呪詛諸の毒薬に 身を害せんと欲せられん者は
彼の観音の力を念ぜば 還って本人に著きなん
妙法蓮華経 観世音菩薩普門品第二十五 635頁
呪いと多くの毒薬に、身を害われようとしているものは、
かの観音の力を念ずれば、それらは却ってもとのひとに呪い・毒薬がつくことになるだろう。
三枝充悳 『法華経現代語訳(全)』第三文明社 491頁
呪詛や諸の毒薬で身が害せられようとした者でも、かの観音の力を念ずるならば、その結果はかえって害そうとした本人に及ぶ。
須田晴夫『新法華経論 現代語訳と各品解説』ラピュータ 367頁
我々としては、人に対して呪いをかける必要はありません。
ただ、人から受けた呪いは、そのまま、その人にお返しする必要があります。
なぜなら、そのような呪いは、我々にとって必要ないからです。
我々は、お返しするだけであって、我々が呪いを発生させる必要はありません。
日々、生きていきますと、呪いや諸々の毒薬に相当するものを受けてしまう場合があります。
その時、非常に不愉快になりますが、いつまでも不愉快なままではつまらないので、さっさと、その不愉快の原因である呪いや諸々の毒薬を、それを発した本人に返却することです。
どうやって返却するか。
観音の力を念じて返却すればよいのですが、観世音菩薩普門品は妙法蓮華経の中に位置づけられていますので、根本的に考えますと、南無妙法蓮華経との唱題行で返却することになります。
観世品菩薩が妙法の働きの表現であるならば、観世音菩薩の名を称えることはそのまま妙法を称えることに他ならない。すなわち、観音品が説く「南無観世音菩薩」の称名は、実は「南無妙法蓮華経」の唱題を意味していると解せられる。
須田晴夫『新法華経論 現代語訳と各品解説』ラピュータ 374頁
私も須田氏の指摘の通りと思いますね。
確かに「南無観世音菩薩」でよいのですが、観音品だけでなく、妙法蓮華経二十八品全部の功力をもって、呪詛や諸々の毒薬を返却したいと考えますと、やはり、「南無妙法蓮華経」と唱えて返却する方が、より一層、強く、確実に、根本的に返却できます。
観音品だけでなく、観音品を含めた妙法蓮華経二十八品という観点からすると、「南無観世音菩薩」では弱いのですね。簡単に言うと28分の1の功力となってしまいます。
28分の1では、もの足りない。
やはり、全二十八品の功力でもって、対応したいところです。
よって、「南無妙法蓮華経」と唱えて、呪詛や諸々の毒薬を発した人に、そのまま、その呪詛と諸々の毒薬をお返しするわけです。
特別にその人に対して悪態をつく必要もありません。
我々としては、要らないものをお返しするだけのことなのですね。
特別に我々が呪いや諸々の毒薬を準備する必要すらないのですね。返却するだけなのですから。簡単なものです。