まず、相待妙とは何か。「諸宗問答抄」を通しながら確認してみましょう。
相待妙の下にて又約教・約部の法門を釈して仏教の勝劣を判ぜられて候
諸宗問答抄 376頁
相待妙は、各経典について勝劣をつけることですね。華厳部・阿含部・方等部・般若部の経典を爾前権教と判定し、法華経を至高の経典と判断するのが相待妙ですね。
では、絶待妙とは何か。
絶待妙と申すは開会の法門にて候なり、此の時は爾前権教とて嫌ひ捨らるる所の教を皆法華の大海におさめ入るるなり
同書 377頁
絶待妙は、開会の法門であるという。一度は、爾前権教として、捨てて置いた経典を法華経の中に取り込むのが絶待妙ですね。
法華経の中に爾前権教を取り込んでいますので、法華経と爾前権教が混ざり、一緒になるのかというと、そうではないようです。
設ひ爾前の円を今の法華に開会し入るるとも爾前の円は法華の一味となる事無し、法華の体内に開会し入れられても体内の権と云われて実とは云わざるなり
同書 378頁
爾前権教が法華経と一緒になることはないのですね。法華経の体内に入ったにしても、体内において権という位置付けになるわけです。法華経そのものの実にはならないということです。
法華経の内部においても厳然と違いがあるということですね。絶待妙だからといって相待妙の側面が排除されるわけではありません。
相待妙と絶待妙とは共に存在するものと考え、双方ともに一緒に把握しなければなりませんね。
相待妙の時も絶待妙の時も倶に須く悪法をば離るべし
同書 同頁
相待妙、絶待妙は、共に悪法を離れるためにあるのであって、絶待妙だからといって、悪法が悪法のままでよいということにはなりません。
法華経の中に爾前権教を取り込んだにしても、その爾前権教そのままでよしとするのではなく、法華経という体内の実という中心があった上で、その爾前権教を体内の権として活用することが絶待妙ということですね。
この絶待妙の考え方からすると、爾前権教だけでなく、キリスト教、イスラム教をも法華経の中に取り込みながら、あくまでも体内の権という側面で活用できますね。
確かに、相待妙の次元では、キリスト教もイスラム教も外道という位置付けであり、法華経と対比した場合、嫌い捨てられる宗教となりますが、キリスト教、イスラム教という伝統巨大宗教がそう簡単に切り捨てられるような柔な宗教とは思えません。
キリスト教、イスラム教には、それぞれ問題点はあるにしても、それはそれとして、我々としては、体内の権として活用できる点を見つけ出し、法華の大海のなかで自由自在に活用するほうが価値的と思われます。
仏教徒よりも多くの信者を抱えているキリスト教、イスラム教には、優れた点があるわけで、その良質な点を見逃すことは好ましくありません。
異文化理解の点においても、正しく、キリスト教、イスラム教を把握することが重要ですね。
絶待妙の考え方は、グローバル化していく世界において、必要な考え方といえるでしょう。