なり
富士一跡門徒存知の事 1606頁

絵像、木像を本尊とせず、妙法蓮華経の五字を本尊としており、日蓮自筆の本尊がまさに本尊であると言っています。

「富士一跡門徒存知の事」は、日興の命によって、日澄が筆述した書のようです。

いずれにしても、興門派といいますか、日蓮正宗の考え方が示されている書とみてよいでしょう。

日蓮正宗では、絵像、木像を本尊にしません。妙法蓮華経の五字を本尊にしており、その妙法蓮華経の五字を大書し、その周りに釈迦牟尼仏、多宝如来、四菩薩、舎利弗、迦葉等々を書いた曼荼羅を本尊としています。

紙幅の本尊なのですね。寺院では、板に彫った本尊がありますね。

簡単に言うと、文字が本尊を構成しているわけですね。

「富士一跡門徒存知の事」が言うように、日蓮自筆の本尊を本尊として、授与すればよいのですが、日蓮正宗において、日蓮自筆の本尊を授与したとは寡聞にして知りません。

歴代の法主が書写した本尊を授与していますね。

破門以前の創価学会も、同様ですね。

破門後の創価学会は、江戸時代の大石寺の法主であった日寛の本尊を授与し始めましたね。日蓮の本尊ではないのですね。

もちろん、創価学会は、日蓮自筆の本尊がありませんから、授与のしようがありません。

せいぜい、日昇の本尊を所持しているぐらいでしょうか。では、その日昇の本尊を会員に授与するかというと、しないのですね。なぜか、日寛の本尊を授与する。よく分かりませんね。

日蓮正宗には、日蓮自筆の本尊が何幅かあるわけですから、日蓮本尊を授与すればよいと思うのですが、授与しないのですね。

もちろん、文字が本尊ですから、然るべき文字があれば、その本尊は本物ですが、やはり、日蓮の本尊があるならば、その本尊を授与すべきでしょう。

日蓮正宗にしても、創価学会にしても、本尊を出し惜しみする気がありますね。

日興の弟子分に於ては在家出家の中に或は身命を捨て或は疵を被り若は又在所を追放せられ一分信心の有る輩に忝くも書写し奉り之を授与する者なり
同書 同頁

これも「富士一跡門徒存知の事」の言葉ですが、死ぬほどのことがあったり、傷を負う程のことがあったり、追放される程のことがあったりした場合、信心があると認定され本尊を授与されるという。

出し惜しみにもほどがありますね。

元々、日蓮正宗には、本尊を出し惜しむという伝統があるようです。

信仰したい人は一定数いるわけですから、その人たちに本尊を授与すればよいと思うのですが、いろいろと条件を付けます。

さて、授与する段階になって、日蓮本尊が授与されるのかと思いきや、違う人が書いた本尊が授与される。

何かおかしいですね。

そういう教団なのでしょう。創価学会もその教団の流れを汲んでいますので、同じような傾向がありますね。

教団が所持している一番いい本尊は、授与しないのですね。

日蓮正宗や創価学会の場合、いつまでたっても、日蓮本尊の授与がありませんので、『日蓮聖人真蹟集成』第十巻の本尊集を手に入れるなどするのがよいですね。

やはり、信仰するにあたり、教団は役に立たないですね。邪魔ですらあります。

信仰は、自分自身で行っていくということですね。

本尊にしても、自分で探さなければなりません。

日蓮仏法を信仰するならば、日蓮本尊を拝むべきでしょう。
posted by lawful at 06:00| 御書

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