アフィリエイト広告を利用しています

2015年10月17日

古典は、その古典自身をそのまま読むのが本筋です

偉大な本は、おしなべて退屈な部分を含んでいるし、古来、偉大な生涯は、おしなべて退屈な期間を含んでいた。現代のアメリカの出版業者が、初めて持ち込まれた原稿として旧約聖書を目のあたりにした場合を想像してみるがいい。たとえば、家系について彼がどんなコメントをするかを想像するのはむずかしくない。「ねえあなた」と彼は言うだろう。「この章はぴりっとしていませんな。ほとんど説明もなしに、ただ固有名詞をずらずら並べたって読者の興味を引きつけることはできませんよ。確かに、ストーリーの冒頭は、スタイルもなかなか見事です。それで、私も初めはすこぶる好ましい印象を与えられたのでした。でも総じて、何もかも洗いざらい語りたいという気持ちが強すぎます。さわりの部分を選び出し、余計な個所を省いてください。そして、適当な長さに縮まったら、もう一度原稿をお持ちください。」こんなふうに現代の出版業者は言うだろう。
『ラッセル幸福論』安藤貞雄訳 岩波文庫 68−69頁

所謂、古典といわれるものは、すべてといっていいほど、上記の指摘を蒙るでしょうね。

旧約聖書に限らず、法華経においても固有名詞の羅列があり、その部分は「ぴりっとしていませんな」と言われるでしょうね。

内容に関しては、「なかなか見事です」との評価を得るにしても、語り過ぎとの指摘を受けます。

分量が多いとの指摘ですね。

余計な個所を取り除き、適当な長さにしてくださいというわけです。

『ラッセル幸福論』は1930年の著作ということですから、今から85年も前のことです。

その当時の出版業界ですら、上記のとおりなのですから、今でしたら、どうなるのでしょうか。

このような感じかもしれませんね。

「固有名詞の羅列は意味不明ですね。ここは要りません。ストーリー、スタイルもなかなか見事ですが、少し込み入っていますね。もう少し簡略にしてもらうとよいでしょう。今の読者は、長文を好みませんので、短くしてください。この原稿の要約を作成いただきましたら、それをお持ちください。こちらで、再度、短く編集します」

もしかしたら、そもそも採用されず、出版すらされないかもしれません。

古典は、だいたい冗長です。

御書にしても、冗長な部分がありますし、法華経にしてもそうです。

正直なところ、現代の読者向きの本ではありませんね。

では、御書、法華経の要約を作り、短く編集したものでよいかというと、そうでもないのですね。

要約や短くしたものであると、御書、法華経の魅力が半減するのですね。半減どころか、ほとんど魅力が減じてしまうのですね。

所謂、資料になってしまうのですね。日蓮や法華経製作者の息吹が感じられなくなるのですね。

やはり、古典は、そのまま読むのがよいようです。

ただ、そのまま読むといっても、ただでさえ量が多い古典をあれもこれも読むわけにはいきません。

選択をする必要が生じるのですね。

私の場合、御書と法華経とを選択していますが、人それぞれの選択があり得ます。

クリスチャンの人にとっては、聖書でしょうし、ムスリムの人にとっては、コーランとなるでしょう。

その他、いろいろな選択があるでしょう。

要約でいいならば、たくさん読めるでしょうが、上記のとおり、要約では肝心なところが抜け落ちます。

いたずらに量を求めるのではなく、質を求めるべきでしょう。つまり、自分が読むべき古典を絞り込むことです。

絞り込んだ古典に関しては、何度も読み返すべきであり、この点においては、量を求めるべきですね。
posted by lawful at 06:00| 読書

2015年10月16日

日常生活を楽しむこと

「わしが小坊主のとき、先代がよう云われた。人間は日本橋の真中に臓腑をさらけ出して、耻ずかしくない様にしなければ修業を積んだとは云われんてな。あなたもそれまで修業をしたらよかろ。旅などはせんでも済む様になる」
夏目漱石『草枕』新潮文庫 148頁

禅僧の言葉として発せられたものです。

なかなか味わいのある台詞ですね。

恥かしくないように生きろということです。

そうすれば、旅などしなくてもよくなるということです。

旅など、自分の住んでいるところと違うところに行くことは、見識を広めるためにおいても、いいことだと思われるところですが、別に無理をしてまで、あちこち行く必要もないでしょうね。

ある程度は、旅もすればよく、あちこち行くことも結構だと思いますが、いつまでも旅だなんだといってフラフラしているのも考えものですね。

今、自分がいるところで充実するべきでしょう。

あそこへ行きました、ここへ行きました、の報告に終始している人は、禅僧からすると修業を積んでいない人と映るでしょうね。

自分が動かずとも楽しめるほどの人間になるべきですね。存在そのものを楽しむという視点です。

旅は旅で結構ですが、まずは、自分の住んでいるところで楽しむという基本、根本があった上での旅ならば意味があるでしょう。

自分の住んでいるところが気に入らないならば、引っ越しをすればよいだけです。

日常生活の充実がメインであって、非日常は非日常ですから時々でよいのですね。

人生の時間のほとんどを占める日常生活の幸福なくして人生の幸福もありません。

禅僧の台詞は、このようなことを示していると思いますね。
posted by lawful at 06:00| 文学

2015年10月15日

天は見ている

このまま人に知られず北方に窮死すると思われた蘇武が偶然にも漢に帰れることになった。(中略)天は矢張り見ていたのだという考えが李陵をいたく打った。見ていないようでいて、やっぱり天は見ている。彼は粛然として懼れた。
中島敦『李陵・山月記』新潮文庫 150−151頁

人生、ままならないことが続くものですが、腐ることなく自らが為すべきことを為していれば、それなりの結果が出てくるものです。

天は見ているということですね。

しかし、人は、為すべきことを為し続けることなく、途中で、投げ出してしまいます。

このような人を天は見捨てます。

たったこれだけのことですが、実際に自身が困難に陥った場合、為すべきことを淡々と為すことができるかというと、できないようです。

腐り、憤り、文句を言い、肩に力が入り、無駄な動きに終始し、為すべきことは為さない。

天を怒らせることばかりをするのですね。そして、天は見ていないと悪態をつく。

実は、天は、よく見ているのですね。よく見ているけれども、手を差し伸べない。

なぜか。天は、しっかり見ることによって、手を差し伸べてはならない人間であると判定しているのですね。

天は、やはり見ている。ただ、人によって手を差し伸べる時もあれば、手を差し伸べない時もある、ということですね。

我々としては、天から手が差し伸べられるほどの人間になるべく、研鑽に努めたいものです。
posted by lawful at 06:00| 文学

2015年10月14日

そう簡単に罪は消えないこと

日蓮も過去の種子已に謗法の者なれば今生に念仏者にて数年が間法華経の行者を見ては未有一人得者千中無一等と笑しなり今謗法の酔さめて見れば酒に酔る者父母を打て悦しが酔さめて後歎しが如し歎けども甲斐なし此罪消がたし
佐渡御書 959頁

日蓮は、法華経を第一として仏教を再構成した人ですが、清澄寺が天台宗の寺であることから、天台・真言の教義を学び、また、念仏をも学んでいた経緯があり、上記のような記述が出てくるのですね。

鎌倉仏教の始祖たちを見ると、法然は念仏、道元は禅、日蓮は法華経とそれぞれ専修となるのですが、それまでの仏教界は、八宗兼学だけでなく、禅宗、浄土宗をも含め、総合仏教の様相であったのですね。

法然、道元、日蓮にしても、全員、比叡山出身であり、比叡山が総合仏教センターであったことが窺われます。

日蓮は、自分の過去世の謗法の故、仏門に入って数年の間、念仏者の観点から、法華経の行者を成仏できない者と笑ったことがあり、この罪は消えがたいと述懐しています。

当時は、これが正しいと思っていたことでしょうが、月日が流れ、日蓮自身、仏教研鑽を積む中で、法華経を最高とする法門に行き付き、過去の過ちに思い当たるのですね。

我々としても、同じようなことがありますね。

新宗教団体の考え方に染まっている時は、その教団の言うことを正しいと思い込んでいましたが、研鑽を続けていく中で、教団の言っていることが、御書、法華経と乖離しており、まったく正しくないと気付くのですね。

その時、過去において、教団の考え方を吹聴していた自分自身を恥ずると共に、この罪を消したいと思うのですが、日蓮の言葉の通り、そう簡単にこの罪が消えるわけではありません。

長い年月をかけて、誤った考え方で他者に迷惑をかけたことは、長い年月をかけて償わなければなりません。

もう知りませんよ、と言ってごまかせるものではないのですね。

我々としては、今後、御書、法華経を研鑽していく中で、間違った解釈、曲解を排していかなければなりません。

そして、価値のある仏法信仰をしていく中で、他者によい影響を与えるほどの人間になることです。

そうすることによって、今までの罪を消していきたいと思います。
posted by lawful at 06:00| 御書

2015年10月13日

日蓮は本当のことを言ってしまっています

世間の浅き事には身命を失へども大事の仏法なんどには捨る事難し故に仏になる人もなかるべし
佐渡御書 956−957頁

仏教は、仏になること、成仏することを目指した宗教です。

しかし、日蓮によると、仏になる人、成仏する人は、ほとんどいないようです。

手厳しいですね。

そう簡単に仏になれるとは思いませんが、ほとんどいないという事実を述べてしまうとは、日蓮という人はおもしろい人ですね。本当のことを言ってしまっています。

新宗教団体になりますと、仏になれるとは言わなくとも、絶対に功徳があると強調します。しかし、功徳を得る人など、ほとんどいないという事実は隠します。

日蓮の方が良心的ですね。

考えてみれば、仏の境涯たるもの、一生をかけて完遂する事業でしょう。打ち出の小槌のような感覚で信仰する人には縁がないでしょうね。

そのような人は、新宗教団体にうまく騙されるのですね。自業自得というところでしょうか。

我々としては、日蓮の言葉を重く受け止め、仏の境涯に至る人は、ほとんどいないけれども、それにもかかわらず、我々は信仰をし、仏の境涯を目指すという気概が必要ですね。
posted by lawful at 06:00| 御書

2015年10月12日

愚か者との縁を切っても問題ありません。むしろ、切るべきです

又た菩薩の 諸の戯笑
及び癡なる眷属を離れ 智者に親近し
一心に乱を除き 念を山林に摂め
億千万歳 以て仏道を求むるを見る
妙法蓮華経 序品第一 85−86頁

菩薩の特質のひとつが妙法蓮華経序品第一に示されています。

菩薩は、くだらない戯れを寄せ付けません。そして、くだらない笑いには目もくれません。

愚か者との縁は切り、智者と親しむよう心掛けます。

乱れた心を安定させ、禅定の状態を保ち、仏道を求めます。

この菩薩と比べ、我々はどうか。

くだらないことに多くの時間を取られ、愚か者に振り回されている感じがしますね。

智者に近づく努力、言い換えれば、良書を読む努力を怠っている懸念がありますね。

反省することしきりです。

序品で示された菩薩のように、メリハリが必要ですね。

切るべきは切るという冷徹な姿勢がありませんと、ダラダラした人生になります。

そして「一心に」ですから、仏道を求めるため、集中することが肝要です。

よく世間で言われる、選択と集中ということを法華経も指摘しているのですね。

古来、人間の行わなければならないことは、さほど変わっておらず、実践する人間が、いつの世にもほとんどいないということでしょう。

我々としては、法華経を通し、仏道を求める実践を行っていきたいものです。
posted by lawful at 06:00| 法華経並開結

2015年10月11日

耐え忍び、仏道を求め、境涯を上げることが肝要であること

又た仏子の 忍辱の力に住して
増上慢の人の 悪罵捶打すれども
皆悉な能く忍んで 以て仏道を求むるを見る
妙法蓮華経 序品第一 85頁

仏道修行者は、どのような人間なのか。

まず、耐え忍ぶのが仏道修行者です。

増上慢という思い上がった人間からの悪口、罵倒、暴力等々があったにしても、すべて耐え忍ぶということです。

なぜ、耐えるのかというと、仏道を求めるという大きな目的があるからですね。

言い換えると、思い上がった人間の相手をしている暇はないということです。

仏道を求めるにあたって、思い上がった人間は必要ないのですね。勝手にさせておけばよいということでしょう。

人生の時間は、無限ではなく有限です。若い時は永遠のように感じられた人生の時間も、年を取るにしたがって、あまりにも限られた時間であることが実感されます。

その時に、思い上がった人間を相手にする時間があるのかという問いを立てた場合、全くないという答えが瞬時に出てきます。

貴重な時間、つまり、貴重な我々の命をくだらない人間のために使ってはいけません。

若い時には分からないものです。よって、思い上がった人間、くだらない人間は、若い人に近づくのですね。

ある程度の年齢になった人には近づきません。ごまかしがきかないからですね。思い上がった人間、くだらない人間であっても、その辺はよく分かっているようで、直観的に分かるようですね。そのような嗅覚は敏感なのでしょう。獣のようですね。

我々としては、仏道修行者として、仏道を求めればよく、境涯を上げに上げるべきでしょう。
posted by lawful at 06:00| 法華経並開結

2015年10月10日

生きていることそれ自体を楽しむ

妙とは蘇生の義なり蘇生と申すはよみがへる義なり
法華経題目抄 947頁

法華経の題目は、妙法蓮華経ですが、この妙の一字に深い意味があるのですね。

日蓮は、妙には蘇生の意味があると言います。

人間、それなりに長く生きてきますと、ダラダラした感じになります。新鮮さがなくなるのですね。

小さな子供の時を思い返しますと、生きていることそれ自体が楽しかった。

しかし、今はどうか。子供の頃の天真爛漫さは当然なく、見識はあるかもしれないが、それだけのことで、生きていることそれ自体を楽しんでいるとは言い難い。

人間たるもの、本来的には、生きていることそれ自体に楽しみを感じなくてはなりません。

そのためには、蘇生しなければならないのですね。

妙の一字をもって蘇生するということです。よみがえるということです。

信仰をする意味は、よみがえるためであり、そのための呪文が南無妙法蓮華経というわけですね。

子供の頃と同じような感じにはならなくとも、現在の年齢に応じて、生きていることそれ自体の喜びを感じて生きていきたいものです。
posted by lawful at 06:00| 御書

2015年10月09日

試されていると考えること

鉄は炎打てば剣となる賢聖は罵詈して試みるなるべし
佐渡御書 958頁

嫌な人がいるもので、不愉快になることがありますが、ただ単に嫌だと思ったり、不愉快になったりするだけでは芸がないと思いますね。

日蓮仏法を信仰しているならば、日蓮仏法ならではの対処の仕方があるわけで、それを行うことですね。

日蓮の言葉によると、嫌な人の不愉快な振る舞いは、その振る舞いを受けている人が賢人、聖人であるかを試すためであるという。

通常、受け手は賢人、聖人でもありませんから、その受け手は、嫌な気持ちになり不愉快になって、それで終わりです。

しかし、日蓮仏法信仰者としては、それで終わってはいけません。嫌なこと、不愉快なことは、私を試すために出てきたことと考えるのですね。

そして、この嫌なこと、不愉快なことに振り回されず、堂々としていられるならば、賢人であり、聖人であることが証明できると考えるようにしなければなりません。

また、賢人、聖人たるために、より高い次元から、嫌な人の不愉快な振る舞いを観察することです。

そうしますと、嫌な気持ちになることもなく、不愉快になることもありません。

つまり、くだらない人間の振る舞いがあまりにもみっともなく、ばかばかしくなるのですね。

我々としては、いちいち、くだらない人間の嫌な不愉快な振る舞いを相手にせず、バカな人間がいるものだ、と高みから見下ろしておけばよいのですね。

そもそも、そんなくだらない人間を相手にするほど暇ではありませんので、警戒はしつつも、まともに相手にしないことですね。

賢人、聖人かどうか試されているのだと思うだけでよいでしょう。

そうしますと気が楽になるものです。
posted by lawful at 06:00| 御書

2015年10月08日

犬を相手にしてはいけません

鹿をほうる犬は頭われず師子を吠る犬は腸くさる
兄弟抄 1080頁

人を不愉快な気持ちにさせる人が一定数いますが、このような人は、兄弟抄でいうところの犬とみてよいでしょう。

ただ、自分自身が鹿程度であれば、犬に実害はありません。

自分自身が師子たる人間であれば、犬の腸は腐るということです。

我々としては、犬に対して何かをする必要はなく、ただただ、自らが師子たり得ればよいのですね。

兄弟抄でいう師子とは、真実の法華経の行者といえるでしょう。

自らの信仰に基づき、真実の法華経の行者になることに専念しておけばよいのです。

そうして自らが師子たり得たのち、犬は師子に対して吠えた報いとして腸が腐るというわけです。

我々としては、犬に対して、直接、手を下す必要はないのですね。勝手にそうなるというだけのことです。

そのためには、自らの信仰を透徹させ、真実の法華経の行者になることです。

犬に対してむかつく暇があれば、御書、法華経を研鑽し、方便品、寿量品、題目を自分のものにする修行を行うことですね。

そして、世法において、自分自身がしなければならないことに励むことですね。

犬を相手にするのではなく、自分自身の課題に取り組むことが肝要であり、そうしている内に犬のことなど気にならなくなるでしょう。
posted by lawful at 06:00| 御書

観心本尊抄―訳注

新品価格
¥1,980から
(2023/1/1 22:16時点)

日蓮 「闘う仏教者」の実像 (中公新書)

新品価格
¥906から
(2024/1/6 19:41時点)

岩波 仏教辞典 第三版

新品価格
¥9,900から
(2024/1/6 19:42時点)

図説 ここが知りたかった!日蓮と法華経

新品価格
¥1,925から
(2024/2/10 15:31時点)

カテゴリアーカイブ
<< 2024年11月 >>
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

観心本尊抄―訳注

新品価格
¥1,980から
(2023/1/1 22:22時点)

日蓮 「闘う仏教者」の実像 (中公新書)

新品価格
¥906から
(2024/1/6 19:41時点)

岩波 仏教辞典 第三版

新品価格
¥9,900から
(2024/1/6 19:42時点)

図説 ここが知りたかった!日蓮と法華経

新品価格
¥1,925から
(2024/2/10 15:31時点)

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ
にほんブログ村
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へ
にほんブログ村
PVアクセスランキング にほんブログ村