正直の初心の行者の法華経を修行する法は上に挙ぐるところの経経・宗宗を抛つて一向に法華経を行ずるが真の正直の行者にては候なり、而るを初心の行者・深位の菩薩の様に彼彼の経経と法華経とを並べて行ずれば不正直の者となる
下山御消息 345−346頁
仏道修行には、順番があります。
初心の行者の心得としては、「華厳・大日経・般若経・阿弥陀経等の四十余年の経経」を行ずるのではなく、あくまでも法華経を行ずることに専念することです。
法華経以外の経典には目もくれないことが肝要ということです。
法華経信仰の軸がフラフラでは、あっちに行き、こっちに行きとなってしまい、信仰における迷子になってしまいます。
自分の依って立つべきところは、しっかりと固めておくべきでしょう。
その法華経にしても深い法門ですから、実のところ、法華経信仰、法華経研鑽だけで一生が終わるといっても過言ではありません。
他の経典を参照する暇が取れないのですね。
「若し間有らば」参照も可能でしょうが、なかなかそうならないでしょう。
凡夫ですから、深位の菩薩のように何でもできるわけでもなく、法華経に専修するのが妥当なところでしょう。
もちろん、御書を研鑽する中で、例えば、「守護国家論」や「立正安国論」を研鑽する場合、法然の『選択本願念仏集』の確認は外せません。よって、選択集を読みますが、浄土三部経までは手が回りません。深位の菩薩ではないですからね。
我々は、ある意味、いつまで経っても初心の行者です。常に初心を忘れない行者と言い換えるといいかも知れません。
ただ、御書、法華経を軸に信仰、研鑽を続けていきますと、多少は、余裕が出てきます。その時に、他宗の経典を読むことも考えてよいと思います。
では、何を読むかということですが、やはり、『聖書』ではないかと思いますね。大雑把に言うと、世界の半分は西洋であり、西洋は『聖書』で形作られているともいえます。
世界の半分、西洋を理解するためにも『聖書』は欠かせないわけです。
御書、法華経の信仰世界との対比として読むにも、『聖書』は適切でしょう。全く違う宗教ですから。浄土、真言、禅等であれば、同じ仏教ですから対比としては、あまり適切ではないですね。
『聖書』を読むにしても、より一層、御書、法華経の理解を深めるためという側面があります。
やはり、どこまで行っても、御書、法華経の信仰、研鑽が中心ということですね。