一念無明の迷心は磨かざる鏡なり是を磨かば必ず法性真如の明鏡と成るべし、深く信心を発して日夜朝暮に又懈らず磨くべし何様にしてか磨くべき只南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを是をみがくとは云うなり
一生成仏抄 384頁
先を見通せない迷いの心は、汚れた鏡であると言っています。
汚れた鏡は、きれいに磨く必要があります。
きれいに磨きますと、先を見通すことのできる智慧のある人間になるというわけですね。
では、どのようにして磨けばよいのか。
日蓮は、南無妙法蓮華経と唱えよ、と言います。
自らが発する南無妙法蓮華経により、自らの汚れた鏡をきれいに磨くということです。
自分自身には、今までの人生の中において、さまざまな業がへばりついています。所謂、悪業ですね。それを自分の唱題によって、ひとつひとつ取り除いていくわけです。
単に、漫然と南無妙法蓮華経と唱えるのではく、今、自分は自分の汚れを落とすために、自らを磨いているのだと認識したうえで、唱えることが大事です。
所詮、信仰とは、自らを磨くことに他ならず、磨いているという意識なしに南無妙法蓮華経と唱えても、意味はありません。
このように御書には、どのように信仰すればよいかが明確に示されています。
我々としては、御書を研鑽しながら信仰すべきですね。