日蓮も過去の種子已に謗法の者なれば今生に念仏者にて数年が間法華経の行者を見ては未有一人得者千中無一等と笑しなり今謗法の酔さめて見れば酒に酔る者父母を打て悦しが酔さめて後歎しが如し歎けども甲斐なし此罪消がたし
佐渡御書 959頁
日蓮は、法華経を第一として仏教を再構成した人ですが、清澄寺が天台宗の寺であることから、天台・真言の教義を学び、また、念仏をも学んでいた経緯があり、上記のような記述が出てくるのですね。
鎌倉仏教の始祖たちを見ると、法然は念仏、道元は禅、日蓮は法華経とそれぞれ専修となるのですが、それまでの仏教界は、八宗兼学だけでなく、禅宗、浄土宗をも含め、総合仏教の様相であったのですね。
法然、道元、日蓮にしても、全員、比叡山出身であり、比叡山が総合仏教センターであったことが窺われます。
日蓮は、自分の過去世の謗法の故、仏門に入って数年の間、念仏者の観点から、法華経の行者を成仏できない者と笑ったことがあり、この罪は消えがたいと述懐しています。
当時は、これが正しいと思っていたことでしょうが、月日が流れ、日蓮自身、仏教研鑽を積む中で、法華経を最高とする法門に行き付き、過去の過ちに思い当たるのですね。
我々としても、同じようなことがありますね。
新宗教団体の考え方に染まっている時は、その教団の言うことを正しいと思い込んでいましたが、研鑽を続けていく中で、教団の言っていることが、御書、法華経と乖離しており、まったく正しくないと気付くのですね。
その時、過去において、教団の考え方を吹聴していた自分自身を恥ずると共に、この罪を消したいと思うのですが、日蓮の言葉の通り、そう簡単にこの罪が消えるわけではありません。
長い年月をかけて、誤った考え方で他者に迷惑をかけたことは、長い年月をかけて償わなければなりません。
もう知りませんよ、と言ってごまかせるものではないのですね。
我々としては、今後、御書、法華経を研鑽していく中で、間違った解釈、曲解を排していかなければなりません。
そして、価値のある仏法信仰をしていく中で、他者によい影響を与えるほどの人間になることです。
そうすることによって、今までの罪を消していきたいと思います。